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第一章 ヴァルム試験国家編
第二十六話 失うことの恐怖
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紙束を支える腕よりも、掴まれた手首のほうが熱かった。
カイの指が、シュアラの手首の骨を確かめるように掴んでいる。痛いほどではない。けれど、簡単には振りほどけない力だった。
「……第四ゲームの、決算が出ました。砦側死者ゼロ。村側死者ゼロ。――ご報告いたします、団長」
言い終えた自分の声が、思ったよりも平板に聞こえる。
いつもの報告と同じ調子。帳簿の数字を読み上げるのと、変わらない。
カイは、しばらく何も言わなかった。
中庭のざわめきだけが、わずかな間を埋める。煮込み鍋の蓋が鳴る音、負傷兵の笑い声、捕虜を見張る兵のぼやき。
「……そうか」
ようやく落ちてきた声は、思っていたよりも低かった。
「お前の帳簿どおりだ」
その言葉だけなら、誉め言葉だ。
実際、中庭の何人かは「おお」と歓声を上げかけて、団長の顔色を見て口をつぐんだ。
「話がある」
カイは短く言った。
「来い」
返事を待たずに、掴んだ手首ごとぐい、と引く。
紙束を抱えたまま、シュアラは一歩よろめいた。
「団長。文官殿は怪我人ですよ?」
焚き火のそばから、ゲルトの呑気な声が飛ぶ。
「お前だって怪我人だろうが」
「俺は頭打ってるだけだ。団長よりは正気だ」
「うるせえ、後で報告聞かせろ」
ゲルトの笑い混じりの野次を、カイは軽く手を振って追い払った。
フィンが焚き火の向こうから片眉を上げる。
「……お前、怒られてこいよ、軍師殿」
「怒られるようなことはしていないつもりですが」
「そういうとこだよ」
肩をすくめるフィンの視線を背中に受けながら、シュアラは半ば引きずられるように執務棟へ入った。
*
小会議室の空気は、まだ戦の前夜の匂いを残していた。
机の上には、消し忘れた蝋の跡と、端に寄せられた木片と石。
第四ゲームの盤面に使った駒たちが、今は役目を終えて隅で眠っている。
カイは扉を足で蹴るように閉めると、そのまま背で押さえた。
彼の影が、壁の上でわずかに揺れる。
しばらく、言葉が落ちてこなかった。
代わりに、荒い呼吸だけが部屋の中で反射している。
ようやく、カイが一歩前に出た。
「それ」
顎で示されたのは、シュアラの胸元だった。
矢で裂けた手帳。
表紙の真ん中に走った傷が、布越しでも分かる。
シュアラは、指先で布をめくった。
破れた手帳の背が覗く。矢羽根の粉が、まだ紙の間に細かく残っていた。
「弓兵の腕が良かったんです。紙で止まりました」
できるだけ淡々と説明する。
「皮膚は掠った程度で――」
「そういう話をしてるんじゃねえ」
テーブルの端が、どん、と鳴った。
カイの手が、拳の形のまま机に食い込んでいる。蝋のかすが跳ねた。
声が、低く削れていた。
「お前、自分の命をチップにすんな」
シュアラは、瞬きを一度した。
「……チップ?」
「賭場に出す小銭だ」
カイは、言葉を吐き出すように続けた。
「“この手を通したら、いくら減ってもしょうがねえ”って、最初から削る前提で積むやつだ。さっきのあれは、どう見ても自分の命をそこに混ぜてた」
さっきのあれ――橋の前の坂道。
敵の別働隊と、石袋と、荷車と。
矢が飛び、雪が舞い、紙が裂けたあの瞬間。
シュアラは、ほんのわずかに視線を逸らした。
「最初の設計時点で、囮隊に属する人数は『削れるチップ』として計算しました」
それは嘘ではない。
囮隊の損耗率。坂の傾斜。馬の速度。敵の弓の射程。
全部合わせて、「最悪の場合でも、ここまで」という線を引いていた。
「ただ、その中に『自分』を含めるかどうかは――」
カイの目が細くなる。
「含めたんだろ」
問いではなく、断定だった。
シュアラは、少しだけ息を飲んだ。
「……囮隊の設計と運用を、一番理解しているのは私です」
それが、彼女の出した答えだった。
「坂の噛ませどころも、橋の強度も、石袋の重さも。誰よりも早く判断できる位置にいるべきなのは、設計者です」
