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3章

66 皇太后

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 燈駕と相対した夜から一ヶ月が過ぎた。またすぐにまみえる事があるだろうと思っていた彼は、姿を表すことも気配を見せることもなかった。
 よくよく考えてみれば、彼は霜苓の暗殺の任のために、忍び込んで来ていたのであって、彼が任務を降りたのであれば再び霜苓の前に顔を出す必要はないのだ。
 特にここは、この国の中枢の一角、皇太子宮だ。警備も厳しく、捕まれば問答無用で処刑だ。
 用もなく好き好んで忍び込む輩はあまりいないだろう。

 あの時、もっと色々聞いておけばよかった……時間が経過するとともに、そんな後悔をする霜苓だが、何か大切なことを陵瑜に言わねばならない事を思い出せないでいた。

 何だったろうか……

 座した膝下を、楽しそうにコロコロ転がり、キャアキャアと声を上げる珠樹を見つめ、首を傾けていると蘭玉が入室してくる。

「霜苓様、そろそろ……」

 言われて霜苓は、あぁ……と立ち上がる。
 うつ伏せのまま体を起こした珠樹が突然立った母をくるりと丸い瞳で不思議そうに見上げてくる。

「珠樹、すまない。そろそろ出かける時間だ」

 側によってきた、珠樹の世話役に目配せをして、珠樹の後の準備を頼むと部屋を退室する。

 今日は、皇太后宮に呼ばれている。
 皇太后……陵瑜の祖母に当たる先帝の皇后は、亡き先帝を弔うために先帝を祀る陵の近くの宮でひっそりと生活をしているという。

 昔から目をかけてくれた祖母だというが、肝心な陵瑜の都合がつかず、そうこうしているうちに、皇太后は静養のために南方に出かけてしまうという。

 ならば顔見せだけでもと、蘭玉と珠樹と共に向かう事になった。

 もともと武門の家の出であるという皇太后は、気さくな人で、ゆえに先帝が重用したと聞いていた。

 その前情報通り、出迎えたのは、肩ほどまでもない美しい白髪を後ろに撫で上げた、一見すると麗人にすら見える女性だった。

 伸びた背筋は歳を感じさせず、ややもすると、その辺りの初老の男性よりも男らしい印象すら感じる。
 それなのに、握られた手はよく手入れされて細く華奢で、重ねるように珠樹を産んだ礼を言われ、霜苓はドキドキとしてしまった。

「そう畏まらなくていい、皇宮を出て後、堅苦しいものがなくなって清々しているの! 実家の生活様式に戻してね、毎日鍛錬もしているのよ」

 そう言って力瘤をつくるように腕を折って見せる彼女の言葉に、霜苓は目を丸くする。

 「鍛錬ですか?」
 蝕の里では、彼女くらいの年齢ではすでに前線を退いて、親が任務に出ている子どもの世話や、食糧の管理を担う任に就いている。

 戦闘に参加する必要がなくなった彼女らが、鍛錬をする事はなく、この年齢でまだ身体を鍛える事を進んで行うという事に驚いていると、それをどう捉えたのか、皇太后は「ふふふ」と楽しそうに笑った。

「禁軍の左翼を担っている者は弟なの。そろそろ引退して後進の育成をしたらと勧めているのだけど、聞きやしないの。そんなだから、私も負けてられないって火がついちゃって、毎朝鍛錬をしないと、体が目覚めなくてね。あなたも……結構できるのでしょう?」

 意味有り気な視線を向けられ、霜苓と蘭玉は2人して視線を合わせる。
 事前に、霜苓の境遇を彼女に話す事はしないと、陵瑜から説明を受けていたため、なぜ彼女が霜苓にそんな事を聞いてくるのか、理解が出来なかった。

どういうことかと、意味を測りかねて皇太后を見返せば、彼女はそれを是と捉えたようで、嬉しそうに微笑むと

「その手、胼胝よね? 何か面白いものを使いそうね。立ち姿も……身体の軸がしっかりしているし、武術を極めた人の姿勢ね」

 と再び霜苓の手を取って、指先を撫でた。

 霜苓がそうしていたように、彼女も霜苓の立ち居振る舞いを観察し、見破っていたどころか、使う武具まである程度の目星をつけたというのだ。

 思わず言葉を失っていると、彼女はそれを楽しむようにコロコロと笑う。

「幼い頃から沢山の猛者を見てきたもの、この目は本物よ! さて、立ち話もなんだし……いらっしゃいな」

 そう言ってクルリと方向を変えた彼女のシャンとした背中に誘われ、着いたのは建物の端に位置する楼だった。
 色とりどりの花で飾られ、茶や菓子が用意された華やかな卓は、流石は皇太后のもてなしと言える物だった。
 しかし、霜苓も蘭玉も……霜苓の腕の中にいる珠樹も、その卓の向こう側に設られた大きな間口の窓の先に広がる光景に釘付けとなった。

 高貴な夫人の室にあるにしては大きすぎるその大窓の向こう側にあるのは砂の舞う茶色い大地。
 そして、その中を隊列を組み、勇ましい声を上げながら鍛錬する複数の兵士の姿が望める。

