死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します

桃我タロー

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第一章 ヴァルム試験国家編

第二十七話 ギルドの誘惑(1)

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 戦いから、三日。

 ヴァルム砦には、妙な静けさが戻っていた。
 血の匂いはもう薄い。代わりに、煮込み鍋の匂いと、薬草と、煤にまみれた焚き火の煙が、低く漂っている。

 シュアラは、執務棟の窓を背にして帳簿に向かっていた。

 戦闘報告書。負傷者一覧。物資損耗表。
 紙とインクの世界の中で、ようやく「死者ゼロ」という一行が落ち着き先を見つけつつある。

(……次は、冬の配分表ですね)

 ペン先を次の紙に移そうとしたときだ。

 外から、慌ただしい足音が近づいてきた。
 ノックも待たずに扉が開く。

「軍師殿!」

 フィンだった。
 いつもの軽口混じりの笑顔ではない。頬に血はついていないのに、戦場の報せを持ってきたときと同じ顔をしている。

「門だ。来客――いや、“厄介な客”だ」

「税吏でしょうか。さすがに、まだ雪庁に帰るには早いと思いますが」

「税吏ならまだかわいげがある」

 フィンは、喉を鳴らした。

「商人ギルドの旗だ。秤と鍵。その下に……ハーツ財務公庫の紋章が出てる」

 ペン先の先で、インクがひと粒だけ跳ねた。

 ハーツ財務公庫。
 シュアラにとって、それは父が嫌悪と実務の両方を込めて口にしていた名だ。

 ──奴らは“帝国”の帳簿とは別に、もう一枚、影の帳簿を持っている。
 ──国が切り捨てる負債を拾い上げて、利息をつけて売り返す連中だ。

「借金取りなら、対応は簡単です」

 数字の話なら、まだ戦いやすい。
 そう言いかけたところで、フィンが首を振った。

「嫌な方の噂も一緒にくっついてきてる。……あんたには、先に見ておいてほしい」

「嫌な方、ですか」

 シュアラの頭の中で、古い噂話の断片がいくつか結びついた。
 王都の酒場の隅で、若い書記たちがひそひそ囁いていた名前。

 戦場投機所――ウォー・マーケット。
 どの戦が、いつ、どれくらい死ぬかに金を賭ける、闇ギルド。

「分かりました。団長も、呼んでありますか」

「ああ。今、中庭だ。珍しく昼寝してない」

 フィンは自嘲気味に笑ってみせたが、その笑いはすぐに消えた。

「……あんた、できれば“目”だけは逸らすなよ」

「目、ですか」

「会ってみりゃ分かる」

 フィンの声に、普段聞かない種類の硬さが混じった。

*

 中庭に出ると、空気の向きが変わっていた。

 焚き火の煙が、一方向ではなく、渦のように揺らいでいる。
 兵たちの視線も、いつものようにシュアラに向けられてはいない。
 もっと門の方、砦の外から入ってきた影へと吸い寄せられていた。

 門の内側で、カイが腕を組んで立っていた。

「借金取りか」

 ぼそりとそう言う声には、まだ冗談の余地があった。

 やがて、荷車二台がゆっくりと中庭に入ってくる。

 幌に掲げられた旗。秤と鍵の紋。
 その隣に、見慣れない意匠の印章。ハーツ財務公庫。

 そして――その前を歩く一人の男。

 最初に目についたのは、影だった。

 冬の陽は弱いのに、その影だけが不自然に長い。
 細く、針金のように伸びた影が、雪の上をすうっと引き裂いていく。

 本体も、影と同じくらい細長かった。

 背は、カイよりも頭ひとつ分、さらに高い。
 だが、武人のような厚みはない。棒を折り曲げて人の形にしたような華奢さだ。

 顔には、感情が一枚も貼られていない。
 能面のように、目鼻だけが正確に存在している。

 目だけが、変だった。

 焦点が合っていない。
 こちらを見ているはずなのに、通り過ぎていく風景と同じ扱いをしている目。
 死んだ魚、と言うには湿度がなさすぎる。乾いた魚の眼球を、誰かが硝子玉にしてはめ込んだような。

(……噂話の顔付きですね)

 王都で聞いた言葉が、勝手に思い出される。

 ──あいつが来た戦場は、必ずオッズが狂う。
 ──勝つはずの軍が負けたり、死ぬはずの奴が生き残ったり。
 ──名前は? ハーツ? ヴァレン? どっちでもいい。とにかく疫病神だ。