「だから、自分でそこに乗ったと」
カイは短く笑った。笑い声に、まったく愉快さはなかった。
「効率で言えば、たしかにそうだな」
その言い方の冷たさに、シュアラの背筋がわずかに強張る。
「第四ゲームの目的は、『砦と村の死者ゼロ』です」
自分でも分かるくらい、声が固くなった。
「囮隊に誰かを乗せるなら、判断の速い人間を。それが最も効率的な手でした」
「効率的、ね」
カイは机から拳を離した。
その手が、まだ微かに震えているのが分かる。
彼は一歩、シュアラに近づいた。
「じゃあ聞くが」
距離が近づいたぶん、森色の瞳の中に、薄い血管の模様が見えた。
怒りだけではない。何か別のものが、瞳の奥を濁らせている。
「俺が言った“退け”って条件は、効率計算のどこに入ってた」
昨夜の会議室の光景が、鮮やかに蘇る。
紙の上の戦線と、赤い線で引かれた「撤退ライン」。
『俺が引けと言ったら、その時点で全部捨てて帰ってこい』という声。
「角笛が鳴った瞬間、囮隊は橋へ向けて動きました」
シュアラは答えた。
「団長の叫び声は、ここまでは届きませんから」
「届いただろうが」
カイは、シュアラの包帯の巻かれた腕を睨んだ。
「矢が届いてる距離まで残ってたってことは、敵も味方も、全部お前のところに届いてたんだよ」
矢が、手帳を裂いた瞬間。
あの時、耳に届いていたのは角笛と、遠くの狼の咆哮と、石袋の転がる音。
たしかに、団長の声だけは聞こえなかった。
「……私が残った時間は、計算上、囮隊全体の生存率を上げています」
「そういう話じゃねえって言ってんだ」
カイは、額に手を当てた。指先が髪の間を荒くかき分ける。
乱暴な仕草のわりに、その手もまだ震えている。
「いいか、シュアラ」
名前を呼ばれた瞬間、背中のどこかがぴしりと鳴った気がした。
「俺は、自分の部下の命をチップ扱いしたことがある」
その言葉は、予想していたどの叱責とも違っていた。
カイは、窓の外へ視線を投げた。薄い冬の光が、彼の横顔の傷を浮かび上がらせる。
「前の戦だ。川沿いの谷で、退路潰されてな」
シュアラは息を飲んだ。
昨日、谷へ向かう途中でちらりと見せた「赤い谷」の記憶が、言葉になっている。
「“ここであと一手押し込めば、味方の死体で敵の足止められる”って、そう思った。そうすりゃ、本隊の損耗は減らせる。数字だけ見りゃ、そっちの方が効率が良かった」
指先が、机の縁を無意識に叩いていた。
一定のリズムになっていない。乱れた鼓動を、そのまま指に移したような動き。
「実際、その一手で助かった奴もいる。だが、そこで倒れた奴の顔と名前は、いまだに夜に出てくる」
短く、息が笑いとも溜息ともつかない形で漏れた。
「“効率的に死んでもらった”って言い訳は、あいつらの墓の前じゃ通用しなかった」
シュアラは、何も言えなかった。
自分が普段使っている単語――効率、損耗率、許容範囲。
それらの言葉が、違う重さでテーブルの上に落とされている。
「だから俺は、お前に“第五ゲームはやるな”って言った」
カイは、ようやく彼女をまっすぐ見た。
「『自分の命をどこまで削れば盤面が勝つか』ってゲームは、最初から負けだ。勝ったところで、残るのは後味の悪さだけだ」
第五ゲーム。
シュアラが帝都にいた頃、父と一緒に何度も頭の中で回した「自分を切る」ゲーム。
自分の命を最小単位のチップとして使う計算。
今まで、それを否定した人間はいなかった。
父はそれを「優秀」と呼び、王太子はそれを「薄気味悪い」と呼びつつも、都合よく使った。
「お前は、砦の死者ゼロを帳簿に書いた」
カイの声音が、少しだけ柔らかくなる。
「……ありがたい。心底ありがたい。ここにいる奴ら全員の命を拾ってくれたってことだ」
そこで一拍、言葉が途切れた。
「だからって」
次の一言は、机を噛み砕きそうな勢いで吐き出された。
「お前自身を“ゼロ”の外に置いていい理由には、なんねえ」
シュアラは、瞬きも忘れてカイの顔を見た。
森色の瞳が、思ったよりも近かった。
その奥にあるのは、怒りでも苛立ちでもない。もっと原始的な、名前のついていない恐怖だ。
(……私が死ぬことを、恐れている?)
