死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します

桃我タロー

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第一章 ヴァルム試験国家編

第十一話 許されざる者の席

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 翌朝は、寒さよりも空気の重さの方がこたえた。石畳の上を歩くたび、靴底と石の隙間に、目に見えない何かが詰まっているように感じる。兵たちの視線があちこちでぶつかっては逸れ、そのたびに細かいささくれが空気の表面を引っかいていく。

 配給場の前には、いつもより長い列ができていた。槍を持った兵、肩をすくめて息を白く吐く兵、欠伸を噛み殺しきれずに目尻を指でこする兵。どの顔も同じように疲れているはずなのに、今日は僅かな目つきの違いが棘のように尖って見える。

(列の進みが遅いですね)

 シュアラは列の端を観察しながら、手帳の角で指先を軽く叩いた。紙のざらつきが、落ち着きを装うための小さなリズムになる。

『配給列 平均移動速度 通常比 0.6 前後 ※兵同士の私語・様子見が増加』

 石畳の上を、低い声がざわざわと流れていく。目の前の湯気ではなく、昨日の噂話を温め直しているような声音だ。

「ラルス、マジなのか」
「第三倉庫の肉、減ってたって……」
「団長が殴ったって聞いたぞ」
「いや、殴られてねえって奴も……」

 噂は、数字より速い。しかも、失われたぶんの正確な量ではなく、「誰がどれだけ怒っているか」だけを増幅させて届く。そこが厄介だと、シュアラは思う。

(空白を埋めようとするとき、人は一番騒ぎます。まずは“空白”を減らす必要がありますね)

 だから、彼女は用意してきた。

 配給台の横へ木箱をひとつ引き寄せ、椅子代わりに据える。その横に、板切れと石筆。最後に――縄で両手を前にゆるく縛られた兵を、ゲルトに連れてこさせた。縄は外でもほどけないように固く結ばれているが、手首の前後にはわずかな遊びが残してある。

「……俺、本当にここに座るのかよ」

 ラルスが、縄の擦れる音と一緒にぼそりと呟いた。頬には昨夜の殴打の痣が浮き、口の端には乾ききらない血が黒く張りついている。血の匂いが、冷たい朝の匂いと混ざって、鉄っぽい味を舌の奥に連れてきた。

「はい。座ってください」

 シュアラは淡々と答え、木箱を顎で示した。

「今日から、あなたには“記録係”になってもらいます」

「記録係……?」

 ラルスは、縄の下で指をぎゅっと握る。凍えた指の節が白くなる。

「はい。あなたが盗んだぶんだけ、誰かの皿が軽くなっていました。今日からは、誰の皿にどれだけ乗っているのか、自分の手で書いてもらいます」

 その言葉が配給場のざわめきに落ちた瞬間、空気の密度がさらに一段階増した。列の前の方で、誰かが荒く笑う。

「……はあ? なんだよそれ」
「おい、ふざけんな。なんで“裏切り”やらかしたやつが、一番いい場所に座ってんだ」

 怒りの声が一つ、二つと増え、列の中を火の手みたいに移動していく。

「記録係? 笑わせんなよ」
「こっちが殴りてえのを我慢してんのに、座り仕事か?」
「やっぱ甘ぇんだよ、この砦」

 息が荒くなる。吐いた白い息の輪郭が、さっきより大きい。

(予想より、反応が速いですね)

