死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します

桃我タロー

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第一章 ヴァルム試験国家編

第六話 三ヶ月契約

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 ヴァルム砦の一番奥まった棟は、ほかの建物よりも少しだけ石の積み方が丁寧だった。
 とはいえ、それは「まだ崩れていない」という程度の意味でしかない。壁の継ぎ目には細かなひびが走り、人の出入りの少ない廊下には、冷えた空気と湿った石の匂いが溜まっている。

 その廊下を、シュアラは副団長ゲルトの背を追って歩いていた。

「団長の部屋は一番奥だ。覚えとけ」

 ゲルトが振り返らずに言う。

「……覚えました」

 口に出しながら、廊下の幅と窓の位置を数える。人二人がぎりぎりですれ違える幅。窓は少ない。光よりも防御を優先した造りだ。
 壁に掛けられた燭台の蝋は、ところどころ流れ落ちたまま固まり、白い鍾乳石の列のように石を汚している。交換が追いついていない。灯りは薄く、そのぶん足音だけがやけに大きく響いた。

(この棟の維持費だけで、どれくらいの兵糧が買えるでしょうか)

 そんな計算が一瞬、頭をかすめる。
 すぐに棚上げする。今それを続ければ、「砦ごと売却した場合の収支」まで計算してしまいそうだった。

 廊下の突き当たりに、他よりも少し厚い木の扉があった。金属の取っ手は手垢で鈍く光り、そのすぐ下には、靴先で苛立ち紛れに蹴られたような傷が、何本も不揃いに刻まれている。

 ゲルトが軽く扉を叩いた。

「若。連れてきたぞ。森で拾った、例の文官だ」

 扉の向こうから、しばらく何の気配もなかった。
 沈黙が、石壁と木板の間に薄く積もる。待たされている時間より、その沈黙の方が重い。

 ようやく、椅子を引く音と、何かが床を擦る鈍い音が聞こえた。

「……入れ」

 しわがれた低い声が、それだけを告げる。

 ゲルトが扉を押し開けた瞬間、冷えた廊下の空気とは違う匂いが、一気に流れ出てきた。酒とインクと紙、それから、人の体温の蒸気が、ひとつの部屋の中に積もり続けた匂いだ。

 部屋は、思っていたより広かった。

 窓は一つ。厚いガラス越しに入る光は弱く、その代わりに机の上や壁際に置かれた燭台が、黄色い炎を小さく揺らしている。
 中央には大きな机があり、その上と周囲を、雪崩寸前の書類と地図が占領していた。封の切られていない報告書、角が擦り切れた帳簿、端が焦げた古い地図。空になった酒瓶が、その間に紛れ込むように転がっている。一本だけ、ラベルの端が焦げて丸まっていた。火の近くに置きすぎたのだろう。そこだけ、煤の匂いが薄く残っている。

 机の向こう側に、カイ・フォン・ヴォルフがいた。

 鎧は半分だけ外し、肩から上は粗い布のシャツ一枚だ。黒曜石のような黒髪は、相変わらず好き放題に跳ねている。顎には無精髭が薄く伸びていた。
 マグカップを持つ右手の甲に、線状の古傷が二本、平行に走っている。剣の柄を握りすぎて潰れた皮膚が、何度も裂けては塞がった跡だ。白く盛り上がった縁の部分だけ、灯りを弾いていた。

 深い森色の瞳が、眠気と疲労を含んだまま、こちらを一度だけなぞる。
 その目は、「無能で敗戦した男」のものには見えなかった。

(……この人が、「北境敗戦の責任者」)

 父の帳簿に記された一行が、頭の中で重なる。

 『現在砦司令:カイ・フォン・ヴォルフ(北境敗戦の責任を負わされ左遷)』

 数字と短い注記だけで知っていた名が、今は、散らかった机と酒の匂いと一緒に、目の前の現実として存在している。
 帳簿の行が、息をしている人間の姿に変わる瞬間は、いつも少しだけ気味が悪い。

