18 / 70
第一章 ヴァルム試験国家編
第十二話 冷たい帳簿(2)
しおりを挟むシュアラは、鍋の縁をそっと撫でながら答えた。
「今ここで『足りないから諦めろ』って言えば、この村は次から、自分たちで生き延びる方法を探します」
「……盗みか」
「それもあります」
彼女は、鍋の中を覗き込みながら続ける。
「あるいは、砦を見捨てる。北の街へ逃げる。蛮族と手を組む。選択肢はいくつもあります」
ゲルトは、何も言わなかった。
「『砦は、ぎりぎりでもこっちの命を数に入れる』と一度でも伝えられれば、次の選択が変わる可能性があります」
ひしゃくで薄いスープを少しすくい、砦から持ってきた水袋の水を足して温度をなじませる。
「これは、その最初の一回目です」
トマスの体には、少しずつ震えが戻ってきていた。
ぬるい湯を少しずつ唇に含ませる。
喉は弱々しいが、ちゃんと飲み込もうと動いている。
「よし、その調子だ」
いつの間にか近くに来ていたカイが、低く声をかけた。
外套には雪と煙の匂いが染みついている。
彼は村の被害と、敵の足跡を一通り見てきたのだろう。
「敵は?」
シュアラは湯飲みを支えながら尋ねた。
「足跡の深さと幅からして、十人前後だな」
カイは、村の端を顎で示す。
「森の手前で馬を降りて、あとは走り。家畜をさらって、麦を半分。村の男とやり合って、一人斬って退いた」
斬られたのは、布の下に眠る男だ。
(“ゼロ”は、もう崩れている)
事実として、受け入れるしかない。
(でも、“これ以上増やさない”ゲームは、まだ終わっていません)
「文官」
カイが視線を向ける。
「この村に、どれだけ出せる」
その問いには、二つの意味があった。
物として、どれだけ。
そして、砦の首をどこまで差し出せるか。
「……帳簿上の限界は、見ています」
シュアラは小さく息を吸う。
「麦なら――今の在庫と冬までの日数と、砦と三つの村の胃袋の数を合わせて、“全員から一日ぶん”ずつ削る余地が二十日ぶんあります」
「一日……?」
ゲルトが眉をひそめる。
「誰のだ」
「全員のです」
シュアラは答えた。
「兵も、砦の使用人も、他の村も。全員の皿から、一日だけ少しずつすくって集める。それを、この東の村の『今日から十日』に回します」
「バカ言え」
ゲルトが吐き捨てる。
「ただでさえぎりぎりだって言ってんだろ。これ以上減らしたら、今度は砦が倒れる」
「だから、『一日だけ』です」
シュアラは彼を見た。
「一日より多くは削りません。削れません。それ以上やったら、今度は本当に砦が死にます」
カイは腕を組んだまま、黙って彼女を見ていた。
シュアラは続ける。
「十日分の猶予があれば、この村は組み直せます」
「組み直す?」
「はい。今日奪われた家畜と、残った畑と、人手。砦からの支援条件です」
地面の雪を指先でなぞりながら、簡単な円と線を描く。
「それを全部まとめて、『誰も死ななくて済む線』を一緒に探します」
村の男たちの表情が、半信半疑と、それでも掴みたい期待で揺れた。
「もちろん、これは賭けです」
シュアラは言った。
「今日、ここで私が出す線が間違っていれば、冬までに砦ごと凍えます」
誰かが小さく息を呑んだ。
自分で言っておきながら、シュアラの背中にも冷たいものが走る。
「でも――」
彼女は、トマスとリナを見る。
「ここで一度も賭けないなら、“七割は死ぬ”という帝都の予測どおりになります」
少しだけ、自分でも驚く言葉が口から出た。
「嫌です。私は、父の帳簿どおりに死にたくありません」
その一言に、あたりの空気が変わった。
カイが、ゆっくりと息を吐く。
「……お前、本当に怖えな」
ゲルトとは違う温度で、同じ言葉を繰り返す。
「はい。よく言われます」
シュアラが返すと、カイは口の端をわずかに上げた。
「そういう意味じゃねえ」
彼は頭をかき、村の男たちに向き直る。
「聞いたな」
冬の空気を震わせる声。
「十日分。砦と他の村から、一日だけ少しずつ引っぺがして、ここに持ってくる」
男たちの顔に、驚きと戸惑いと、それでも消しきれない期待が走る。
「その代わりだ」
カイの声が、少しだけ鋭くなる。
「その十日の間に、できることは全部やれ。畑を起こせ。小屋を直せ。木を切れ。“まだ生きるつもりがあります”って証拠を、軍師殿に全部見せろ」
ゲルトが横で小さく吹き出した。
「若、今はっきり“軍師”って呼んだぞ」
「黙ってろ」
カイは肩をすくめ、シュアラに視線を投げる。
「いいか、文官」
「はい」
「お前のその“死者ゼロ”ってやつ、気に入らねえ。だが、一度くらいは乗ってやる」
彼は短く笑った。
