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本編
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その日――私は服を眼前の男に破かれた。
叫びは喉の奥で押し殺す。
代わりに漏れたのは、細く震える呼気だけだった。
私は鏡の前で身をよじり、背を映す銀縁の鏡を睨んだ。
鏡の中。
私のすぐ背後に立つ男、アラン・サバルスが、恍惚とした表情で藤色の布地を持っている。
裂け目の向こうから、冬の屋敷特有のひやりとした空気が肌に染みる。
「ああ、ごめんよ、リディア。脆いな、この古着は。……まるで君のようだ」
わざとだ。
謝罪の言葉は、言い訳の形をした宣告だった。私が抗議できないと分かったうえでの、加虐的な笑み。
美貌の貴公子として名高いその顔が、今は醜悪に歪んでいる。
アランは、私の姉エレナの婚約者だ。
サバルス伯爵家の嫡男。本来ならば義理の兄となるはずの男が、姉のいない場所でこうして私に触れ、尊厳を削り取っていく。
彼は私の腰を抱き寄せ、耳の裏へ湿った息を落とした。
裂け目から冷気が入り、総毛立つほどの嫌悪感が背筋を駆け上がる。
「これでいい。肌が見える。君の“傷”が見える。……可哀想に。僕がいないと、服さえまともに着られないなんて」
「……可哀想、とおっしゃるなら。やめてください、アラン様」
絞り出した声は、情けないほど震えていた。
恐怖ではない。怒りによる震えだ。
けれどアランはそれを「怯え」と解釈し、さらに深く口角を吊り上げる。
「可哀想な子は抵抗しない。ただ泣くんだ。そうだろ?リディア」
彼の指先が、裂けた布の隙間から素肌を這う。
蟲が這うような感触。逃げ出したいのに、二の腕を掴む力が強すぎて動けない。
甘ったるい香油の匂いが、腐った蜜のように鼻腔へ張りつき、吐き気が込み上げた。
彼はいつもこうだ。
「可哀想なリディア」を作り出し、それを慰める自分に陶酔する。
私がグレイヴィス侯爵家に拾われた養女だからか?
それとも、姉のエレナが病弱で、彼の支配欲を満たせないからか?
「今夜の夜会はドレイス公爵家の主催だ。多くの貴族が集まる。そこで君は泣くんだ。僕の胸で」
アランは呪文のように囁く。
「そうすれば、侯爵家という鳥籠から出してあげる。可哀想な君を、僕が救い出してあげるよ」
「鳥籠から出して……今度はあなたの箱に入れるつもりですか」
「はは。賢い子は嫌いじゃない」
アランは私の喉元へ手を添え、親指で脈を押さえた。
ぐ、と力がこもる。頸動脈への圧迫。
声を奪える、命を握っている。そう無言で誇示する暴力。
「逃げられると思うなよ。指示書は読んだね?メイドに渡したあの通りに動くんだ。逆らえば……姉のエレナがどうなるか、分かるだろ?」
姉を人質にする、卑劣な脅迫。
私が唯一、抵抗できない弱点。
姉のエレナは、孤児だった私を実の妹のように慈しんでくれた。
血の繋がらない私を庇い、貴族社会で生きる術を教えてくれた。
その姉が今、原因不明の体調不良で伏せっているのも、この男の圧迫が原因ではないかと私は疑っている。
私が逆らえば、姉への風当たりが強くなる。
婚約破棄をちらつかせ、姉を精神的に追い詰めるだろう。
私は、姉のためなら命を投げる覚悟がある。
アランはそれを見透かしているのだ。
「……分かりました、アラン様」
「いい子だ」
満足げに頷き、アランは私を解放した。
扉へ向かう足取りは軽い。最高の脚本を描いた劇作家のような高揚感。
去り際に振り返りもせず、彼は吐き捨てた。
「背中を、もっと見せておけ。寒さで赤くなるくらいが、皆が信じるからね」
バタン、と重々しい音を立てて扉が閉まる。
静寂が戻った部屋で、私は鏡の前で膝が崩れそうになるのを必死で支えた。
背中が寒い。裂かれたドレスは、亡き義母が遺してくれた大切な品だったのに。
ひりつく皮膚。踏みにじられた誇り。
これが、彼の“愛”だと言うのか。
傷つけ、孤立させ、依存させる。それは愛ではなく、飼育だ。
――ふざけるな。
恐怖の底で、どす黒い怒りがマグマのように煮え立つ。
泣けと言われて泣けば、私は一生、彼の台本の中で生きることになる。姉もろとも、彼の付属品として消費される。
だから泣かない。
代わりに、刺す。
私はドレッサーの引き出しから、古びた愛用の針箱を取り出した。
震える指で蓋を開ける。中には、大小様々な針が整然と並んでいる。
縫うのではない。
私は今日、武器を仕込むのだ。
「見ていなさい、アラン・サバルス」
鏡の中の自分を睨みつける。
泣き腫らした可哀想な被害者は、もうそこにはいない。
そこにいるのは、獲物を狩るために牙を研ぐ、一人の復讐者だった。
*
廊下に出ると、屋敷は夜会の支度でざわついていた。
使用人の足音、衣擦れ、強く焚かれた香水の匂い。
すれ違う使用人たちは一様に目を伏せ、私の背中の裂け目には気づかないふりをする。
誰も助けてはくれない。
次期伯爵となる男に逆らえる人間など、この屋敷にはいないのだ。
私が向かったのは、華やかな支度部屋ではなく、屋敷の隅にある古びたリネン室だった。
埃と乾燥したラベンダーの匂いがする狭い部屋。
扉を細く開けると、小間使いのエルナがビクリと肩を跳ねさせて飛び上がった。
「リ、リディア様……?ど、どうしてここに……お支度は……」
彼女は背中に何かを隠そうとした。
だが、机の上に転がった真新しい封蝋までは隠しきれていない。サバルス家の紋章。毒蛇のような緑色の蝋。
エルナの指が、小刻みに震えている。
彼女もまた、被害者なのだ。病気の弟を抱え、解雇をちらつかされれば従うしかない立場。
「……エルナ。脅されてるのね」
「ち、違……っ。私、私は……!そんな、若君様のことを……!」
「言い訳しなくていい。私も同じだから」
私はショールを少しずらし、無惨に裂けた背中を見せた。
エルナが息を呑み、口元を押さえる。
「……っ!これ、若君が……?」
「そう。『可哀想なリディア』を作るために。もっと酷い傷に見えるように、化粧で痣を描けとも言われてるんじゃない?」
図星だったのだろう。
エルナの目が潤み、唇がわななく。彼女はその場に崩れ落ちるように膝をついた。
「申し訳、ありません……!でも、私が逆らったら……ミリー様が……!家族のことも……!」
「エルナ、顔を上げて。あなたを責めるつもりはないの」
私は彼女の前にしゃがみ込み、冷え切った手を両手で包み込んだ。
そして、紙片を一枚差し出す。
「これ。弟君の薬代、今月分は私が薬局へ支払っておいたわ。……重かったでしょう?」
「リディア様……どうして、それを……」
「弟君を助けたいなら、アラン様に従う必要はない。私が立て替える」
エルナの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
恐怖で縛られた忠誠は脆い。
けれど、恩義と利害で結ばれた契約は、強い。
「だからエルナ。……今度はあなたが私に立て替えて。その台本――『指示書』を、私にちょうだい」
短い沈黙。
屋敷の時計が時を刻む音が、やけに大きく響く。
やがてエルナが決意したように顔を上げ、震える手で引き出しを開けた。
「……これです。若君から、ミリー様経由で渡されたメモです。処分の指示が出ていましたが、怖くて……」
数枚の紙片。
私は一番新しい、インクの匂いが残る封書を手に取った。
封蝋を割ると、そこにはアランの流麗な筆跡で、吐き気のする文言が羅列されていた。
『一、ドレスの背中を大きく引き裂け』
『二、肌を晒させ、寒さに震えるように仕向けろ』
『三、私が抱きしめるタイミングに合わせて、泣くよう強要しろ』
『四、救済者は私であると印象付けろ』
「……最低」
声が低く、地を這うように落ちた。
ここまで明確に悪意を文字に残すとは。彼の傲慢さが、最大の隙だった。
自分は絶対に裁かれないという確信が、この証拠を生んだのだ。
私は紙を丁寧に畳み、胸元のコルセットの隙間へ押し込む。
心臓の鼓動が、紙越しに伝わる。これが私の命綱だ。
「エルナ。今夜、私が勝つ。あなたが責められない形で、必ず終わらせる」
「……本当に?あの方に、勝てるのですか?」
「うん。私が“可哀想”で終わるのは、今夜で終わりにする」
私はその場で、手紙の内容を一字一句、別の紙へ写し取った。
万が一、原本を奪われても終わらないように。リスク分散は基本だ。
写しを折り、屋敷の古参執事セバスチャンの元へ走った。
厳格な「規則の人間」。侯爵家の名誉と正義を重んじる。伯爵家の息子ごときが屋敷を牛耳る現状を、苦々しく思っている数少ない人物だ。
「執事殿。これは、侯爵家の名誉に関わる重大事です。王太子殿下の筆頭侍従へ、必ず渡してください」
廊下の陰で手紙を差し出すと、セバスチャンの眉が動いた。
「……リディア様。内容次第では、この屋敷が崩壊しますぞ」
「既に腐って崩れかけています。揺らすのは私ではなく、あの男です」
セバスチャンは私の目をじっと見つめ、やがて深く一礼した。
「……承知しました。必ず、届かせます」
彼は写しを受け取り、音もなく闇に消えた。
これで賽は投げられた。
*
部屋に戻り、私は裂かれたドレスの修繕……ではなく、加工を始めた。
袖口の内側に小さな隠しポケットを縫い付ける。布と同じ色、極細の糸で。誰にも気づかれないように。
姉から譲り受けた、鋭い銀の針を一本、そこへ忍ばせる。
お守りじゃない。切っ先だ。
自分の物語を縫い直すための、最初の一針。
支度部屋へ戻ると、姉のエレナが蒼白な顔で待っていた。
私の背中の裂け目、ショールで隠しきれない惨状に気づき、悲鳴のような声を上げる。
「リディア!そのドレス……まさか、またアラン様が!?」
「……転んで、引っかけただけです、お姉様」
嘘をついた。
今ここで姉が激昂すれば、アランは姉を“嫉妬に狂った悪役”として処理し、療養院へ送る手はずさえ整えているかもしれない。
姉を守るには、今はまだ、私がピエロでいなければならない。
「嘘よ……あなた、震えているもの……」
姉の目から涙が溢れる。
私は姉の冷たい手を、ぎゅっと握り返した。
「大丈夫。お姉様」
助けを求める握り方じゃない。
私が私の役を奪い返す、という決意の握り方だ。
「今夜は……誰も泣かせません。信じて待っていてください」
*
ドレイス公爵家の夜会は、華やかな檻だった。
無数のシャンデリアが昼間のような光を落とし、宝石のきらめきと扇子の影が交錯する。
楽団が奏でるワルツは甘く、しかし人々の視線はナイフのように鋭い。
私と姉が会場へ足を踏み入れると、さざ波のように噂話が広がった。
「……ご覧になって、あれがグレイヴィス家の」
「養女の子でしょう?噂の……」
「本当にみすぼらしい格好ね。ドレスも古臭い」
「でも、可哀想に。虐げられているという噂は本当なのかしら」
「姉のエレナ様、澄ました顔をして……裏では妹をいじめているとか」
「怖い怖い。女の嫉妬は見苦しいわね」
視線が、言葉が、遠慮なく突き刺さる。
姉の指が小さく震える。私はそっと姉の背を支え、口角だけで微笑んだ。
今はまだ、言わせておけばいい。
やがて、人垣が割れた。
アランが中央へ進み出る。完璧に仕立てられた燕尾服。憂いを帯びた美貌。悲劇の貴公子そのものの顔で、彼は私を見つけた。
「リディア!」
大きな声で私の名を呼び、駆け寄ってくる。
周囲の視線が一斉に私たちに集まる。舞台は整った。
「皆様。聞いていただきたい!」
アランが片手を挙げると、会場に静寂が落ちた。
空気そのものが、彼の言葉の形に整列していくようだ。彼は「場の支配」に長けている。
「私は――このエレナ・グレイヴィスとの婚約を破棄します。……もう、見ていられないのです。彼女が、妹のリディア嬢に行う非道な仕打ちが!」
会場がどよめきで揺れた。
「まさか……」
「あの淑やかなエレナ様が?」
「でも、火のない所に煙は立たないと言うし……」
「やっぱり、養女だから……?」
姉が「違います!」と叫ぼうとした、その瞬間。
「証拠ならここにある。さあ、皆様。こちらをご覧ください」
アランが躊躇なく私へ歩み寄り、私が羽織っていたショールに手をかけた。
「やめ――」
抵抗する間もなく、ショールが乱暴に引き剥がされた。
ビリ、と布が鳴る。背中の裂け目が白日の下に晒される。寒さと恐怖で粟立った肌。アランがわざとつけた赤い指の跡も、くっきりと浮かび上がっている。
「見よ!この傷を!着る服さえまともに与えられず、折檻を受けたこの姿を!」
悲鳴と、非難のささやきが爆発した。
「ひどい……!」
「なんて無惨な……」
「侯爵家がこんな真似を?」
「可哀想に……震えているじゃないか」
「救ってあげて、アラン様……!」
「姉のエレナ様、なんて冷酷な目つきなの……」
群衆の同情が、凶器となって姉を襲う。
アランは私を抱きすくめ、勝ち誇った声で命令した。
「リディア!怖かったろう。もう大丈夫だ。僕が守る。言え。姉にやられたと!僕に助けてほしいと!」
香油の匂いが鼻孔を塞ぐ。
彼の心臓が近い。ドク、ドク、と興奮の音。
こいつは喜んでいるのだ。衆目の前で私を支配し、姉を陥れ、自分だけが英雄になれるこの状況に陶酔している。
耳元で、甘くねっとりとした声が囁く。
「(さあ、泣け。シナリオ通りに。そうすれば姉は療養院送りにするだけで許してやる)」
私は、ゆっくり顔を上げた。
至近距離で、アランの瞳を見る。愛欲と加虐心で濁った、爬虫類のような目。
袖の内側から、銀の針を指先へ滑らせる。
冷たい金属の感触が、私に冷静さを取り戻させる。
刺しはしない。
切っ先を、彼の首筋へ。脈打つ血管の上へ、氷のように押し当てた。
「……っ?」
アランが硬直する。首筋に走った鋭利な痛みに、言葉を詰まらせた。
会場のざわめきが、波が引くようにぴたりと止まる。
「……離してください」
「リ、リディア?何を……。君、錯乱して……」
「錯乱などしていません。……離して、と言ったのです」
私は針を持っていない方の手で、アランの胸を全力で突き飛ばした。
油断しきっていた彼はよろめき、情けなく足をもつらせて尻餅をついた。
「うわっ!?」
完璧な貴公子の無様な姿。
私は乱れた髪を払いもしないで、彼を見下ろした。
「ひっ……じょーに、気持ち悪いです」
叫びではない。
絶対零度の拒絶。汚物を見るような目。
会場が凍りついた。数秒の沈黙の後、観客の困惑した声が漏れる。
「え……言った……今、なんて?」
「気持ち悪いって……アラン様に?」
「今の、針……?」
「こ、怖……でも……なんか……」
「……今の抱きしめ方、ちょっと変じゃなかった?」
「救うって顔じゃなかったわよね……ニヤついてたというか……」
アランが顔を赤くし、立ち上がりながら叫ぶ。
「ち、違う!君はショックで混乱しているんだ!僕は君を救って……!」
「皆様、ご覧になりましたか。この背中の傷」
私はくるりと背を向けた。逃げではなく、証拠の提示として。
「これは姉がつけたものではありません。……先ほど、グレイヴィス侯爵邸で、アラン様ご自身が“演出”のために裂き、指を押し当ててつけたものです」
「う、嘘だ!でたらめを言うな!こいつは姉に脅されて嘘をついているんだ!」
アランが唾を飛ばして叫ぶ。
私は冷ややかに振り返った。
「嘘?脅されている?……では、これは何ですか?」
私は胸元のコルセットから、四つ折りの紙を取り出した。
高く掲げ、指先で弾く。乾いた音が、静まり返った会場に響いた。
「皆様。これは、アラン様が侍女頭に出した……直筆の『演出指示書』です」
瞬間。
ざわ……と、群衆が前のめりになる。
私は朗々と読み上げた。演劇のナレーターのように、明確に。
この会場の支配権を、彼から奪い取る声で。
「『一、ドレスの背中を大きく引き裂け』」
「『二、肌を晒させ、寒さに震えるように仕向けろ』」
「『三、私が抱きしめるタイミングに合わせて、泣くよう強要しろ』」
「『四、救済者は私であると印象付けろ』」
読み上げるたび、会場の空気が変質していく。
近くにいた伯爵夫人が、扇子で口元を隠しながら紙を覗き込んだ。
「……まあ、サバルス家の封蝋だわ……」
「筆跡も……アラン様のものに間違いないわね」
「うわ、本当に書いてある……」
「え、じゃあさっきの抱擁って……」
「自作自演……?演出?」
「……気持ち悪っ……」
「女の子の服を裂いて、傷つけて、それで英雄ごっこ?」
「最低……」
「婚約破棄まで芝居の道具にするなんて……」
オセロの石が裏返るように、空気が反転する。
同情が、強烈な嫌悪へ。群衆の温度がサーッとアランから引いていく。
アランの顔色が土色に変わる。
喉がひくつき、脂汗が滲む。
ここで、彼の完璧だった世界の“崩壊”が始まった。
「ち、違う……!これは愛だ!愛してるから……より劇的に救ってやろうと……!」
「愛?」
私は一歩、近づく。針は手の中できらりと光る。
「服を裂き、肌を傷つけ、姉を人質にして従わせる。……それが、あなたの愛ですか」
「だって!だって君は可哀想で――!」
アランが叫ぶ。もう上品な声は出ない。裏返った、子供の癇癪のような声だ。
「俺が……俺が救ってやったのに!拾ってやったのに!」
「お前みたいな孤児の養女、俺がいなきゃ誰も見向きもしないだろうが!」
「可哀想な役を用意してやったんだぞ!俺が主役で、お前がヒロインになれるように!」
「俺の舞台、俺の物語だ!お前は俺の作品なんだよ!」
その瞬間、会場の視線が完全に冷めた。
軽蔑すら通り越した、無関心への移行。社会的な死刑宣告。