 その目が、ふいに焦点を結んだ。

 まるで、心臓を指でつかまれたような感覚。
 視線が、自分の額から喉元、胸元へとすべっていくのが分かる。

 矢で裂かれた手帳の位置で、ぴたりと止まった。

「ようこそ、辺境のボロ砦へ」

 カイが先に口を開いた。
 いつものぶっきらぼうな声だが、わずかに低い。

「ハーツ財務公庫の巡回査定官だとか。仕事が早えな」

「お招きありがとうございます」

 男は、静かに頭を下げた。
 動作だけは、礼儀作法の教本のように隙がない。

「ヴァレン・ハーツと申します。表向きは、仰るとおり財務公庫の査定官ですが」

 そこで一瞬、言葉が切れた。
 能面の口元が、ゆっくりと歪む。

「裏向きは、もう少し退屈のしない仕事をしておりまして」

 フィンが、シュアラのすぐ隣で肩をこわばらせた。
 普段なら軽口の一つでも挟む場面なのに、舌が凍りついたように静かだ。

 ヴァレンの灰色の目が、彼へと一瞬流れ、すぐにシュアラに戻ってくる。

「ヴァルム砦の文官殿は、あなたでよろしいですか」

「文官のシュアラです」

 喉が、ほんの少しだけ乾いている。
 それでも声の高さは変えない。

「遠路はるばる、何のご査定で」

「“この冬、ここをいつ手放すか”の査定です」

 あまりにも平然とした言い方だった。

 ゲルトが、焚き火のそばで舌打ちするのが聞こえる。

 ヴァレンは続けた。

「門前で立ち話をすると冷えますね。中で、焚き火ではなく紙を囲みましょう」

 紙。
 それは、シュアラにとって戦場と同義の言葉だ。
 小会議室の空気は、たちまち窮屈になった。

 窓は一枚。
 机の上には、茶器と、シュアラが用意しておいた砦側の帳簿一式。
 壁際にはゲルトとフィンが控え、扉の前には見張りの兵がひとり。

 ヴァレンは、椅子に座ってもなお高かった。
 背筋はまっすぐ。無駄な動きが一つもない。

 ただ、指先だけが落ち着きなく動く。

 いつの間に取り出したのか、小さな金貨が一本の指の上で立ち、次の瞬間には違う指に移っている。
 音は出さない。
 だが、その金貨の小さな軌道が、部屋の空気を妙にざわつかせていた。

「まずは、帝都からの紙を」

 ヴァレンは鞄を開けた。
 厚い羊皮紙の束。端には赤いスタンプ。

「『辺境防衛費削減案』。切り捨て候補に挙がっている砦の一覧です」

 紙が机に滑らされる前から、その中身は知っていた。

 父の帳簿には、もっと手前の段階から、それが書いてあったからだ。
 帝都の議場で、どのような条件でどの砦が外されていくか。
 ヴァルムの名前が、すでに何度も「検討中」として上がっていたことも。

