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第一章 ヴァルム試験国家編
第十三話 雪の日の作戦会議(1)
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ヴァルム砦に戻った翌日の朝。
空は、雪になりきれない灰色の雲で塞がっていた。
砦の一番奥、文官用に宛がわれた小部屋。
元は物置だったらしいその部屋の床一面に、紙と石とパンくずが散らばっている。
その真ん中で、シュアラは膝をついていた。
机の上には広げた羊皮紙。
その上に、小さな黒い石と、硬くなったパンの切れ端。
(……そろそろ怒られそうですね)
自覚はある。
文官室というより、子どもの遊び場に近い光景だ。
だが、数字だけでは足りない。
目で見て、指で動かして、「ここに生きているもの」として並べておきたかった。
羊皮紙の中央には、丸で囲んだ「ヴァルム」の文字。
そこから、三本の線が細く伸びている。南へ、北西へ、そして東へ。
それぞれの先にも小さな円があり、雑な字で名前が書き込まれていた。
『ミルストーン』
『アイアンストリーム』
『シルバークリーク』
昨日、焦げ跡と冷えた血と、震える子どものいた村の名が、一番東の円の中にある。
羊皮紙の端には、昨夜までにまとめた数字がびっしりと走っていた。
何人いて、何を作り、何を食べて、何を借りているか。
帝都の台帳では全部「辺境農村」の一行で括られているものを、一つずつばらして書き直した結果だ。
ミルストーンの欄には、小麦と粉の数字が多い。
アイアンストリームには、鉱石と鉄くず、ギルドへの支払いの記録。
シルバークリークの行だけ、ところどころに赤い丸印が付いていた。
(今回襲われた「東の村」は、正式にはシルバークリーク)
(川沿いで土地が痩せていて、何かあれば真っ先に沈む村)
紙の上の円に、パンの欠片を一つ置く。
「これが村の口です」
誰に聞かせるわけでもなく呟き、今度は黒い石を一つ乗せる。
「これが、今残っている食糧」
三つの村に、それぞれパンと石を置く。
ミルストーンの石は多く、パンも多い。
アイアンストリームはパンが足りない代わりに、鉄を表す小さな鉄片が並ぶ。
シルバークリークは、パンも石も少ない。
砦を表す中央の円から、石をいくつか東へ動かす。
昨日の救援で、すでに「十日分」出したぶんだ。
東の円の横に、小さく書き込む。
『十日分確保』
(十日後に、また沈み始める)
その文字の下に、さらに細い字で一行足す。
『このままなら、一番先に底が抜ける』
現時点の予測は、それだけで足りた。
「予測」とわざわざラベルを付けるまでもない。見れば分かる。
シュアラは別の紙を引き寄せた。
そこには、簡単な天秤の絵が描かれている。
左右の皿の片方に「帝都への税」、もう片方に「ヴァルム砦と三つの村」とだけ書いてある。
皿の上に小さな点を増やしていく。
ミルストーンの粉。
アイアンストリームの鉄。
シルバークリークの水と煙。
父が残した「帝国破産の帳簿」の余白に、似たような落書きをしたことがある。
帝都の官僚たちが引いた線の端で、小さく別の線を足す作業は、あの頃から変わっていない。
ただ、今は自分の足元の雪を踏みしめた感覚を、そのまま線に乗せている。
(帝都の皿に合わせれば、ヴァルムの皿から雪がこぼれます)
(ヴァルムの皿を守れば、帝都の皿が不機嫌になります)
どちらか一方だけを見ていれば楽だ。
だが、両方を見られる目を持ってしまった以上、片方をわざと見ないふりをする方が、よほど骨が折れる。
ペン先を止め、深く息を吸う。
そのとき、扉がノックもなく開いた。
「おい、文官」
聞き慣れた低い声。
振り向くと、カイ・フォン・ヴォルフが立っていた。
鎧は着ていないが、厚手の上着の下からでも分かる肩幅。
片手には、いつもの古びたマグカップ。
彼の視線が、床のパンと石と紙の海を一望し、ぴたりと止まる。
「……何の戦場だ、ここは」
「ヴァルム砦周辺の縮図です」