 シュアラは心の中でそうメモしつつ、ラルスの腕の縄をもう一度確かめた。逃げ出しはしないが、手先は動く。数字を書くためには、それで十分だ。

「ラルスは、拘束中です」

 彼女は列に向かって声を上げた。耳を刺すような視線が、一斉にこちらへ向く。

「処刑はしません。少なくとも、今のところは」

 そこだけは、わざと語尾を硬くした。

「ですが、この冬のあいだ、彼は自由に飲み歩くことも、夜の門を好きに出入りすることもできません。働いて、“返済”してもらいます」

「返済?」

 列のどこかで誰かが吐き捨てるように繰り返した。

「てめえがちょろまかした肉、誰が戻してくれんだよ」

「戻ってきません」

 シュアラは即答したあと、言葉を一度喉の奥で転がす。パンの匂いと一緒に飲み込みそうになるのを、意識して引き戻した。

「だからこそ、これから働いてもらいます。盗まれた分の“日数”を、彼の労働で埋めてもらいます」

「綺麗事言ってんじゃねえ!」

 列の中から、ひときわ大きな怒鳴り声が上がった。第三班の兵だ。肩に槍を担いだまま列から一歩踏み出し、砂利を靴で弾き飛ばす。短く刈った髪、鋭い目つき。その目の下には、寝不足の影が濃く落ちていた。

「俺らの分も、村の分も削っておいて、“働いて返せばチャラです”かよ。舐めてんのか?」

 隣の兵が止めようと腕を掴むが、乱暴に振り払われる。

「こいつのせいで減った飯は、もう戻らねえんだぞ! うちの班のガキ共の分もだ!」

「ガキ……?」

 ラルスが顔を上げる。第三班の兵は、ギラリと彼を睨みつけた。

「てめえが毎晩抜いてった分、こっちは分け合ってたんだよ。お前のガキだけじゃねえんだよ、腹減ってんのは!」

 その言葉に、列のあちこちから「そうだ」「うちもだ」と低い声が上がる。言葉の端々に、乾いた喉の苛立ちが混じっていた。

(“仲間意識+被害感情”が一緒に燃えていますね)

 そこまでは計算に入れていたつもりだった。だが、次の瞬間に起きた動きは、予測していたより半歩分だけ早かった。

 第三班の兵が列から飛び出した勢いのまま、ラルスへ詰め寄り、胸ぐらを掴んだのだ。縄で縛られた腕ごと、木箱から半ば引きずり下ろす。

「おい、ラルス」

「……すまねえ。俺は、ただ──」

「謝れば済むと思ってんのかよッ!」

 拳が飛ぶ。鈍い音が鳴り、ラルスの頭が横へ弾かれた。木箱がぐらりと傾き、そのまま倒れる。板と石筆が地面に散らばり、石畳の上をかつん、かつんと転がった。

 周りの兵が「おい!」と声を上げるが、止めに入るより先に、もう一発拳が飛ぶ。

「やめなさい!」

 シュアラは思わず声を張り上げた。だが、人の塊に遮られて上手く割って入れない。肩と背中が押し返してきて、足元の感覚が一瞬消えた。列が崩れ、配給台の上からパンの山が半分ほど崩れ落ちる。

 兵の誰かが「おい、飯が!」と叫び、別の誰かが「拾え拾え!」としゃがみ込んだ。足元では、雪混じりの泥とパン屑がぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。靴の裏で柔らかい感触を踏み潰すたび、胃の奥が小さく縮んだ。

(予想以上に、崩壊速度が速い……)