そんな計算式は、今まで一度も作ったことがない。
「団長」
声が、自分でも驚くほどかすれていた。
「私は、囮隊の損耗率を――」
「数字じゃねえって言ってるだろうが」
カイは、机から手を離し、代わりにシュアラの肩を掴んだ。
鎧越しではない、衣越しの、そのままの体温が伝わる。
「俺はな、“負け戦の将”はもうたくさんだが、“死んだはずの文官”まで失う趣味はねえんだよ」
口調は荒いのに、掴んでいる指先は、ほんの少し震えている。
その震えが、自分の肩に細かく伝わってきた。
「お前が死んだって報告書、もう書きたくない」
初めて聞く種類の言葉だった。
帝都では、「君の犠牲は無駄にしない」とか、「君の計算にはいつも助けられている」などといった言葉は山ほど耳にした。
だが、「死んだ報告書を書きたくない」とまで直接言ったのは、目の前の男が初めてだ。
「……最も効率的な手でした」
口が、いつもの癖でそう言っていた。
「砦と村の死者をゼロにするために、囮隊の損耗を――」
「俺の感情は、その計算に入ってなかった」
カイがかぶせるように言った。
「お前が矢で撃ち抜かれた未来の俺が、どうやってここで飯食ってるか。そのコストは、最初から勘定に入れてなかったろ」
シュアラは、返す言葉を持たなかった。
計算外のコスト。
自分が死んだあとの誰かの生活。誰かの胃袋。誰かの夜の眠り。
今までは、それを「他人の問題」として切り捨ててきた。
切り捨てることでしか、生き延びられなかったからだ。
(私が死んだあと、誰かが困るかどうかを、考えたことがなかった)
父はきっと困らない、とどこかで決めつけていた。
帝国は、もっともっと大きな盤面だから、一マス欠けたくらいでは揺らがない、と。
しかし今、目の前の男は、はっきりと困る未来を想像している。
「……次からは、考慮に入れます」
ようやく絞り出した声は、情けないほど小さかった。
「自分の死が生む、感情のコストを」
カイの眉がわずかに動く。
「そんな言い方しかできねえのか、お前は」
ぼやきに似た声だった。
それでも、さっきまでよりは少しだけ力が抜けている。
「でもまあ、そう言うなら、まだマシか」
カイは手を離した。
肩に残った指先の痕が、妙に熱い。
「次に同じような場面が来たら」
扉の方へ半歩動いてから、振り返る。
「囮隊に乗る前に、まず俺に話せ。いいな」
「作戦会議の場で、すでに――」
「作戦会議じゃねえ。俺個人だ」
シュアラは目を瞬かせた。
「団長個人に、ですか」
「そうだ」
カイは、そっぽを向くようにして付け加えた。
「上官として部下を守るって話と、俺個人が“お前に死んでほしくねえ”って話は、別の勘定だ」
聞いた瞬間、胸のどこかがきゅっと縮んだ。
その感覚に名前をつけようとしたが、うまく見つからない。
ただ、今まで帳簿のどこにも載せてこなかった単語だけは、はっきりしている。
(失うことの恐怖)
自分が失う恐怖ではない。
誰かが自分を失う恐怖だ。
「……承知しました」
それでも、口から出る言葉は結局、いつもの文官のものだった。
「以後、検討と報告の手順に組み込んでおきます」
「手順にすんな、馬鹿」
カイは呆れたように笑うと、扉に手をかけた。
「第四ゲームは、これで終わりだ。やっと一息つける」
そう言いながらも、その背中にはまだわずかに緊張が残っている。
扉が開き、外の喧噪が一気に流れ込んできた。
カイは一度だけ振り返る。
「……帰ってこいよ、ちゃんと」
意味の分からない言葉だった。
砦に? 執務室に? それとも、どこからか自分の頭の中からか。
シュアラが返事を探しているあいだに、扉は閉じた。
