死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します

桃我タロー

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第一章 ヴァルム試験国家編

第二十六話 失うことの恐怖

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 紙束を支える腕よりも、掴まれた手首のほうが熱かった。

 カイの指が、シュアラの手首の骨を確かめるように掴んでいる。痛いほどではない。けれど、簡単には振りほどけない力だった。

「……第四ゲームの、決算が出ました。砦側死者ゼロ。村側死者ゼロ。――ご報告いたします、団長」

 言い終えた自分の声が、思ったよりも平板に聞こえる。
 いつもの報告と同じ調子。帳簿の数字を読み上げるのと、変わらない。

 カイは、しばらく何も言わなかった。
 中庭のざわめきだけが、わずかな間を埋める。煮込み鍋の蓋が鳴る音、負傷兵の笑い声、捕虜を見張る兵のぼやき。

「……そうか」

 ようやく落ちてきた声は、思っていたよりも低かった。

「お前の帳簿どおりだ」

 その言葉だけなら、誉め言葉だ。
 実際、中庭の何人かは「おお」と歓声を上げかけて、団長の顔色を見て口をつぐんだ。

「話がある」

 カイは短く言った。

「来い」

 返事を待たずに、掴んだ手首ごとぐい、と引く。
 紙束を抱えたまま、シュアラは一歩よろめいた。

「団長。文官殿は怪我人ですよ?」

 焚き火のそばから、ゲルトの呑気な声が飛ぶ。

「お前だって怪我人だろうが」

「俺は頭打ってるだけだ。団長よりは正気だ」

「うるせえ、後で報告聞かせろ」

 ゲルトの笑い混じりの野次を、カイは軽く手を振って追い払った。
 フィンが焚き火の向こうから片眉を上げる。

「……お前、怒られてこいよ、軍師殿」

「怒られるようなことはしていないつもりですが」

「そういうとこだよ」

 肩をすくめるフィンの視線を背中に受けながら、シュアラは半ば引きずられるように執務棟へ入った。

 *

 小会議室の空気は、まだ戦の前夜の匂いを残していた。

 机の上には、消し忘れた蝋の跡と、端に寄せられた木片と石。
 第四ゲームの盤面に使った駒たちが、今は役目を終えて隅で眠っている。

 カイは扉を足で蹴るように閉めると、そのまま背で押さえた。
 彼の影が、壁の上でわずかに揺れる。

 しばらく、言葉が落ちてこなかった。
 代わりに、荒い呼吸だけが部屋の中で反射している。

 ようやく、カイが一歩前に出た。

「それ」

 顎で示されたのは、シュアラの胸元だった。

 矢で裂けた手帳。
 表紙の真ん中に走った傷が、布越しでも分かる。

 シュアラは、指先で布をめくった。
 破れた手帳の背が覗く。矢羽根の粉が、まだ紙の間に細かく残っていた。

「弓兵の腕が良かったんです。紙で止まりました」

 できるだけ淡々と説明する。

「皮膚は掠った程度で――」

「そういう話をしてるんじゃねえ」

 テーブルの端が、どん、と鳴った。
 カイの手が、拳の形のまま机に食い込んでいる。蝋のかすが跳ねた。

 声が、低く削れていた。

「お前、自分の命をチップにすんな」

 シュアラは、瞬きを一度した。

「……チップ?」

「賭場に出す小銭だ」

 カイは、言葉を吐き出すように続けた。

「“この手を通したら、いくら減ってもしょうがねえ”って、最初から削る前提で積むやつだ。さっきのあれは、どう見ても自分の命をそこに混ぜてた」

 さっきのあれ――橋の前の坂道。
 敵の別働隊と、石袋と、荷車と。
 矢が飛び、雪が舞い、紙が裂けたあの瞬間。

 シュアラは、ほんのわずかに視線を逸らした。

「最初の設計時点で、囮隊に属する人数は『削れるチップ』として計算しました」

 それは嘘ではない。