 そのとき、背後から別の声が割り込んだ。

「どけ」

 ゲルトだった。

 彼は一歩で距離を詰めると、第三班の兵の腕を後ろから掴み、そのまま肩越しに投げた。兵の体が石畳に叩きつけられ、短い悲鳴と、肺から空気が抜ける音が響く。

「……っつ」

「てめえら、配給場で組み合うほど腹に余裕あんのか?」

 ゲルトの声は低く、刃物の反対側の縁で撫でつけるような冷たさがあった。

「殴り合いする元気があるなら、午後の作業全部一人でやってもらうか?」

 第三班の兵が、うめきながら起き上がろうとする。その前に、さらに重い声が落ちた。

「全員、黙れ」

 カイだった。

 いつからそこにいたのか、配給台の隣に立ち、怒鳴り声より低い声でそう言う。息が白く立ち上るのも、彼の声に合わせて止まったように見えた。

「喋るな。動くな」

 短い言葉のあと、わざと間が置かれる。兵たちの喉が、一斉に鳴った。

「今から“殴っていい奴”と“殴ったら切り捨てる奴”を決める」

 その一言で、配給場の空気が凍る。

「殴りたい奴は、後で俺の前に来い。ラルスでも、あの記録係でも、俺でもいい」

 カイは顎で、まだ片膝をついているラルスを指し示した。

「ただし、配給場で暴れた奴は、門から外に出す。食う前にな」

 足元に落ちていたパンを一つ拾い上げ、雪と泥を軽く払う。それでも残った薄い汚れを、わざと見せるように指でこすった。

「中で喧嘩するってのは、こういうことだ。パンを泥に落として、自分で食えなくなる」

 誰かの喉で、ぷつりと音がした。飲み込んだ言葉か、唾か、怒りか。

「ラルス」

 名を呼ばれ、ラルスがふらふらと身を起こす。口の端から新しい血が滲み、冷たい空気に触れてすぐ固まっていく。

「立て。座ってると、また殴られるぞ」

 皮肉とも励ましともつかない調子で、カイは言った。

 ラルスは足元をふらつかせながら、倒れた木箱を起こす。指が震えて板をうまく持てず、石筆を掴み損ねては何度も地面に落とした。そのたびに、かつん、と小さな音がして、周囲の視線がその一点に集まる。

