死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します

桃我タロー

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第一章 ヴァルム試験国家編

第七話 焼かれた記録(1)

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 夜が、ヴァルム砦の上にゆっくり沈んでいった。

 灰色の雲の裂け目に、さっきまでひとかけらだけ残っていた夕焼けはもうない。冷えた風だけが石壁をなでて降りてくる。石畳の目地に残った水が、凍るかどうか迷っている温度だ。

 兵舎の方角からは、まだ笑い声がかすかに届いていた。樽を引きずる鈍い音。木製カップがぶつかる乾いた音。誰かの、やけに大きな欠伸。酒場代わりの一角から漏れた灯りが、中庭の石をところどころ金色に染めている。

 その明かりからいちばん遠い棟の、突き当たりの一室。

 シュアラに宛がわれた「部屋」は、砦の余り物を箱に詰め込んだような空間だった。壁に押しつけるように狭い寝台が一つ。釘の頭が錆びつきかけた小さな棚が一つ。真ん中に置けば、人が一人すれ違うだけで精一杯の机と椅子が、一組。机の脚の一本だけ床からわずかに浮いていて、触れるたびに小さくきしんだ。

 今、その机の上には――。

「これで、半分くらいだな」

 ゲルトが、腕に抱えていた帳簿の山をどさりと落とした。机の脚が悲鳴を上げ、床の石まで低く震える。紙と革の束が一瞬ふらついて、ようやく落ち着いた頃、シュアラの膝の上では、さっきから握りしめていたペンが汗で少し滑っていた。

「半分、ですか」

 声に出してみると、その数字の重さが喉に引っかかる。

「おう。倉庫と厩舎の分がまだだ。あとは……そうだな、戦時の記録が別の棚に突っ込んであったはずだな。……悪いな、若に言われてから慌てて掘り出したもんでよ」

 ゲルトは頭をがしがし掻いた。黒髪のあいだから、紙埃が白く散る。

「構いません。戦時の記録は、最後に見ます」

「物騒な順番だな」

 副団長は片眉を上げる。

「一番重い数字は、一番最後に確認したほうが、効率的ですから」

 そう言いながら、自分の声がわずかに上ずっているのを自覚する。机の上の山が、座った自分の肩の高さに迫っていた。その圧に、胸の奥が少しだけ押される。

「……やっぱ変わってるぜ、あんた」

 ゲルトは肩をすくめ、出入口の柱に背中を預けた。

「火は足りてるか? ここの燭台は油がケチられてるからな。途中で消えたら、酒場から蝋燭をかっぱらってこい」

 壁の燭台の蝋燭は、すでに半分ほどを溶かしていた。流れ落ちた蝋が石の上で固まり、白い stalactite の代わりに、頼りない滴みたいな形を作っている。

「覚えておきます」

「帳簿に埋もれて窒息すんなよ。死人が死人を作るのはごめんだからな」

 冗談とも本気ともつかない言葉を残して、ゲルトは廊下に消えた。

 扉が閉まり、足音が遠ざかると、部屋には蝋の焦げる匂いと、乾いたインクと紙の匂いだけが残った。

 静けさが耳の内側に張りついたところで、シュアラは机の上の山を見上げた。先ほどから強張っていた肩が、山の高さを測るようにじわじわと重くなる。

(……これだけの紙に、どれだけの「死にかけた数字」が眠っているでしょうか)

 胸を一度深く膨らませてから、一番上の冊子をつかむ。革表紙の角は擦り切れ、手垢で色が濃くなっている。綴じ紐は何度も引き直されたのか、ところどころ糸が毛羽立っていた。

 表紙には、掠れた字で「兵糧出納」とある。

 椅子に腰を下ろし、帳簿を開く。粗い紙が指先にざらりと食い込む。年月日、入庫、出庫、残量。雑な罫線で仕切られた欄に、インクの濃淡が不揃いな数字が並んでいた。

 目を通し始めて、すぐにまぶたの裏が重くなる。昼からずっと数字を追っているせいで、視界の端に残像のような線がちらついた。

(まだ夜の半分も経っていません。ここで舟をこいだら、父に帳簿で頭を小突かれますね)

 自分で自分にそう言い聞かせ、背筋を伸ばす。

(一年分……いえ、紙の傷み方から見て、三年分はありますね)

