死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します

桃我タロー

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第一章 ヴァルム試験国家編

第十三話 雪の日の作戦会議(2)

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 紙束を机の上に置き直すと、部屋の空気が少しだけ重く感じられた。

 窓の外では、灰色の雲がさらに低く垂れ込めている。
 雪になるか雨になるか、まだ迷っている空だ。

 カイは胡坐のまま、マグカップを口元に運び、冷めかけた湯をひと口飲んで顔をしかめた。

「さっきの話だが」

 彼がマグカップを机に置く。
 木の板を叩く鈍い音が、小さな部屋に広がった。

「粉と鉄と水を回すってのは分かった。
 だが、お前の天秤の絵、もう一つ皿があったろ」

 シュアラは一瞬だけ目を伏せ、天秤の紙を引き寄せた。

 片方の皿には「ヴァルム砦と三村」。
 もう片方には、小さく「帝都」 とだけ書かれている。

 その下に、細い線で別の天秤が描き足してあった。

 カイの視線がそこに落ちる。

「これは何だ」

「ヴァルムだけで持つ、もう一枚の皿です」

 シュアラは、丁寧に言葉を選んだ。

「帝都の皿と同じ高さに置くとは言いません。
 ただ、まったく別物としても扱いたくない」

「分かるようで、分からん言い方だな」

 カイが眉をひそめる。

「もっと単純に言え」

「はい」

 シュアラは深呼吸を一つした。

「帝都の役人たちが見ている地図と、私たちの足が踏んでいる雪の地図は違います」

 羊皮紙の上に指で線を引きながら続ける。

「帝都から見れば、この砦と三つの村は、『冬に七割死んでも仕方ない辺境』です」

「……その数字を最初に言ったの、お前だろ」

「父と帝都の役人たちが計算した数字です」

 声が少しだけ硬くなる。

「私は、その数字をもとに『帝国破産の帳簿』を書きました。
 けれど、その帳簿の中では、この砦にいる誰の顔も、名前も、載っていません」

 父が最後に笑って見せた顔が、一瞬、脳裏をかすめる。

 あのとき、彼は数字しか持てなかった。
 だからこそ、シュアラは今、数字以外のものを机の上に並べている。

「ここでは、違う帳簿を使いたいんです」

「違う帳簿?」

「はい。帝都の帳簿とは別に、ヴァルムだけの帳簿を」

 シュアラは、天秤の台座に小さく「ヴァルム」と書き込んだ。

「帝国の中に、小さく折りたたんだ一枚を差し込むだけです。
 帝都の命令を全部無視するわけではありません。
 ただ、ここで死ぬかどうかを決める数字だけは、自分たちで持っていたい」

「……帝国を見捨てる気か」

 カイの声が、さっきより低く落ちる。

 いつもの投げやりな調子ではない。
 戦場で敵影を見つけたときの、固く締めた声だ。

 シュアラは、彼の視線を正面から受け止めた。

(この人は、自分の足で裏切るつもりがない)

 帝都に失望しても、己の手で背を向けることはしない。
 そういう種類の真面目さだ。

 だからこそ、ここで嘘を混ぜるわけにはいかない。

「今のところ、そのつもりはありません」

 シュアラは、はっきりと言った。

「ただ――帝都に見捨てられたとき、こちらからも背を向けられる選択肢くらいは、持っていたいと思います」

 カイの眉がぴくりと動く。

「選択肢、ねえ」

「はい」

 シュアラは、膝の上で指を組み直した。

「『帝国を守る』と決めた騎士と、『帝国を壊す』と決めた反乱者のあいだに、
 『帝国を使うか切るかを、自分たちで選ぶ』側を一つ置きたいんです」

「普通はそこに、自分の名前を並べねえんだよ、文官」

「そうでしょうか」

「そうだ」

 カイは頭をかいた。

「帝国に仕える騎士は、『帝国を守る』って言う。
 帝国を憎んでる連中は、『ぶっ壊してやる』って言う。
 『どっちでもいいから、選ぶ権利を寄こせ』なんて言い出すのは――」

「珍しいですか」

「お前が初めてだな」

 その言葉には、わずかな愉快さが混ざっていた。

 シュアラは、自分の胸の内で、天秤の針が少しだけ振れるのを感じる。

(「危険人物」としてではなく、「変な女」として認識されましたね)

