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2章

28 悪夢

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「はぁっ、はぁっ、はぁっ」


 もつれる脚を懸命に持ち上げて、前に前に出す。足元に敷き詰められているのは木の葉だろうか。所々沈み込んだり硬い何かに当たったり、安定しない。

 ここはどこだろうか……いったいどこを走っているのだろうか……。


 周囲を見渡しても、辺りは真っ暗で、ここがどこであるのか判別がつかない。
否、判別をつけている余裕がない。

「逃げられると思うなよ」

 どこかで低い男の声がする。よく知ったその声は……父のものだ。

 ゾロゾロと背後に気配を感じる。
 複数のあの郷の者の呼吸。

 走っても走っても、距離は縮まらない。それどころかどんどん近づいてくる彼らに足音はない。

 これはいったい、どうい事だろうか。じとりとした汗が、顳顬を流れ落ちていく。

「お前は郷でしか生きられない」

「郷のために生きて死ぬ、そうでなければ、子どもろとも死ね!」

「そうだ! この裏切り者」

 父の声に、同調したように仲間の声が響く。

 霜苓をなじる声は、寄せてくる波のように少しずつ少しずつ大きくなり、霜苓の聴覚を埋め尽くす。

「見つけた」

 2番めの兄の声がやけに鮮明に耳元で囁かれる。

 ドクンと胸が跳ね上がるのと同時に背筋を冷たいものが一気に下る感覚を覚える。

 「っ――!」

 怯んだ一瞬の隙。目の前に黒い影が立ちはだかり、足を止める。後ろにも複数の気配を感じ……囲まれた事を悟る。同時に腕の中に抱き込んだ珠樹がずしりと重くなったように感じ、はっとして見下ろせば……

 霜苓を見上げているのは、我が子ではなく、郷の守り神として祀られている、赤子の地蔵ののっぺりとした顔

「きゃぁあああああ」

「霜苓‼︎」
 ぱしりと頬に痛みが走って、突如視界が明るくなり、誰かに強く肩を掴まれた。

「っ!」

 ジンジンとした鈍い痛みに、ゆっくりと目を瞬く。

 暗闇の代わりに、霜苓の視界に入ってきたのは、ほのかな燭台の灯りと、心配そうにこちらを覗き込む陵瑜の顔だった。

「大丈夫か……すまない、痛かったな」

 呆然とする霜苓の頬を、陵瑜の手が、ゆっくりと撫でる。どうやら悪夢にうなされていて……陵瑜に呼び戻してもらったらしい。

「いや……すまない。たすかった」

 まだどこか混乱しながらも、それだけを告げると。陵瑜の手がもう一度頬を滑って、涙を払ってくれる。どういうわけか、霜苓の意思とは別にポロポロとこぼれ落ちていく。

 ゆっくり身体を起こして、しかしすぐに自分の傍らを確認して、そして周囲を見渡す。

隣で眠っていたはずの珠樹の姿がなく、胸の奥がざわめく。

「珠樹ならば、随分うなされていて、起きてしまいそうだったから、俺の寝台に移した」

 霜苓の意図に気づいた陵瑜が「大丈夫だ」と落ち着かせるように微笑んで、自身の後ろの寝台を指す。彼の言葉通り、珠樹は陵瑜の寝台の上で眠っていた。

 安堵の息が漏れる。そうすると更に意思とは関係なく、瞳からポロポロと涙が溢れ出して来て、陵瑜の手がまた涙を拭ってくれる。

「嫌な夢でも見たのか?かなり、魘されていたぞ?」

 大丈夫だと、陵瑜の手を押し返そうと思うが、思いの外、彼の手が温かくて、頬を滑るのが心地よくて、安心できたので、そのまま頬を寄せた。

 随分と自分は弱っているのだと自覚する。

 こくりと頷いて「すまない」と小さく呟くと、一拍だけ彼の手の動きが止まった。

「気にするな……ここまで一人で色々抱えて来ているんだ。無理もない。話せないことは多いかもしれないが、それでも俺たちはお前と珠樹の力になりたい。大丈夫だから、一人で思いつめなくていい。泣くのだって我慢しなくていい」

 静かな落ち着いた声だった。普段快活で豪快なくせに、こんな時には随分低くて包みこむような柔らかさがあるから不思議だ。

「っ、これは……私にもよくわからなくて」

 一生懸命止まれと思うが、意思に反して流れ落ちる涙は止まる気配がない。こんなこと、今までどんな経験をしていてもなかったのに……

「無理に止めようとするな……焦れば焦るほど、止まらなくなるものだ」

少しばかり頬を緩めた陵瑜はゆっくりと立ち上がって、霜苓の隣に座り直した。そして静かに、霜苓の肩引き寄せる。

「っ何を!!」

 思わぬ事に逃れようと身を捩ろうとするも、それよりも早く……

「いいから」

 そう言って胸に頬を押し付けられてしまった。

 なんとなくそうとは思っていたが硬い筋肉質の胸板の感触に、早かった自分の胸の音が、更に早くなったのを感じて……途端に落ち着かない気分になって、お陰様で涙が止まった。