 ページの端に残った指の跡の厚みで、おおよその年数を測る。最初の年、冬から春にかけての穀物の減り方は、ほぼ一定だ。兵の人数と照らし合わせれば、妥当な線。

 次の年の途中で、数字が跳ねた。ある月だけ、出庫量が周囲の月のほぼ二倍。そこだけが、発熱した脈のように膨らんでいる。

 別の冊子を引き寄せる。兵の名簿と月ごとの在籍数が記された帳簿だ。

 ページをめくった瞬間、指先が紙の端を滑った。

 ちくり、と浅い痛みが走る。人差し指の腹に、じわりと赤がにじんだ。

 思わず、口元へ持っていき、舌で傷を舐める。鉄の味が広がる。

(……集中しなさい)

 自分にそう言い聞かせ、もう一度、さっきめくったページを最初の行から追い直す。

 該当の月には、「病死」「戦死」「任地移動」の印がいくつも並んでいた。合計すると兵の総数は二割近く減っている。

(兵が減っているのに、口だけは増えている計算……のように見えます)

 一度はそう結論づけてから、眉をひそめる。

 ……本当に? 念のため別の月の数字と比べる。見間違いかと思ったが、同じ傾向が二度、三度続いていた。単発の誤記ではない。

 頭の中で割り算をする。

 紙の上で数字は素直に並ぶが、昼間中庭で見た兵たちの顔は、極端な飢えに削りきられてはいなかった。頬はこけていても、まだ動ける体の線だ。

(ならばこの数字は、兵以外の誰かの皿も満たしている)

 指先に残るインクの匂いが強くなった気がして、ふと意識が別の場所へ滑る。

 瞼を一瞬閉じると、帝都の屋敷の一室が浮かんだ。父の執務室。高い書棚。机いっぱいに広げられた帳簿。そこに満ちていたのも、インクと古紙と、ため息の混ざった空気だった。

 あの頃は、父の横でページをめくるだけでよかった。数字の意味を理解する必要もなく、ただ「姿勢」と「所作」だけを注意された。

(……昨日まで舞踏会用のドレスを着せられていた人間が、今は辺境砦の倉庫の帳簿で指を切っているんですね)

 笑えない。笑えないのに、口の端だけがわずかに上がろうとする。

(今はそんなことを考えている場合ではありません)

 自分の思考に線を引き、視線を紙へ戻す。

 周囲の村――飢饉の年に砦が支援をすることはあり得る。だが備考欄には、何もない。

 本来なら、「周辺村への緊急支援」とでも一行残しておくべきところだ。

(「記録されていない支出」)

 小さな手帳の余白にそう書き込み、その隣に黒い丸印を一つ付ける。仮診断用の色だ。

 ページをめくるごとに、数字の棘の位置が変わっていく。跳ねているところを目で追うたび、文字が少し二重に見えた。目の奥が熱い。

 一度、目をぎゅっと閉じる。

 暗闇の中で、数字の列の代わりに父の横顔が浮かんだ。眉間に皺を寄せ、こちらの持つ帳簿の角度を直しながら、ぼそりと「そこはもう一度読み直せ」とだけ言う声。

(はい。……読み直します)

 誰もいない部屋で、小さくうなずいて、また目を開く。

 次の年では、跳ね上がる月が春ではなく初夏に移っていた。その月の末、残量の欄には急激な減り方が記され、「追加入庫」の欄には慌てて書き足したような歪んだ字が並ぶ。

(偶然ではない。――癖です)

 別のページの余白に、月ごとの消費量を棒グラフに起こしていく。一定の線から飛び出した部分だけが、鋭い棘のように紙面に突き立った。

(ゆっくりと出血している患者の脈波に似ていますね)

 乱れたところに、小さな×印を付ける。

 紙と紙のあいだに、角の潰れた薄い紙片が挟まっているのが目に入った。抜け落ちたのか、後から差し込まれたのかは分からない。

 つまみ上げて開く。

『南の村 麦三樽 豆一袋 貸出 返済 未』

 乱れた筆跡で、それだけが書かれている。

(支援自体はやっている。けれど、帳簿の「正式な顔」に載せたくなかった)

 なぜか。単なる怠慢なのか、それとも――。

(本来ここから出ていくはずのない穀物を、勝手に動かしたから)

 紙片を元の位置に戻し、帳簿を閉じる。

 次に引き寄せたのは、武器と馬具の修繕費の帳簿だった。こちらは紙質も罫線も新しく、書き手の字も、先ほどの兵糧帳簿よりいくぶん整っている。

 数ページめくっただけで、眉がぴくりと動いた。どの月も「支出」の額がぴたりと同じ。端数すら揺れない。

(そんなに規則正しく壊れてくれる剣や槍があるなら、工芸品として展示すべきです)