小会議室には、使い終わった木片と、乾きかけた蝋の匂いだけが残る。
シュアラは、机の端に手帳を置いた。
裂けたページをそっと開く。
『死者ゼロ(暫定→本番へ)』
矢が裂いた行のすぐ下に、ペン先を置く。
『備考:自分が死んだ場合に発生する感情コストについて、次回以降要検討』
書いた瞬間、自分で少しだけ笑ってしまった。
「……備考欄に書くことじゃありませんね」
誰も聞いていない部屋で、小さく独りごちる。
それでも、書かなければきっと忘れる。
数字にならないものほど、紙の上に留めておかないと、すぐ手のひらからこぼれ落ちる。
ペンを置くと、指先の痺れがようやく痛みに変わった。
遅れてやってきた痛みを確かめるように、シュアラは包帯越しに腕を押さえた。
第四ゲームの盤面は片づけられた。
ただ、どこかで別の誰かが、新しい賭け札を並べている気配だけが、薄く胸の奥に引っかかっていた。
*
ヴァルムから北へ二日。
凍りかけた街道沿いの小さな町。その外れにある、やけに暖かい酒場の一室で、一人の男が紙束を眺めていた。
痩せた指。
指の間で一枚の金貨が転がされている。机の上には、ざっと書き散らした数字と矢印だらけの紙。
「……オッズが、また歪んでるな」
男――ヴァレン・ハーツは、紙をひらりと裏返した。
数日前に受け取った報告書には、「辺境砦ヴァルム、今冬中に陥落ほぼ確実」とあった。
補給路の細さ、周囲三村の疲弊度、兵の装備の摩耗。
どの数字をとっても、「生存確率ほぼゼロ」という結論に向かっていた。
ところが、今さっき届いた新しい報告は、あっけない一行でそれをひっくり返している。
『ヴァルム砦、冬季第一戦 敵兵撤退。砦側戦死者ゼロ。村側死者ゼロ』
戦死者ゼロ。
紙の上の文字をなぞる指先に、うっすらと笑みが乗る。
「戦争でゼロか。ずいぶん退屈を嫌う奴が、一人紛れ込んだもんだ」
金貨を転がす速さが、ほんの少しだけ速くなる。
彼は、一枚の紙を別に取り出した。
そこには、簡単な地図と、三つの村と砦を示す印。
その隅に、小さく「死人文官シュアラ?」というメモが書かれている。
「“死人”が盤面を動かして、“死人”が死なせないようにしている」
ヴァレンは、愉快そうに鼻を鳴らした。
「それとも、“死んでいるはずの令嬢”が、別のゲームを始めた、ってところか」
ハーツ財務公庫の刻印が押された封筒が、机の端に積まれている。
中身は、各地の債務状況と、商人ギルドの支部報告書。それらの隙間に、彼だけが読める「戦場投機所」の小さな符牒が挟まっている。
「さて」
ヴァレンは椅子から立ち上がった。
背が高く、影が床に長く伸びる。
「ここまで歪んだオッズを、遠くから眺めてるだけじゃ退屈だ」
指先で金貨を弾いた。
乾いた音が一つ、机の上に転がる。
「次の査定先は、ヴァルム砦。表向きは、商人ギルドの支部長として、借金取りの相談ってところかな」
窓の外では、街道の雪が、夜の冷えにきしんでいる。
その向こう側にある小さな砦と三つの村を思い浮かべながら、ヴァレンは外套を肩にかけた。
金貨が、一枚、静かに指の間で転がった。
カイの指が、シュアラの手首の骨を確かめるように掴んでいる。痛いほどではない。けれど、簡単には振りほどけない力だった。
「……第四ゲームの、決算が出ました。砦側死者ゼロ。村側死者ゼロ。――ご報告いたします、団長」
言い終えた自分の声が、思ったよりも平板に聞こえる。
いつもの報告と同じ調子。帳簿の数字を読み上げるのと、変わらない。
カイは、しばらく何も言わなかった。
中庭のざわめきだけが、わずかな間を埋める。煮込み鍋の蓋が鳴る音、負傷兵の笑い声、捕虜を見張る兵のぼやき。
「……そうか」
