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第一章 ヴァルム試験国家編
第二十五話 死者報告(2)
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別働隊の角笛が鳴った瞬間、雪原の空気が変わった。
シュアラは、橋の手前でロープを握ったまま、その変化を指先の感覚で受け取った。
雪の表面を滑ってくる振動が、さっきまでの「追い立てる」リズムから、「引き波」のような揺れに変わる。
「……撤退の合図ですね」
誰に言うともなく呟くと、隣でラルスが大きく息を吐いた。
「マジで? 撤退? 本当に? 夢じゃなくて?」
「夢なら、もっと温かい部屋だと思います」
「ですよねー!」
ラルスの笑い声が、半分泣き声みたいに裏返った。
坂の上では、敵の別働隊がもつれ合うようにして引き返し始めている。
落とした石袋と、転んだ馬と、雪に散らばった武具。
その中を、敵兵たちが悪態をつきながらすり抜けていく。
橋の上を渡りきった先には、砦へ続く道がある。
その道の向こうで、また誰かが雪を踏み固めているはずだ。
「ラルスさん」
「はいよ!」
「ここから先は、できるだけ揺らさずに走ってください。粉袋の中身を、あまり暴れさせたくありません」
「粉袋……」
ラルスがちらりと荷台を見て、苦笑した。
「中身、半分以上石なんですけどね」
「半分以下は、本物です」
シュアラは、懐の帳簿を指先で押さえた。
「その半分以下を、ちゃんと砦まで連れて帰りましょう」
「了解です。……軍師殿」
ラルスが、少し真面目な声になった。
「俺、ちゃんと帰ってきたら、帳簿の借金、ほんとに減るんですよね?」
「ええ。数字の上では、すでに減り始めています」
「じゃあ、死ねねえなあ」
自分で言って、自分で笑う。
その笑いが完全に冗談になりきる前に、御者台の下で誰かが声を上げた。
「軍師殿! 腕!」
ロープを握っていた右腕を見下ろすと、袖の布が裂けていた。
さっき矢を受けた箇所。
血はもうほとんど止まっているが、動かすたびに鈍い痛みが走る。
「大丈夫です。かすり傷ですから」
「かすり傷でその血の量っすか……?」
「……冬は血が目立ちます」
そう言って、シュアラはわざと肩をすくめてみせた。
ラルスが、やれやれといった顔で前を向き直る。
(痛い)
実際には、かすり傷というには少し深い。
だが、それをきっちり報告してしまえば、次から同じ距離で矢を避けろと命じられるかもしれない。
(それは、さすがに無理です)
そんな細かい調整ができるなら、帝都の帳簿だって破産なんてしなかった。
橋を渡りきる直前、シュアラは一度だけ振り返った。
坂の途中に、石袋と倒れた馬と、散った槍の穂先が見える。
そこに血の色はほとんど見えなかった。
敵兵の何人かは、まだ動いている。
呻き声が風に乗って届いた。
(……数には入れません)
自分に言い聞かせる。
今日の帳簿に載せるのは、砦と村と、自分たちの数字だけだ。
だからといって、見なかったことにするわけにもいかなかった。
「後で、応急処置の班を回します」
ぽつりと呟くと、ラルスが振り返った。
「敵に、ですか?」
「はい。死なれると、数字がややこしくなります」
「そっちの理由っすか!」
ラルスが呆れ半分に笑う。
その笑いに救われる形で、シュアラも口元だけで小さく笑った。
橋を渡りきったところで、砦からの援軍と出会った。
狼の旗。鎧の軋む音。
誰かが「軍師殿!」と叫ぶ声。
そこでようやく、膝が笑った。
雪の上に、どさりと尻餅をつく。
冷たさが、鎧越しに太腿へ染み込んできた。
右手が、懐の手帳を探す。
矢で裂けたページを開くと、『死者ゼロ(暫定→本番へ)』の文字がまだかろうじて読めた。
そのすぐ下の余白に、新しい行を足す。
『第一戦 砦側死者ゼロ(達成)
重傷:四 中等傷:一二 軽傷:二三
村側死者:ゼロ』
インクが、裂け目の縁にじわりと染み込んでいく。