「……本性出たわね」
「“救う”じゃなくて“所有”じゃない……」
「作品って……人間をなんだと思ってるの」
「最低……」
「ねえ、さっきまで同情してた自分が恥ずかしいわ」
「気持ち悪いの、どっちよ……」
アランは必死に取り巻きへ縋ろうとする。
「おい!君たち、言ってくれ!俺は正しいって……!」
「ほら!皆もさっきまで……可哀想だって言ってたじゃないか!」
令嬢たちは扇子を閉じ、すっと一歩下がった。
まるで汚いものを見るように視線を逸らし、関わりを断つ。
「知りませんわ……」
「……今のは無理です」
「ごめんなさい、私……気分が……」
「近寄らないでくださいまし!」
“味方”が音もなく消える。
群衆裁判の恐ろしさは、群衆が手のひらを返す速さにある。
そこへ、高座から凛とした声が落ちた。
「――そこまでだ」
会場の最奥。玉座に近い席から、王太子殿下が立ち上がっていた。
その紺碧の瞳は、泥を見るように冷ややかだ。
「アラン・サバルス。伯爵家の名を盾に、他者の尊厳を弄び、虚偽で婚約を破棄しようとした罪。そして何より、“愛”の名で暴力を正当化した罪。……看過できぬ」
「ま、待ってください殿下!これは誤解で――!」
「誤解で済むなら、封蝋も筆跡も不要だ」
殿下が傍らの侍従へ目配せする。
侍従が一礼し、淡々と告げた。
「……先ほど、グレイヴィス侯爵家執事セバスチャンより、同内容の写しも受領しております。原本の封蝋と照合しても、もはや言い逃れは不可能かと」
逃げ道が、完全に塞がった。
アランの口が金魚のように開閉する。
王室警護兵が音もなく動き、アランの両脇を固めた。
同時に、会場の隅に隠れていた侍女頭ミリーも引きずり出される。
「ひぃっ!ち、違います!私は命令されただけで……!」
「命令されて人を裂くのか?」
「可哀想演出の共犯じゃない」
「恥を知りなさいよ……!」
「泣かせて楽しむとか、悪趣味にも程がある……!」
貴婦人たちの冷たい罵声を浴び、ミリーは泡を吹いて気絶した。
アランが父親である伯爵を探して叫んだ。
「父上!助けてくれ!俺は……俺は伯爵家の嫡男だぞ!」
人垣の中から現れたサバルス伯爵は、苦渋の表情で唇を噛み切り、ゆっくりと首を振った。
「……恥さらしが。侯爵家の、それも未来の家族に弓を引くなど。お前は我が家の名を、これ以上ないほど汚した。――この場で勘当だ」
「父上っ!嘘だろ!?」
会場がざわりと沸いた。
最後の後ろ盾まで、自らの愚かさでへし折ったのだ。
王太子殿下が厳かに宣告する。
「爵位継承権を剥奪。準平民として身分を落とし、十年、北方の鉱山救貧院にて奉仕せよ」
「本件は王家の名で公示する。君が作った“可哀想”の舞台で、君自身が本物の“可哀想”になるといい」
「やめろ!やめてくれ!俺は……俺は英雄に……!」
「違う!俺は救ってやったんだ!俺が!俺が!」
「リディア!お前のせいだ!俺の物語を返せ!」
アランは喚き、もがき、床に膝を擦りつける。
髪は乱れ、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになる。
かつて私に「泣け」と強要した男が、今は誰よりも無様に泣き叫んでいる。
「リディアァァ!お前のせいだ!」
「俺が救ってやったのに!役をやらせてやったのに!」
「お前は俺の作品だろうが!」
護衛に引きずられながら伸ばした手は、空を掻くだけだった。
重厚な扉が閉まり、汚い絶叫が遠ざかっていく。
私は、最後までその背中を見届けた。
勝利の酔いはない。ただ、胸の奥に巻きついていた見えない鎖が、一本ずつ、ぱらぱらとほどけていく音がした。
姉が震える手で私を抱きしめる。
「リディア……っ、ごめんなさい。私……怖くて……」
「謝らないで、お姉様」
「……私、やっと自分の物語を自分で選べました」
*
夜会がお開きとなり、帰りの馬車を待つエントランス。
冷たい夜風に当たっていると、背後から声がかかった。
「見事な手際だった」
振り返ると、王太子殿下が立っていた。
護衛もつけず、一人の青年として、穏やかな瞳で私を見ている。
「殿下……。お見苦しいところを」
「いや。……実を言うと、私は以前から君を知っていたんだ」
「私を、ですか?」
殿下は私の手元、まだ握りしめていた銀の針に視線を落とした。
「王城の刺繍係が、いつも話題にしていた。『信じられない腕を持つ針子がいる』とね。匿名で寄付された孤児院の子供たちの服……あの丁寧な修繕は、君の仕事だろう?」
心臓が跳ねた。
屋敷の隅で、誰にも知られずに行っていた密かな楽しみ。それが、まさか殿下に届いていたなんて。
「あれは……ただの、趣味です」
「ボロボロの服を、新品以上に丈夫で美しく直す。それはただの技術じゃない。着る人への愛だ」
殿下がそっと手を伸ばし、私の指先――針ダコのある指に触れた。
「リディア嬢。その稀有な才能を、私に守らせてほしい。……君を、王宮専属の筆頭針子として迎えたい」
それは、「可哀想な令嬢」への同情ではなく。
「誇り高き職人」への、最上級の敬意だった。
「そして、いつか。……私の正装も、君に仕立ててほしい」
付け足された言葉に、甘い熱が宿る。
それは職人への依頼であり、一人の男からの、不器用な求愛だった。
熱が頬に上るのを感じながら、私はドレスの裾を摘んでカーテシーをする。
「……不束者ですが、喜んで」
*
その夜。
私は屋敷に戻り、藤色のドレスを脱いだ。
もう二度と、このドレスが裂かれることはない。
鏡の前で、私は初めて心からの笑顔を浮かべた。
胸元には銀の針を留めたまま、新しい白銀の絹を掌に乗せる。
誰のお下がりでもない。私が選んだ、私の布。
針先が布を貫くたび、私の新しい物語が縫い直されていく。
そこにはもう、涙も、演出された悲劇もない。
あるのは、私自身の意志で選び取った、温かな幸福だけだ。
私は胸の内で告げた。
――私は、私のための人生を歩む。
叫びは喉の奥で押し殺す。
代わりに漏れたのは、細く震える呼気だけだった。
私は鏡の前で身をよじり、背を映す銀縁の鏡を睨んだ。
鏡の中。
私のすぐ背後に立つ男、アラン・サバルスが、恍惚とした表情で藤色の布地を持っている。
裂け目の向こうから、冬の屋敷特有のひやりとした空気が肌に染みる。
「ああ、ごめんよ、リディア。脆いな、この古着は。……まるで君のようだ」
わざとだ。
謝罪の言葉は、言い訳の形をした宣告だった。私が抗議できないと分かったうえでの、加虐的な笑み。
美貌の貴公子として名高いその顔が、今は醜悪に歪んでいる。
アランは、私の姉エレナの婚約者だ。
サバルス伯爵家の嫡男。本来ならば義理の兄となるはずの男が、姉のいない場所でこうして私に触れ、尊厳を削り取っていく。
彼は私の腰を抱き寄せ、耳の裏へ湿った息を落とした。
裂け目から冷気が入り、総毛立つほどの嫌悪感が背筋を駆け上がる。
「これでいい。肌が見える。君の“傷”が見える。……可哀想に。僕がいないと、服さえまともに着られないなんて」
「……可哀想、とおっしゃるなら。やめてください、アラン様」
絞り出した声は、情けないほど震えていた。
恐怖ではない。怒りによる震えだ。
けれどアランはそれを「怯え」と解釈し、さらに深く口角を吊り上げる。
「可哀想な子は抵抗しない。ただ泣くんだ。そうだろ?リディア」
彼の指先が、裂けた布の隙間から素肌を這う。
蟲が這うような感触。逃げ出したいのに、二の腕を掴む力が強すぎて動けない。
甘ったるい香油の匂いが、腐った蜜のように鼻腔へ張りつき、吐き気が込み上げた。
彼はいつもこうだ。
「可哀想なリディア」を作り出し、それを慰める自分に陶酔する。
私がグレイヴィス侯爵家に拾われた養女だからか?
それとも、姉のエレナが病弱で、彼の支配欲を満たせないからか?
「今夜の夜会はドレイス公爵家の主催だ。多くの貴族が集まる。そこで君は泣くんだ。僕の胸で」
アランは呪文のように囁く。
「そうすれば、侯爵家という鳥籠から出してあげる。可哀想な君を、僕が救い出してあげるよ」
「鳥籠から出して……今度はあなたの箱に入れるつもりですか」
「はは。賢い子は嫌いじゃない」
アランは私の喉元へ手を添え、親指で脈を押さえた。
ぐ、と力がこもる。頸動脈への圧迫。
声を奪える、命を握っている。そう無言で誇示する暴力。
「逃げられると思うなよ。指示書は読んだね?メイドに渡したあの通りに動くんだ。逆らえば……姉のエレナがどうなるか、分かるだろ?」
姉を人質にする、卑劣な脅迫。
私が唯一、抵抗できない弱点。
姉のエレナは、孤児だった私を実の妹のように慈しんでくれた。
血の繋がらない私を庇い、貴族社会で生きる術を教えてくれた。
その姉が今、原因不明の体調不良で伏せっているのも、この男の圧迫が原因ではないかと私は疑っている。
私が逆らえば、姉への風当たりが強くなる。
婚約破棄をちらつかせ、姉を精神的に追い詰めるだろう。
私は、姉のためなら命を投げる覚悟がある。
アランはそれを見透かしているのだ。
「……分かりました、アラン様」
「いい子だ」
満足げに頷き、アランは私を解放した。
扉へ向かう足取りは軽い。最高の脚本を描いた劇作家のような高揚感。
去り際に振り返りもせず、彼は吐き捨てた。
「背中を、もっと見せておけ。寒さで赤くなるくらいが、皆が信じるからね」
バタン、と重々しい音を立てて扉が閉まる。
静寂が戻った部屋で、私は鏡の前で膝が崩れそうになるのを必死で支えた。
背中が寒い。裂かれたドレスは、亡き義母が遺してくれた大切な品だったのに。
ひりつく皮膚。踏みにじられた誇り。
これが、彼の“愛”だと言うのか。
傷つけ、孤立させ、依存させる。それは愛ではなく、飼育だ。
――ふざけるな。
恐怖の底で、どす黒い怒りがマグマのように煮え立つ。
泣けと言われて泣けば、私は一生、彼の台本の中で生きることになる。姉もろとも、彼の付属品として消費される。
だから泣かない。
代わりに、刺す。
私はドレッサーの引き出しから、古びた愛用の針箱を取り出した。
震える指で蓋を開ける。中には、大小様々な針が整然と並んでいる。
縫うのではない。
私は今日、武器を仕込むのだ。
「見ていなさい、アラン・サバルス」
鏡の中の自分を睨みつける。
泣き腫らした可哀想な被害者は、もうそこにはいない。
そこにいるのは、獲物を狩るために牙を研ぐ、一人の復讐者だった。
*
廊下に出ると、屋敷は夜会の支度でざわついていた。
使用人の足音、衣擦れ、強く焚かれた香水の匂い。
すれ違う使用人たちは一様に目を伏せ、私の背中の裂け目には気づかないふりをする。
誰も助けてはくれない。
次期伯爵となる男に逆らえる人間など、この屋敷にはいないのだ。
私が向かったのは、華やかな支度部屋ではなく、屋敷の隅にある古びたリネン室だった。
埃と乾燥したラベンダーの匂いがする狭い部屋。
扉を細く開けると、小間使いのエルナがビクリと肩を跳ねさせて飛び上がった。
「リ、リディア様……?ど、どうしてここに……お支度は……」
彼女は背中に何かを隠そうとした。
だが、机の上に転がった真新しい封蝋までは隠しきれていない。サバルス家の紋章。毒蛇のような緑色の蝋。
エルナの指が、小刻みに震えている。
彼女もまた、被害者なのだ。病気の弟を抱え、解雇をちらつかされれば従うしかない立場。
「……エルナ。脅されてるのね」
「ち、違……っ。私、私は……!そんな、若君様のことを……!」
「言い訳しなくていい。私も同じだから」
私はショールを少しずらし、無惨に裂けた背中を見せた。
エルナが息を呑み、口元を押さえる。
「……っ!これ、若君が……?」
「そう。『可哀想なリディア』を作るために。もっと酷い傷に見えるように、化粧で痣を描けとも言われてるんじゃない?」
図星だったのだろう。
エルナの目が潤み、唇がわななく。彼女はその場に崩れ落ちるように膝をついた。
「申し訳、ありません……!でも、私が逆らったら……ミリー様が……!家族のことも……!」
「エルナ、顔を上げて。あなたを責めるつもりはないの」
私は彼女の前にしゃがみ込み、冷え切った手を両手で包み込んだ。
そして、紙片を一枚差し出す。
「これ。弟君の薬代、今月分は私が薬局へ支払っておいたわ。……重かったでしょう?」
「リディア様……どうして、それを……」
「弟君を助けたいなら、アラン様に従う必要はない。私が立て替える」
エルナの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
恐怖で縛られた忠誠は脆い。
けれど、恩義と利害で結ばれた契約は、強い。
「だからエルナ。……今度はあなたが私に立て替えて。その台本――『指示書』を、私にちょうだい」
短い沈黙。
屋敷の時計が時を刻む音が、やけに大きく響く。
やがてエルナが決意したように顔を上げ、震える手で引き出しを開けた。
「……これです。若君から、ミリー様経由で渡されたメモです。処分の指示が出ていましたが、怖くて……」
数枚の紙片。
私は一番新しい、インクの匂いが残る封書を手に取った。
封蝋を割ると、そこにはアランの流麗な筆跡で、吐き気のする文言が羅列されていた。
『一、ドレスの背中を大きく引き裂け』
『二、肌を晒させ、寒さに震えるように仕向けろ』
『三、私が抱きしめるタイミングに合わせて、泣くよう強要しろ』
『四、救済者は私であると印象付けろ』
「……最低」
声が低く、地を這うように落ちた。
ここまで明確に悪意を文字に残すとは。彼の傲慢さが、最大の隙だった。
自分は絶対に裁かれないという確信が、この証拠を生んだのだ。
私は紙を丁寧に畳み、胸元のコルセットの隙間へ押し込む。
心臓の鼓動が、紙越しに伝わる。これが私の命綱だ。
「エルナ。今夜、私が勝つ。あなたが責められない形で、必ず終わらせる」
「……本当に?あの方に、勝てるのですか?」
「うん。私が“可哀想”で終わるのは、今夜で終わりにする」
私はその場で、手紙の内容を一字一句、別の紙へ写し取った。
万が一、原本を奪われても終わらないように。リスク分散は基本だ。
写しを折り、屋敷の古参執事セバスチャンの元へ走った。
厳格な「規則の人間」。侯爵家の名誉と正義を重んじる。伯爵家の息子ごときが屋敷を牛耳る現状を、苦々しく思っている数少ない人物だ。
「執事殿。これは、侯爵家の名誉に関わる重大事です。王太子殿下の筆頭侍従へ、必ず渡してください」
廊下の陰で手紙を差し出すと、セバスチャンの眉が動いた。
「……リディア様。内容次第では、この屋敷が崩壊しますぞ」
「既に腐って崩れかけています。揺らすのは私ではなく、あの男です」
セバスチャンは私の目をじっと見つめ、やがて深く一礼した。
「……承知しました。必ず、届かせます」
彼は写しを受け取り、音もなく闇に消えた。
これで賽は投げられた。
*
部屋に戻り、私は裂かれたドレスの修繕……ではなく、加工を始めた。
袖口の内側に小さな隠しポケットを縫い付ける。布と同じ色、極細の糸で。誰にも気づかれないように。
姉から譲り受けた、鋭い銀の針を一本、そこへ忍ばせる。
お守りじゃない。切っ先だ。
自分の物語を縫い直すための、最初の一針。
支度部屋へ戻ると、姉のエレナが蒼白な顔で待っていた。
私の背中の裂け目、ショールで隠しきれない惨状に気づき、悲鳴のような声を上げる。
「リディア!そのドレス……まさか、またアラン様が!?」
「……転んで、引っかけただけです、お姉様」
嘘をついた。
今ここで姉が激昂すれば、アランは姉を“嫉妬に狂った悪役”として処理し、療養院へ送る手はずさえ整えているかもしれない。
姉を守るには、今はまだ、私がピエロでいなければならない。
「嘘よ……あなた、震えているもの……」
姉の目から涙が溢れる。
私は姉の冷たい手を、ぎゅっと握り返した。
「大丈夫。お姉様」
助けを求める握り方じゃない。
私が私の役を奪い返す、という決意の握り方だ。
「今夜は……誰も泣かせません。信じて待っていてください」
*
ドレイス公爵家の夜会は、華やかな檻だった。
無数のシャンデリアが昼間のような光を落とし、宝石のきらめきと扇子の影が交錯する。
楽団が奏でるワルツは甘く、しかし人々の視線はナイフのように鋭い。
私と姉が会場へ足を踏み入れると、さざ波のように噂話が広がった。
「……ご覧になって、あれがグレイヴィス家の」
「養女の子でしょう?噂の……」
「本当にみすぼらしい格好ね。ドレスも古臭い」
「でも、可哀想に。虐げられているという噂は本当なのかしら」
「姉のエレナ様、澄ました顔をして……裏では妹をいじめているとか」
「怖い怖い。女の嫉妬は見苦しいわね」
視線が、言葉が、遠慮なく突き刺さる。
姉の指が小さく震える。私はそっと姉の背を支え、口角だけで微笑んだ。
今はまだ、言わせておけばいい。
やがて、人垣が割れた。
アランが中央へ進み出る。完璧に仕立てられた燕尾服。憂いを帯びた美貌。悲劇の貴公子そのものの顔で、彼は私を見つけた。
「リディア!」
大きな声で私の名を呼び、駆け寄ってくる。
周囲の視線が一斉に私たちに集まる。舞台は整った。
「皆様。聞いていただきたい!」
アランが片手を挙げると、会場に静寂が落ちた。
空気そのものが、彼の言葉の形に整列していくようだ。彼は「場の支配」に長けている。
「私は――このエレナ・グレイヴィスとの婚約を破棄します。……もう、見ていられないのです。彼女が、妹のリディア嬢に行う非道な仕打ちが!」
会場がどよめきで揺れた。
「まさか……」
「あの淑やかなエレナ様が?」
「でも、火のない所に煙は立たないと言うし……」
「やっぱり、養女だから……?」
姉が「違います!」と叫ぼうとした、その瞬間。
「証拠ならここにある。さあ、皆様。こちらをご覧ください」
アランが躊躇なく私へ歩み寄り、私が羽織っていたショールに手をかけた。
「やめ――」
抵抗する間もなく、ショールが乱暴に引き剥がされた。
ビリ、と布が鳴る。背中の裂け目が白日の下に晒される。寒さと恐怖で粟立った肌。アランがわざとつけた赤い指の跡も、くっきりと浮かび上がっている。
「見よ!この傷を!着る服さえまともに与えられず、折檻を受けたこの姿を!」
悲鳴と、非難のささやきが爆発した。
「ひどい……!」
「なんて無惨な……」
「侯爵家がこんな真似を?」
「可哀想に……震えているじゃないか」
「救ってあげて、アラン様……!」
「姉のエレナ様、なんて冷酷な目つきなの……」
群衆の同情が、凶器となって姉を襲う。
アランは私を抱きすくめ、勝ち誇った声で命令した。
「リディア!怖かったろう。もう大丈夫だ。僕が守る。言え。姉にやられたと!僕に助けてほしいと!」
香油の匂いが鼻孔を塞ぐ。
彼の心臓が近い。ドク、ドク、と興奮の音。
こいつは喜んでいるのだ。衆目の前で私を支配し、姉を陥れ、自分だけが英雄になれるこの状況に陶酔している。
耳元で、甘くねっとりとした声が囁く。
「(さあ、泣け。シナリオ通りに。そうすれば姉は療養院送りにするだけで許してやる)」
私は、ゆっくり顔を上げた。
至近距離で、アランの瞳を見る。愛欲と加虐心で濁った、爬虫類のような目。
袖の内側から、銀の針を指先へ滑らせる。
冷たい金属の感触が、私に冷静さを取り戻させる。
刺しはしない。
切っ先を、彼の首筋へ。脈打つ血管の上へ、氷のように押し当てた。
「……っ?」
アランが硬直する。首筋に走った鋭利な痛みに、言葉を詰まらせた。
会場のざわめきが、波が引くようにぴたりと止まる。
「……離してください」
「リ、リディア?何を……。君、錯乱して……」
「錯乱などしていません。……離して、と言ったのです」
私は針を持っていない方の手で、アランの胸を全力で突き飛ばした。
油断しきっていた彼はよろめき、情けなく足をもつらせて尻餅をついた。
「うわっ!?」
完璧な貴公子の無様な姿。
私は乱れた髪を払いもしないで、彼を見下ろした。
「ひっ……じょーに、気持ち悪いです」
叫びではない。
絶対零度の拒絶。汚物を見るような目。
会場が凍りついた。数秒の沈黙の後、観客の困惑した声が漏れる。
「え……言った……今、なんて?」
「気持ち悪いって……アラン様に?」
「今の、針……?」
「こ、怖……でも……なんか……」
「……今の抱きしめ方、ちょっと変じゃなかった?」
「救うって顔じゃなかったわよね……ニヤついてたというか……」
アランが顔を赤くし、立ち上がりながら叫ぶ。
「ち、違う!君はショックで混乱しているんだ!僕は君を救って……!」
「皆様、ご覧になりましたか。この背中の傷」
私はくるりと背を向けた。逃げではなく、証拠の提示として。
「これは姉がつけたものではありません。……先ほど、グレイヴィス侯爵邸で、アラン様ご自身が“演出”のために裂き、指を押し当ててつけたものです」
「う、嘘だ!でたらめを言うな!こいつは姉に脅されて嘘をついているんだ!」
アランが唾を飛ばして叫ぶ。
私は冷ややかに振り返った。
「嘘?脅されている?……では、これは何ですか?」
私は胸元のコルセットから、四つ折りの紙を取り出した。
高く掲げ、指先で弾く。乾いた音が、静まり返った会場に響いた。
「皆様。これは、アラン様が侍女頭に出した……直筆の『演出指示書』です」
瞬間。
ざわ……と、群衆が前のめりになる。
私は朗々と読み上げた。演劇のナレーターのように、明確に。
この会場の支配権を、彼から奪い取る声で。
「『一、ドレスの背中を大きく引き裂け』」
「『二、肌を晒させ、寒さに震えるように仕向けろ』」
「『三、私が抱きしめるタイミングに合わせて、泣くよう強要しろ』」
「『四、救済者は私であると印象付けろ』」
読み上げるたび、会場の空気が変質していく。
近くにいた伯爵夫人が、扇子で口元を隠しながら紙を覗き込んだ。
「……まあ、サバルス家の封蝋だわ……」
「筆跡も……アラン様のものに間違いないわね」
「うわ、本当に書いてある……」
「え、じゃあさっきの抱擁って……」
「自作自演……?演出?」
「……気持ち悪っ……」
「女の子の服を裂いて、傷つけて、それで英雄ごっこ?」
「最低……」
「婚約破棄まで芝居の道具にするなんて……」
オセロの石が裏返るように、空気が反転する。
同情が、強烈な嫌悪へ。群衆の温度がサーッとアランから引いていく。
アランの顔色が土色に変わる。
喉がひくつき、脂汗が滲む。
ここで、彼の完璧だった世界の“崩壊”が始まった。
「ち、違う……!これは愛だ!愛してるから……より劇的に救ってやろうと……!」
「愛?」
私は一歩、近づく。針は手の中できらりと光る。
「服を裂き、肌を傷つけ、姉を人質にして従わせる。……それが、あなたの愛ですか」
「だって!だって君は可哀想で――!」
アランが叫ぶ。もう上品な声は出ない。裏返った、子供の癇癪のような声だ。
「俺が……俺が救ってやったのに!拾ってやったのに!」
「お前みたいな孤児の養女、俺がいなきゃ誰も見向きもしないだろうが!」
「可哀想な役を用意してやったんだぞ!俺が主役で、お前がヒロインになれるように!」
「俺の舞台、俺の物語だ!お前は俺の作品なんだよ!」
その瞬間、会場の視線が完全に冷めた。
軽蔑すら通り越した、無関心への移行。社会的な死刑宣告。
「……本性出たわね」
「“救う”じゃなくて“所有”じゃない……」
「作品って……人間をなんだと思ってるの」
「最低……」
「ねえ、さっきまで同情してた自分が恥ずかしいわ」
「気持ち悪いの、どっちよ……」
アランは必死に取り巻きへ縋ろうとする。
「おい!君たち、言ってくれ!俺は正しいって……!」
「ほら!皆もさっきまで……可哀想だって言ってたじゃないか!」
令嬢たちは扇子を閉じ、すっと一歩下がった。
まるで汚いものを見るように視線を逸らし、関わりを断つ。
「知りませんわ……」
「……今のは無理です」
「ごめんなさい、私……気分が……」
「近寄らないでくださいまし!」
“味方”が音もなく消える。
群衆裁判の恐ろしさは、群衆が手のひらを返す速さにある。
そこへ、高座から凛とした声が落ちた。
「――そこまでだ」
会場の最奥。玉座に近い席から、王太子殿下が立ち上がっていた。
その紺碧の瞳は、泥を見るように冷ややかだ。
「アラン・サバルス。伯爵家の名を盾に、他者の尊厳を弄び、虚偽で婚約を破棄しようとした罪。そして何より、“愛”の名で暴力を正当化した罪。……看過できぬ」
「ま、待ってください殿下!これは誤解で――!」
「誤解で済むなら、封蝋も筆跡も不要だ」
殿下が傍らの侍従へ目配せする。
侍従が一礼し、淡々と告げた。
「……先ほど、グレイヴィス侯爵家執事セバスチャンより、同内容の写しも受領しております。原本の封蝋と照合しても、もはや言い逃れは不可能かと」
逃げ道が、完全に塞がった。
アランの口が金魚のように開閉する。
王室警護兵が音もなく動き、アランの両脇を固めた。
同時に、会場の隅に隠れていた侍女頭ミリーも引きずり出される。
「ひぃっ!ち、違います!私は命令されただけで……!」
「命令されて人を裂くのか?」
「可哀想演出の共犯じゃない」
「恥を知りなさいよ……!」
「泣かせて楽しむとか、悪趣味にも程がある……!」
貴婦人たちの冷たい罵声を浴び、ミリーは泡を吹いて気絶した。
アランが父親である伯爵を探して叫んだ。
「父上!助けてくれ!俺は……俺は伯爵家の嫡男だぞ!」
人垣の中から現れたサバルス伯爵は、苦渋の表情で唇を噛み切り、ゆっくりと首を振った。
「……恥さらしが。侯爵家の、それも未来の家族に弓を引くなど。お前は我が家の名を、これ以上ないほど汚した。――この場で勘当だ」
「父上っ!嘘だろ!?」
会場がざわりと沸いた。
最後の後ろ盾まで、自らの愚かさでへし折ったのだ。
王太子殿下が厳かに宣告する。
「爵位継承権を剥奪。準平民として身分を落とし、十年、北方の鉱山救貧院にて奉仕せよ」
「本件は王家の名で公示する。君が作った“可哀想”の舞台で、君自身が本物の“可哀想”になるといい」
「やめろ!やめてくれ!俺は……俺は英雄に……!」
「違う!俺は救ってやったんだ!俺が!俺が!」
「リディア!お前のせいだ!俺の物語を返せ!」
アランは喚き、もがき、床に膝を擦りつける。
髪は乱れ、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになる。
かつて私に「泣け」と強要した男が、今は誰よりも無様に泣き叫んでいる。
「リディアァァ!お前のせいだ!」
「俺が救ってやったのに!役をやらせてやったのに!」
「お前は俺の作品だろうが!」
護衛に引きずられながら伸ばした手は、空を掻くだけだった。
重厚な扉が閉まり、汚い絶叫が遠ざかっていく。
私は、最後までその背中を見届けた。
勝利の酔いはない。ただ、胸の奥に巻きついていた見えない鎖が、一本ずつ、ぱらぱらとほどけていく音がした。
姉が震える手で私を抱きしめる。
「リディア……っ、ごめんなさい。私……怖くて……」
「謝らないで、お姉様」
「……私、やっと自分の物語を自分で選べました」
*
夜会がお開きとなり、帰りの馬車を待つエントランス。
冷たい夜風に当たっていると、背後から声がかかった。
「見事な手際だった」
振り返ると、王太子殿下が立っていた。
護衛もつけず、一人の青年として、穏やかな瞳で私を見ている。
「殿下……。お見苦しいところを」
「いや。……実を言うと、私は以前から君を知っていたんだ」
「私を、ですか?」
殿下は私の手元、まだ握りしめていた銀の針に視線を落とした。
「王城の刺繍係が、いつも話題にしていた。『信じられない腕を持つ針子がいる』とね。匿名で寄付された孤児院の子供たちの服……あの丁寧な修繕は、君の仕事だろう?」
心臓が跳ねた。
屋敷の隅で、誰にも知られずに行っていた密かな楽しみ。それが、まさか殿下に届いていたなんて。
「あれは……ただの、趣味です」
「ボロボロの服を、新品以上に丈夫で美しく直す。それはただの技術じゃない。着る人への愛だ」
殿下がそっと手を伸ばし、私の指先――針ダコのある指に触れた。
「リディア嬢。その稀有な才能を、私に守らせてほしい。……君を、王宮専属の筆頭針子として迎えたい」
それは、「可哀想な令嬢」への同情ではなく。
「誇り高き職人」への、最上級の敬意だった。
「そして、いつか。……私の正装も、君に仕立ててほしい」
付け足された言葉に、甘い熱が宿る。
それは職人への依頼であり、一人の男からの、不器用な求愛だった。
熱が頬に上るのを感じながら、私はドレスの裾を摘んでカーテシーをする。
「……不束者ですが、喜んで」
*
その夜。
私は屋敷に戻り、藤色のドレスを脱いだ。
もう二度と、このドレスが裂かれることはない。
鏡の前で、私は初めて心からの笑顔を浮かべた。
胸元には銀の針を留めたまま、新しい白銀の絹を掌に乗せる。
誰のお下がりでもない。私が選んだ、私の布。
針先が布を貫くたび、私の新しい物語が縫い直されていく。
そこにはもう、涙も、演出された悲劇もない。
あるのは、私自身の意志で選び取った、温かな幸福だけだ。
私は胸の内で告げた。
――私は、私のための人生を歩む。
20
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