ようやく落ちてきた声は、思っていたよりも低かった。
「お前の帳簿どおりだ」
その言葉だけなら、誉め言葉だ。
実際、中庭の何人かは「おお」と歓声を上げかけて、団長の顔色を見て口をつぐんだ。
「話がある」
カイは短く言った。
「来い」
返事を待たずに、掴んだ手首ごとぐい、と引く。
紙束を抱えたまま、シュアラは一歩よろめいた。
「団長。文官殿は怪我人ですよ?」
焚き火のそばから、ゲルトの呑気な声が飛ぶ。
「お前だって怪我人だろうが」
「俺は頭打ってるだけだ。団長よりは正気だ」
「うるせえ、後で報告聞かせろ」
ゲルトの笑い混じりの野次を、カイは軽く手を振って追い払った。
フィンが焚き火の向こうから片眉を上げる。
「……お前、怒られてこいよ、軍師殿」
「怒られるようなことはしていないつもりですが」
「そういうとこだよ」
肩をすくめるフィンの視線を背中に受けながら、シュアラは半ば引きずられるように執務棟へ入った。
*
小会議室の空気は、まだ戦の前夜の匂いを残していた。
机の上には、消し忘れた蝋の跡と、端に寄せられた木片と石。
第四ゲームの盤面に使った駒たちが、今は役目を終えて隅で眠っている。
カイは扉を足で蹴るように閉めると、そのまま背で押さえた。
彼の影が、壁の上でわずかに揺れる。
しばらく、言葉が落ちてこなかった。
代わりに、荒い呼吸だけが部屋の中で反射している。
ようやく、カイが一歩前に出た。
「それ」
顎で示されたのは、シュアラの胸元だった。
矢で裂けた手帳。
表紙の真ん中に走った傷が、布越しでも分かる。
シュアラは、指先で布をめくった。
破れた手帳の背が覗く。矢羽根の粉が、まだ紙の間に細かく残っていた。
「弓兵の腕が良かったんです。紙で止まりました」
できるだけ淡々と説明する。
「皮膚は掠った程度で――」
「そういう話をしてるんじゃねえ」
テーブルの端が、どん、と鳴った。
カイの手が、拳の形のまま机に食い込んでいる。蝋のかすが跳ねた。
声が、低く削れていた。
「お前、自分の命をチップにすんな」
シュアラは、瞬きを一度した。
「……チップ?」
「賭場に出す小銭だ」
カイは、言葉を吐き出すように続けた。
「“この手を通したら、いくら減ってもしょうがねえ”って、最初から削る前提で積むやつだ。さっきのあれは、どう見ても自分の命をそこに混ぜてた」
さっきのあれ――橋の前の坂道。
敵の別働隊と、石袋と、荷車と。
矢が飛び、雪が舞い、紙が裂けたあの瞬間。
シュアラは、ほんのわずかに視線を逸らした。
「最初の設計時点で、囮隊に属する人数は『削れるチップ』として計算しました」
それは嘘ではない。
囮隊の損耗率。坂の傾斜。馬の速度。敵の弓の射程。
全部合わせて、「最悪の場合でも、ここまで」という線を引いていた。
「ただ、その中に『自分』を含めるかどうかは――」
カイの目が細くなる。
「含めたんだろ」
問いではなく、断定だった。
シュアラは、少しだけ息を飲んだ。
「……囮隊の設計と運用を、一番理解しているのは私です」
それが、彼女の出した答えだった。
「坂の噛ませどころも、橋の強度も、石袋の重さも。誰よりも早く判断できる位置にいるべきなのは、設計者です」
「だから、自分でそこに乗ったと」
カイは短く笑った。笑い声に、まったく愉快さはなかった。
「効率で言えば、たしかにそうだな」
その言い方の冷たさに、シュアラの背筋がわずかに強張る。
「第四ゲームの目的は、『砦と村の死者ゼロ』です」
自分でも分かるくらい、声が固くなった。
「囮隊に誰かを乗せるなら、判断の速い人間を。それが最も効率的な手でした」
「効率的、ね」
カイは机から拳を離した。