 囮隊の損耗率。坂の傾斜。馬の速度。敵の弓の射程。
 全部合わせて、「最悪の場合でも、ここまで」という線を引いていた。

「ただ、その中に『自分』を含めるかどうかは――」

 カイの目が細くなる。

「含めたんだろ」

 問いではなく、断定だった。

 シュアラは、少しだけ息を飲んだ。

「……囮隊の設計と運用を、一番理解しているのは私です」

 それが、彼女の出した答えだった。

「坂の噛ませどころも、橋の強度も、石袋の重さも。誰よりも早く判断できる位置にいるべきなのは、設計者です」

「だから、自分でそこに乗ったと」

 カイは短く笑った。笑い声に、まったく愉快さはなかった。

「効率で言えば、たしかにそうだな」

 その言い方の冷たさに、シュアラの背筋がわずかに強張る。

「第四ゲームの目的は、『砦と村の死者ゼロ』です」

 自分でも分かるくらい、声が固くなった。

「囮隊に誰かを乗せるなら、判断の速い人間を。それが最も効率的な手でした」

「効率的、ね」

 カイは机から拳を離した。
 その手が、まだ微かに震えているのが分かる。

 彼は一歩、シュアラに近づいた。

「じゃあ聞くが」

 距離が近づいたぶん、森色の瞳の中に、薄い血管の模様が見えた。
 怒りだけではない。何か別のものが、瞳の奥を濁らせている。

「俺が言った“退け”って条件は、効率計算のどこに入ってた」

 昨夜の会議室の光景が、鮮やかに蘇る。
 紙の上の戦線と、赤い線で引かれた「撤退ライン」。
 『俺が引けと言ったら、その時点で全部捨てて帰ってこい』という声。

「角笛が鳴った瞬間、囮隊は橋へ向けて動きました」

 シュアラは答えた。

「団長の叫び声は、ここまでは届きませんから」

「届いただろうが」

 カイは、シュアラの包帯の巻かれた腕を睨んだ。

「矢が届いてる距離まで残ってたってことは、敵も味方も、全部お前のところに届いてたんだよ」

 矢が、手帳を裂いた瞬間。
 あの時、耳に届いていたのは角笛と、遠くの狼の咆哮と、石袋の転がる音。

 たしかに、団長の声だけは聞こえなかった。

「……私が残った時間は、計算上、囮隊全体の生存率を上げています」

「そういう話じゃねえって言ってんだ」

 カイは、額に手を当てた。指先が髪の間を荒くかき分ける。
 乱暴な仕草のわりに、その手もまだ震えている。

「いいか、シュアラ」

 名前を呼ばれた瞬間、背中のどこかがぴしりと鳴った気がした。

「俺は、自分の部下の命をチップ扱いしたことがある」

 その言葉は、予想していたどの叱責とも違っていた。

 カイは、窓の外へ視線を投げた。薄い冬の光が、彼の横顔の傷を浮かび上がらせる。

「前の戦だ。川沿いの谷で、退路潰されてな」

 シュアラは息を飲んだ。
 昨日、谷へ向かう途中でちらりと見せた「赤い谷」の記憶が、言葉になっている。

「“ここであと一手押し込めば、味方の死体で敵の足止められる”って、そう思った。そうすりゃ、本隊の損耗は減らせる。数字だけ見りゃ、そっちの方が効率が良かった」

 指先が、机の縁を無意識に叩いていた。
 一定のリズムになっていない。乱れた鼓動を、そのまま指に移したような動き。

「実際、その一手で助かった奴もいる。だが、そこで倒れた奴の顔と名前は、いまだに夜に出てくる」

 短く、息が笑いとも溜息ともつかない形で漏れた。

「“効率的に死んでもらった”って言い訳は、あいつらの墓の前じゃ通用しなかった」

 シュアラは、何も言えなかった。

 自分が普段使っている単語――効率、損耗率、許容範囲。
 それらの言葉が、違う重さでテーブルの上に落とされている。

「だから俺は、お前に“第五ゲームはやるな”って言った」

 カイは、ようやく彼女をまっすぐ見た。

「『自分の命をどこまで削れば盤面が勝つか』ってゲームは、最初から負けだ。勝ったところで、残るのは後味の悪さだけだ」

 第五ゲーム。
 シュアラが帝都にいた頃、父と一緒に何度も頭の中で回した「自分を切る」ゲーム。
