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第9章 使、命
第369話 学び
しおりを挟む冬隼が、寝室に向かえば、そこはもぬけの空だった。
ため息を吐いて、扉を閉めるとそのまま今来た方向とは逆の回廊を歩く。
しばらく歩いて、突き当たりに当たる扉の隙間から、聴き慣れた涼やかな声が漏れているのを聞き止めて、ほっと息を吐く。
音を立てないようにゆっくりと扉を開けば、書庫の大きな円卓に翠玉は座って書物を開いていた。
手前には彼女を挟むように、背筋の伸びた2人の甥の背中がある。
壁際に目をやれば、華南が座っていてこちらに視線を向けてきた。
「では、この時なぜ崇帝はこのような事を臣下に指示したのでしょうか?攻め込むには絶好の機会です。それをみすみす見逃すことにどんな意味があったのか……午後までにそれぞれ考えてみてくださいね」
パタリと分厚い書を閉じて、翠玉は2人の少年の顔を見て……そして視線を戸口に立っていた冬隼に向ける。
普段寝屋でしか見ることの少ない、ゆったりとした衣服に、髪を下ろした彼女を、天窓からの光が柔らかく包んでいて。
不可触な神々しい雰囲気に、冬隼は息を飲んだ。
「冬隼?どうしたの?」
言葉を失っていると、当の翠玉が心配そうに首を傾けてこちらを伺ってくる。
ここでようやく自分の来室に気がついた甥達が慌ててこちらを振り向いた。
「叔父上!」
「こんにちは!」
突然の自分の出現に浮き足立つ甥達に、まだまだだなと、笑みが漏れて彼らのもとに近づく。
「崇帝の謀りか……兵法の基本だな」
そう言って彼らの手元を覗けば几帳面な字で何やら書き留めてある。
彼らが翠玉から兵法を学びたいと言い出した時には、おおよそ文官向きの2人には意味がないのではないかとも思ったものだ。
しかし、彼らが生きていく政治の世界にも兵法の考え方は通ずるとの翠玉の言葉に確かになと納得をした。
歴史上賢帝、賢人と呼ばれた王や臣の中には兵法に秀でた者も多くいた。
甥達と翠玉のたっての希望で、指導をする事を許可したものの、どうやら思いの外、双方共にそれが楽しいらしく、終始一緒にいる事に若干妬けてくる。
そして、そんな冬隼の心の機微に気づいている華南がニヤニヤしながら見ている事が若干煩わしくもある。
「お2人ともそろそろ算術の時間ですわ。お急ぎになった方が」
華南が甥達に声をかけると、甥達の肩がピクリと跳ねた。
「そうだ!まずい!」
「翠玉様!また後ほど!」
「叔父上失礼いたします!」
彼らの算術の教師は随分と厳しいと聞く。慌てふためいて挨拶もそこそこに部屋を出て行った。
あぁいう姿を見ると、まだまだ子供だと微笑ましく思う。
2人の背中を見送っていると、今度は華南が立ち上がった。
「私本部に行って参りますわね。ごゆっくりなさって下さいませ」
ニコリと2人に微笑んで彼女は優雅に部屋を出て行ってしまう。
本当に気が回る。
「何か動きがあったの?」
翠玉のもとに行けば彼女は深刻な顔でこちらを見上げる。
「碧相側からの情報だが……紫瑞軍は碧相軍に戦力を削られながら、なんとか堯扇まで逃げ延びたらしい」
先ほど、もたらされた情報を伝えると。翠玉の瞳が驚きに見開かれる。
「もう!?すごい速さね?」
「それだけ碧相軍が、一方的なのだろうな。董伯央は大して抵抗もできずにいるらしいが……堯扇には、駐留させていた部隊もいるだろうからここで少しばかり状況は膠着するだろうな」
翠玉の隣に座ると、彼女の脇に積まれた書を手に取る。
軍略や地形、天文に歴史書。
甥達に彼女が幅広い知見から教えを与えようとしている事がよく分かる。