その手が、まだ微かに震えているのが分かる。
彼は一歩、シュアラに近づいた。
「じゃあ聞くが」
距離が近づいたぶん、森色の瞳の中に、薄い血管の模様が見えた。
怒りだけではない。何か別のものが、瞳の奥を濁らせている。
「俺が言った“退け”って条件は、効率計算のどこに入ってた」
昨夜の会議室の光景が、鮮やかに蘇る。
紙の上の戦線と、赤い線で引かれた「撤退ライン」。
『俺が引けと言ったら、その時点で全部捨てて帰ってこい』という声。
「角笛が鳴った瞬間、囮隊は橋へ向けて動きました」
シュアラは答えた。
「団長の叫び声は、ここまでは届きませんから」
「届いただろうが」
カイは、シュアラの包帯の巻かれた腕を睨んだ。
「矢が届いてる距離まで残ってたってことは、敵も味方も、全部お前のところに届いてたんだよ」
矢が、手帳を裂いた瞬間。
あの時、耳に届いていたのは角笛と、遠くの狼の咆哮と、石袋の転がる音。
たしかに、団長の声だけは聞こえなかった。
「……私が残った時間は、計算上、囮隊全体の生存率を上げています」
「そういう話じゃねえって言ってんだ」
カイは、額に手を当てた。指先が髪の間を荒くかき分ける。
乱暴な仕草のわりに、その手もまだ震えている。
「いいか、シュアラ」
名前を呼ばれた瞬間、背中のどこかがぴしりと鳴った気がした。
「俺は、自分の部下の命をチップ扱いしたことがある」
その言葉は、予想していたどの叱責とも違っていた。
カイは、窓の外へ視線を投げた。薄い冬の光が、彼の横顔の傷を浮かび上がらせる。
「前の戦だ。川沿いの谷で、退路潰されてな」
シュアラは息を飲んだ。
昨日、谷へ向かう途中でちらりと見せた「赤い谷」の記憶が、言葉になっている。
「“ここであと一手押し込めば、味方の死体で敵の足止められる”って、そう思った。そうすりゃ、本隊の損耗は減らせる。数字だけ見りゃ、そっちの方が効率が良かった」
指先が、机の縁を無意識に叩いていた。
一定のリズムになっていない。乱れた鼓動を、そのまま指に移したような動き。
「実際、その一手で助かった奴もいる。だが、そこで倒れた奴の顔と名前は、いまだに夜に出てくる」
短く、息が笑いとも溜息ともつかない形で漏れた。
「“効率的に死んでもらった”って言い訳は、あいつらの墓の前じゃ通用しなかった」
シュアラは、何も言えなかった。
自分が普段使っている単語――効率、損耗率、許容範囲。
それらの言葉が、違う重さでテーブルの上に落とされている。
「だから俺は、お前に“第五ゲームはやるな”って言った」
カイは、ようやく彼女をまっすぐ見た。
「『自分の命をどこまで削れば盤面が勝つか』ってゲームは、最初から負けだ。勝ったところで、残るのは後味の悪さだけだ」
第五ゲーム。
シュアラが帝都にいた頃、父と一緒に何度も頭の中で回した「自分を切る」ゲーム。
自分の命を最小単位のチップとして使う計算。
今まで、それを否定した人間はいなかった。
父はそれを「優秀」と呼び、王太子はそれを「薄気味悪い」と呼びつつも、都合よく使った。
「お前は、砦の死者ゼロを帳簿に書いた」
カイの声音が、少しだけ柔らかくなる。
「……ありがたい。心底ありがたい。ここにいる奴ら全員の命を拾ってくれたってことだ」
そこで一拍、言葉が途切れた。
「だからって」
次の一言は、机を噛み砕きそうな勢いで吐き出された。
「お前自身を“ゼロ”の外に置いていい理由には、なんねえ」
シュアラは、瞬きも忘れてカイの顔を見た。
森色の瞳が、思ったよりも近かった。
その奥にあるのは、怒りでも苛立ちでもない。もっと原始的な、名前のついていない恐怖だ。
(……私が死ぬことを、恐れている?)
