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こんなにも嫌いな女を好きな理由(ワケ)。

26歳 二度目の初恋

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 物流センターに来て二ヶ月程が過ぎある日、朝礼にナナの姿がなかった。
「山本班長、塩原さんがいないようですが」
「無断欠勤なんて今までなかったんですけどね。少し前から調子が悪そうだったから、寝込んでるのかもしれません」
 私は昨日の終業の報告でナナが鼻声だったことを思い出す。
「そうですか。では私から連絡をしてみます。塩原班の業務は大丈夫ですか?」
「今日は特に難しい処理もないので大丈夫だと思います」
「では山本班長はフォローをお願いします。何か問題があればすぐに連絡してください」
「わかりました」
 そうして山本班長が塩原班のメンバーに指示をだすのを見届けて私は事務所に戻った。
 パソコンで社員データを検索する。
 役職権限で部署メンバーの電話番号や住所を参照することができる。
 私は登録されているナナの携帯に電話を入れた。
 そういえばナナと電話をするのははじめてだ。高校の頃、ナナは携帯を持っていなかったし、私が教えた携帯番号にナナが電話をかけてくれることはなかった。私は、いまだにあの頃のまま番号を変えていない。
 長いコール音の後、ようやくナナが電話に出た。
「……塩原です……」
 声はくぐもっており、体調の悪さがその声からも感じ取れる。
「森内です。出社されていないので、連絡しました」
「……すみません。体調が悪いので、今日は休ませてください」
 私は小さく息を付くと、グッとお腹に力を入れて上司としての言葉を事務的に伝える。
「体調が悪いのなら、その旨を連絡してください」
「ああ……」
「有休がありましたよね? 有休扱いにしておきますから」
「ああ……」
「病院には行ったんですか?」
「大丈夫だ」
 そう言ってナナは電話を切ってしまった。
 その日、私は定時で仕事を上がり、ドラッグストアで風邪薬や飲み物などを買ってナナの家に向かった。
 上司がここまでする必要はないかもしれない。だけど電話の声ではかなり調子が悪そうだった。そしてナナが一人暮らしなのを知っている。面倒を見てくれる身よりがいないことも知っている。それにナナの性格からして、友だちに助けを求めることもしないだろう。もしかしたら恋人が世話をしてくれているかもしれない。それならばそれで上司として安心できるというものだ。ともかく上司として、旧友として、体調の悪いナナを見舞うくらいは普通のことだろう。
 私は自分の中でそう結論付けてナナの家に向かうことにしたのだ。
 ナナが住んでいたのはかなり年季の入った雰囲気のアパートだった。
 軋む外階段を上がり、二階にあるナナの部屋の前に立つ。表札は出ていない。会社に提出してある部屋番号と合っていることを確認して呼び鈴を押した。「ブー」とブザーのような音が聞こえる。
 しばらく待ち、もう一度呼び鈴を押す。寝ているのだろうかと思ったとき、室内で人の動く気配がした。そのまま待つとゆっくりとドアが開く。
 ナナの姿に部屋を間違えていなかったと安堵したが、同時にナナの様子にギョッとした。
 かなり熱があるのかもしれない。目は虚ろだし、顔色が悪いのに、目元だけがやけに赤く火照っている。足元も少しふらついているようだ。
 玄関まで入り下駄箱の上に差し入れの袋を置く。
「ちょっと、大丈夫なの? 病院には行ったの?」
 ナナの額に手を当てようとすると、ナナは私の手を払ってそれを拒絶した。
「何しに来た?」
「体調が悪そうだから……」
「寝てれば治る」
「何を意地になってるの? 薬とか買ってきたから」
「いらない」
「どうして」
「迷惑だ。帰ってくれ」
「どうして……」
 そんなに拒絶するの? と言おうとしたとき、不意に目頭が熱くなって言葉を飲み込んだ。泣いてはいけない。別に泣きたいわけじゃない。