 帝都では、前者になることしか許されなかった。
 ここでは、どうやら後者で済む余地がある。

「帝都の帳簿では、私は『もう死んだ人間』として処理されています」

 懐から、折り畳んだ封筒の縁を指でなぞる。

 まだ署名されていない、自分の死亡届。

「だからこそ、ここでは“死なせない側”に回りたいんです」

 カイはしばらく黙ったまま、天井の煤の跡をじっと見ていた。
 やがて、短く息を吐く。

「……理解はできる」

 ぼそりと呟くように言う。

「納得できるかどうかは、正直まだ怪しいがな」

「納得していただく必要はありません」

 シュアラは首を振る。

「ただ、“冬までに何人死なせずに済むか”という数字だけは、共有していただきたい」

「お前、本当に変な女だな」

 カイは頭を掻きながら笑った。

「ラルスの件もそうだが……。
 殴るかどうかを『赤字かどうか』で決める文官なんざ、聞いたことがねえ」

「正確な基準だと思っています」

 自分で言いながら、胸の奥が少しざわついた。

 人間を箱や袋と同じように数えることに、嫌悪を覚える自分と、
 それをしなければ守れない人数がいると知っている自分が、同じ場所にいる。

 シュアラは机の端に、新しい紙を一枚引き寄せた。

 上部に、ペン先で文字を刻む。

『ヴァルム帳簿(仮)』

 その下に、小さく書き足す。

『優先順位:冬に死なせないこと』

 カイがそれを覗き込み、鼻で笑った。

「物騒な帳簿だな」

「帝都のよりは、少しだけ優しいつもりです」

「どこがだよ」

「一応、『誰を切り捨てるか』の欄は、まだ作っていませんから」

 真顔で言うと、カイは頭を抱えた。

「……お前の『優しい』の基準、分かんなくなるな」

「分からなくなったら、そのつど殴って止めてください」

「殴るのが前提かよ」

 カイは呆れたように笑い、それきり少しだけ表情を引き締めた。

「ラルスの話だが」

 彼はマグカップを指で叩きながら言う。

「盗んだ分を働かせて返させるって案、乗る」

「ありがとうございます」

「ただし、ひとつ条件だ」

「条件?」

「同じことをもう一度やったら、そのときは俺が殴る」

 椅子の背にもたれ、目を細める。

「どれだけお前が計算しても、二度目は止めるな」

 シュアラは少しだけ考え、それから頷いた。

「再利用の余地がなくなったら、そのときは処罰に切り替えます」

「最初からそう言え」

 ぶっきらぼうな言葉。
 だが、さっきまでよりも、カイの目の濁りは薄くなっているように見えた。

 彼女はその変化を、観察として胸の中に留める。

 紙束をまとめ、手帳を開く。
 新しいページの上部に、ペン先で文字を刻んだ。

『ヴァルム盤:砦と三村』

 少し間を空けて、その下にもう一行。

『方針:処罰より使い道』

「……物騒な見出しだな」

 向かいから、カイの声が落ちてくる。

 彼は椅子の背にもたれ、片肘を机に乗せたまま、眠気と疲労の混ざった目でこちらを眺めている。
 その奥に、薄く笑いが浮かんでいた。

「仕事の名前は、分かりやすくあるべきです」

 シュアラは顔を上げずに答えた。

「中身はもっと物騒ですよ。人を殴るより酷いことをします」

「おい」

 カイが眉をひそめる。

「殴るより酷ぇって、本人の前で平然と言うな」

「事実ですから」

 淡々と返すと、カイは短く息を吐いた。

「……まあいい。お前の『酷ぇやり方』で、この冬の死人が減るなら、文句はあとでまとめて言う」

「まとめて、ですか」

「ああ。三ヶ月後にな」

 そう言って、カイは椅子から立ち上がった。
 外套を掴み、肩にひっかける。

「ゲルトにも伝えとけ。『殴りかけた兵を止めた分、仕事が増える』ってな」

「それは団長が自分で伝えるべき内容では?」

「やだね」

 ぶっきらぼうに言い捨てて、カイは扉へ向かう。
 取っ手に手をかけたところで、ふと振り返った。

「……明日の村回りのときだが」

「はい」

「あの『冬の倉』の話、村の連中にもしてやれ」

 カイの声は低いが、その中にわずかな期待の色が混ざっていた。

「分かりやすくな。難しい言葉ばっかり並べてみろ、
 俺が一行に要約してやる」

「それは助かります」

 シュアラも、わずかに笑った。

「団長の要約は、だいたい正確ですから」

「……褒めてんのか、それ」

「はい。多分」

 カイは呆れたように笑い、それきり何も言わずに部屋を出ていった。

 扉が閉まる音が、静かに響く。

 シュアラは一度だけ深く息を吐き、机の上の帳簿に手を伸ばした。

 まだ乾ききらないインクの匂いと、窓の隙間から入り込む冷たい空気。
 その境目に、自分たちだけの天秤がぶら下がっていると、彼女は理解していた。
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