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第10章 後宮
第399話 そのままで
月の無い空を格子窓越しに見上げて、芙艶は初めて東左に出会った夜を思い出す。
思えばあの夜から芙艶の運命が狂ってしまった。
あの晩、後宮を抜け出そうとしたばかりに、東左に出会ってしまい、彼の……いや、皇太后の糸に絡めとられてしまったのだ。
彼に出会わなければ……
彼にあそこまでのめり込まなければ……
収監されて、連日取り調べを受けながらも、頭の中はいつもその事ばかりが浮かんでいた。
その内取り調べも終わったらしく、一日中窓の外を見て過ごすしかない日々となって、何のために生きているのだろうかと考えた。
カタリと窓辺ではなく戸口の方から音がして、反射的にそちらを視線で追う。
わずかな衣擦れと、足音から、世話役につけられた女官だろうかとも思ったが、それとは少しばかり様子が違うように思えた。
「起きているか?」
聞こえてきたのは、馴染み深い、よく通る張りのある声だった。
忘れようもない。
「これはこれは、皇帝陛下がこのような夜更に罪人の元にいらっしゃるとは、どのようなご用件でございましょうか?」
久しぶりに出した声はすこしだけ掠れていたが、しっかりと扉の向こう側に立つ皇帝に聞こえたようだ。
「一度そなたときちんと話をしたかったのだ。皇帝としてではなく、そなたの夫として……入るぞ」
静かな声は有無を言わせず、重厚感のある扉が重い音を立てて開いた。
驚いて思わず腰を浮かせる。
なんと愚かな。
「浅慮な!私が貴方様に危害をお加えになるとは思われないのですか?」
一国の皇帝が、密室で罪人と2人きりになるなど危機感が足りないのでは無いか、思わず今までのように皇帝を諫める皇后の口調で反論してしまう。
そんな芙艶に皇帝は僅かに眉を下げて肩を竦めた。
「ご存知のはずだ。劉妃の事があるからな。貴方の身に付けているものは装飾ひとつ残らず全てこちらで用意させたものだ。私を害せるものなどないだろう?」
そう言って、部屋の隅に置かれた椅子を自ら引いて、腰掛けた。
「それに、護衛はついている。何かあればすぐに踏み込んでくるさ」
そう言って戸口を指すが、扉の外に人の気配を感じる事はできなかった。
「貴方様がいらしたという事は、私の処分が決まったと、いう事でございますね」
上掛けを掛け直し、皇帝を見上げれば彼は眉を下げたまま息を吐いた。
この男が芙艶と接触するのならば、芙艶の処分が、決定してからだろう事は予想していた。
元来、人が良く情に熱い男だ。予めに芙艶と接触して情に流されて、処分の方針に影響させかねない自身の性格を懸念して、全てが終わってからやってきたのだ。
これこそが、芙艶がよく彼に指摘していた事だったゆえに、芙艶なしでも彼がそれを実行できている事にすこしだけ安堵する。
そして、一体いつまで彼の妻でいるつもりなのだと、自身の浅ましさに自嘲する。
「決まっているが……それは明かせない。まだ、朝廷の決が降りていないからな」
「そうでしょうとも。それでご用件はどういった事でございましょうか?」
こちらからは話す事はないと、暗に匂わせて視線をそらせる。
このように惨めな姿を人に……特にずっと肩を並べて歩いてきたこの男には見られたくはなかった。
「なぜ貴方のような完璧な者があのような事を起こしたのだ?」
そらした視線を追うように、皇帝の声が追いすがってくる。
完璧な?
その言葉に芙艶は思わず彼を見返してしまった。
なぜ完璧でなかった芙艶に、この男は完璧と宣うのだろうか?
信じられないと言う顔の芙艶に、皇帝自身も同じように信じられないと言う顔で口を開く。
「そなたは皇后として、わたしの妃として、完璧……いやそれ以上に良くできた人だと思っていた。私たちとの間に子はいなかったが、そんな事は小さな事だと思っていた。私をよく支え、時に叱咤し、そして的確な助言をくれた。医療所の設備や、孤児院、学問所の整備など皇后としての責務も十分すぎるほどに果たしてくれていた。子をなす以上にそなたは私や湖紅の国民に価値のある人だった。それなのに……なぜ……」
皇帝はこみ上げてくるものを飲み込むように言葉を切ると。拳を膝の上で握りしめた。
その姿を芙艶は茫然と見つめる。
あのままで、芙艶は完璧だったのだと言うのか?
子がいなくても、それ以上に芙艶には価値があって、そして皇帝の妻としては申し分なかったと。
『すこしくらい足りないくらいがちょうどいい』
いつだったか東左が囁いた言葉が蘇る。
足りないと思っていたのは誰だったのだろうか。
東左?否。彼は芙艶の弱い部分をあえて刺激して揺さぶっていただけだ。
子がいないから完璧でないと、誰が言ったのだろうか。
そうして思い出すのは遠く昔、一度だけ言葉を交わした皇太后の言葉だった。
そうだ、あの頃芙艶は子がおらずとも皇后として国を支える事にやりがいと誇りを持っていたはずだ。
この国に嫁ぐと決めた時に、すでに後継者の皇子がいることを理解していた。国母になろうと嫁いだわけではなかったはずだ。
いつの間にか全てを手に入れることが完璧だと思い込んでいた。良い皇后、模範となる妃になる事が何よりだったはずなのだ。
いつの間に目的がすり変わってしまったのだろうか。
そう気づいてしまえば、身体が震えだす。
「私は……私はっ……」
なんと浅はかだったのだろうか。
額に手を当てて、項垂れる。
子供などいなくても、国母にならなくても、芙艶は芙艶のまま、皇帝の隣で彼女の資質を活かして役割を果たしていれば良かったのだ。
おそらく、当初の芙艶ならば、それだけでもやりがいを見出して自らの生きる道を切り開いて行ったのに違いない。
「ソナタの働きと優秀さに私が甘えてしまったのがいけなかったのだ。ソナタの渇きに夫として気付いてやれなくて申し訳なかった」
苦しげに声を絞り、頭を下げる皇帝の旋毛を絶望的な気持ちで眺めることしかできなかった。
芙艶は驕っていたのだ。
愚かにも自分が完璧になれる選ばれた者だと思っていた。
謙虚である事と、努力でも手に入らぬものがある事をもっと早くから知っていたのなら良かったのだ。
「陛下……私は優秀でもなんでも無かったのですわ。ただただ愚かで、浅ましい女だったのです」
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