 昼間見た武器庫の光景が、錆の匂いと一緒によみがえる。手入れが追いつかず赤茶けた刃。油の痕跡が乏しい鎧。まともな整備がされているとは言いがたい現物と、「毎月きっちり修繕された」という数字だけがずれていた。

(これも、「実際に使われたお金」ではなく、「そう使ったことにしているお金」)

 手帳に『修繕費=固定額→別の財布』と、矢印付きで書き込む。

 ペンを置くと、指先が小さく痺れていることに気づいた。数字を追い続けていたせいで、手の中の骨の形を自分で意識してしまう。

 蝋燭の炎が、ふっと息をつかれたように揺れた。窓枠の隙間から細い夜気が入り込み、首筋を撫でていく。マントの襟を指先で寄せ、吐いた息を一度、手のひらに受け止めてから、次の帳簿を開いた。

 馬の飼料費だ。そこには「必要量」と「支給量」の二つの欄があり、必要量の方がいつも大きい。支給量は、その半分か三分の二程度。

 昼間見た厩舎の馬たちは痩せていたが、まだ倒れてはいなかった。

(どこかで、誰かが自分の分を削っている)

 砦のどこかで数字には載らない「やりくり」が行われていて、それで帳簿上の不足を無理やり埋めている。無理なやりくりを続ければ、いつかどこかで帳が破れる。

 三冊の帳簿を横並びにして眺める。兵糧、修繕費、飼料。どれも少しずつ、目に見えにくいところで数字がずれていた。

 目が霞む。数字が、一瞬だけ二重に重なる。

 瞼を閉じると、さっきの父の執務室がまた浮かんだ。あの部屋にも、こんな匂いがした――インクと古紙と、仕事の終わらない男の吐息。

(……今、そんなことを思い出している場合ではありません)

 腹が、小さく鳴った。

 倉庫の塩樽と干し肉の記録を見ていたせいか、舌の上に塩辛い味の幻が乗る。

(空腹を抱えたまま、干し肉の在庫を数える。……これは健康に悪いですね)

 自分に軽く呆れ、目を開け直して、もう一度数字を追う。

(帝都からの補給そのものが絞られている。そのうえで、砦の内側でも誰かが数字をいじっている)

 どこからが悪意で、どこからが苦肉の策か。今はまだ線が引けない。

 分かるのはただひとつ。

(この砦は、「放っておいたら自然に壊れた」わけではありません)

 わざと、目立たないところから角を削られてきた。少しずつ、少しずつ、「誰も守れない砦」の形に近づけられている。

 紙をめくる指先に、細かい繊維の粉がたまりつつあった。指の腹にざらつきが重なっていく。

 山の下の方に、背表紙の色が他より濃い帳簿が一冊紛れているのが目に留まる。角は何度も開閉された跡で丸くなり、綴じ紐は紙の重さに押されて変色していた。

 表紙には、かろうじて読める字でこうある。

『北境戦線 戦時補給記録』

 指先が、ごくわずかに止まった。

 ページを開く。最初の数枚は、見慣れた形式だ。兵数、物資の種類と量、出発地点と到着地点、日付。戦場を支える数字だけが淡々と並ぶ。

 数ページ進んだところで、紙が唐突に途切れた。綴じ紐だけが空を切っている。本来そこに数十枚は挟まっているはずの厚みが、すっぱり抜け落ちていた。

 ただ、その真ん中あたりに、一枚だけ残されたページがあった。乱れた筆跡で、こう記されている。

『赤い谷 第三補給隊 麦二十樽 干し肉十樽 到着予定日 ――』

 「予定日」の後に続くはずの数字は、墨で塗りつぶされていた。紙の端には、指で強く押しつけたような凹みが残っている。

 喉の奥で、息が一度鳴った。

(赤い谷)

 父の帳簿にあった地名だ。帝国財務長官クライフェルト侯爵――かつての父が、「負債」と「死者」を一冊にまとめた秘密の帳簿。その中の一行。

『赤い谷の会戦 兵数報告と戦費の整合性に重大な不一致あり 補給線の帳簿、所在不明』

 目の前のページを指でなでると、紙のへこみが指先に伝わる。所在不明だったはずの記録の破片が、今、手元にある。

 この一枚だけでも、いくつかのことが分かる。補給の規模が兵の数に対して明らかに足りないこと。足りない分を埋めるための追加要請や迂回路の記録が見当たらないこと。そして何より、このページ以降の記録が根こそぎ剥がされていること。

(「敗戦の詳細」は、帳簿ごと捨てられた)