シュアラは、きっぱり答えた。
「入る前に、足元をよくご確認ください。踏まれると痛い駒が混ざっています」
「駒?」
カイは眉を上げ、慎重に一歩踏み入れた。
石を蹴らないように歩き、部屋の中央まで来る。
「遊んでるわけじゃねえよな」
「遊びなら、もっと華やかな駒を使います」
シュアラは、中央の羊皮紙を指で押さえた。
「これは……そうですね」
一度言葉を飲み込む。
「ゲーム」と呼ぶか、「帳簿」と呼ぶかで、相手の顔つきは変わる。
彼女は、少しだけ迷ってから続けた。
「前回の『胃袋』より、盤面が広い方の仕事です」
「またゲーム扱いかよ」
カイはため息をつき、床に胡坐をかいた。
マグカップを指先でくるりと回す。
「で、今度は何の勝負だ」
その問いに、シュアラは羊皮紙の端をめくり、三つの村の数字を見せた。
「ミルストーン。アイアンストリーム。シルバークリーク」
三つの円の上に、指で軽く触れる。
「砦の倉庫を足しても、この冬を越すには足りません。
ただ、足りない場所と、余っている場所の位置が、帝都の帳簿よりも細かく見えました」
「細かく見えたら、どっちかが勝手に増えたりすんのか」
「それができれば、私の父は破産帳簿なんて残さずに済んだでしょう」
皮肉を、少しだけ柔らかく混ぜる。
「増えないので、並べ替えます」
シュアラは、砦の円から三つの村へ、石とパンを移し替えていく。
「ミルストーンは粉が余っています。ただし、粉挽き小屋の権利を握っている村長が、税を誤魔化して私腹を肥やしています」
「知ってる」
カイの口元がわずかにゆがむ。
「あいつの顔を見ると酒がまずくなる」
「帝都の帳簿では、ああいう人物の方が『優秀な現地協力者』です」
淡々と述べる。
「税をきちんと納めるふりをしながら、村をギリギリで回し、帝都への数字だけ平均以上に見せる能力がある」
「誉めるところじゃねえだろ、それ」
「ですが、現状ヴァルムでは、彼の粉と水車が必要です」
パンを一つ、砦の円からミルストーンへ移す。
「完全に切るのではなく、こちら側の皿に少しずつ縛り直す必要があります」
「縛り直す、ねえ」
カイは面白そうに眉を上げた。
「具体的には?」
「具体的には――」
そこまで言いかけて、シュアラは一度言葉を飲み込んだ。
(まだ、数字だけでしか組んでいない)
(口に出すには、現場を見てからにしましょう)
「粉の流れを、砦の倉庫経由に変えるつもりです。
詳しい手は、現地の家並みと水車の位置を見てからで」
「また外に引っ張り出す気か、俺を」
「はい。団長の足は、数字より正確ですから」
「褒めてんのか、それ」
「もちろんです」
今度は迷わず答えた。
カイは鼻を鳴らし、次の円に視線を移す。
「で、鉱山の方は」
「アイアンストリームは、鉱山と鍛冶場があります。
ギルドとの取引が多く、現金収入はある。ですが、冬場に鉱山が止まると、一気に食糧不足に陥る村です」
「こっちも知ってる」
カイは短く頷く。
「雪の年に何人か凍死しかけた。ギルドは金は出すが、飯は出さねえ」
「だからこそ、冬までに『食べ物の道』を固めておきたいんです」
シュアラは、ミルストーンとアイアンストリームの間に、小さな線を一本引いた。
「粉と鉄を、ヴァルムの中で回す。
帝都を経由しない、小さな流れを作る」
「帝都を抜くのか」
「はい。ただし、帳簿の上では『誤差』に見える範囲で」
カイが、低く「怖えな」と呟く。
今度の声色は、半分だけ呆れ、半分は感心だった。
「そして、シルバークリーク」
最後の円に指を置く。
東の村。昨日、炎と悲鳴と冷えた灰を見た場所。
「ここは、川沿いで土地が痩せています。
収穫量も少なく、家畜も少ない。
帝都から見れば、『切り捨て候補』の最優先です」
「そんなことまで数字にされてんのかよ」
「されていました」
父が残した帳簿の片隅に、小さくその村の名と分類が載っていた。
「維持費に見合わない辺境村」の欄に。
「けれど、ここには水があります。
川魚と、森の小さな獣。
それを長く保存できる形に変えられれば――」
シュアラは、砦の円から小さな石を一つシルバークリークへ移した。
