死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します

桃我タロー

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第一章 ヴァルム試験国家編

第十五話 ミルストーンの粉と欲(1)

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 東の村から戻った翌朝、ヴァルム砦の空は鉛の薄膜を張ったように重かった。
 雪を孕みながら降りてこない雲が、夜の名残を惜しむように空を塞いでいる。
 石床の冷たさは、踏みしめるたび骨の奥へ沁みる。朝というより、冷気の底から這い上がるような時間だ。

 シュアラは、小さな執務室で簡易地図を広げていた。
 厚い羊皮紙の上に、パン屑と小石で作った三つの村の印――東のシルバークリーク、西のアイアンストリーム、そして南のミルストーン。
 本来なら、南は粉が余っているはずだった。

 だが帳簿は逆を示している。
 紙の端には、昨夜カイと突き合わせた数字が、そのままの勢いで残っていた。

『ミルストーン:粉袋の収支に不一致多数』
『村長ブライスの私的貸し付け疑い』
『冬越しの天秤上、最重要』

(南を無視した瞬間、三皿の天秤は崩れる)

 砦、東の村、西の鉱山村――それぞれの皿に、粉と鉄と人の胃袋が乗っている。
 そのうち一枚でも底が抜ければ、残りの皿も連鎖して傾く。
 粉は、冬の命の最低ラインだ。
 東の村へ“十日分”を送った以上、南の循環が止まれば、砦も沈む。

 ペン先でミルストーンの印を軽く叩いた。
 乾いた音が、自分の胸の奥にも響く。

(ここで数字を誤魔化されると、盤面が歪む)

 そう考えている最中、扉が軽く叩かれた。

「文官、入るぞ」

 返事を待たずに入ってきたのはゲルト。その後ろには、湯の湯気を揺らすカイがいた。
 カイのマグから立ち上る湯気は白く、彼の寝癖混じりの黒髪の周辺で、妙な輪を描いている。

「南に行く準備はできてる」

 そう言うカイの声は、いつもよりわずかに張りがあった。
 東の村での狼煙と死体の布――あれが、彼のどこかをわずかに覚醒させたのだと、シュアラは推測する。

「団長、昨夜の帳簿ですが――」
「ああ、粉の減り方がおかしいってやつな」

 カイは湯を一口飲み、ひりつく喉を洗うように息を吐いた。

「三割だっけか。自然に減る数字じゃねえ」
「袋の破損、もしくは意図的な移動です」

「なら、現物を見れば早い」

 その声音は軽く見えて、奥に戦場のような緊張があった。
 戦場では「地図より地面」を優先する。
 彼は、今目の前に広げられた簡易地図よりも、実際の粉袋の重みを選ぶ人間だ。

「今日の目的は二つです」

 シュアラは、羊皮紙の端を押さえながら言った。

「一、粉挽き小屋の帳簿確認。二、村長個人の貸し借りを“村の帳簿”に戻すこと」
「また天秤の話か?」

 ゲルトが鼻を鳴らす。

「ええ。粉の胃袋に穴が空けば、東に送った分も無駄になります」

 数字だけでなく、昨日見たリナの細い手首も頭をよぎる。
 あの手が抱えるパンを、これ以上薄くしたくはない。
 ゲルトは腕を組み、尾てい骨で壁を軽く叩いた。

「相手はブライスだぞ。狸だ」
「昨年の税記録にも“後書き”の跡がありました」
「数字より壊れ物が効くタイプだな」

 カイのつぶやきに、シュアラは首を傾げた。

「壊れ物……?」
「行けば分かる」

 彼はそれ以上説明しなかったが、その眼差しはいつもより冷静だった。
 酔いに濁っていた瞳から、少しずつ霧が晴れつつある。
 窓の外で寒気を切る風が石壁を震わせた。
 シュアラは柔肌を軽く擦ってから外套を羽織り、二人の後に続く。
 南へ向かう街道は、朝霧の名残が薄く漂っていた。
 霜柱を踏む音が、一定のリズムで続く。