 自分の命を最小単位のチップとして使う計算。

 今まで、それを否定した人間はいなかった。
 父はそれを「優秀」と呼び、王太子はそれを「薄気味悪い」と呼びつつも、都合よく使った。

「お前は、砦の死者ゼロを帳簿に書いた」

 カイの声音が、少しだけ柔らかくなる。

「……ありがたい。心底ありがたい。ここにいる奴ら全員の命を拾ってくれたってことだ」

 そこで一拍、言葉が途切れた。

「だからって」

 次の一言は、机を噛み砕きそうな勢いで吐き出された。

「お前自身を“ゼロ”の外に置いていい理由には、なんねえ」

 シュアラは、瞬きも忘れてカイの顔を見た。

 森色の瞳が、思ったよりも近かった。
 その奥にあるのは、怒りでも苛立ちでもない。もっと原始的な、名前のついていない恐怖だ。

(……私が死ぬことを、恐れている?)

 そんな計算式は、今まで一度も作ったことがない。

「団長」

 声が、自分でも驚くほどかすれていた。

「私は、囮隊の損耗率を――」

「数字じゃねえって言ってるだろうが」

 カイは、机から手を離し、代わりにシュアラの肩を掴んだ。
 鎧越しではない、衣越しの、そのままの体温が伝わる。

「俺はな、“負け戦の将”はもうたくさんだが、“死んだはずの文官”まで失う趣味はねえんだよ」

 口調は荒いのに、掴んでいる指先は、ほんの少し震えている。
 その震えが、自分の肩に細かく伝わってきた。

「お前が死んだって報告書、もう書きたくない」

 初めて聞く種類の言葉だった。

 帝都では、「君の犠牲は無駄にしない」とか、「君の計算にはいつも助けられている」などといった言葉は山ほど耳にした。
 だが、「死んだ報告書を書きたくない」とまで直接言ったのは、目の前の男が初めてだ。

「……最も効率的な手でした」

 口が、いつもの癖でそう言っていた。

「砦と村の死者をゼロにするために、囮隊の損耗を――」

「俺の感情は、その計算に入ってなかった」

 カイがかぶせるように言った。

「お前が矢で撃ち抜かれた未来の俺が、どうやってここで飯食ってるか。そのコストは、最初から勘定に入れてなかったろ」

 シュアラは、返す言葉を持たなかった。

 計算外のコスト。
 自分が死んだあとの誰かの生活。誰かの胃袋。誰かの夜の眠り。

 今までは、それを「他人の問題」として切り捨ててきた。
 切り捨てることでしか、生き延びられなかったからだ。

(私が死んだあと、誰かが困るかどうかを、考えたことがなかった)

 父はきっと困らない、とどこかで決めつけていた。
 帝国は、もっともっと大きな盤面だから、一マス欠けたくらいでは揺らがない、と。

 しかし今、目の前の男は、はっきりと困る未来を想像している。

「……次からは、考慮に入れます」

 ようやく絞り出した声は、情けないほど小さかった。

「自分の死が生む、感情のコストを」

 カイの眉がわずかに動く。

「そんな言い方しかできねえのか、お前は」

 ぼやきに似た声だった。
 それでも、さっきまでよりは少しだけ力が抜けている。

「でもまあ、そう言うなら、まだマシか」

 カイは手を離した。
 肩に残った指先の痕が、妙に熱い。

「次に同じような場面が来たら」

 扉の方へ半歩動いてから、振り返る。

「囮隊に乗る前に、まず俺に話せ。いいな」

「作戦会議の場で、すでに――」

「作戦会議じゃねえ。俺個人だ」

 シュアラは目を瞬かせた。

「団長個人に、ですか」

「そうだ」

 カイは、そっぽを向くようにして付け加えた。

「上官として部下を守るって話と、俺個人が“お前に死んでほしくねえ”って話は、別の勘定だ」

 聞いた瞬間、胸のどこかがきゅっと縮んだ。

 その感覚に名前をつけようとしたが、うまく見つからない。
 ただ、今まで帳簿のどこにも載せてこなかった単語だけは、はっきりしている。

(失うことの恐怖)