そんな計算式は、今まで一度も作ったことがない。
「団長」
声が、自分でも驚くほどかすれていた。
「私は、囮隊の損耗率を――」
「数字じゃねえって言ってるだろうが」
カイは、机から手を離し、代わりにシュアラの肩を掴んだ。
鎧越しではない、衣越しの、そのままの体温が伝わる。
「俺はな、“負け戦の将”はもうたくさんだが、“死んだはずの文官”まで失う趣味はねえんだよ」
口調は荒いのに、掴んでいる指先は、ほんの少し震えている。
その震えが、自分の肩に細かく伝わってきた。
「お前が死んだって報告書、もう書きたくない」
初めて聞く種類の言葉だった。
帝都では、「君の犠牲は無駄にしない」とか、「君の計算にはいつも助けられている」などといった言葉は山ほど耳にした。
だが、「死んだ報告書を書きたくない」とまで直接言ったのは、目の前の男が初めてだ。
「……最も効率的な手でした」
口が、いつもの癖でそう言っていた。
「砦と村の死者をゼロにするために、囮隊の損耗を――」
「俺の感情は、その計算に入ってなかった」
カイがかぶせるように言った。
「お前が矢で撃ち抜かれた未来の俺が、どうやってここで飯食ってるか。そのコストは、最初から勘定に入れてなかったろ」
シュアラは、返す言葉を持たなかった。
計算外のコスト。
自分が死んだあとの誰かの生活。誰かの胃袋。誰かの夜の眠り。
今までは、それを「他人の問題」として切り捨ててきた。
切り捨てることでしか、生き延びられなかったからだ。
(私が死んだあと、誰かが困るかどうかを、考えたことがなかった)
父はきっと困らない、とどこかで決めつけていた。
帝国は、もっともっと大きな盤面だから、一マス欠けたくらいでは揺らがない、と。
しかし今、目の前の男は、はっきりと困る未来を想像している。
「……次からは、考慮に入れます」
ようやく絞り出した声は、情けないほど小さかった。
「自分の死が生む、感情のコストを」
カイの眉がわずかに動く。
「そんな言い方しかできねえのか、お前は」
ぼやきに似た声だった。
それでも、さっきまでよりは少しだけ力が抜けている。
「でもまあ、そう言うなら、まだマシか」
カイは手を離した。
肩に残った指先の痕が、妙に熱い。
「次に同じような場面が来たら」
扉の方へ半歩動いてから、振り返る。
「囮隊に乗る前に、まず俺に話せ。いいな」
「作戦会議の場で、すでに――」
「作戦会議じゃねえ。俺個人だ」
シュアラは目を瞬かせた。
「団長個人に、ですか」
「そうだ」
カイは、そっぽを向くようにして付け加えた。
「上官として部下を守るって話と、俺個人が“お前に死んでほしくねえ”って話は、別の勘定だ」
聞いた瞬間、胸のどこかがきゅっと縮んだ。
その感覚に名前をつけようとしたが、うまく見つからない。
ただ、今まで帳簿のどこにも載せてこなかった単語だけは、はっきりしている。
(失うことの恐怖)
自分が失う恐怖ではない。
誰かが自分を失う恐怖だ。
「……承知しました」
それでも、口から出る言葉は結局、いつもの文官のものだった。
「以後、検討と報告の手順に組み込んでおきます」
「手順にすんな、馬鹿」
カイは呆れたように笑うと、扉に手をかけた。
「第四ゲームは、これで終わりだ。やっと一息つける」
そう言いながらも、その背中にはまだわずかに緊張が残っている。
扉が開き、外の喧噪が一気に流れ込んできた。
カイは一度だけ振り返る。