 「こ、れは……」

 予想外の光景に思わず言葉を失う一行に対して、その反応を予想していたように「ふふふ」と皇太后が嬉しそうに笑う。

「ここは都の外れにある軍の演習場のひとつなのよ。毎日代わる代わるいろんな部隊が訓練をしているの。先帝陛下がまだご健在の頃、御陵の場所を予めお決めになった折に私が強請ってここにしていただいたの。
 ここなら御陵をお守りしながら毎日こうして兵の鍛錬を眺められるから退屈しないでしょう?今錬成しているのは、今年入った新兵達ね。ふふ、できる者から出来ないものまで凸凹ね……でも才能がありそうな者も沢山いるわ」

 「楽しみねぇ」と微笑み、こちらを見た彼女が「あらあら、ごめんなさい、お座りになって」と少しばかり恥じたように肩をすくめた。

 言われた通りに、椅子に腰を落ち着けると、ちょうど外では銅鑼の音が響いた。
 どうやら休憩の合図らしい。それまで聞こえてきた勇ましい掛け声が、豪快な笑い声や、話し声に変化した。

 「それで?、貴方は何を使うの?」
 座席についた、皇太后の瞳が爛々と輝いて霜苓を見つめている。どうやら完全に彼女は霜苓に興味津々の様子だ。
「やっぱり待って! 当てるからもう一度手を見せてもらえるかしら?」

 茶目っ気たっぷりにお願いされてしまい。否とも言えず、おずおずと手を出せば、彼女は霜苓の指をじっくり眺めて、指の皮を撫で、「剣ではこんなところに胼胝は出来ないし……」などとぶつぶつ言い出し始めた。


 ここまでくると、陵瑜が霜苓1人で大丈夫と言った意味がしっかりとわかってくる。

「飛び道具と、鎖を使います」

 皇太后が「うーん」と悩む様子を見て、これ以上は答えも出ないだろうと白状する。

「鎖⁉︎  鎖使いはめずらしいわ! でもそうよね、華奢だし、力負けしないとなったら間合いは大事よね!」

 まるで少女のように目を輝かせ、肩を跳ね上げた皇太后は霜苓の手をきゅうっと握りしめる。

「素敵ね! 陵瑜とは戦場で会ったと聞いているわ、あなたも戦に出ていたのかしら?」

「はい……まぁ、家業がそのようなもので……」
 

「まぁ! 傭兵ていうのかしら? それで戦場に……あの子が戦場で心動かされた女性に出会ったって聞いた時には驚いちゃったわ。あの子の父親……今の皇帝は軍や武術には一切興味は無かったものだから、ここに私の血が出たのかって!……その、皇后には会って?」
 

 「……はい」
 
 爛々と語った後に、最後だけ少しばかり、言いずらそうに問われ、霜苓は複雑な笑みを浮かべて、頷く。

 「そう、なら分かるわね……。後宮妃としては、満点なのだけどね、母親としてはあんな感じだったから、あの子自身が自分を守れないとと思って……弟に言って稽古をつけてもらったりもしたわ。まさかあれほどのめり込んで使えるようになるとは思わなかったけれど、それであなたという無二の人を見つけられたのならば、良かったわ……」
 霜苓の手を返して、手の甲を慈しむように撫でた彼女が悲しげに微笑むのを見て、霜苓の胸の奥がちくりと痛む。

 「ですが……私はなにも持たない娘です。そんな娘でいいのでしょうか? 陵瑜にはもっと彼のためになる者がいたのではないかと……」

 霜苓を多くの者達が「妃殿下」と呼びながら、しかし何も持たぬ娘だけが妃で本当に良いのだろうかと、不安に思っている事も、霜苓は知っている。

 契約関係と割り切るのならば、それは霜苓の考える事でないものだが、どうしても胸の内に引っかかってしまっていた。

 包み込むような、皇太后の暖かさと、初めて陵瑜に心を寄せてくれる者の存在に、ついぽろりと本音が漏れる。それは霜苓自身にも意外な事ではあった。

 霜苓の言葉を聞いた、皇太后は一拍、霜苓の瞳を見つめてパチクリと瞬く。

「あら、そんな事……いいのではない? 私も軍の高官の家の出ではあるけれど、そこまで高貴な血でもないのよ! なぜ皇后になれたかと言えば、ひとえに先帝陛下のおかげなの」

「……そんなものなのでしょうか?」
 あまりにもあっさりと言われて、拍子抜けしていると、対する皇太后は、柔らかく微笑んで、懐かしむように目を細める。

「そうねぇ、先帝陛下はとても思慮深い方で、側室もさほど多く持たない方だったし、面倒事を嫌って政治のしがらみの無い軍家系の私を皇后に指名しただけなのよ。
 だから、あなたの生まれをどうこう言うつもりはないわ。だいたい、あの子が伴侶を娶ることだけでも万々歳なの、私はてっきりあの子は女性に興味がないものだと思っていたから」

 最後は肩をすくめ、いたずらめいた笑みでそう締めくくるものだから、思わず霜苓と、黙って隣に控えていた蘭玉は視線を交わし合う。

「実は私もそう思っておりました」

 小さな声で「ここだけの話ですよ」と白状した蘭玉の言葉に、3人でくすくすと笑いあった。
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