 自分が失う恐怖ではない。
 誰かが自分を失う恐怖だ。

「……承知しました」

 それでも、口から出る言葉は結局、いつもの文官のものだった。

「以後、検討と報告の手順に組み込んでおきます」

「手順にすんな、馬鹿」

 カイは呆れたように笑うと、扉に手をかけた。

「第四ゲームは、これで終わりだ。やっと一息つける」

 そう言いながらも、その背中にはまだわずかに緊張が残っている。
 扉が開き、外の喧噪が一気に流れ込んできた。

 カイは一度だけ振り返る。

「……帰ってこいよ、ちゃんと」

 意味の分からない言葉だった。
 砦に? 執務室に? それとも、どこからか自分の頭の中からか。

 シュアラが返事を探しているあいだに、扉は閉じた。

 小会議室には、使い終わった木片と、乾きかけた蝋の匂いだけが残る。

 シュアラは、机の端に手帳を置いた。
 裂けたページをそっと開く。

『死者ゼロ(暫定→本番へ)』

 矢が裂いた行のすぐ下に、ペン先を置く。

『備考:自分が死んだ場合に発生する感情コストについて、次回以降要検討』

 書いた瞬間、自分で少しだけ笑ってしまった。

「……備考欄に書くことじゃありませんね」

 誰も聞いていない部屋で、小さく独りごちる。

 それでも、書かなければきっと忘れる。
 数字にならないものほど、紙の上に留めておかないと、すぐ手のひらからこぼれ落ちる。

 ペンを置くと、指先の痺れがようやく痛みに変わった。
 遅れてやってきた痛みを確かめるように、シュアラは包帯越しに腕を押さえた。

 第四ゲームの盤面は片づけられた。
 ただ、どこかで別の誰かが、新しい賭け札を並べている気配だけが、薄く胸の奥に引っかかっていた。

 *

 ヴァルムから北へ二日。

 凍りかけた街道沿いの小さな町。その外れにある、やけに暖かい酒場の一室で、一人の男が紙束を眺めていた。

 痩せた指。
 指の間で一枚の金貨が転がされている。机の上には、ざっと書き散らした数字と矢印だらけの紙。

「……オッズが、また歪んでるな」

 男――ヴァレン・ハーツは、紙をひらりと裏返した。

 数日前に受け取った報告書には、「辺境砦ヴァルム、今冬中に陥落ほぼ確実」とあった。
 補給路の細さ、周囲三村の疲弊度、兵の装備の摩耗。
 どの数字をとっても、「生存確率ほぼゼロ」という結論に向かっていた。

 ところが、今さっき届いた新しい報告は、あっけない一行でそれをひっくり返している。

『ヴァルム砦、冬季第一戦 敵兵撤退。砦側戦死者ゼロ。村側死者ゼロ』

 戦死者ゼロ。
 紙の上の文字をなぞる指先に、うっすらと笑みが乗る。

「戦争でゼロか。ずいぶん退屈を嫌う奴が、一人紛れ込んだもんだ」

 金貨を転がす速さが、ほんの少しだけ速くなる。

 彼は、一枚の紙を別に取り出した。
 そこには、簡単な地図と、三つの村と砦を示す印。
 その隅に、小さく「死人文官シュアラ?」というメモが書かれている。

「“死人”が盤面を動かして、“死人”が死なせないようにしている」

 ヴァレンは、愉快そうに鼻を鳴らした。

「それとも、“死んでいるはずの令嬢”が、別のゲームを始めた、ってところか」

 ハーツ財務公庫の刻印が押された封筒が、机の端に積まれている。
 中身は、各地の債務状況と、商人ギルドの支部報告書。それらの隙間に、彼だけが読める「戦場投機所」の小さな符牒が挟まっている。

「さて」

 ヴァレンは椅子から立ち上がった。
 背が高く、影が床に長く伸びる。

「ここまで歪んだオッズを、遠くから眺めてるだけじゃ退屈だ」

 指先で金貨を弾いた。
 乾いた音が一つ、机の上に転がる。

「次の査定先は、ヴァルム砦。表向きは、商人ギルドの支部長として、借金取りの相談ってところかな」

 窓の外では、街道の雪が、夜の冷えにきしんでいる。
 その向こう側にある小さな砦と三つの村を思い浮かべながら、ヴァレンは外套を肩にかけた。

 金貨が、一枚、静かに指の間で転がった。
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