 どういう効果なのだ……と混乱していると、霜苓の背に手を回してゆっくりと撫でる陵瑜が「小さい頃……」とため息のように、話し始めた。

「乳母が泣いていたら胸の音を聞かせてくれたんだ。人の胸の音を聞いていると、心が落ち着いて涙も止まる」

 なるほど……と彼の意図を理解し、しかしもう止まったのだとは言い出せず、静かに彼の胸の音に耳を傾ける。とくとくと力強い鼓動が響いてきて……思わずホッと息を吐く。

確かに、不思議と身体から力が抜けた。

「ほら、止まっただろう?」

 陵瑜の手が、霜苓の目尻に残った涙を拭う。

自然と流れで彼を見上げる形になり、こちらを見下ろす整った顔の男………見慣れた顔なのに、どこか違う雰囲気を醸し出しているように思えた。

 脳裏に蘇るのは、あの晩のうすぼんやりした珠樹の父親である男の記憶。なぜかそれと、今の彼が重なった。瞳の色が違うだけで、こんな顔の男だったのだろうか。もしくは、彼の顔に馴染みすぎてしまって、記憶が塗り替えられているのかもしれない。

陵瑜にとっては迷惑な話だ。

 自嘲すると、陵瑜が不思議そうに覗き込んでくるので首を振る。

「郷のものに追われる夢を見た、逃げても逃げ切れなくて……抱いていたはずの珠樹がいつの間にかいなくなっていた」

「珠樹が……恐ろしいな……」

 息を飲む陵瑜に頷く。

「ただの悪夢ならそれでいい……だが、もしかしたら、郷の仕業の可能性がある」

 夢だと分かった時から、霜苓の頭の片隅には、ある懸念が浮かび上がっていた。

「どういう事だ?」

 訳が分からないという顔で問うてくる陵瑜に、霜苓は苦笑を漏らす。全てを明かせないことが申しわけない。

「すまない……だが、もし彼らの仕業ならば、彼らは多分私を見つけられていないのだと思う。おそらく私を弱らせて自ら戻るように仕向けようとしているのかも知れない」

「そういう術があるのだな……」

 わざと濁したような言い方なのに、それでも、何かを察して理解してくれる彼に霜苓は頷く。

「あぁ、でも確定じゃない」

 あくまでも可能性の一つではあるが、霜苓の中ではほぼほぼそうであろうと確信を持っている。

 彼らは、おそらく霊月山の他の部族の呪いを利用して、霜苓を揺さぶるつもりらしい。

「俺は、どうしたらいい? 何かできることはあるか?」

 どこまでも寄り添おうとしてくれる陵瑜のその言葉に、霜苓は小さく微笑む。

 こうして共に就寝する以上、彼には迷惑を掛けてしまうから、彼自身がそう言ってくれるのはありがたい。

「すまないが、今夜みたいにうなされていたら起こしてほしい。今日みたいに叩いてくれても良い」

「なんだそんな事か……了解した。このまま……眠れそうか?」

 そんな簡単なことでいいのかと拍子抜けしたように問われて霜苓は肩をすくめる。

「わからない。だが、目を閉じていれば、休息にはなる」

 正直眠れる気はしない。しかし明日も移動しなければならない上に、朝方には珠樹の世話もある。とにかく横になって休息を取らねばならない。だから気にせず眠って欲しい、そう告げようとしたところで……

「そうか」

「っ……何を!!」

 突如低く呟いた陵瑜が、霜苓を横抱きにしたのだ。慌てて抗議するも、すぐに寝台に投げられたと思えば、陵瑜の大きな体が隣に入り込んで、霜苓の頭を抱えると、先程のように、胸に頬を当てられる。

先程と同様に、とくとくと暖かな鼓動が脳に響く。

「眠ったら、離れるさ、珠樹もこちらに戻すから安心しろ」

「っ――」

 なかなかに強引なことに、結構だ!と引き剥がそうともがく。しかししっかり身体を包まれてしまって抜け出せない。

 こんなところで技の掛け合いのような事をしていては、折角先ほどの騒ぎでも起きなかった珠樹を起こしてしまいかねない。

それに…

 どこかでもう一度、あの夢を見るかもしれないと思うと、心細い思いもあって……

「仕方ない」と自身に言い聞かせて瞳を閉じた。
 
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