文字の形はいびつだったが、それでいい気がした。
手帳を閉じると、ようやく膝の力が抜けた。
その場にしゃがみ込む。雪が太腿まで冷たく染みてくる。
「軍師殿!」
遠くから名前を呼ばれた気がしたが、声の主を確かめる余裕はなかった。
*
砦の中庭は、いつもよりざわついていた。
夕方の光が、石壁と兵の鎧に薄く反射する。
焚き火の煙と、煮込み鍋の匂いと、血と薬草の匂いが混ざっていた。
負傷した兵たちが、毛布にくるまれて並んでいる。
腕を吊った者。頭に包帯を巻いた者。
痛みに顔を歪めつつも、どこか浮かれたような声で冗談を飛ばし合っていた。
「おい、見ろよ。団長がやっと仕事した顔してるぜ」
「お前は寝てろ、頭切ったばっかだろうが」
鍋をかき回す者。捕虜の見張りをしながらぼやく者。
誰もが、今日の「死者ゼロ」を、各々のやり方で噛み締めていた。
「文官殿、やったな!」
「お前の数字、たまには信用してやるよ!」
そんな声が耳に飛び込んでくる。
シュアラは、軽く会釈を返しながら中庭を横切った。
紙束を抱えた腕に、体温と冷気が交互に触れてくる。
(……終わった)
そう思った瞬間、足がほんの少しふらついた。
雪と石畳の境目で、踵が滑る。
紙束が腕からずれかけたところで、誰かの手がそれを支えた。
「おっと」
低い声。
聞き慣れたはずなのに、今日は妙に荒く聞こえる。
顔を上げると、すぐ目の前にカイがいた。
鎧の上半分を脱ぎかけた格好で、髪はいつも以上に乱れている。
左眉の古い傷の下で、森色の目だけが鋭く光っていた。
その目の下に、うっすらと青黒い影がある。
疲労だけではない。
怒りとも、安堵とも、別の何かが混ざった色だった。
「団長……?」
思わずそう呼ぶと、カイの喉がわずかに動いた。
握られた腕に、強い力がこもる。
痛い、と言いそうになって口を閉じる。
カイは、しばらく何も言わなかった。
じっとシュアラの顔を見ている。
紙束に矢の跡はないか。包帯の下に血が滲んでいないか。
そんなふうに、一つ一つ確認するような目だった。
「……軍師殿」
ようやく、低い声が落ちてきた。
「はい」
「勝手に第五ゲーム始めたら、どうするつもりだった」
喉の奥が、きゅ、と鳴る。
自分でも気づかないうちに、視線が紙束へと逃げていた。
「第五ゲームは、まだ始めていません」
「囮の荷車の上に乗るのは、第四ゲームの延長か」
「はい。第四ゲームの一部です」
できるだけ平坦な声で答える。
「砦と村の冬を守るためのゲームであって、自分の命を削るゲームではありません」
「……本当にそうか?」
カイの声が、少しだけ低くなった。
「俺には、お前が自分の勘定を後回しにしてるようにしか見えねえ」
「後回しにしている自覚はあります」
否定しようとして、やめた。
「ですが、今日に限って言えば――」
抱えていた紙束を抱き直す。
矢で裂けた手帳と同じくらい、その紙も今は頼りない。
「第四ゲームの、決算が出ました」
自分でも驚くほど、いつもの文官らしい声が出た。
「砦側死者ゼロ。村側死者ゼロ。――ご報告いたします、団長」
カイの目が、ほんのわずかに細くなった。
次の瞬間、彼の口が何かを言いかける。
その続きが、どんな言葉になるのか。
シュアラには、まだ分からなかった。
シュアラは、橋の手前でロープを握ったまま、その変化を指先の感覚で受け取った。
雪の表面を滑ってくる振動が、さっきまでの「追い立てる」リズムから、「引き波」のような揺れに変わる。
「……撤退の合図ですね」
誰に言うともなく呟くと、隣でラルスが大きく息を吐いた。
「マジで? 撤退? 本当に? 夢じゃなくて?」
「夢なら、もっと温かい部屋だと思います」
「ですよねー!」
ラルスの笑い声が、半分泣き声みたいに裏返った。
坂の上では、敵の別働隊がもつれ合うようにして引き返し始めている。
落とした石袋と、転んだ馬と、雪に散らばった武具。
その中を、敵兵たちが悪態をつきながらすり抜けていく。
