死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します

桃我タロー

文字の大きさ
23 / 70
第一章 ヴァルム試験国家編

第十五話 ミルストーンの粉と欲(2)

しおりを挟む

 胸を抱え込む腕が、微かに震えている。
 シュアラは、差し出された帳簿を受け取り、表紙の汚れと指の跡を一度確かめてから、ゆっくりと開いた。
 ページを捲ると、インクは不自然に均一。

 日付の並びに対して、筆圧がどれも同じだ。

(筆圧が同じ。日付の改竄……後書きですね)

 貸し付け欄は多いが、返却欄は空白。
 そして貸付先が偏りすぎている。特定の家名ばかりが並ぶ。

「困っていた村人を助けた、とありますね。返却は?」
「そ、それは……多少“見返り”が……」
「あなた個人への、ですね」

 ブライスの喉が、ごくりと動いた。
 風が粉袋を揺らし、空気の冷たさが肌を刺す。
 風車の羽根が鈍く回り続ける音が、妙に大きく感じられた。
 カイが低い声で言う。

「村長。お前のやり方じゃ、村の外に借りが残る」
「外って?」

 ブライスが虚勢を張るように眉を吊り上げた。

「砦だ。お前が個人で粉を動かしても、村の信用にならん。“粉が消えた村”って評価だけが残る」

 シュアラは静かに帳簿を掲げた。

「村単位で砦と取引しましょう。不足は砦が貸し、返すのは“村”。あなたの懐ではなく、村の帳簿に記録します」

 ブライスは長い沈黙のあと、肩を落とした。
 雪を踏む足音が遠くで聞こえる。粉挽き小屋の中で働いていた若者たちが、そっとこちらを伺っていた。

「……そこまでやる理由は……」
「あなたの村が沈めば東が沈み、東が沈めば砦が沈みます。合理的に考えた結果ですよ」

 シュアラは、淡々と、しかしごまかさずに告げた。

「この村だけの問題ではありません。無駄を減らさないと、不明確な支出が増え続けるだけですよ」

 観念したようにブライスは、もう一冊――隠していた帳簿を差し出した。
 それは先ほどのものよりも薄く、紙質も良い。

「……粉の本当の流れも……全部出す」
「最初からそうしてくだされば、壺は一つで済みました」

 カイがぼそりと付け加える。
 ブライスの顔が引きつり、若者たちの間から小さく乾いた笑いが漏れた。

 粉挽き小屋の奥は、粉塵と湿気で白く霞んでいた。
 石臼の低い響きが腹に伝わる。足元の板は踏むたび軋み、そのたびに粉がふわりと舞い上がる。

「くしゃみ出そうだな……」

 ゲルトが鼻を揉みながらぼやく。
 シュアラは、粉袋の重さを測り、一つずつ記録していった。
 布の縫い目、湿り具合、積まれ方――普段なら見過ごされる細部も、全部数字に変えていく。

 遠巻きに村人たちが見ていた。
 緊張と不安と、「バレるかもしれない」という恐れが混ざった顔だ。

「返却がゼロの方、手を挙げてください」

 沈黙が落ちる。
 雪の上ではなく、粉塵の中での沈黙は、やけに重かった。
 しばらくしてから、数人がそっと手を挙げた。
 年老いた男。赤子を抱いた女。痩せた青年。

「……すまねえ……」
「子どもが熱出して……粉が足りなくて……」

 弱い声だが、そこには生活の切迫がにじんでいた。

(生活困窮、個人の善意、独占、帳簿の改竄……積み重なった結果がこれ)