「ここで、“最初の一人”を救え」
シュアラは、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
「了解しました、団長」
夕方には、トマスの唇の色は、薄い青から鈍い赤へと変わっていた。
指先の感覚は完全ではないが、命に関わるほどの危うさはもうない。
「……団長」
かすれた声で、トマスが呼んだ。
「なんだ」
カイが膝をつく。
「すみません……俺、もっと早く、狼煙……」
「バカ」
カイは、迷いなく額を小突いた。
「お前が走ったから、俺たちはここに来れたんだろうが。謝るのは、遅れた俺たちの方だ」
トマスの目から、じわりと水が滲んだ。
それが涙なのか、溶けた雪なのかは分からない。
その隣で、リナが小さな木椀を握っている。
中には、薄いが温かいスープが少しだけ。
「……あのね、トマス」
少女は、椀を胸に抱きしめながら言った。
「私、今日、あったかいの飲んだよ。お腹いっぱいまではいかないけど」
「そうか」
トマスの手が毛布の下から伸び、少女の頭をそっと撫でる。
「よかったな」
「うん」
そのやり取りを、少し離れたところから見ていたシュアラの手が、ゆっくりと手帳を開いた。
ページの端に、小さく書き込む。
『東の村襲撃 ケース1
到着時点の死者:1
危険度高の者:2名(トマス/リナ)
介入後の追加死者:0(暫定)』
書きかけて、ペン先が止まる。
続きは、丁寧な言葉ではなく、短く乱暴な言葉にした。
『今回ぶん:勝ち』
「何書いてる」
隣から、カイの声がした。
「記録です」
シュアラは手帳を少しだけ傾ける。
「この冬の“最初の勝ち”です」
カイは一瞥して、ふっと鼻で笑った。
「ずいぶん子どもっぽい字だな。“勝ち”ってよ」
「分かりやすくしておかないと、あとで集計しづらいので」
「そういうとこだけ子どもで、そういうとこだけ仕事人なんだよな、お前」
カイは立ち上がり、空を見上げた。
東の空は、もう群青に染まり始めている。
遠く、ヴァルム砦の方向に、かすかに煙が立っているのが見えた。夕餉の火だ。
「帰るぞ」
「はい」
シュアラは手帳を閉じ、懐に戻した。
村の男たちは、壊れた納屋の前で何かを話し合っている。
リナはトマスの毛布の端をぎゅっと掴んだまま、こちらを見て、ぺこりと小さく頭を下げた。
その仕草が、数字にならない何かを胸に残す。
名前はまだ分からない。ただ、失いたくない種類のものだと思った。
21
あなたにおすすめの小説
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
婚約破棄で悪役令嬢を辞めたので、今日から素で生きます。
黒猫かの
恋愛
「エリー・オルブライト! 貴様との婚約を破棄する!」
豪華絢爛な夜会で、ウィルフレッド王子から突きつけられた非情な宣告。
しかし、公爵令嬢エリーの心境は……「よっしゃあ! やっと喋れるわ!!」だった。
身代わりで呪いの公爵に嫁ぎましたが、聖女の力で浄化したら離縁どころか国一番の溺愛妻になりました〜実家が泣きついてももう遅い〜
しょくぱん
恋愛
「お前のような無能は、死神の生贄にでもなっていろ」
魔力なしの無能と蔑まれ、家族に虐げられてきた伯爵令嬢レティシア。 彼女に命じられたのは、近づく者すべてを病ませるという『呪いの公爵』アレクシスへの身代わり結婚だった。
鉄格子の馬車で運ばれ、たどり着いたのは瘴気に満ちた死の城。 恐ろしい怪物のような男に殺される――。 そう覚悟していたレティシアだったが、目の前の光景に絶望よりも先に別の感情が湧き上がる。
(な、何これ……汚すぎるわ! 雑巾とブラシはどこ!?)
実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。
レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。
「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」
冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。
一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。
「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」
これは、掃除を愛する薄幸令嬢が、その愛と魔力で死神公爵を救い、最高に幸せな居場所を手に入れるまでのお話。
なぜ、私に関係あるのかしら?