 カイは、目の前の女が今朝、森で斥候に絡まれていた相手だとすぐに分かった。自分の剣で一度、生かした女。名も身分も、まだ聞いていない。

「座れ」

 カイが、机の前の椅子を顎でしゃくった。

 背もたれの壊れかけた椅子が一脚。片方の脚の下には、薄い木片がかませてある。バランスの悪さをごまかすためだろう。
 シュアラは、その椅子のぐらつきをつま先で軽く確かめ、それから静かに腰を下ろした。座面の板がきしんで、尻の骨に直接ひびく。

 ゲルトは扉の前で腕を組んだまま、壁にもたれている。
 部屋の真ん中に、静かな三角形ができた。

「名と身分」

 カイが言う。

 喉が、思っていたより乾いていた。
 答えようとして、舌が一瞬もつれる。

「……シュ、アラ」

 口の中で一度転がしてから、言い直す。

「シュアラ。臨時の、文官です」

 「臨時」という言葉が、妙に安っぽく響いた。
 昨日まで侯爵令嬢で、今は「死人」で、さらに「臨時」。肩書きの価値が、急激に暴落している。

「帝都のどの部署から追い出されて、ここまで流されてきた」

 眠そうな目が、少し細くなる。
 投げかけられた言葉は、皮肉と興味の中間にあった。

(「どの部署から」。つまり、この砦に来る文官は『どこかの余剰として送られてくる』のが通常、という前提)

 確認だけ頭の中に置き、シュアラは少しだけ首を傾げた。

「……すべてから、です」

 自嘲にも、開き直りにもならない声が出る。

「私はすでに──戸籍上は、死亡しておりますので」

 言い切った瞬間、腹の奥で、小さく空気が動いた。
 ぐう、とまではいかない。けれど、何かが抗議するように鳴る。朝からまともなものを食べていない。
 この期に及んで空腹を主張してくる身体に、少しだけ呆れた。カイが気づいていないといい。

 短い沈黙。

 ゲルトが、喉の奥で小さく咳払いをした。笑いを噛み殺しているとも、何かを飲み込んだとも取れる音だった。

「……そうか。死んだ文官は、辺境に出るのか」

 カイは、机の上にあったマグカップを手に取った。中身を一口あおる。酒の匂いが、薄く空気に広がったが、その表情に「酔い」の色は薄い。ただ眠れていない人間の目だ。

「公式な辞令は?」

 問われた瞬間、シュアラは無意識に懐へ視線を落とした。
 封蝋の感触が布越しに指先へよみがえる。あの死亡届に、正式な宛名が書き込まれれば、自分は完全に帳簿から消える。

「……ありません」

 わずかに息を整えてから答える。

「封蝋のついた紹介状も、帝都の偉い誰かの印も?」

「ありません」

 今度は、間を置かずに返す。持っていないものは、いくら考えても出てこない。

 カイは、ふっと鼻で笑った。

「じゃあどうやってここまで来た」

 問い自体は簡単だ。だが、答えは単純な一行で済まない。
 山道の炎と煙、崖下の馬車の軋み、父の息が途切れる気配。全部を語れば、ここは尋問室になる。

 だから、削る。

「地図と、噂話と、自分の足で」

 シュアラは、自分の膝の上に置いた小さな帳面の表紙に視線を落とした。革の角が、何度も指で撫でられたせいで不自然に柔らかくなっている。

「ヴァルム砦は、帝都の帳簿上で『支援切り捨て候補』として記録されていました。司令官は、北境敗戦の責任を負わされて左遷された元第三騎士団長」

 顔を上げ、カイの目を見る。

「余剰として扱われている盤面と駒。外側から試験的に運用するには、好適な条件です」

「……」

 カイはカップを机に置いた。底が木を叩く鈍い音がする。

「簡単に言え」

「この砦を、三ヶ月だけ私に貸してください」

 言葉が自分の喉を通って外に出た瞬間、耳がわずかに熱くなった。
 昨日まで舞踏会でドレスを着ていた人間が、今は辺境の砦で「砦を貸してほしい」と言っている。
 父が聞いたら、何と言うだろう。

(――計算は合っている、が、姿勢が悪いな)

