異世界は都合よくまわらない!

采火

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オージェ伯爵邸襲撃事件編

柳下のどじょう1

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私はまだ、白い天井を見ることができない。

季節が進んで寒くなってきても、起きる頃には寝汗をかいている。寝苦しくて、私は常に慢性的な寝不足になっていた。

にっちもさっちもいかなくて、無理に寝ることを止めた。長い夜を一人で明かすのは寂しいけれど、悪夢を見るよりはマシだった。

夢の中で私は、伯爵のお屋敷で料理長と話している。

二人で使用人たちが使った食器を洗っている。
私は料理長の話に頷きながら、熱心にお皿を洗う。
そして何の気なしに隣の料理長を見上げれば、彼の首から上がないのだ。

私は持っていたお皿を床に落として割ってしまう。
お皿を片付けなくちゃと下を向けば、膝まで浸かる赤い海に、ぷかぷかと料理長の首が浮かぶ。
料理長は濁った瞳で私を見つめる。
私は料理長の視線から逃れようとすると、背中に何かが当たる。

後ろを振り向けば、顔に霞がかった誰かが剣をもっている。
私はその剣から逃れようとするけれど、赤い海に足をとられて滑ってしまう。
赤い海に腰を落とすと、ぬるりと何かが自分のナカに入ってくる。
ぐちゅぐちゅと私を犯そうとしてくるその感触の気持ち悪さに、慌てて腰をあげようとすると、誰かがその剣で私を突き刺す。
そうして、ロワイエ様の声でこういうのだ。

───淫乱なメイドにはお仕置きが必要ですね、と。

体に力が入らなくて、また赤い海に体が沈む。
ぷかぷかと赤い海に漂う料理長が、赤い液体にナカを犯される私を濁った目で見続ける。

そうして赤い液体に恐怖と快感を散々高められて、意識が弾けるようにして私は目覚めるのだ。

眠るのがこんなにも怖いことだと知らなかった。
それでも悪夢を見ようと見まいと、私の体は睡眠を欲する。どんなに寝たくなくても、私は眠りに落ちる。学生の時でもこんなに徹夜したことはないくらいに夜通し起きていても、結局数日もしない内に眠りに落ちてしまう。
それが苦しくて苦しくてたまらない。

でも最近では、時折悪夢が悪夢じゃなくなることがある。

悪夢のどこかで、優しい誰かが私を救ってくれるのだ。

ある時は濁った目の料理長と目が合う前に、頭を撫でるようにして目隠しがされる。
ある時は、赤い海に溺れかけたのを手を引いて引き上げてくれる。

そしてある時は、アンリが「大丈夫だ」と言って剣を持った誰かから庇うように抱き締めてくれる。

そういう時は、決まって誰かが私の側にいてくれる時だ。

今日もまた、悪夢から掬われるようにして目が覚める───。





ふと意識が浮上すると、ぱちりとアンリと目が合った。アンリが楽しそうに私の髪に指を通している。

「……おはよう?」
「おはよう、ユカ」

はて、と私は周囲を見た。寝る前のことを思い出す。確か睡眠不足から来る頭痛に限界を感じて、ちょっとだけと思って、夜も明けきらない時間帯に眠った気がする。
窓の外を見ると、外はかなり明るくて町の様子からもうお昼ぐらいなのではと当たりをつけた。

私はもう一度、ベッドの脇の椅子に座ったアンリを見つめる。

「……お仕事は?」
「昨日夜勤でさ。たまには朝会いに来てみようかと思って」

夜勤明けとは思えないくらい爽やかに笑うアンリに私はぎょっとした。

「えっ、え、いつからいたの!? 起こしてくれれば良かったのに!」
「よく寝てたから起こすのは悪いよ」
「もう昼じゃないの、アンリも夜勤明けなら眠いでしょ」
「これくらい普通だ」

徹夜明けだというのにけろりとして答えるアンリに私は脱力する。体力お化けか。私学生の時ですら徹夜した後はつらかったのに。これが若さ? いや体育会系の体力?