「この村が、ヴァルム全体の『冬の倉』になります」
「冬の、倉?」
「……冬でも中身が腐りにくい倉庫です。燻製小屋や干し場のことだと思ってください」
カイが顎をさする。
「要するに、そこを立て直せば、三つの村全部の腹が、少しだけ膨れるって話か」
「はい」
「その代わり、最初に手をかける必要があるのも、そこだ」
「はい」
シュアラは、はっきりと頷いた。
「今、一番沈みかけている皿を、先に持ち上げる。
底が抜けた皿の上から、他の皿を支えることはできませんから」
「沈んだ天秤の、一番下からか」
カイは立ち上がり、天秤の紙を見下ろした。
灰色の空からの光が、羊皮紙の上で鈍く反射する。
「最初の一手は、シルバークリークだな」
「はい。治水と、燻製小屋の建設。
あの村を『冬の倉』に変えるのが、第二の仕事の始動です」
「いいだろ」
カイは、床に落ちていたパンの欠片をひとつつまみ上げ、シルバークリークの円の上にぽんと置いた。
「明日、馬を出す。その変な地図、全部持ってこい。
現場で、どう沈んでるか見せてもらう」
「了解しました、団長」
シュアラは立ち上がり、散らばった紙を手早くまとめ始めた。
床の駒を一つひとつ拾い上げながら、胸の中で小さく数字を更新する。
(砦と三つの村。駒の数は多くない。でも、まだ並べ替える余地はある)
羊皮紙の片隅に、細い字で一行だけ書き足した。
『二番目の仕事:三つの村の冬』
名前を付けた瞬間、盤面の輪郭が少しだけくっきりする。
カイがその字を横目で見て、ふっと笑った。
「また“ゲーム”って書き足さねえあたり、少しは遠慮を覚えたか」
「心の中では、とっくにゲーム扱いしています」
「やっぱり怖え女だな、お前」
カイは呟き、マグカップを持ち直した。
そのとき、廊下の方から兵の声がかすかに聞こえてくる。
「なあ、今、若、文官と何か話してなかったか?」
「気のせいだろ。若がまともに喋るのは酒場だけだ」
そんな小さな会話が、砦の石壁のあちこちに飛び火していくことを、シュアラはまだ知らない。
彼女はただ、目の前の紙束の重みを、両腕で抱え直しただけだった。
空は、雪になりきれない灰色の雲で塞がっていた。
砦の一番奥、文官用に宛がわれた小部屋。
元は物置だったらしいその部屋の床一面に、紙と石とパンくずが散らばっている。
その真ん中で、シュアラは膝をついていた。
机の上には広げた羊皮紙。
その上に、小さな黒い石と、硬くなったパンの切れ端。
(……そろそろ怒られそうですね)
自覚はある。
文官室というより、子どもの遊び場に近い光景だ。
だが、数字だけでは足りない。
目で見て、指で動かして、「ここに生きているもの」として並べておきたかった。
羊皮紙の中央には、丸で囲んだ「ヴァルム」の文字。
そこから、三本の線が細く伸びている。南へ、北西へ、そして東へ。
それぞれの先にも小さな円があり、雑な字で名前が書き込まれていた。
『ミルストーン』
『アイアンストリーム』
『シルバークリーク』
昨日、焦げ跡と冷えた血と、震える子どものいた村の名が、一番東の円の中にある。
羊皮紙の端には、昨夜までにまとめた数字がびっしりと走っていた。
何人いて、何を作り、何を食べて、何を借りているか。
帝都の台帳では全部「辺境農村」の一行で括られているものを、一つずつばらして書き直した結果だ。
ミルストーンの欄には、小麦と粉の数字が多い。
アイアンストリームには、鉱石と鉄くず、ギルドへの支払いの記録。
シルバークリークの行だけ、ところどころに赤い丸印が付いていた。
(今回襲われた「東の村」は、正式にはシルバークリーク)
(川沿いで土地が痩せていて、何かあれば真っ先に沈む村)
紙の上の円に、パンの欠片を一つ置く。
「これが村の口です」
誰に聞かせるわけでもなく呟き、今度は黒い石を一つ乗せる。
「これが、今残っている食糧」
三つの村に、それぞれパンと石を置く。
ミルストーンの石は多く、パンも多い。
アイアンストリームはパンが足りない代わりに、鉄を表す小さな鉄片が並ぶ。