 そんな声が、頭の中でだけ響く。笑うか、呆れるか、それとも頷くか。
 考え始める前に、その思考を切り捨てて、視線をカイに戻した。

「権限の話なら、あとにしろ」

 カイは片手を上げて制した。

「まず確認する。お前は、帝都からの監察でも、俺を処刑しに来た役人でもない。そういう認識でいいか」

 問いは鋭い。だが、矛先は自分ではなく、帝都のやり方そのものに向いているように聞こえた。

「……はい。帝都にとって私は、すでに『死亡処理済み』です」

 言う前に、ほんの一瞬だけ躊躇があった。
 だが、ここで嘘をつく方が、のちのコストが高い。

 カイの顔に、一瞬だけ本気の驚きが浮かんだ。
 ゲルトが、扉のそばで口笛を飲み込む。

「……はあ?」

「死亡届は、未使用のまま私の懐にあります」

 懐の内側を軽く指先で叩く。封筒の縁の硬さが、布越しに伝わった。

「帝都の帳簿では死者。こちらの帳簿では、ひとつの駒。それが今の私です」

「……今の、それ、冗談か?」

 ゲルトが眉をひそめる。

「事実の説明です。冗談のつもりはありません」

 シュアラが素直に答えると、ゲルトは一度だけ目を瞬かせ、それから肩をすくめた。

「……やっぱり、ちょっと怖えな、この嬢──この文官」

「嬢ちゃん呼びはやめましょう、副団長」

 カイが低く言った。
 森色の瞳が、シュアラからゲルトへと移る。

「今のは数字の話だ。気に入らねえなら、あとで酒場で殴り合え」

「……了解した、若」

 ゲルトは舌打ちを飲み込み、壁にもたれ直した。
 カイは再びシュアラを見る。

「で、その死人文官様が、こんな端っこの砦に何をしに来た」

 「死人文官」という言い方に、ほんのわずか胸の内側が引っかくようにざらついた。だが、表には出さない。

「冬までの臨時文官として雇っていただきたいのです」

 返事をする前に、一度だけ背筋を伸ばす。姿勢を整えないと、声がぶれる気がした。

「給金は、帝都の文官としての最低額で構いません。宿舎と机と、砦の帳簿へのアクセスをいただければ十分です」

「……冬まで?」

「はい。冬までの三ヶ月間。この砦とその周囲の村の『出血具合』を診断し、可能であれば、死亡率を下げます」

 口の中で「死亡率」という単語が転がる。
 舞踏会で使っていた語彙とは、あまりにも相性が悪い言葉だ。だが、今の盤面には、その言葉しか当てはまらない。

 カイの目が細くなった。

「診断、ねえ」

「この砦は今、どこから死ぬか分からない状態です」

 シュアラは、今朝見た光景を思い出しながら言葉を選んだ。
 門、兵舎、倉庫、厩舎。数字になる前の断片たち。

「門は閉まらず、門番は眠り、倉庫には足りない穀物と濁った酒があり、兵舎には休まり切れない寝台と、錆びかけた武器が並んでいます。厩の馬は、かろうじて動けるだけの餌をもらっている」

 列挙しながら、指先で机の端を軽く叩く。リズムを取るというより、自分の呼吸を一定に保つためのメトロノームだ。

「このまま冬を迎えれば──」

 そこで意識的に一拍置く。
 カイの目が、わずかに細くなる。ゲルトの息が止まった気配がする。
 窓の外で、風が石壁を撫でる音だけが聞こえた。蝋燭の火が揺れ、それに合わせて影が机の上をゆっくりと横切る。

「冬までの死亡率は、およそ七十パーセントです」

 言葉が、空気の中をゆっくり落ちていく。
 自分の声なのに、他人が読み上げている数字のように感じた。

 カイの手が、マグカップの縁で止まった。
 持ち上げようとして、持ち上がらない。
 数秒遅れて、指先だけがかすかに震え始める。

 部屋の空気が、わずかに重さを増した。
 ゲルトが、言葉を失ったようにシュアラを見る。

「……何の数字だ、それは」

 低い声だった。怒鳴り声ではない。戦場で、敵の数を確認するときのような声音だ。

「砦にいる兵と、周囲の村人と、通商路を通る民間人を合わせた『この土地に縛られている人間』の総数に対する、今のままの運用を続けた場合に死ぬ可能性の高い人数の割合です」