 それでも、目の前で「ヴァルム」という文字を見ると、胃のあたりが少しだけ重くなった。

 切り捨て候補。
 紙の上では、たった四文字。

「これを持ってくるだけなら、たしかに税吏の仕事で十分ですね」

 シュアラは、淡々とした口調を保った。

「財務公庫の方が、直接お越しになったということは……この“切り捨て”に、別の値段をつけるおつもりで?」

「話が早くて助かります」

 ヴァレンの口元が、今度ははっきりと笑みの形を取った。
 その笑みが、目にだけ届かないのが不自然だった。

「帝都は、この砦と三つの村を、『維持コストに見合わない負債』として処分したがっている。そこで我々は、その負債を拾って、別の形にする仕事を請け負っています」

「別の形?」

「賭け札、と言えば、分かりやすいでしょうか」

 部屋の温度が、わずかに下がった気がした。

「正式には、“戦場投機所(ウォー・マーケット)”という名前です」

 ヴァレンは、まるで新しい劇場のパンフレットを紹介するような口調で言った。

「どの戦が、いつ、どのように終わるか。どの砦が今冬を越えて、どの村が春までに消えるか。そこに値段をつけて、賭ける場所です」

 フィンの指が、剣の柄にかかった。
 ギチ、と革の音が鳴る。

「てめえ、この場でそれを名乗る神経どうなってんだ」

「隠しても、あなたにはバレているでしょう?」

 ヴァレンはちらりと彼を見た。
 その一瞬だけ、灰色の目に薄い光が走る。爬虫類が舌を出す前のような。

「王都の夜の裏側を歩いた足音は、ここからでも嗅げます」

 フィンは言葉を返さなかった。
 返せない、という方が近い。

 シュアラは、指先に力を込めた。

 戦場投機所。
 噂としては知っていた。父の帳簿の端に、小さく書かれていた名だ。

 ──人の死に乗った金は、必ずどこかで巡り巡って、別の戦の火種になる。
 ──ああいう連中は、数字を扱うくせに、数字の裏にある胃袋の数を見ない。

 今、目の前にいるこの男は、その「連中」の顔をしている。

「つまり、あなた方の目から見れば」

 シュアラは、あえて平坦な声で言った。

「ヴァルム砦も、この三つの村も、“賭け札”の一山に過ぎないと」

「今のところは、ですね」

 ヴァレンは金貨を弾いた。
 音はしないが、その動きだけで、目が釘付けになる。

「帝都の帳簿では、ここは今年中に『自然消滅』する前提で組まれています。戦で死ぬか、飢えて死ぬか、どちらにしろ春には“数字がゼロ”になる、と」

 彼の視線が、中庭の方向へと流れる。

「実際、三週間前にこの辺りを見た時点では、私もそう判断しました。蹄の跡、倉庫の中身、村人の顔色。全部合わせて、『生存日数残り二十~三十』と」

(三週間前……)

 シュアラの頭の中で、時系列が勝手に並び替わる。

 川沿いの村で、初めて燻製小屋の煙を上げた日。
 丘の上から、誰かがこちらを見ていた気配。
 あのときの「謎の男」の影と、今目の前にいる男の細い影が、重なった。

「けれど、さきほど届いた報告は、全く別の数字でした」

 ヴァレンは、自分の持ってきた紙束とは別に、机の端の報告書に指を伸ばした。

『第四ゲーム 第一戦 砦側死者ゼロ』

 シュアラの文字だ。
 自分で書いた行が、他人の指に触れられている。

「戦死者ゼロ。村側死者ゼロ。敵兵撤退。――あまりにも退屈の少ない結果です」

 退屈、と言いながら、目だけが楽しそうだった。

「本来なら、あなた方には“全滅”のオッズがついていた」

 金貨が、彼の指の上でくるりと回る。

「なのに、生き残った。盤面全体から見れば、とても小さな揺らぎです。でも、オッズの計算から見ると――」

 ヴァレンは、爪先で机を軽く叩いた。

「……歪み、ですね」

 その一言が、妙に耳に残った。

 父が「赤字」と呼んだものよりも、もっと不穏な響き。

「歪んだオッズは、放っておくと盤面そのものを壊します」

 ヴァレンは、視線をシュアラに戻す。

「だから私は、“歪み”を見に来た。実物を見て、値段をつけ直すために」

 実物。

 その言い方に、シュアラはわずかに眉を動かした。

「そして、もう一つ」

 ヴァレンの金貨が、音を立てた。
 今度はわざと、机の上に落としたのだ。

 乾いた音が、狭い部屋に跳ねる。

「その歪みそのもの――あなたに、仕事の提案を」

 会議室の空気が、きゅっと締まるのが分かった。

「仕事?」

 カイの声には、露骨な警戒が混じる。

「文官一人雇うのに、どれだけの勘定をする気だ」

「“死人文官”ですよ?」

 ヴァレンは、何でもないことのように言った。

「帝都の帳簿上は、すでに死んでいる。けれど現物はこうして生きている。所有権が宙ぶらりんの優良物件です」

 シュアラの指が、膝の上で強張った。

 死人文官。
 自分で名乗った肩書きが、他人の口から出てくるのは、思っていた以上に冷たかった。

「帝都に通報することもできます」

 ヴァレンは、淡々と続ける。

「『死んだはずの侯爵令嬢が、辺境で好き勝手やっている』と」

 喉の奥が、わずかに鳴った。

 カイとフィンの視線が同時にこちらを見るのが分かる。
 ゲルトの腕組みが、音を立てた。

 ヴァレンは、一拍置いて、肩をすくめた。

「でも、それでは面白くない。帝都の帳簿に戻してしまえば、あなたはまた“数字の一つ”になる」

 灰色の目が、ほんの少しだけ細くなる。

「私は、盤面の外側に立つプレイヤーが好きでしてね」

 エリアーナ。

 自分の本名を、口の中で一度だけ転がす。
 実際には、彼は名を呼ばなかった。
 ただ、呼ぼうと思えばいつでも呼べる、という態度だけははっきりしている。

「だから提案です」

 ヴァレンは、手をひらりと広げた。

「あなたはこちら側に来る。帝国のゲームから完全に抜け落ちて、“戦場投機所”のオッズメーカーとして、盤面全体を見ませんか」
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