 するとナナが手を伸ばして私の頬に触れた。ナナの指は異様に熱い。
「泣くな」
「泣いてないわよ」
「もう、アタシのせいでセイラを泣かせたくないんだ」
 そして私の肩を押して玄関の外に追いやるとドアを閉めてしまった。
 私はドアを背にへたり込む。
 心臓がドクドクと激しく脈打っている。
 ナナへの恋はすでに終わっている。そのはずなのに心臓が私の意思とは関係なく私の心をノックする。
 どうやら私は、またナナに恋をしてしまったようだ。

 二日後、出社したナナが朝礼前に私の所に顔を出した。もしかしたら山本班長に何かを言われたのかもしれない。憮然とした顔をしており、とても謝罪しに来たようには見えない。
「欠勤してすみませんでした」
 ナナは目も合わせようとせず頭を下げる。少しやつれたようにも見えるが、元気になったナナを見て安堵する。
「欠勤は別にいいんです。体調が悪いならばきちんと休息を取ってください。ただ、連絡だけはきちんと入れてください」
「……はい」
「まだ本調子ではないようなら、あまり無理はしないように」
「……はい」
 ナナは私の顔を見ようとはしない。胸のあたりがギュッと締め付けられるように感じる。あの日「もう、アタシのせいでセイラを泣かせたくないんだ」と言ったナナの気持ちが知りたい。
「それじゃあ、仕事に戻ります」
 ナナはペコリと小さく頭を下げて踵を返そうとした。
「あ、ちょっと……」
 私は思わずナナを引き留める。
「あの日……」
 ナナは少し首をかしげる。もしかしたら熱のせいで覚えていないのかもしれない。
「いえ、あの日、連絡しなかったのは、私のことが……気に入らないからですか?」
 誤魔化すためだとは言ってもこの発言はない。自分でそう思いながらも口に出した言葉を無かったことにすることはできない。
「別に……」
「塩原さんより五年も遅く入社した私が、上司なのが気に入りませんか?」
「別に……」
「だから、そんな態度なんですか?」
「別にそんなわけじゃないっ」
 ナナは苛立ったような表情で私を睨みつける。やっと私を見てくれた。
「学歴があるだけで上司になった私が気に入らないから、いつもそんな不満そうな態度なんでしょう?」
「しつこいな、違うって言ってるだろう」
 私がナナと目を見て話したいのはこんなことではない。だけど私は言葉を止められなかった。
「気に入らないのなら、仕事は学歴だけがすべてじゃないと証明してみてください」
「は? なんでそんなことを……」
「できないんですか?」
「できないとは言ってないだろう」
私はナナと睨み合いたいわけじゃない。けれど、こうしなければナナが私を見てくれない。

14:26歳 社長賞

 うちの会社には、毎月『業務改善提案書』を提出する決まりがある。私が管理するチームの提案書に目を通すのも私の仕事のひとつだ。
 すでに二回提案書を見ているが「トイレの電気を消そう」とか「大きな声であいさつをする」などと言った提案がほとんどだった。
 だが三回目の提案書提出で、ナナはこれまでと違う内容の提案書を出してきた。きっとかなり時間をかけて書いたのだろう。おそらく先日の私の挑発に応えたものだ。
 それは三年前、私がジョブローテーションでここに来たときナナがつぶやいていたものだった。その内容は今の私が見ても充分説得力があるものだった。三年前ならば机上の空論と言われたかもしれない。だが今ならば、充分に実現できる可能性があるように思える。しかし残念ながら企画書の形式としては及第点には至らない。
 私は悩んだ挙句、ナナの提案書に手を加えることにした。手を加えたことを知ったらきっとナナはいい顔をしないだろう。だがこの提案が埋もれてしまうことの方が大きな損失になると思った。
 提案を本社に送付してから数日後、管理部の三浦課長から電話がかかってきた。
「ご無沙汰しています」
「うん、久しぶり。新しい環境にはもう慣れた?」