「……帰ってこいよ、ちゃんと」
意味の分からない言葉だった。
砦に? 執務室に? それとも、どこからか自分の頭の中からか。
シュアラが返事を探しているあいだに、扉は閉じた。
小会議室には、使い終わった木片と、乾きかけた蝋の匂いだけが残る。
シュアラは、机の端に手帳を置いた。
裂けたページをそっと開く。
『死者ゼロ(暫定→本番へ)』
矢が裂いた行のすぐ下に、ペン先を置く。
『備考:自分が死んだ場合に発生する感情コストについて、次回以降要検討』
書いた瞬間、自分で少しだけ笑ってしまった。
「……備考欄に書くことじゃありませんね」
誰も聞いていない部屋で、小さく独りごちる。
それでも、書かなければきっと忘れる。
数字にならないものほど、紙の上に留めておかないと、すぐ手のひらからこぼれ落ちる。
ペンを置くと、指先の痺れがようやく痛みに変わった。
遅れてやってきた痛みを確かめるように、シュアラは包帯越しに腕を押さえた。
第四ゲームの盤面は片づけられた。
ただ、どこかで別の誰かが、新しい賭け札を並べている気配だけが、薄く胸の奥に引っかかっていた。
*
ヴァルムから北へ二日。
凍りかけた街道沿いの小さな町。その外れにある、やけに暖かい酒場の一室で、一人の男が紙束を眺めていた。
痩せた指。
指の間で一枚の金貨が転がされている。机の上には、ざっと書き散らした数字と矢印だらけの紙。
「……オッズが、また歪んでるな」
男――ヴァレン・ハーツは、紙をひらりと裏返した。
数日前に受け取った報告書には、「辺境砦ヴァルム、今冬中に陥落ほぼ確実」とあった。
補給路の細さ、周囲三村の疲弊度、兵の装備の摩耗。
どの数字をとっても、「生存確率ほぼゼロ」という結論に向かっていた。
ところが、今さっき届いた新しい報告は、あっけない一行でそれをひっくり返している。
『ヴァルム砦、冬季第一戦 敵兵撤退。砦側戦死者ゼロ。村側死者ゼロ』
戦死者ゼロ。
紙の上の文字をなぞる指先に、うっすらと笑みが乗る。
「戦争でゼロか。ずいぶん退屈を嫌う奴が、一人紛れ込んだもんだ」
金貨を転がす速さが、ほんの少しだけ速くなる。
彼は、一枚の紙を別に取り出した。
そこには、簡単な地図と、三つの村と砦を示す印。
その隅に、小さく「死人文官シュアラ?」というメモが書かれている。
「“死人”が盤面を動かして、“死人”が死なせないようにしている」
ヴァレンは、愉快そうに鼻を鳴らした。
「それとも、“死んでいるはずの令嬢”が、別のゲームを始めた、ってところか」
ハーツ財務公庫の刻印が押された封筒が、机の端に積まれている。
中身は、各地の債務状況と、商人ギルドの支部報告書。それらの隙間に、彼だけが読める「戦場投機所」の小さな符牒が挟まっている。
「さて」
ヴァレンは椅子から立ち上がった。
背が高く、影が床に長く伸びる。
「ここまで歪んだオッズを、遠くから眺めてるだけじゃ退屈だ」
指先で金貨を弾いた。
乾いた音が一つ、机の上に転がる。
「次の査定先は、ヴァルム砦。表向きは、商人ギルドの支部長として、借金取りの相談ってところかな」
窓の外では、街道の雪が、夜の冷えにきしんでいる。
その向こう側にある小さな砦と三つの村を思い浮かべながら、ヴァレンは外套を肩にかけた。
金貨が、一枚、静かに指の間で転がった。
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