 馬の息が白く膨らみ、冬の入り口が空気を固くしていく。
 行列の先頭にカイ、その少し後ろにゲルトと第一班の兵たち。
 シュアラは列の真ん中、借りた馬の背で、揺れに合わせて必死に腰を固定していた。

(……やっぱり、落ちそうです)

 鞍の上で体が浮くたび、腹の底がひやりとする。
 東の村へ向かったときと同じ恐怖だが、今回は少しだけマシだった。
 落ちる危険を、一度「経験値」として数字に組み込んだからだ。

「嬢ちゃん、馬に慣れたか?」

 後ろからゲルトの声が飛んでくる。

「死ぬほどではありません」
「ほう、上出来だ」

(死ぬほどではない=高評価……? 素人基準で、ということでしょうか?)

 妙な評価基準に戸惑いつつも、返す言葉は「ありがとうございます」だけだった。
 丘を越えた瞬間、のっそりと巨大な影が見えた。
 ミルストーンの大風車だ。
 雪を抱いた羽根は重く、不器用に空を掻いている。
 ギィ……ゴゴゴン……と、どこか痛みに耐えるような音が響いた。

(回転が遅い。七割……粉袋の減少と一致)

 風車の回転は、村全体の“呼吸”だ。
 息を吸い込み、粉に変えて吐き出す。
 今のミルストーンは、明らかに息が浅い。
 風車の根元には、粉挽き小屋。

 その前に、丸い腹の男――村長ブライスが立っていた。
 人懐っこい笑みの形だけ作り、目だけが冷えている。
 脂の乗った狐に、人間の服を着せたような顔だ。

「いや~砦の皆さん、朝早くからどうして」

 後ろで粉袋を抱える若者たちが、誰一人目を合わせようとせず、小屋へ急いで消えていく。
 怯えではなく、後ろめたさ。それが速さに表れていた。
 カイが馬を降り、手綱を兵に渡す。
 シュアラも、慎重に鞍から降りた。

「昨年比で粉が三割減っています」

 足元の雪がきしむ音と重なるように、静かに告げる。

「冬前にこれは不自然です。帳簿を拝見します」

 ブライスは大げさに手を振り、笑顔を作った。

「いやあ風が強くてね! 粉なんて軽いもんで、飛ぶんですよ!」
「三割も?」

 シュアラの問いに、ブライスの笑みが僅かに引きつる。

「そ、そりゃネズミも食いますしね! 賢いんですよあいつらぁ!」
(賢くても三割は食べません。そんなネズミがいたら、帝都の食糧も消えているはずです。そもそも、三割も食うわけないですよ。保管場所の質が担保されていることは確認済みなんですから)

 喉まで出かかった言葉を飲み込む。
 代わりに、数式だけを頭の中で並べた。

「触っていいか?」

 カイが積まれた粉袋に手を伸ばした。
 掌を押し当て、軽く沈める。ずぶりと頼りない感触。
 ブライスの額に汗がにじむ。

「……村長」

 シュアラは穏やかに言った。

「帳簿を確認したいだけです。隠さなければすぐ終わります」
「な、なにも隠してなんて――」
「嘘くせえ声だな」

 ゲルトが冷たく吐き捨てた。
 風車の軋みと、男の声の薄さが、雪の上で奇妙に重なる。
 ブライスが口を開きかけた、その瞬間――音がした。

 パキン。
 粉挽き小屋の窓辺に飾られていた陶器の壺が、床に落ちて砕けた音だ。
 壺を持ち上げ、落としたのはカイだった。

「だ、団長さん! 高い――」

 ブライスの叫びを、カイが肩越しに振り返って遮る。

「次はもっと高いやつ割る。帳簿を出せ」
「ひっ……わかった! 本物を!」

 ブライスは慌てて奥へ消え、埃をかぶった帳簿を抱えて戻った。
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