「はい。何とか。現場の方たちにも良くしてもらっています」
「そう、よかった。それで、森内さんのところから出た提案書を見ていたんだけど……塩原ナナさんの提案、これ、本当に塩原さんが書いたもの?」
 私はドキリとした。さすがは元上司ということだろうか。私が手を加えたことなんて簡単に見破ってしまったようだ。それでも私は「塩原さんの提案で間違いありません」とはっきりと言う。
「そう? 私はてっきり森内さんの提案なのかと思ったんだけど」
「いえ、塩原さんです。ただ、いい提案でしたが企画書としては分かりづらい点があったので、少し補足や手直しはしました」
「そう……それなら、連名にしたら?」
「企画を一緒に考えたのなら連盟にするべきでしょうが、私は添削をしただけなので……。必要なら、森内さんの原案も添付しますけど」
「いいわ。それには及ばない。一応確認したかっただけだから。そう、現場にもこんなことを考えてくれる人がいるのね」
「はい」
 電話を切り私はホッと息を付いた。三浦課長の目に留まったのならばナナの提案が取り上げられる可能性が高いということだろう。
 ナナの提案が実現すれば現場の効率もかなり上がるはずだ。何よりもナナにとって大きな自信になるだろう。
 だがそんな私の目論見は予想外の形で覆されることになった。なんとナナの提案が社長賞を取ってしまったのだ。いや、それ自体は非常にうれしいことだ。だが社長賞を取るとはさすがに予想していなかった。そのため私が添削した提案書をナナが目にすることになってしまったのだ。
 そして案の定、ナナは目を吊り上げて私のところにやってきた。
「これ、あんただろう」
 怒っているからか丁寧語を使うことすら忘れているようだ。
「添削をしたことを言っているんですか?」
 私は冷静さを装って答える。
「上が納得するようにちょっと修正をしただけですよ」
「こんなこと頼んでないだろう。アタシはこんな規模のデカいことは考えてなかった。これはあんたの提案だろう」
「部下の提案を自分の手柄にするつもりはありません。それに、言葉は直しましたが、すべて塩原さんが言っていたことですよ」
 これは嘘ではない。三年前、ナナが言っていたことを企画書の形に起こしただけだ。
「とにかくアタシが書いたものじゃない。これは受け取れない」
 そう言うとナナは社長賞の副賞として与えられた金一封を私のデスクに置いた。
「これはあなたのアイデアです。堂々と受け取ってください」
「受け取らない」
 どうしてだろう。最近はナナと顔を合わせるとこんな風に口論してばかりのような気がする。私はただナナと普通に話をしたいだけなのに……。そのときふとひとつのアイデアが頭に浮かんだ。
「じゃあ、今夜、このお金で夕食をおごってよ」
 笑顔を浮かべて同級生だった頃のような口調でナナに言う。心臓がバクバクと鳴って張り裂けそうだった。「冗談じゃない」そう言われることも覚悟していた。だがナナは、渋々ではあったが私の提案を受け入れてくれた。

 その夜、ナナを連れて行ったのは少し高級なレストランだ。以前、同僚がデートで訪れていい雰囲気だと言っていた。金一封の三万円を二人で使い切るにはこれくらいのお店の方がいいはずだ。というのは言い訳で、仮初でもいいから少しだけナナとデート気分を味わってみたかった。それにうるさい居酒屋よりも、こうした雰囲気のお店の方が口論になりにくいだろうと思ったからだ。落ち着いてナナと話がしたかった。
 さすがにコースメニューでは予算をオーバーしそうだったので、おすすめの料理とワインをボトルでオーダーする。
 慣れない店の雰囲気にナナは終始戸惑っているようで、それが妙にかわいく感じてしまう。
「ナナはなんでいつも怒ってるの?」
 と私が訊ねると
「怒ってないよ」
 とナナはそっぽを向く。
「目も合わせてくれないじゃない」
「別に、そんなことないだろう」
 そう言ってそっぽを向くナナに苛立ちながら、私はワインをビールのようにあおる。