 帝都の公式報告では、赤い谷の敗戦は「現場指揮官の判断ミス」と「不測の敵増援」のせいにされていた。その「現場指揮官」が、今この砦の団長カイ・フォン・ヴォルフだ。

 だが数字だけ見れば、別の物語が浮かび上がる。補給線の不足。途中で消えた物資。帳簿から引き抜かれたページ。

 父の帳簿の余白に、細い字で書かれていた一文が、内側から浮かび上がる。

『戦地補給に関する不自然な穴 財務官と軍務省の共同不正の可能性あり』

 手帳に、『赤い谷 補給不足/帳簿の意図的破棄の疑い』と書き付ける。その下にさらに一行。

『ヴァルム砦の補給帳簿 同系統の歪みあり』

(……ここも、同じ手で削られている)

 蝋燭の炎が短く痙攣した。油が底を見せ始めている。

 立ち上がると、足元がほんの少しふらついた。眠気と空腹と、数字の重さが同じ方向へ身体を引っ張っている。

 それでも、腰は椅子から離れた。数字だけでなく、棚の中身も見ておきたい。

 帳簿のいくつかを抱えて部屋を出る。廊下の石は昼間よりも冷えていて、靴底越しにじわじわと足の裏を冷やした。

 夜の砦は、昼間よりもずっと静かだ。遠くで誰かが笑い、別の誰かがあくびをし、どこかの部屋で寝返りを打つ音が、石を伝って平べったく耳に届く。

 中庭を横切り、倉庫へ向かう。息を吐くたび、白さが短く伸びては消えた。

 倉庫の扉は閉じられていたが、鍵穴には鍵が刺さっていない。取っ手を引くと、軋んだ音と一緒に冷えた空気が顔にまとわりついてくる。

 中は暗い。外からのわずかな光だけでは足元が心許ないので、壁際のランプに火を入れた。油の匂いが狭い空間に広がる。

 棚に並んだ樽や袋には、一応番号が振られている。兵糧の帳簿と照らし合わせ、塩樽八、干し肉の樽五、と記されている行を指で追う。その番号の棚へランプを持っていくと――塩樽は三つしかない。干し肉は二樽と、半分ほど中身が減った樽がひとつ。

(単純な盗難にしては、歯抜けが妙ですね)

 もっと大胆に消えていれば、盗賊か内部の一人を疑えた。帳簿上の数字と現物の差は、帝都から見れば「誤差」で済まされる範囲かもしれない。だが、ここでは命に直結する。

 棚の下の床に、薄く白い粉がこびりついていた。靴の先でこすると、塩が指先にざらりとまとわりつく。樽ごと引きずったか、別の容器に移す途中でこぼしたか――あるいはその両方。

 その塩を見た途端、さっき鳴ったばかりの腹が、また小さく訴えた。

(いけません。これは他人の胃袋のための塩です)

 自分の胃をなだめるように掌で押さえ、倉庫の裏へ回る。

 外壁と倉庫の壁の間、陽の当たりにくい狭い隙間に、土が不自然に盛り上がっている場所があった。

 靴先でそっと土を崩す。湿った土の下から、炭と灰が混じり合った黒い塊がいくつも出てきた。焼かれた紙だ。指で少しずつほぐしていくと、「出庫」と「三十」の文字、そして赤いインクの線の断片が、かろうじて形を保っていた。

(帳簿……別の出納簿を、ここで焼いた)

 風が吹き、軽い紙片がひらひらと舞い上がる。慌てて手のひらで押さえ込みながら、唇をきつく結んだ。

(「足りない分」を埋めるために、誰かが勝手に物資を動かし、その記録を焼いた。あるいは、帝都の帳簿に載ると困る数字を、あらかじめ消した)

 砦の中だけで完結する小さなごまかしではない可能性が高い。帝都から送られてくる数字そのものが歪んでいて、それが現場の苦しいやりくりとぶつかり合い、こうして土の下に灰になって残っている。

 倉庫の壁にもたれ、夜空を仰ぐ。雲の底が低く流れていく。雪になるには、まだ少し早い。

(この砦は、「誰の意思」で壊されているのでしょう)

 帝都の帳簿を握る者。戦地への命令を下す者。そして、この砦で日々をやり過ごしている者たち。

 どこまでが無知で、どこまでが共犯なのか。

 胸の奥に冷たいものがゆっくり降りてきた。それでも、足は凍りつかない。腕に抱えた帳簿が、むしろ背中を執務棟の方へ押していた。

 ここまで見てしまった以上、「診断結果」を告げずに寝るわけにはいかなかった。
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