シエル
ファンタジー
「初めまして、アシュフォード公爵家一女、セシリア・アシュフォードと申します」
彼女は、つい先日までこの国の王太子殿下の婚約者だった。
そして今日、このトレヴァント辺境伯家へと嫁いできた。
「…レオンハルト・トレヴァントだ」
非道にも自らの実妹を長年にわたり虐げ、婚約者以外の男との不適切な関係を理由に、王太子妃に不適格とされ、貴族学院の卒業式で婚約破棄を宣告された。
そして、新たな婚約者として、その妹が王太子本人から指名されたのだった。
「私は君と夫婦になるつもりはないし、辺境伯夫人として扱うこともない」
この判断によって、どうなるかなども考えずに…
※ 中世ヨーロッパ風の世界観です。
※ ご都合主義ですので、ご了承下さい、
※ 画像はAIにて作成しております
王子、おひとり様で残りの人生をお楽しみください!
ちゃっぴー
恋愛
「ラーニャ、貴様との婚約を破棄する!」
卒業パーティーの真っ最中、ナルシストな第一王子ウィルフレッドに身に覚えのない罪で断罪された公爵令嬢ラーニャ。しかし、彼女はショックを受けるどころか、優雅に微笑んで拍手を送った。
なぜなら、ラーニャはとっくに王子の無能さに愛想を尽かし、この日のために完璧な「撤退準備」を進めていたからだ。
お前のような地味な女は不要だと婚約破棄されたので、持て余していた聖女の力で隣国のクールな皇子様を救ったら、ベタ惚れされました
夏見ナイ
恋愛
伯爵令嬢リリアーナは、強大すぎる聖女の力を隠し「地味で無能」と虐げられてきた。婚約者の第二王子からも疎まれ、ついに夜会で「お前のような地味な女は不要だ!」と衆人の前で婚約破棄を突きつけられる。
全てを失い、あてもなく国を出た彼女が森で出会ったのは、邪悪な呪いに蝕まれ死にかけていた一人の美しい男性。彼こそが隣国エルミート帝国が誇る「氷の皇子」アシュレイだった。
持て余していた聖女の力で彼を救ったリリアーナは、「お前の力がいる」と帝国へ迎えられる。クールで無愛想なはずの皇子様が、なぜか私にだけは不器用な優しさを見せてきて、次第にその愛は甘く重い執着へと変わっていき……?
これは、不要とされた令嬢が、最高の愛を見つけて世界で一番幸せになる物語。
『外見しか見なかったあなたへ。私はもう、選ぶ側です』
鷹 綾
恋愛
「お前のようなガキは嫌いだ」
幼く見える容姿を理由に、婚約者ライオネルから一方的に婚約を破棄された
公爵令嬢シルフィーネ・エルフィンベルク。
その夜、嫉妬に狂った伯爵令嬢に突き落とされ、
彼女は一年もの間、意識不明の重体に陥る――。
目を覚ました彼女は、大人びた美貌を手に入れていた。
だが、中身は何ひとつ変わっていない。
にもかかわらず、
かつて彼女を「幼すぎる」と切り捨てた元婚約者は態度を一変させ、
「やり直したい」とすり寄ってくる。
「見かけが変わっても、中身は同じです。
それでもあなたは、私の外見しか見ていなかったのですね?」
静かにそう告げ、シルフィーネは過去を見限る。
やがて彼女に興味を示したのは、
隣国ノルディアの王太子エドワルド。
彼が見ていたのは、美貌ではなく――
対話し、考え、異論を述べる彼女の“在り方”だった。
これは、
外見で価値を決められた令嬢が、
「選ばれる人生」をやめ、
自分の意思で未来を選び直す物語。
静かなざまぁと、
対等な関係から始まる大人の恋。
そして――
自分の人生を、自分の言葉で生きるための物語。
---
勘当された悪役令嬢は平民になって幸せに暮らしていたのになぜか人生をやり直しさせられる
千環
恋愛
第三王子の婚約者であった侯爵令嬢アドリアーナだが、第三王子が想いを寄せる男爵令嬢を害した罪で婚約破棄を言い渡されたことによりスタングロム侯爵家から勘当され、平民アニーとして生きることとなった。
なんとか日々を過ごす内に12年の歳月が流れ、ある時出会った10歳年上の平民アレクと結ばれて、可愛い娘チェルシーを授かり、とても幸せに暮らしていたのだが……道に飛び出して馬車に轢かれそうになった娘を助けようとしたアニーは気付けば6歳のアドリアーナに戻っていた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる