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第一章 ヴァルム試験国家編
第十九話 凍てつく射場の計算書(2)
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風が一度、強く吹き抜けた。
鈍い金属の音と足音が近づいてきて、すぐ近くで止まる。
「……ずいぶんと、寒い顔してるな」
聞き慣れた低い声だった。
シュアラが顔を上げると、カイが塀の影に立っていた。
外套の襟を片手で押さえ、彼女と、切れた縄とを順番に眺める。
「ゲルトから、少しだけ聞いた」
「“少しだけ”という顔ではありませんね」
自分の声が、妙に乾いているのが分かった。
「また怒鳴られました。『人は数字じゃ動かねえ』と」
「……まあ、そう言うだろうな、あいつは」
カイは苦笑を浮かべる。
「俺も、最初にお前の床を見た時は似たようなことを思った」
「床、ですか」
「数字と石とパンくずだらけのやつだ」
彼は、霜を踏んでシュアラの近くまで来る。
いつものマグは持っていない。
かわりに、手袋越しに手を組んでいた。
「さっきの話、俺にもしてくれるか」
「どこからです?」
「お前の好きな、“ゲーム”の話からでいい」
促され、シュアラは手帳を開いた。
ゲーム3のページ。距離、対象、命中率、震え具合。
そして、その前のページには、死亡率の計算が並んでいる。
「恐怖を、“戦力の損失”として扱うことにしました」
彼女は、静かに言った。
「恐怖のせいで矢が一本も撃てないなら、それは実質的に兵力ゼロです。
ならば、どこまでなら矢を撃てるのか、その境界を数字で測るべきだと」
「理屈は分かる」
カイは、ページを覗き込んだ。
『死者六人→四人(期待値)』
という行に目を留める。
「リオに、これを見せたのか」
「はい。彼の矢が飛ぶことで、“死なずに済む兵が二人増える”と」
「そりゃあ……押しつぶされるだろうな」
カイは、わずかに顔をしかめた。
「そんなにおかしなことを言いましたか」
「おかしくはない」
彼は即座に否定した。
「間違ってもいない。
ただ、“いきなり全部見せすぎた”んだろう」
冷たい空気の中で、カイの息が白く曇る。
「俺だって、最初の戦で斬ったのは一人だ。
数字にすりゃ、“敵軍の兵のうちの一”に過ぎねえけど……寝られなかったぞ」
シュアラは、目を瞬いた。
彼が自分の過去を話すのは、珍しい。
「何日も何日も、あいつの顔だけが頭の中で繰り返される。
誰も、『あれで村の死者が何人減った』なんて数字を教えてはくれなかった」
カイは、少し息を吐いた。
「多分、教えられてたら、余計眠れなかった」
「……どうしてです?」
「“俺が斬らなきゃ、その分村人が死んだ”って話になるからな」
カイは、雪のような霜を靴先で払いながら言う。
「お前の計算は、そういう話だろ。
“撃てば守れる命がある。撃たなきゃ死ぬ命がある”」
「ええ」
それは、彼女が何度自分に言い聞かせた理屈でもあった。
「俺たち指揮官は、それを頭に叩き込んでおかないと、判断を誤る。
どこかで誰かを切り捨てねえと、全員死ぬことだってある」
カイは、シュアラをまっすぐ見た。
「でも、それを“そのまんまの形”で兵に渡すかどうかは、また別の話だ」
「……では、偽るべきだと?」
「いや」
即座に首を振る。
「嘘はつくな。あいつらは、すぐ見抜く。
ただ、“どこを見るか”だけは選んでやれ」
シュアラは、手帳を見下ろした。
数字の列。死者の期待値。恐怖のコスト。
「俺がさっき見たお前のページには、『死ぬかもしれねえ二人』の数字がある」
カイは、指先でその行を叩いた。
「けど、リオの頭ん中にいるのは、“肩を撃たれたあいつ”一人だ。
お前があいつに見せるべきなのは、多分、『新しく増える二人』じゃなくて――」
そこで言葉を切る。
「『お前が守れるかもしれねえ誰か』のほうだ」
シュアラは、カイの顔を見た。
「守れるかもしれない、誰か」
「あいつ、村の子どもと話してるとき、ちょっとだけ顔が柔らかくなるの、見たろ」
カイは、思い出したように笑った。
「この前、粉引き婆さんの家で、荷物運ぶの手伝ってた時とかよ」
「……はい」
思い当たる光景が、頭に浮かぶ。
大きな袋を一人で持ち上げられず、リオが黙って支えていたあの時。
「あいつに、“撃たなきゃ二人死ぬ”って言うんじゃなくてさ」
カイは、霜の上に指で簡単な図を描いた。
一つの丸。その横に、小さな点をいくつか。
「“お前が撃たなかったら、この婆さんが斬られるかもしれねえ”とか、“あの子どもの親父が帰ってこねえかもしれねえ”とか。
そういう“顔つきの誰か”で考えさせてやるほうが、多分あいつには効く」
それは、数字には載らない話だ。
「……“撃つことが正しい”と説くのではなく、“撃たなかったときに誰が死ぬか”を一緒に考えろ、ということですか」
「そうだ」
カイは頷いた。
「お前の計算式の中に、名前を入れてやれ。
リオに、『自分がどの死なら背負えるか』を選ばせてやれ」
「どの死なら……」
シュアラは、思わず繰り返した。
「敵か、味方か。
見知らぬ誰かか、昨日パンを分けてくれた誰かか。
選びたくない選択を、あいつに押しつけることになる」
カイは、言葉を選ぶように続ける。
「でも、“選ばせてもらえないまま”矢を握らされるよりは、まだマシだ」
シュアラの胸の奥で、何かが変な音を立てて動いた。
恐怖のコスト。
今まで、それは「死者の増減」としてしか見えていなかった。
けれど、カイの言葉は、そのコストに「顔」と「名前」を付けることを求めている。
「……それは、非合理です」
口をついて出た言葉は、半分だけ本音だった。
「誰か一人の顔を特別扱いすれば、判断が揺らぎます。
公平性が失われ、全体の最適解から外れる可能性が――」
「お前はもう、何人かの顔を特別扱いしてるだろ」
カイが静かに遮った。
「最初に門番に毛布をかけた時からな」
喉の奥が熱くなるような感覚がした。
「……それは、最低限の資産保全です」
「そういうことにしておけ」
カイは、薄く笑った。
「お前がどう言い繕っても、現場の人間は知ってる。
嬢ちゃんは“誰でもいい誰か”じゃなくて、“今目の前にいるこの一人”を生かすために走ってるってな」
言葉が出ない。
「だから、その“甘さ”を、たまには数字の中に混ぜてやれ」
カイは、冬空を見上げた。
「恐怖のコストってのは、多分、“誰かを失うのが怖い”ってことだ。
それをただ“損失”として削るんじゃなくて、“守りたい対象”として計算に入れてみろ」
シュアラは、ゆっくりと手帳を見下ろした。
距離、対象、命中率、震え具合。
死者六人、四人。
そこに、名前は一つも書かれていない。
「……難題ですね」
ようやく、それだけが言えた。
「俺には計算式なんざ書けねえ。そこはお前の仕事だ」
カイは、そう言って肩をすくめる。
「ただ、さっきのリオの顔を見ちまうとよ。
“恐怖のコスト”って欄に、あいつの全部を押し込めちまうのは、見てられねえ」
彼は踵を返した。
「昼までには、北の見張り台の交代に顔出す。
それまでに、少しあったまってこい。顔が真っ青だ」
「……はい」
カイの背中が遠ざかり、足音が消えていく。
射場に残ったのは、切れた縄の切れ端と、霜と、手帳だけだった。
日が傾く頃、シュアラの部屋には、また蝋燭の光が戻っていた。
床に散らばる紙の上に、“ゲーム3”のページを抜き出すように手帳を広げる。
昼間、ゲルトとカイの前で見せた計算式。
死者の期待値。恐怖のコスト。
彼女はしばらくそれを眺め、それから大きく息を吐いた。
「……これは、失敗ですね」
自分に向けた宣告だった。
ペンを取る。
計算式がびっしりと詰まった一枚を、綴じ目から丁寧に破り取った。
紙が裂ける音が、静かな部屋にやけに大きく響く。
破ったページの上部に、ただ一言だけ書き込む。
『失敗』
それから、その紙を二つ、三つに折りたたみ、火のついていない小さな炉の隅に押し込んだ。
燃やしはしない。
けれど、手元の「ゲーム3」のページから、その計算を切り離す。
新しく開いたページの一番上に、ペン先を乗せる。
『ゲーム3:狙撃手リオ(改)』
その下に、最初に書き込んだ。
『目的:仲間の死者数を最小化すること(死者ゼロを目標に)』
続けて、もう一行。
『前提:恐怖は“除去すべき誤差”ではなく、“守りたい対象がいる証拠”』
ペン先が震えた。
それでも、書き続ける。
『リオに提示すべき問い:
「撃つべきか」ではなく
「撃たなかったとき、誰が死ぬか/誰を守れなくなるか」』
名前を書く欄を、枝分かれするようにいくつか空けた。
『例:粉引き婆さん/門番の兵/ルバークリークの子どもたち ……』
(公平ではない。非合理です)
心のどこかが、そう呟く。
誰か一人を特別扱いすれば、数字は歪む。
最適解から外れる可能性もある。
けれど――
(あの子の恐怖は、“誰でもいい二人分”の数字なんかじゃない)
肩を撃たれた仲間の顔。
村の子どもたちの笑い声。
粉引きの老婆の、節くれ立った手。
それら全てが、恐怖というコストの内訳なのだとしたら。
(ならば、その内訳ごと、計算式に組み込むしかありません)
シュアラは、最後に小さく書き添えた。
『備考:人は数字どおりには動かない(ゲルトの指摘)→式に「名前」の変数を追加』
ペン先を離す。
蝋燭の火が、ページの上で揺れた。
冬は、ゆっくりと近づいている。
その冬を越えるために必要なのは、矢とパンと鉄だけではない。
恐怖と責任を抱えたまま、それでも指を動かせるだけの「理由」だ。
「……リオには、別の聞き方をしないといけませんね」
誰に向けるでもなく、そう呟く。
恐怖のコストを、ただ減らすのではなく、正しく支払うために。
シュアラは手帳を閉じ、指先で表紙を一度撫でた。
静かな音が、また冬の空気の中に溶けていった。
鈍い金属の音と足音が近づいてきて、すぐ近くで止まる。
「……ずいぶんと、寒い顔してるな」
聞き慣れた低い声だった。
シュアラが顔を上げると、カイが塀の影に立っていた。
外套の襟を片手で押さえ、彼女と、切れた縄とを順番に眺める。
「ゲルトから、少しだけ聞いた」
「“少しだけ”という顔ではありませんね」
自分の声が、妙に乾いているのが分かった。
「また怒鳴られました。『人は数字じゃ動かねえ』と」
「……まあ、そう言うだろうな、あいつは」
カイは苦笑を浮かべる。
「俺も、最初にお前の床を見た時は似たようなことを思った」
「床、ですか」
「数字と石とパンくずだらけのやつだ」
彼は、霜を踏んでシュアラの近くまで来る。
いつものマグは持っていない。
かわりに、手袋越しに手を組んでいた。
「さっきの話、俺にもしてくれるか」
「どこからです?」
「お前の好きな、“ゲーム”の話からでいい」
促され、シュアラは手帳を開いた。
ゲーム3のページ。距離、対象、命中率、震え具合。
そして、その前のページには、死亡率の計算が並んでいる。
「恐怖を、“戦力の損失”として扱うことにしました」
彼女は、静かに言った。
「恐怖のせいで矢が一本も撃てないなら、それは実質的に兵力ゼロです。
ならば、どこまでなら矢を撃てるのか、その境界を数字で測るべきだと」
「理屈は分かる」
カイは、ページを覗き込んだ。
『死者六人→四人(期待値)』
という行に目を留める。
「リオに、これを見せたのか」
「はい。彼の矢が飛ぶことで、“死なずに済む兵が二人増える”と」
「そりゃあ……押しつぶされるだろうな」
カイは、わずかに顔をしかめた。
「そんなにおかしなことを言いましたか」
「おかしくはない」
彼は即座に否定した。
「間違ってもいない。
ただ、“いきなり全部見せすぎた”んだろう」
冷たい空気の中で、カイの息が白く曇る。
「俺だって、最初の戦で斬ったのは一人だ。
数字にすりゃ、“敵軍の兵のうちの一”に過ぎねえけど……寝られなかったぞ」
シュアラは、目を瞬いた。
彼が自分の過去を話すのは、珍しい。
「何日も何日も、あいつの顔だけが頭の中で繰り返される。
誰も、『あれで村の死者が何人減った』なんて数字を教えてはくれなかった」
カイは、少し息を吐いた。
「多分、教えられてたら、余計眠れなかった」
「……どうしてです?」
「“俺が斬らなきゃ、その分村人が死んだ”って話になるからな」
カイは、雪のような霜を靴先で払いながら言う。
「お前の計算は、そういう話だろ。
“撃てば守れる命がある。撃たなきゃ死ぬ命がある”」
「ええ」
それは、彼女が何度自分に言い聞かせた理屈でもあった。
「俺たち指揮官は、それを頭に叩き込んでおかないと、判断を誤る。
どこかで誰かを切り捨てねえと、全員死ぬことだってある」
カイは、シュアラをまっすぐ見た。
「でも、それを“そのまんまの形”で兵に渡すかどうかは、また別の話だ」
「……では、偽るべきだと?」
「いや」
即座に首を振る。
「嘘はつくな。あいつらは、すぐ見抜く。
ただ、“どこを見るか”だけは選んでやれ」
シュアラは、手帳を見下ろした。
数字の列。死者の期待値。恐怖のコスト。
「俺がさっき見たお前のページには、『死ぬかもしれねえ二人』の数字がある」
カイは、指先でその行を叩いた。
「けど、リオの頭ん中にいるのは、“肩を撃たれたあいつ”一人だ。
お前があいつに見せるべきなのは、多分、『新しく増える二人』じゃなくて――」
そこで言葉を切る。
「『お前が守れるかもしれねえ誰か』のほうだ」
シュアラは、カイの顔を見た。
「守れるかもしれない、誰か」
「あいつ、村の子どもと話してるとき、ちょっとだけ顔が柔らかくなるの、見たろ」
カイは、思い出したように笑った。
「この前、粉引き婆さんの家で、荷物運ぶの手伝ってた時とかよ」
「……はい」
思い当たる光景が、頭に浮かぶ。
大きな袋を一人で持ち上げられず、リオが黙って支えていたあの時。
「あいつに、“撃たなきゃ二人死ぬ”って言うんじゃなくてさ」
カイは、霜の上に指で簡単な図を描いた。
一つの丸。その横に、小さな点をいくつか。
「“お前が撃たなかったら、この婆さんが斬られるかもしれねえ”とか、“あの子どもの親父が帰ってこねえかもしれねえ”とか。
そういう“顔つきの誰か”で考えさせてやるほうが、多分あいつには効く」
それは、数字には載らない話だ。
「……“撃つことが正しい”と説くのではなく、“撃たなかったときに誰が死ぬか”を一緒に考えろ、ということですか」
「そうだ」
カイは頷いた。
「お前の計算式の中に、名前を入れてやれ。
リオに、『自分がどの死なら背負えるか』を選ばせてやれ」
「どの死なら……」
シュアラは、思わず繰り返した。
「敵か、味方か。
見知らぬ誰かか、昨日パンを分けてくれた誰かか。
選びたくない選択を、あいつに押しつけることになる」
カイは、言葉を選ぶように続ける。
「でも、“選ばせてもらえないまま”矢を握らされるよりは、まだマシだ」
シュアラの胸の奥で、何かが変な音を立てて動いた。
恐怖のコスト。
今まで、それは「死者の増減」としてしか見えていなかった。
けれど、カイの言葉は、そのコストに「顔」と「名前」を付けることを求めている。
「……それは、非合理です」
口をついて出た言葉は、半分だけ本音だった。
「誰か一人の顔を特別扱いすれば、判断が揺らぎます。
公平性が失われ、全体の最適解から外れる可能性が――」
「お前はもう、何人かの顔を特別扱いしてるだろ」
カイが静かに遮った。
「最初に門番に毛布をかけた時からな」
喉の奥が熱くなるような感覚がした。
「……それは、最低限の資産保全です」
「そういうことにしておけ」
カイは、薄く笑った。
「お前がどう言い繕っても、現場の人間は知ってる。
嬢ちゃんは“誰でもいい誰か”じゃなくて、“今目の前にいるこの一人”を生かすために走ってるってな」
言葉が出ない。
「だから、その“甘さ”を、たまには数字の中に混ぜてやれ」
カイは、冬空を見上げた。
「恐怖のコストってのは、多分、“誰かを失うのが怖い”ってことだ。
それをただ“損失”として削るんじゃなくて、“守りたい対象”として計算に入れてみろ」
シュアラは、ゆっくりと手帳を見下ろした。
距離、対象、命中率、震え具合。
死者六人、四人。
そこに、名前は一つも書かれていない。
「……難題ですね」
ようやく、それだけが言えた。
「俺には計算式なんざ書けねえ。そこはお前の仕事だ」
カイは、そう言って肩をすくめる。
「ただ、さっきのリオの顔を見ちまうとよ。
“恐怖のコスト”って欄に、あいつの全部を押し込めちまうのは、見てられねえ」
彼は踵を返した。
「昼までには、北の見張り台の交代に顔出す。
それまでに、少しあったまってこい。顔が真っ青だ」
「……はい」
カイの背中が遠ざかり、足音が消えていく。
射場に残ったのは、切れた縄の切れ端と、霜と、手帳だけだった。
日が傾く頃、シュアラの部屋には、また蝋燭の光が戻っていた。
床に散らばる紙の上に、“ゲーム3”のページを抜き出すように手帳を広げる。
昼間、ゲルトとカイの前で見せた計算式。
死者の期待値。恐怖のコスト。
彼女はしばらくそれを眺め、それから大きく息を吐いた。
「……これは、失敗ですね」
自分に向けた宣告だった。
ペンを取る。
計算式がびっしりと詰まった一枚を、綴じ目から丁寧に破り取った。
紙が裂ける音が、静かな部屋にやけに大きく響く。
破ったページの上部に、ただ一言だけ書き込む。
『失敗』
それから、その紙を二つ、三つに折りたたみ、火のついていない小さな炉の隅に押し込んだ。
燃やしはしない。
けれど、手元の「ゲーム3」のページから、その計算を切り離す。
新しく開いたページの一番上に、ペン先を乗せる。
『ゲーム3:狙撃手リオ(改)』
その下に、最初に書き込んだ。
『目的:仲間の死者数を最小化すること(死者ゼロを目標に)』
続けて、もう一行。
『前提:恐怖は“除去すべき誤差”ではなく、“守りたい対象がいる証拠”』
ペン先が震えた。
それでも、書き続ける。
『リオに提示すべき問い:
「撃つべきか」ではなく
「撃たなかったとき、誰が死ぬか/誰を守れなくなるか」』
名前を書く欄を、枝分かれするようにいくつか空けた。
『例:粉引き婆さん/門番の兵/ルバークリークの子どもたち ……』
(公平ではない。非合理です)
心のどこかが、そう呟く。
誰か一人を特別扱いすれば、数字は歪む。
最適解から外れる可能性もある。
けれど――
(あの子の恐怖は、“誰でもいい二人分”の数字なんかじゃない)
肩を撃たれた仲間の顔。
村の子どもたちの笑い声。
粉引きの老婆の、節くれ立った手。
それら全てが、恐怖というコストの内訳なのだとしたら。
(ならば、その内訳ごと、計算式に組み込むしかありません)
シュアラは、最後に小さく書き添えた。
『備考:人は数字どおりには動かない(ゲルトの指摘)→式に「名前」の変数を追加』
ペン先を離す。
蝋燭の火が、ページの上で揺れた。
冬は、ゆっくりと近づいている。
その冬を越えるために必要なのは、矢とパンと鉄だけではない。
恐怖と責任を抱えたまま、それでも指を動かせるだけの「理由」だ。
「……リオには、別の聞き方をしないといけませんね」
誰に向けるでもなく、そう呟く。
恐怖のコストを、ただ減らすのではなく、正しく支払うために。
シュアラは手帳を閉じ、指先で表紙を一度撫でた。
静かな音が、また冬の空気の中に溶けていった。
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