シルバークリークは、パンも石も少ない。
砦を表す中央の円から、石をいくつか東へ動かす。
昨日の救援で、すでに「十日分」出したぶんだ。
東の円の横に、小さく書き込む。
『十日分確保』
(十日後に、また沈み始める)
その文字の下に、さらに細い字で一行足す。
『このままなら、一番先に底が抜ける』
現時点の予測は、それだけで足りた。
「予測」とわざわざラベルを付けるまでもない。見れば分かる。
シュアラは別の紙を引き寄せた。
そこには、簡単な天秤の絵が描かれている。
左右の皿の片方に「帝都への税」、もう片方に「ヴァルム砦と三つの村」とだけ書いてある。
皿の上に小さな点を増やしていく。
ミルストーンの粉。
アイアンストリームの鉄。
シルバークリークの水と煙。
父が残した「帝国破産の帳簿」の余白に、似たような落書きをしたことがある。
帝都の官僚たちが引いた線の端で、小さく別の線を足す作業は、あの頃から変わっていない。
ただ、今は自分の足元の雪を踏みしめた感覚を、そのまま線に乗せている。
(帝都の皿に合わせれば、ヴァルムの皿から雪がこぼれます)
(ヴァルムの皿を守れば、帝都の皿が不機嫌になります)
どちらか一方だけを見ていれば楽だ。
だが、両方を見られる目を持ってしまった以上、片方をわざと見ないふりをする方が、よほど骨が折れる。
ペン先を止め、深く息を吸う。
そのとき、扉がノックもなく開いた。
「おい、文官」
聞き慣れた低い声。
振り向くと、カイ・フォン・ヴォルフが立っていた。
鎧は着ていないが、厚手の上着の下からでも分かる肩幅。
片手には、いつもの古びたマグカップ。
彼の視線が、床のパンと石と紙の海を一望し、ぴたりと止まる。
「……何の戦場だ、ここは」
「ヴァルム砦周辺の縮図です」
シュアラは、きっぱり答えた。
「入る前に、足元をよくご確認ください。踏まれると痛い駒が混ざっています」
「駒?」
カイは眉を上げ、慎重に一歩踏み入れた。
石を蹴らないように歩き、部屋の中央まで来る。
「遊んでるわけじゃねえよな」
「遊びなら、もっと華やかな駒を使います」
シュアラは、中央の羊皮紙を指で押さえた。
「これは……そうですね」
一度言葉を飲み込む。
「ゲーム」と呼ぶか、「帳簿」と呼ぶかで、相手の顔つきは変わる。
彼女は、少しだけ迷ってから続けた。
「前回の『胃袋』より、盤面が広い方の仕事です」
「またゲーム扱いかよ」
カイはため息をつき、床に胡坐をかいた。
マグカップを指先でくるりと回す。
「で、今度は何の勝負だ」
その問いに、シュアラは羊皮紙の端をめくり、三つの村の数字を見せた。
「ミルストーン。アイアンストリーム。シルバークリーク」
三つの円の上に、指で軽く触れる。
「砦の倉庫を足しても、この冬を越すには足りません。
ただ、足りない場所と、余っている場所の位置が、帝都の帳簿よりも細かく見えました」
「細かく見えたら、どっちかが勝手に増えたりすんのか」
「それができれば、私の父は破産帳簿なんて残さずに済んだでしょう」
皮肉を、少しだけ柔らかく混ぜる。
「増えないので、並べ替えます」
シュアラは、砦の円から三つの村へ、石とパンを移し替えていく。
「ミルストーンは粉が余っています。ただし、粉挽き小屋の権利を握っている村長が、税を誤魔化して私腹を肥やしています」
「知ってる」
カイの口元がわずかにゆがむ。
「あいつの顔を見ると酒がまずくなる」
「帝都の帳簿では、ああいう人物の方が『優秀な現地協力者』です」
淡々と述べる。
「税をきちんと納めるふりをしながら、村をギリギリで回し、帝都への数字だけ平均以上に見せる能力がある」
「誉めるところじゃねえだろ、それ」
「ですが、現状ヴァルムでは、彼の粉と水車が必要です」
パンを一つ、砦の円からミルストーンへ移す。
「完全に切るのではなく、こちら側の皿に少しずつ縛り直す必要があります」
「縛り直す、ねえ」
カイは面白そうに眉を上げた。
「具体的には?」
「具体的には――」
そこまで言いかけて、シュアラは一度言葉を飲み込んだ。
(まだ、数字だけでしか組んでいない)