 シュアラは、淡々と答えた。
 言いながら、自分の心臓が七十回目の鼓動を刻むまでを、妙に鮮明に数えていた。

「計算の前提は甘めに置きました。冬が例年より暖かく、疫病が流行らず、敵も盗賊も大きな動きを見せない場合です。それでも、七割は死ぬ可能性がある」

 言い終えてから、喉の奥が苦い。
 この数字を口にすることで、まるで自分が死神になった気がした。
 でも、言わない方がずっと残酷だ。

「……根拠は?」

 カイの問いが落ちる。

「現場の帳簿を見ていませんので、今のところは暫定値です」

 自分でも、それがどれほど不遜な言葉かは分かっている。
 けれど、ここで「大丈夫です」と嘘をつく方がずっと残酷だ。

「ですが、帝都の破産帳簿と、道中で見た周辺の村の状態、この砦の備蓄の量と、門番の眠り具合から逆算した数値としては、おおむね妥当だと考えます」

「門番の眠り具合から、どうやって冬の死者数を数えるんだ」

 ゲルトが思わず口を挟んだ。

「門番が眠っている砦は、外との出入りの管理ができていません」

 シュアラは、そちらに視線を向ける。

「それは、物資の出入りも、人の出入りも、同じです。出ていくものと入ってくるものの差がそのまま『削れていく命』の数になります」

 言いながら、ふと、昔読んだ父の注釈を思い出す。
 飢饉の年の帳簿の欄外に、小さく書かれていた一行──『門を締めるのが遅れた領は、必ず数字が赤くなる』。
 今ここで引用しても誰も喜ばないので、口には出さない。

「……なあ若」

 ゲルトが小声で言う。

「この文官、言ってることは分かるんだが、なんかこう……いちいち寒くねえか」

「数字で話す奴はみんなこんなもんだ」

 カイは額に手を当て、深くため息をついた。

「七割って数字が、どのくらい『馬鹿げた数』かは分かってるか」

「はい。ですから、下げたいと思っています」

 即答しかけて、一度だけ唇を噛む。
 それでも結局、即答になる。そこだけは、譲りようがない。

 カイは、机の端に置かれた一枚の地図を手繰り寄せた。
 粗い羊皮紙に描かれたこの地方の地図。ヴァルム砦と、三つの村と、周囲の山脈。北の方角には、赤い線で囲まれた谷が一つ描かれている。そこには、小さな文字で『赤い谷』と記されていた。

 その文字に、シュアラの目が一瞬だけ留まる。

(赤い谷の会戦──父の帳簿に『兵数不一致』『負傷者の処理費用のみ異様に高い』と記されていた場所)

 視線を戻すより早く、カイが地図を伏せた。

「……俺はもう、兵の生き死にの数字を見るのは御免だ」

 かすれた声だった。

「ここに来る前、山ほど見た。報告書にも、戦場にも。何をやっても、最後には『敗戦』の一行でまとめられた」

 机の上の握った拳に、白い骨の線が浮かぶ。

「だから正直に言うと──」

 カイは顔を上げ、シュアラを真正面から見た。

「お前がどんな数字を出そうが、最初は信じない」

「……それで構いません」

 今度は、ほんの少し間を置いてから答える。
 「信じてほしい」と言う方が、よほど信じられない。

「信じていただく必要はありません。私が必要なのは、数字を置くための机と、帳簿と、三ヶ月分の時間だけです」

「……強気だな」

「この砦は、帝都から見放されつつあります」

 シュアラは、静かに続けた。

「帝都の帳簿から見れば、ここで何人死んでも、数字は一行で済みます。ですが、ここにいる人たちにとっては、その一人一人が全てです」

 視線を、机の脇に立てかけられた剣に向ける。
 黒鉄の剣。刃こぼれはあるが、磨かれている。持ち主が、戦場を離れても剣だけは手放していないことを示していた。

「あなたは、かつて『帝国の剣』と呼ばれたと聞きました」

「……嫌な呼び名だ」

「剣は、振るわれる先によっては、人も守れます」

 シュアラは、一瞬だけ言葉を選ぶ。

「今、この砦には、剣を振るう価値があるかどうかを判断する数字がありません。私は、その数字を用意したい」

「簡単に言えば?」

 カイが、半ば呆れたように問う。

「簡単に言えば──」

 さっきから何度も「簡単に」と言わせている、と内心でだけ苦笑しつつ、シュアラは口元を引き締めた。

「ここを『誰も守らない砦』から、『守る価値のある盤面』に変えたいのです」

 部屋に、また短い沈黙が落ちた。
 窓の外で、風が石壁に当たる音がする。遠くから、兵舎の方角の笑い声と、樽を転がす音が微かに届いた。

 カイは椅子の背にもたれ、天井を一度仰ぐ。
 木の梁に積もった煤が、燭台の揺れに合わせて陰影を変える。その黒さをしばらく無言で見上げてから、ゆっくりと視線を戻した。

「……冬までの臨時文官、だったな」

「はい」

「給金は最低額。宿舎は女用なんて洒落たもんはねえから、空いてる部屋を一つ使え。机と帳簿は……」

 視線が、部屋の隅に積まれた帳簿の山へ向く。

「あれだ。好きにしろ」

 投げやりな言い方だったが、その中に、わずかな譲歩の色が混ざっていた。

「ありがとうございます」

 頭を下げると、首筋の筋肉が一気に緩んだ。自分でも気づかないうちに、かなり強く固めていたらしい。

「ただし」

 カイの声が少し低くなる。

「さっきの七割とかいう数字。あとで、ちゃんとその根拠を聞かせろ」

 その言葉には、「戦場の嗅覚」があった。
 机の上の報告書の山よりも、彼の中に積み重なった経験の方が、その数字に反応している。

「了解しました」

 シュアラは頷く。

「今夜、砦の帳簿を一通り確認します。その上で、もう一度、数値をお持ちします」

「徹夜か?」

「……たぶん、はい」

 口にした瞬間、瞼の裏に昨夜の煙と炎がよぎる。寝不足のせいか、それとも記憶のせいか分からない倦怠感が、肩のあたりで重く揺れた。

「身体は、あの森で十分に限界を見ただろうが」

 カイの口元に、かすかな皮肉が浮かぶ。

「数字は、身体を壊しません」

 シュアラは、あえてさらりと返す。

「身体が壊れる前に砦が壊れるかどうかを知るためなら、徹夜は安い代価です」

「……そういう言い方をするから、帝都で嫌われるんだろうな、お前」

 カイは笑った。今度の笑いは、酒ではなく素の声だった。

「ゲルト」

「おう」

「こいつに空いてる部屋と机を一つ用意しろ。帳簿の束も運んでやれ。どうせお前も、溜め込んだ報告書から逃げてたんだ」

「否定はしねえが、若、そうやって丸投げするなよな」

 ゲルトが肩をすくめる。

「死人文官殿、こっちだ。転ぶなよ。帳簿に埋もれて窒息死なんざ、笑い話にもならねえからな」

「気をつけます」

 立ち上がり、椅子の脚の軋みを背に受けながら、シュアラは一礼した。
 足元に散らばった紙片を一枚だけ見てしまう。誰かの乱雑な字で書かれた数字。インクが途中で掠れている。
 父の帳簿とは違う雑さに、少しだけ胸の奥がざわついたが、その感覚もすぐ箱にしまい込む。

 部屋を出る直前、振り返る。

 カイ・フォン・ヴォルフは、机に肘をつき、こちらを見ていた。疲れた目の奥に、ごくわずかだが、何かが灯り始めている。
 それが期待なのか、ただの好奇心なのかは、まだ判別できない。

(『敗軍の将』──帳簿の上では、そう記されていました)

 扉が閉まり、声と匂いが遮断される。

(ですが、この砦に剣を残している限り、この人はまだ『駒』として動きます)

 廊下に戻ると、さっきまでの冷たい空気が、少しだけ違って感じられた。
 借りたばかりの小さな机の上に、今夜は山ほどの帳簿が積み上がるだろう。

 シュアラは、懐の中の小さな帳面を指先で撫でる。
 余白の一角に、後で一行書き足す文字列を心の中で先に決めた。

『ヴァルム砦司令官:カイ・フォン・ヴォルフ ──使える可能性 大』

 死人文官と敗軍の将。
 帝都の帳簿では切り捨てられた二つの駒が、辺境の小さな砦で、ようやく同じ盤上に置かれた。
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