「おい、そんなに飲んで大丈夫なのか?」
「平気よ。ナナは飲まないの?」
「こういう高級な酒は口に合わないんだ」
 そう言うとナナはもそもそと料理を口に運ぶ。お酒の力を借りれば少しだけ昔のように話せるかもしれない。それが余計に私のお酒を飲むペースを速めていく。
「それよりアタシなんかと飲んでていいのか? ソレ、相手がいるんだろう?」
 ナナはそう言うと私の左手を見た。自分でもすっかり忘れていたリングが光っている。
「これはただの男避けよ。いちいち断るのも面倒でしょう?」
 そう返事をしながら、私は顔がにやけるのを押さえられなかった。ナナが私のリングを気にしてくれていたのだ。これまでそんな素振りを見せたこともないのに。少しは私のことを気に掛けてくれているということなのだろうか。
「私より、ナナは誰かいないの?」
「んな暇ねーよ」
 そう言ってナナはグラスに少し残ったワインを一気に飲むと顔をしかめた。
「ねえ、ナナはどうして私のことセイラって呼ばないの?」
「は? なんだよ、いきなり」
「昔はセイラって呼んでたでしょう?」
「お前だって、会社じゃ塩原さんって呼んでるじゃないか」
「そうだけど……」
「なんだよ、酔うと面倒臭いな」
 ナナは眉を寄せて私を見る。どんな表情でも私を見てくれる。それは目を逸らされるよりもずっといい。
 オーダーした料理を食べ終えワインも空になると、ナナは「さて、帰るぞ」と言って立ち上がった。
 私はまだナナに聞きたいことがある。いや、聞きたいことはまだ何一つ聞けていない。
 テーブルを去ろうとするナナを引き留めようと立ち上がったとき、私は大きくふらついた。ナナが慌てて私を抱きとめる。
「おい、大丈夫かよ」
「大丈夫、まだ、大丈夫だよ」
 私は体勢を立て直そうとするがどうにも足元がフラフラする。
 ナナはワインを二杯ほどしか飲んでいない。残りをすべて私が呑んだのだから、この状況も仕方ないのかもしれない。そもそも私はそんなにお酒が強いわけではない。
「しょうがないな。つかまれ、行くぞ」
 私はナナの肩に体を預けながらレストランを後にした。
 レストランを出てタクシーを拾うため道路を見る。
「おい、一人で帰れるのか?」
「大丈夫、まだ、頭はしっかりしてる……」
「でも、足はフラフラじゃねーか」
「タクシーは座れる……」
 ナナは「仕方ねえな」と言いながら、私を抱えたまま道路脇で手を挙げてタクシーを止めた。そしてタクシーに一緒に乗り込む。
「ねえナナ、どうして連絡くれなかったの?」
 ナナの肩に頭を預けながら私は聞く。だがナナは答えてはくれない。
「ねえナナ、そんなに私のことが嫌いなの?」
「……別に、嫌いじゃねーよ……」
「ねえナナ……」
「あー、もう酔っ払いは黙って寝てろ」
 ナナはそう言うと窓の外に視線を移して黙ってしまう。そこからは何を聞いても答えてはくれなかった。
 そうしてナナは私を部屋まで送り届けて帰って行った。
 私はふらつく足でベッドルームに行く。シャワーを浴びるのも億劫だ。私はもたつく手でシャツのボタンに手を掛ける。するとフワリと先ほどまで私を抱えていたナナの香りが漂うような気がした。
 ベッドサイドに目をやると、そこには高校時代にナナと二人で写した写真がある。ずっと片づけられないまま色褪せている写真。
 私はベッドに倒れ込んだ。体を丸めるとかすかに残っているナナの香りをより強く感じられるようだった。
 顔を合わせれば口論になり私の顔をまともに見てもくれない。尋ねたことに答えてくれなくなった。そんなナナを見ていると、苛立ちや悲しさに襲われる。
 私を見てくれない、私とちゃんと話してくれないナナが嫌いだ。
 嫌いなのに私はナナのことが好きなのだと、どうしようもなく好きなのだと思い知らされる。
 その夜、私ははじめてナナを思いながら、高ぶった体を自分で慰めた。
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