とにもかくにも、こんなところで油を売ってないで帰りなさいと伝えようとしたところで、アンリがそっと私の頭を撫でて相好を崩す。

「良かった、今日は顔色がいいな」

私は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
……心配かけちゃってたんだ。寝不足で悪かった顔色は、自分でもお化粧で隠せないほどだと分かっていた。

だから私は、殊更主張するようににっこりと微笑む。

「今日は良い夢を見たの。だから長く見たくてぐっすり眠れたわ」
「そっか。それはいいな。どんな夢?」
「アンリちゃんにぎゅーっとしてもらう夢」
「……どっちの?」
「ふふ」
「え、本当にどっちのさ!?」
「うふふー」

私ははぐらかすように笑う。気になるアンリが食い下がるけど、私はベッドから体を起こした。

「ほらほら、私着替えるよ。出てった出てった」
「ゆーかー」
「アンリ、私の着替え見るの? 見たいの?」
「うぐ」

アンリがもごもごと口ごもる。
私は面白くなって、悪戯心がむくりと沸いた。
ベッドの上で膝立ちになって、アンリの肩に手をおいた。
目線を合わせて、彼に問いかける。

「それとも、添い寝してくれる?」

可愛くおねだりするように小首を傾げてじっと見つめれば、アンリの目がみるみるうちに大きくなって、こくりと喉が動いた。

……やり過ぎた?
何の反応もしないアンリに、私は不安になる。
瞬きすら忘れたように動かないアンリ。
私も身動きできなくて、二人でじっと見つめ合う。ついでとばかりに私はアンリの顔を観察してみた。

無造作に束ねられた銀糸の髪は細やかで柔らかくて、所々ぴょこぴょこ跳ねている。菫の瞳はくるりと大きくて、マスカラをつけていないはずなのに睫毛が長い。額がちょっと広いのも愛嬌を感じさせる。
相変わらずの童顔と女顔。それでも私が手を置いている肩の厚みは彼が男の子だってことを否が応でも知らしめる。

アンリが緩慢な動作で私の両腕を掴む。

「……添い寝、して欲しいのかい?」

私はアンリに囚われる。
私が手の力を抜くと、アンリが私の腕を伝って腰と膝裏をさらう。

ぽふん、とベッドの上に逆戻り。
さっきと違うのは、アンリが私の上に覆い被さっていること。

……覆い被さってる?

アンリの唇が降ってくる。
吐息がすぐそこに迫ってくる。

ちょ、ちょ、ちょっと待ってー!

「ユカ、起きてる? 今日工房の日でしょ? 今迎えの子が……」

そのタイミングでエリアが部屋に入ってきた。緑のカーテンは開けられていたから、ばっちり私とアンリの姿を見られた。
エリアはぱちくりと目を瞬くと、状況を理解したのか、一つため息をつく。

「アンリ、後で裏庭集合よ」
「……」

すごく不穏なお言葉ですよエリアさん。
アンリは顔をひきつらせて、すごすごと引き下がる。ぎしっとベッドが軋んだ。

「……ユカ、工房まで送っていこうか?」
「逃がさないわよ、アンリ」
「……」

ベッドから降りたアンリの肩を、がしっとエリアが掴んだ。私は合掌。南無三。

「僕まだ何もしてないじゃないか……せっかくのユカからのお許しなのに……夜勤明けなのにこの仕打ち……」
「さーて、着替えよー」
「ユカぁ」

アンリが情けない声を出してエリアに引っ張られていくけど、私はさようならーと手を振ってぱたりと扉を閉めた。

ずるり、と扉に額を当てたまま座り込む。どくどくと、今更ながらに心臓が脈打つ。……正直、エリアが来てくれて助かった。

私はアンリの恋人になったけど、アンリとそういう体の関係になれるかは分からない。
キスは大丈夫。優しくて甘い蕩けるようなキスは、恐いことが何もない。
でも、それ以上は。
……私はアンリに淫乱と言われたくない。はしたない女だと思われたくない。

さっきだって、本当に夜勤明けで寝不足だろうアンリを気遣って、言った言葉なのにどうしてあんな風に曲解されたのか。いや、悪戯心があったのは否定しないよ? でも、アンリの事だから冗談で済ましてくれると思ったんだ。
あの状態で流されていたら、本当に添い寝だけで済まされるわけがないと本能が告げる。

やっぱり、アンリはそういうことがしたいのかな?
だから私の言葉を曲解したの?

私はぐるぐると考える。
でも、私にはまだアンリと体を繋げる覚悟がない。薬が効かない私は、当然避妊薬も効かないだろうから、そういうことは子供が本当に欲しくなったら……結婚してからするべき。

アンリも二十歳になった。日本の成人に達した。この世界では十六歳が成人だけど、やっぱり今まで築いてきた価値観は拭いされない。
彼も大人の年齢だ。子供じゃない。今までも、これからも、彼は大人。子供扱いして最後の一線を拒んでいるのは私の方。

それでも不安は募るのだ。
彼は本当に私で良いのだろうか。
何度も何度も駆け巡る思考にため息をつく。

以前、アンリに私以外の選択肢があることを教えたけれど、彼は取り合わずに頑なに私だけだと言い募ってくれた。それを、信じても良いのだろうか。一時の気の迷いではないのだろうか。

何かが邪魔をして、私は最後の一歩を踏み出せないでいる。
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