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4 ※セシリア視点
しおりを挟む「...お前」
ジュリアスが、低く唸るような声を上げた。
その声には、ありありと怒気が混じっていた。
セシリアは慌てて首を振った。
「だって、坊っちゃんの声が本当に良かったんです!すごく、すごく良くて、私ーーー」
「もういい!!」
ひりつくような叫び声に、セシリアは思わず口を噤んだ。
これほど感情的に声を荒げるジュリアスを、セシリアは知らない。
ジュリアスは何かを抑えるように、二度、三度と深呼吸をした。
その肩は微かに震えていた。
「ぼ、坊っちゃん、あの…」
様子の違うジュリアスに、セシリアは咄嗟に声をかけた。
何かを言わなければ。
しかし、頭の中は真っ白で、何を伝えて良いのか分からない。
焦りだけが増していった。
何を言っても逆効果になるのだろう。
それでも、言わずにはいられなかった。
「その、すみません、わたし」
なんとか言葉を紡ごうと足掻くも、単語は繋がらなかった。
ジュリアスの鋭い視線がセシリアを射抜いた。
紫の瞳が、怒りに燃えていた。
セシリアは、背筋がひやりとした。
ジュリアスは身を翻し、一歩、また一歩と離れていった。
全身で、近寄るなと語っていた。
超えてはいけない線を越えたのだと、悟った。
「坊っちゃん、待って——」
慌てて手を伸ばした。
本能が、このままではいけないと警鐘を鳴らす。
しかし、その手は空を切った。
行き場を失った手が、むなしく宙に浮いたまま落ちた。
「あらら、怒らせちゃったわね」
ヴァイオレットが、呑気に言った。
「あれは、相当きたわよ?」
彼女はどこまでも他人事だった。
セシリアは血の気が引いた。
ジュリアスは怒っている——「うざい」とは比べ物にならないほど。
「ど、どうしよう——」
セシリアは、縋る思いでヴァイオレットを見た。
しかし、ヴァイオレットはおどけたように肩をすくめただけだった。
結局、その日はジュリアスに話す機会は得られず、翌朝を迎えた。
いつもより早く起きたセシリアは、眠い目を擦りながら、ジュリアスが部屋から出てくるのを待っていた。
昨夜は、一睡もできなかった。
まるで鉛を飲み込んだような不快感が、あれからずっとセシリアを苛んでいた。
罪悪感で押しつぶされそうだった。
扉が開いて、ジュリアスが出てきた。
セシリアを捉えた彼の瞳が、一瞬、見開かれた。
だが、すぐに彼は興味はないとばかりに目を逸らした。
「坊っちゃん、おは——」
挨拶の言葉は、最後まで言えなかった。
ジュリアスは、避けるようにセシリアの隣を通り過ぎていった。
「お、お待ちください!昨日は、本当に申し訳ございませんでした!」
セシリアは去りゆく背中に頭を下げた。
どうか話を聞いて欲しい。
願いを込めて言葉を発したが、ジュリアスが足を止めることはなかった。
「坊っちゃん——」
「………」
セシリアは、その背中を見送ることしかできなかった。
***
「セシリア、大丈夫?」
昼下がり、使用人部屋で、同僚の侍女が声をかけてきた。
「坊っちゃんに、何かあったの?夕べから、すごく機嫌が悪いんだけど…」
心当たりしかないセシリアは、言葉に詰まった。
分かってはいたものの、他人から指摘されると更に痛かった。
「…私が坊っちゃんを怒らせちゃって…」
なるほどね、と同僚が合点がいったように頷いて、コーヒーを注いだカップをセシリアに差し出した。
「珍しいわよね。坊っちゃんがここまで怒ったことってあったかしら?坊っちゃんってあなたには割と甘いし、なんやかんや二人とも仲良いじゃない?」
彼女は、ふっとコーヒーの煙を吹いた。
「仲…良いのかな」
よく考えたらジュリアスに呆れられてばかりだった。それでも、その紫の瞳は優しかったように思う。
「違うの?」
聞かれ、セシリアは戸惑った。
分からない。
仲が良かったと思いたい。だが、もう、そうじゃないのかもしれない。
「ねえ、セシリア」
同僚が、セシリアの肩をポンと叩いた。
「落ち込んでるけどさ、いい機会なんじゃない?いつまでも子供の頃のようにはいかないもの」
「そうだね」
「そうよ、坊っちゃんも婚約のお話が進んでるっていうし。未来の奥方からしたら、仲の良い侍女なんて邪魔でしかないでしょ?」
聞き流せない言葉があった。
セシリアは、思わず身を乗り出した。
「ちょ、ちょっと待って!今、婚約...って言った!?」
「そうよ。もうすぐ正式に発表されるらしいわよ」
「坊っちゃんが、婚約?」
「じゃない?そりゃ、お貴族様だもの当然よね」
同僚は、からからと笑ったが、セシリアはとても笑えなかった。
婚約。
坊っちゃんが婚約する。
まだ顔もわからぬ女性が、ジュリアスの隣に立つ姿が脳裏に浮かんだ。
胸に無数の針が刺さったような痛みがした。
あの優しげな紫の瞳が、ほかの女性に向けられる。
大好きなあの声が全て取り上げられてしまう。
自分はもう瞳に映ることもなく、これから先彼らが幸せになっていく様を近くで見守り続けなければならない。
そんな未来は地獄と何が違うのだろう。
気がつけば、セシリアは部屋を飛び出していた。
「坊っちゃん!坊っちゃん!開けて下さい!話を聞いて下さい!」
セシリアは扉を叩いた。
侍女として失格と分かっていても、この先にジュリアスがいると思うと止められなかった。
「坊っちゃん!坊っちゃん!」
その声は、徐々に情けないものへと変わってゆく。
終いには鳴き声にも似た声になった。
「坊っちゃん…お願いです……話を聞いてください」
もちろん、返事は返ってこない。
セシリア一人だけが必死に足掻いている。
静寂が痛かった。
セシリアは、扉に額を押し付けた。
「婚約、なさるんですか」
喉の奥が引き攣れて、声が震えた。
胸が苦しい。
息が上手く吸えない。
「嫌です」
言葉にした途端、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「坊っちゃん、ごめんなさい。悪いところ、直します。生意気なこと、もう言いません。だから——」
声が、掠れる。
「だから、お願いです。婚約、しないでください」
セシリアは、扉にしがみついた。
「坊っちゃんの側に居られなくなるのは——嫌です」
坊っちゃんのいない世界なんて、いらない。
小さく音がなって、扉が開いた。
ふいに支えがなくなったセシリアは、バランスを崩してよろめいた。
「——セシリア」
優しい声がした。
温かな腕に身体が支えられた。
目の前に見慣れた紺色の布地があった。
ゆっくりと見上げると、そこにジュリアスがいた。
その紫の瞳は、真っ直ぐにセシリアを見つめていた。
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