 その様子を見ながら、シュアラは深く息を吸った。肺に入ってくる空気が冷たすぎて、胸の内側が一瞬きしむ。

「今の一件で、わかったことが二つあります」

 彼女は列に向かって、できるだけはっきりと声を出した。

「一つ目。第三班は、仲間に“甘い”。それは良い点でもあり、悪い点でもあります」

「うるせえ」

 さっき投げ飛ばされた兵が、床に手をつきながら舌打ちする。

「二つ目」

 シュアラは、その舌打ちをひとまず無視した。

「“裏切り者”というラベルのままだと、誰もラルスのことを働き手として見ません。殴りたいだけの相手になります」

 さっきの拳は、その証拠だった。

「だから、今ここで別のラベルを貼ります」

「は?」

 兵たちの顔に、いくつもの疑問の皺が浮かぶ。

「ラルスは、今日から“返済中の労働者”です」

 シュアラは、淡々と、しかし言葉を噛み砕くようにゆっくりと言った。

「処刑待ちの囚人ではありません。楽な仕事をもらった優遇者でもありません。『自分のやらかした分を、死なない程度にきつく返している人間』です」

 ラルスが、びくりと肩を揺らした。縄が擦れる音が、やけに大きく聞こえる。

「もちろん、許すかどうかは各自の判断です。怒りが消えるまで時間がかかる人もいるでしょう」

 第三班の兵が、苦々しい顔で歯を食いしばる。その奥で、何かを飲み込む喉の動きが見えた。

「でも、ひとつだけ共有してほしい数字があります」

 シュアラは、泥に汚れたパンと、その周囲の雪をちらりと見る。

「ラルスが抜いた分の食糧で、兵五人分の冬一ヶ月が消えました」

 低いざわめきが列を走る。さっきまでの罵声より、小さいが深い波だった。

「その五人が誰になるかは、まだ決まっていません」

 シュアラは、ラルスを見た。

「今からの働き次第で、“誰も死なない”側に傾けることは、まだ可能です」

 それが、現実として許されている最善値。帝都の帳簿なら、「切り捨て候補」の欄に真っ先に名前が書かれる数字だ。

「……そんなうまくいくかよ」

 誰かが呟く。諦めにも似た、かすれた声だった。

「うまくいくとは言いません」

 シュアラは首を横に振った。

「“少しましになる可能性がある”と言っているだけです」

 その物言いに、何人かが苦笑した。笑いというより、力の抜けた息が漏れただけかもしれない。けれど、その分だけ拳を握る力は弱まる。

 カイが腕を組み、口を開いた。

「聞いたな」

 彼は列全体を見渡し、ゆっくりと視線を動かす。

「“裏切り者”って呼んで殴りたいなら、俺の前でやれ。止めはしねえ」

 兵たちの視線が揺れた。

「ただし、そいつが二度と働けなくなったぶんの穴は、殴ったやつが埋めろ」

 カイの声は淡々としているが、その淡さがかえって重さを増す。

「殴りたい奴は、午後、訓練場だ。順番に殴らせてやる。その代わり、二倍働いてもらう」

 列のあちこちで、乾いた笑いが漏れた。

「……最悪だな」
「団長の言う“飴と鞭”って、そういう意味かよ」
「飴は?」
「ねえだろ」

 少しだけ、空気が緩んだ。砦の中庭の寒さは変わらないのに、肩の位置がさっきより僅かに下がっている。

 ゲルトが咳払いをひとつして、声を張る。

「ほら、聞こえただろ。配給再開だ。殴るのは午後な。今は食え」

 ようやく列が、また動き始めた。歩幅は不揃いで、速度はまだ遅い。それでも、完全に止まっていたさっきよりずっとましだ。

 ラルスは青い顔のまま、名前と配給量を震える手で板に書き始める。彼の前を通る兵たちの視線は冷たく、足元に唾を吐いていく者もいる。

 けれど、拳を振り上げる者はいなかった。

(完全な成功ではありませんが、完全な失敗でもありませんね)

 シュアラは手帳を開き、ペン先を走らせる。

『公開“記録係”案:
 ・列一時崩壊、パン損耗あり
 ・第三班内の怒り顕在化
 ・カイ団長による“殴りの予約制”導入で、暴力衝動の場を移動
 →暫定評価:混乱大。ただし、ラルスの扱いは「裏切り者」から「返済中」に一部書き換わり』

 その横に、もう一行加えた。

『※感情は、制御ではなく“捌く場所を変える”方が有効か』

(たぶん今日は、栄養の吸収効率も悪い)

 そんなことを考えていた時だった。

 外壁の上から、どん、と短く乾いた音が聞こえた。砦の石壁を通して、腹の奥にまで響く。

 狼煙の合図だ。一本目。間を置かずに、もう一本。どん。

 白い煙が、冬の空にゆっくりと立ち上っていくのが、中庭の隙間から見えた。

「……東の村の方向だな」

 外壁の上の狼煙を見上げながら、ゲルトが顔をしかめる。

「村の喧嘩じゃねえぞ、この速さは」

 カイの表情から、さっきまでの皮肉っぽさがすっと消えた。

「若」

 短く呼ばれ、シュアラは手帳から顔を上げる。

「はい」

 返事をするまでの一瞬、ページに並ぶ数字たちが「まだ終わっていない」と言いたげに視界をかすめた。

「帳簿閉じろ。外の計算だ」

 言われるより早く、彼女は手帳をぱたんと閉じていた。紙が小さく鳴る。

 配給場のざわつきが、別の種類のざわめきに変わる。槍を取りに走る音。馬のいななき。命令が飛び交う声。足音のリズムが、腹の底から揺さぶってくる。

(内部の胃袋に手を突っ込んでいるあいだに、外からも手が伸びてきましたか)

 彼女は懐の中の手帳の重みを確かめた。紙束にしては、妙に温度がある気がする。

「行きます、団長」

 シュアラの言葉に、カイは短く頷いた。

「いいか」

 彼は配給場に残った兵たちへ向き直り、腹の底から声を絞り出す。

「第一、第五班、馬のあるやつから動け!」

 カイの声が、中庭に響いた。音が石壁に跳ね返り、命令の数だけ層を重ねていく。

「歩兵は装備を最小限にしろ! 鎧と槍、あとは足だけ持ってこい! 死にたくない奴は急げ!」

「死なせたくない奴も、ですね」

 思わず口からこぼれた言葉に、自分で少し驚く。

 カイが一瞬だけ目を細めた。

「そういうのは、走りながら言え!」

 怒鳴りながらも、口元はわずかに緩んでいた。

 門が開く。鉄と石が擦れ合う音とともに、冷たい風が吹き込み、砦の空気を外気と一気にかき混ぜる。

 兵たちが駆け出していく足音の中、カイは外套をひるがえして叫んだ。

「東の村まで、全速力だ! ――行くぞ!」

「おぉッ!」

 掛け声が重なり、冬の空へ突き上がる。砦の中と外、その境目に、白い息が剣のように並んでいた。
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