そして一番下にされていた書を手に取ると、それを見とめた翠玉が気恥ずかしそうに、くすりと笑った。
「あぁ、それは……借りて後で読もうと思っていたの。今の内からきちんと調べて心構えをしておこうと思って。ほら、食事とかも気をつけないといけないみたいだし」
そう言って、自分の手からその書を受け取ると、ページを繰って見せる。
「悪阻を抑えるツボなんてものがあるのよ!嘘だと思うでしょう?でもこれが意外と効くのよ!」
見せられた書には人の手足の図とともに「内関」「三陰交」「離内庭」などとツボの名前と印が書かれている。
最後の一冊は、翠玉が緋堯軍の奇襲の援護に発った日、彼女が読んでいたものだと幸悠が言っていた妊娠中の生活に関する書だった。
「そんなものが……この辺りか?」
翠玉の手を取って、手のひらを上に向けて、手首から指3本分の位置を測った1点を軽く押す。
「そうみたい。さっきね灸を手配してもらってやってみたの。そうしたら随分とムカムカが良くなったの」
嬉しそうに笑う翠玉の手をゆっくりとほぐすように揉んでゆく。
やはり剣を使うだけあって、筋肉質で、指の皮も所々硬いが、それでも自分のものに比べれば
随分と華奢で柔らかい。
「王都に、昔怪我をした時に随分と世話になった鍼灸専門の医者がいる。戻ったら早速手配しよう」
そう提案すると、翠玉はピクンと肩を揺らした。
「それはありがたいわ!この機会にちょっと簡単な医術とか薬草関係とか学んでみようかとも思っているの。お話聞いてみる事できるかしら?」
とてつもなく嬉しそうな……新しい楽しみを見つけたとでも言うように、彼女の瞳が輝いている。
妊娠して、しばらくは大人しくしているだろうと思いきや……
「お前、全然大人しくしている気がないな?」
呆れてため息を吐けば、翠玉は悪戯な笑みを浮かべて、肩を竦めた。
「だって、剣も持たせてもらえないし、禁軍にも通えないのでしょう?何もせずに持て余すより、新しい事を学んだ方が、先に生かせるじゃない?時間はたっぷりあるわけだし」
それに、やる事がなかったら私勝手に木刀持ち出して素振りくらいやっちゃう気がするのよね。それでもいい?
と最後に脅しのような言葉を付け足されて、冬隼は深く項垂れる。
「分かった……なんらかの手配をする……だが王都に戻ってからだぞ。ここにいる内は堪えてくれ」
結局どうやら自分は翠玉の策にハマってしまったらしい。そう気づいた時にはすでに遅かった。
全く恐ろしい女だ。
「大丈夫よ!桜鈴様がご自身の妊娠中に随分と色んな書を集められたみたいで、ここの書庫は妊娠や子育てに関する書が充実してるの。他国のものまであって、きっと王都に戻るまでに読み切れないから、数冊お借りできないかお伺いしようかと思っているの!」
桜鈴とは、悠安の妻の事だ。彼女は年齢が冬隼より一つ年上で、悠安よりも3歳年長の年上女房なのだ。幸悠の下にまだ幼い男女の子を持つ3児の母である。代々学者や宰相などを輩出する名家の出で、彼女も息子の幸悠に負けず劣らず本の虫なのだ。
そんな彼女が集めた書物だ。きっと見境なく幅広い点で集められたに違いない。
「あまり根をつめるなよ。子ども達の指導もあるのだし」
そう息を吐いて、立ち上がる。
この後しばらく翠玉は部屋で休息をとる時間だ。
手を差し出すと、彼女はまた楽しそうにふふっと笑った。
「大丈夫!もうあんな無理はしないから」
歌うように言って、小さくて華奢な手を重ねてきた。
「ところで冬隼、本部に戻らなくて大丈夫なの?」
「昼餉まで休憩にした。茶でも飲んでゆっくりするぞ」
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