 帝都の帳簿で見てきた「不正」とは、少し質が違う。
 ここには、自分の腹と子どもの腹を秤にかけた結果が混ざっている。

「返せとは言いません。返すのは“村”。来年の収穫で処理します」

 村人たちは驚いたように顔を見合わせた。

「そんな仕組みが……」
「できます。我々が証人です」

 シュアラは粉袋を押しながら言った。

「今日から、粉袋の重さを毎朝測り、押印します。記録は砦で帳簿を扱っている兵に教えます。勝手に動かせば――」
「動かせば?」

 ブライスが肩をすくめる。
 視線の端で、ラルスの顔つきが過った。
 彼のように「抜け道を知っている人間」がいる以上、ここでも同じ穴が開きかねない。
 シュアラは、意図的に少し間を置いてから答えた。

「わかっていますよね?」

 後ろでカイが腕を組み、淡々と頷く。
 それを見たブライスが顔を青くした。

「壺でも、扉でも、粉挽き車でも。壊す物がなくなると困るから、なるべく動かすな」

 村人たちが苦笑した。
 張り詰めた空気が少し柔らいだ。
 ゲルトがその隙を逃さず、声を張る。

「それとよ。お前ら、粉の貸し借りする時は、必ずこの女か村長か、どっちかの目の前でやれ」
「この女って……」
「軍師殿だ」

 ん、と顎でシュアラを示す。
 その呼び方はまだ村には馴染んでいないが、砦では少しずつ広まりつつあった。

「勝手にやると、あとで数字に殴られんぞ」
「数字に……?」
「怖えぞ、数字は。黙って人を殺すからな」

 ゲルトの妙に実感のこもった言い方に、村人が身をすくめる。

(……そこまで暴力的なものとして扱うつもりはないのですが。まぁ、いいでしょう)

 心の中で小さくため息をつきつつ、シュアラは粉袋の最後の一つに印を押した。

 外へ出ると、風車は先ほどよりわずかに力強く回っていた。
 ギィ、ゴン……と低く響くが、弱り切った音ではない。
 作業を終えた村人たちが、小屋の前で分厚い手袋を揉みながら息を吐いている。
 ブライスはその輪から少し離れた場所で、帳簿を抱えて所在なげに立っていた。

「……あんた、本当にやる気か」

 彼はぽつりと訊ねた。

「何をでしょう」

「『村の帳簿』ってやつだよ。今まで俺が自分の懐でやってきた貸し借りを、わざわざ表に出して……」
「名前が出た方が、誤魔化しづらくなります」

 シュアラは率直に告げる。

「その代わり、あなただけが火消し役をする必要はなくなります。村全体の責任になりますから」

 ブライスは、しばらく黙り込んだ。
 分厚い指で帳簿の角を何度も撫でる。

「……あんた、清いな」
「清くはありません。計算しているだけです」
「計算、ねえ。俺には、清く見えるがな」

 その言葉には少しだけ棘があった。
 シュアラは、その棘の意味を完全には理解できなかった。

(清廉さだけでは動かない人間――父が何度も言っていた種類の人ですね)

 帝都の貴族や商人とは違う。
 ここにいるのは、自分の腹と村の腹を同じ鍋で煮詰める男だ。
 鍋から少し多く掬っても、鍋ごと焦げさせる気はない。

「村長」

 代わりに口を開いたのはカイだった。

「お前が今までやってきたことも、全部ひっくり返す気はねえ」
「……ほう?」

 ブライスが怪訝そうに眉を上げる。

「困ってた奴を助けてやったってのは、たぶん本当だろ。

 その代わりに利子を取った。そこまではお前の『商売』だ」
 カイは雪を靴で軽く蹴った。
 粉雪が散り、白い地面に靴跡がひとつ増える。

「これからは、砦と『村』の貸し借りも、同じだ。俺たちは粉を貸す。お前らは春に収穫で返す。ただし、返せなかったときに首を絞めるのは“村全体”だ。お前の家の棚じゃねえ」
「……それで、砦は得をするのか?」
「するさ」

 カイは腕を組んだ。

「『モノが消える村』よりも、『ちゃんと返そうとする村』の方が守り甲斐がある。信頼できるしな」

 その言い方は、どこか戦場の「盾と槍」の話に似ていた。
 役に立つ盾なら手入れをし、穴が開いた盾なら捨てる。
 ただし、今のカイは「穴を塞いで使い続ける」方を選んでいる。
 ブライスは、ゆっくりと息を吐いた。

「……分かった。やれるところまでやってみる」
「できなかったら言え」

 ゲルトが横から口を挟む。

「今さら『狸』が素に戻ったところで、誰も驚かねえ。

 そのときゃ、若と軍師殿がまた壺を割りに来るだけだ」

「割られる壺が残ってればな……」

 ブライスの嘆きに、村人たちの間から笑いが漏れた。

 砦への帰り道。
 風車は背後で回り続けている。
 雪雲を切り裂くように、ゆっくりと。
 手綱を握りながら、カイが呆れたように言った。

「お前、村全体をでっけえ帳簿だと思ってねえか?」
「はい。数字に置き換えれば動かせる部分が分かります」

「……数字の女だな」
「“数字女”は王宮での呼ばれ方です。好きではありません」

 むっとして返すと、カイは少しだけ視線を逸らした。
 雪を踏む馬の蹄音が、会話の合間を埋める。

「じゃあ……軍師殿でいい」

 何気なく放たれたその言葉が、胸の奥に落ちた。
 それは白湯のようにじんわりと広がり、冷たい朝の空気を押し返していく。

(清廉さだけでは、盤面は動かない)
(でも、だからといって、全部を濁らせる必要もない)

 ブライスの帳簿を思い出す。
 汚れた数字と、どうしようもない生活の匂い。
 そのどちらも切り捨てずに扱うやり方を、少しだけ掴めた気がした。

(東の村に煙。南の村に帳簿。天秤は……ほんの少し動いた)

 風車の羽根が雪雲を切り裂き、回り続ける。
 冬は近い。
 だがその羽根は、もはや沈んでいなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

婚約破棄で悪役令嬢を辞めたので、今日から素で生きます。

黒猫かの
恋愛
「エリー・オルブライト! 貴様との婚約を破棄する!」 豪華絢爛な夜会で、ウィルフレッド王子から突きつけられた非情な宣告。 しかし、公爵令嬢エリーの心境は……「よっしゃあ! やっと喋れるわ!!」だった。

身代わりで呪いの公爵に嫁ぎましたが、聖女の力で浄化したら離縁どころか国一番の溺愛妻になりました〜実家が泣きついてももう遅い〜

しょくぱん
恋愛
「お前のような無能は、死神の生贄にでもなっていろ」 魔力なしの無能と蔑まれ、家族に虐げられてきた伯爵令嬢レティシア。 彼女に命じられたのは、近づく者すべてを病ませるという『呪いの公爵』アレクシスへの身代わり結婚だった。 鉄格子の馬車で運ばれ、たどり着いたのは瘴気に満ちた死の城。 恐ろしい怪物のような男に殺される――。 そう覚悟していたレティシアだったが、目の前の光景に絶望よりも先に別の感情が湧き上がる。 (な、何これ……汚すぎるわ! 雑巾とブラシはどこ!?) 実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。 レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。 「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」 冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。 一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。 「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」 これは、掃除を愛する薄幸令嬢が、その愛と魔力で死神公爵を救い、最高に幸せな居場所を手に入れるまでのお話。

なぜ、私に関係あるのかしら?

シエル
ファンタジー
「初めまして、アシュフォード公爵家一女、セシリア・アシュフォードと申します」 彼女は、つい先日までこの国の王太子殿下の婚約者だった。 そして今日、このトレヴァント辺境伯家へと嫁いできた。 「…レオンハルト・トレヴァントだ」 非道にも自らの実妹を長年にわたり虐げ、婚約者以外の男との不適切な関係を理由に、王太子妃に不適格とされ、貴族学院の卒業式で婚約破棄を宣告された。 そして、新たな婚約者として、その妹が王太子本人から指名されたのだった。 「私は君と夫婦になるつもりはないし、辺境伯夫人として扱うこともない」 この判断によって、どうなるかなども考えずに… ※ 中世ヨーロッパ風の世界観です。 ※ ご都合主義ですので、ご了承下さい、 ※ 画像はAIにて作成しております

王子、おひとり様で残りの人生をお楽しみください!

ちゃっぴー
恋愛
「ラーニャ、貴様との婚約を破棄する!」 卒業パーティーの真っ最中、ナルシストな第一王子ウィルフレッドに身に覚えのない罪で断罪された公爵令嬢ラーニャ。しかし、彼女はショックを受けるどころか、優雅に微笑んで拍手を送った。 なぜなら、ラーニャはとっくに王子の無能さに愛想を尽かし、この日のために完璧な「撤退準備」を進めていたからだ。

お前のような地味な女は不要だと婚約破棄されたので、持て余していた聖女の力で隣国のクールな皇子様を救ったら、ベタ惚れされました

夏見ナイ
恋愛
伯爵令嬢リリアーナは、強大すぎる聖女の力を隠し「地味で無能」と虐げられてきた。婚約者の第二王子からも疎まれ、ついに夜会で「お前のような地味な女は不要だ!」と衆人の前で婚約破棄を突きつけられる。 全てを失い、あてもなく国を出た彼女が森で出会ったのは、邪悪な呪いに蝕まれ死にかけていた一人の美しい男性。彼こそが隣国エルミート帝国が誇る「氷の皇子」アシュレイだった。 持て余していた聖女の力で彼を救ったリリアーナは、「お前の力がいる」と帝国へ迎えられる。クールで無愛想なはずの皇子様が、なぜか私にだけは不器用な優しさを見せてきて、次第にその愛は甘く重い執着へと変わっていき……? これは、不要とされた令嬢が、最高の愛を見つけて世界で一番幸せになる物語。

『外見しか見なかったあなたへ。私はもう、選ぶ側です』

鷹 綾
恋愛
「お前のようなガキは嫌いだ」 幼く見える容姿を理由に、婚約者ライオネルから一方的に婚約を破棄された 公爵令嬢シルフィーネ・エルフィンベルク。 その夜、嫉妬に狂った伯爵令嬢に突き落とされ、 彼女は一年もの間、意識不明の重体に陥る――。 目を覚ました彼女は、大人びた美貌を手に入れていた。 だが、中身は何ひとつ変わっていない。 にもかかわらず、 かつて彼女を「幼すぎる」と切り捨てた元婚約者は態度を一変させ、 「やり直したい」とすり寄ってくる。 「見かけが変わっても、中身は同じです。 それでもあなたは、私の外見しか見ていなかったのですね?」 静かにそう告げ、シルフィーネは過去を見限る。 やがて彼女に興味を示したのは、 隣国ノルディアの王太子エドワルド。 彼が見ていたのは、美貌ではなく―― 対話し、考え、異論を述べる彼女の“在り方”だった。 これは、 外見で価値を決められた令嬢が、 「選ばれる人生」をやめ、 自分の意思で未来を選び直す物語。 静かなざまぁと、 対等な関係から始まる大人の恋。 そして―― 自分の人生を、自分の言葉で生きるための物語。 ---

勘当された悪役令嬢は平民になって幸せに暮らしていたのになぜか人生をやり直しさせられる

千環
恋愛
 第三王子の婚約者であった侯爵令嬢アドリアーナだが、第三王子が想いを寄せる男爵令嬢を害した罪で婚約破棄を言い渡されたことによりスタングロム侯爵家から勘当され、平民アニーとして生きることとなった。  なんとか日々を過ごす内に12年の歳月が流れ、ある時出会った10歳年上の平民アレクと結ばれて、可愛い娘チェルシーを授かり、とても幸せに暮らしていたのだが……道に飛び出して馬車に轢かれそうになった娘を助けようとしたアニーは気付けば6歳のアドリアーナに戻っていた。

処理中です...