(口に出すには、現場を見てからにしましょう)
「粉の流れを、砦の倉庫経由に変えるつもりです。
詳しい手は、現地の家並みと水車の位置を見てからで」
「また外に引っ張り出す気か、俺を」
「はい。団長の足は、数字より正確ですから」
「褒めてんのか、それ」
「もちろんです」
今度は迷わず答えた。
カイは鼻を鳴らし、次の円に視線を移す。
「で、鉱山の方は」
「アイアンストリームは、鉱山と鍛冶場があります。
ギルドとの取引が多く、現金収入はある。ですが、冬場に鉱山が止まると、一気に食糧不足に陥る村です」
「こっちも知ってる」
カイは短く頷く。
「雪の年に何人か凍死しかけた。ギルドは金は出すが、飯は出さねえ」
「だからこそ、冬までに『食べ物の道』を固めておきたいんです」
シュアラは、ミルストーンとアイアンストリームの間に、小さな線を一本引いた。
「粉と鉄を、ヴァルムの中で回す。
帝都を経由しない、小さな流れを作る」
「帝都を抜くのか」
「はい。ただし、帳簿の上では『誤差』に見える範囲で」
カイが、低く「怖えな」と呟く。
今度の声色は、半分だけ呆れ、半分は感心だった。
「そして、シルバークリーク」
最後の円に指を置く。
東の村。昨日、炎と悲鳴と冷えた灰を見た場所。
「ここは、川沿いで土地が痩せています。
収穫量も少なく、家畜も少ない。
帝都から見れば、『切り捨て候補』の最優先です」
「そんなことまで数字にされてんのかよ」
「されていました」
父が残した帳簿の片隅に、小さくその村の名と分類が載っていた。
「維持費に見合わない辺境村」の欄に。
「けれど、ここには水があります。
川魚と、森の小さな獣。
それを長く保存できる形に変えられれば――」
シュアラは、砦の円から小さな石を一つシルバークリークへ移した。
「この村が、ヴァルム全体の『冬の倉』になります」
「冬の、倉?」
「……冬でも中身が腐りにくい倉庫です。燻製小屋や干し場のことだと思ってください」
カイが顎をさする。
「要するに、そこを立て直せば、三つの村全部の腹が、少しだけ膨れるって話か」
「はい」
「その代わり、最初に手をかける必要があるのも、そこだ」
「はい」
シュアラは、はっきりと頷いた。
「今、一番沈みかけている皿を、先に持ち上げる。
底が抜けた皿の上から、他の皿を支えることはできませんから」
「沈んだ天秤の、一番下からか」
カイは立ち上がり、天秤の紙を見下ろした。
灰色の空からの光が、羊皮紙の上で鈍く反射する。
「最初の一手は、シルバークリークだな」
「はい。治水と、燻製小屋の建設。
あの村を『冬の倉』に変えるのが、第二の仕事の始動です」
「いいだろ」
カイは、床に落ちていたパンの欠片をひとつつまみ上げ、シルバークリークの円の上にぽんと置いた。
「明日、馬を出す。その変な地図、全部持ってこい。
現場で、どう沈んでるか見せてもらう」
「了解しました、団長」
シュアラは立ち上がり、散らばった紙を手早くまとめ始めた。
床の駒を一つひとつ拾い上げながら、胸の中で小さく数字を更新する。
(砦と三つの村。駒の数は多くない。でも、まだ並べ替える余地はある)
羊皮紙の片隅に、細い字で一行だけ書き足した。
『二番目の仕事:三つの村の冬』
名前を付けた瞬間、盤面の輪郭が少しだけくっきりする。
カイがその字を横目で見て、ふっと笑った。
「また“ゲーム”って書き足さねえあたり、少しは遠慮を覚えたか」
「心の中では、とっくにゲーム扱いしています」
「やっぱり怖え女だな、お前」
カイは呟き、マグカップを持ち直した。
そのとき、廊下の方から兵の声がかすかに聞こえてくる。
「なあ、今、若、文官と何か話してなかったか?」
「気のせいだろ。若がまともに喋るのは酒場だけだ」
そんな小さな会話が、砦の石壁のあちこちに飛び火していくことを、シュアラはまだ知らない。
彼女はただ、目の前の紙束の重みを、両腕で抱え直しただけだった。
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