橋の上を渡りきった先には、砦へ続く道がある。
その道の向こうで、また誰かが雪を踏み固めているはずだ。
「ラルスさん」
「はいよ!」
「ここから先は、できるだけ揺らさずに走ってください。粉袋の中身を、あまり暴れさせたくありません」
「粉袋……」
ラルスがちらりと荷台を見て、苦笑した。
「中身、半分以上石なんですけどね」
「半分以下は、本物です」
シュアラは、懐の帳簿を指先で押さえた。
「その半分以下を、ちゃんと砦まで連れて帰りましょう」
「了解です。……軍師殿」
ラルスが、少し真面目な声になった。
「俺、ちゃんと帰ってきたら、帳簿の借金、ほんとに減るんですよね?」
「ええ。数字の上では、すでに減り始めています」
「じゃあ、死ねねえなあ」
自分で言って、自分で笑う。
その笑いが完全に冗談になりきる前に、御者台の下で誰かが声を上げた。
「軍師殿! 腕!」
ロープを握っていた右腕を見下ろすと、袖の布が裂けていた。
さっき矢を受けた箇所。
血はもうほとんど止まっているが、動かすたびに鈍い痛みが走る。
「大丈夫です。かすり傷ですから」
「かすり傷でその血の量っすか……?」
「……冬は血が目立ちます」
そう言って、シュアラはわざと肩をすくめてみせた。
ラルスが、やれやれといった顔で前を向き直る。
(痛い)
実際には、かすり傷というには少し深い。
だが、それをきっちり報告してしまえば、次から同じ距離で矢を避けろと命じられるかもしれない。
(それは、さすがに無理です)
そんな細かい調整ができるなら、帝都の帳簿だって破産なんてしなかった。
橋を渡りきる直前、シュアラは一度だけ振り返った。
坂の途中に、石袋と倒れた馬と、散った槍の穂先が見える。
そこに血の色はほとんど見えなかった。
敵兵の何人かは、まだ動いている。
呻き声が風に乗って届いた。
(……数には入れません)
自分に言い聞かせる。
今日の帳簿に載せるのは、砦と村と、自分たちの数字だけだ。
だからといって、見なかったことにするわけにもいかなかった。
「後で、応急処置の班を回します」
ぽつりと呟くと、ラルスが振り返った。
「敵に、ですか?」
「はい。死なれると、数字がややこしくなります」
「そっちの理由っすか!」
ラルスが呆れ半分に笑う。
その笑いに救われる形で、シュアラも口元だけで小さく笑った。
橋を渡りきったところで、砦からの援軍と出会った。
狼の旗。鎧の軋む音。
誰かが「軍師殿!」と叫ぶ声。
そこでようやく、膝が笑った。
雪の上に、どさりと尻餅をつく。
冷たさが、鎧越しに太腿へ染み込んできた。
右手が、懐の手帳を探す。
矢で裂けたページを開くと、『死者ゼロ(暫定→本番へ)』の文字がまだかろうじて読めた。
そのすぐ下の余白に、新しい行を足す。
『第一戦 砦側死者ゼロ(達成)
重傷:四 中等傷:一二 軽傷:二三
村側死者:ゼロ』
インクが、裂け目の縁にじわりと染み込んでいく。
文字の形はいびつだったが、それでいい気がした。
手帳を閉じると、ようやく膝の力が抜けた。
その場にしゃがみ込む。雪が太腿まで冷たく染みてくる。
「軍師殿!」
遠くから名前を呼ばれた気がしたが、声の主を確かめる余裕はなかった。
*
砦の中庭は、いつもよりざわついていた。
夕方の光が、石壁と兵の鎧に薄く反射する。
焚き火の煙と、煮込み鍋の匂いと、血と薬草の匂いが混ざっていた。
負傷した兵たちが、毛布にくるまれて並んでいる。
腕を吊った者。頭に包帯を巻いた者。
痛みに顔を歪めつつも、どこか浮かれたような声で冗談を飛ばし合っていた。
「おい、見ろよ。団長がやっと仕事した顔してるぜ」
「お前は寝てろ、頭切ったばっかだろうが」
鍋をかき回す者。捕虜の見張りをしながらぼやく者。
誰もが、今日の「死者ゼロ」を、各々のやり方で噛み締めていた。
「文官殿、やったな!」
「お前の数字、たまには信用してやるよ!」
そんな声が耳に飛び込んでくる。
シュアラは、軽く会釈を返しながら中庭を横切った。
紙束を抱えた腕に、体温と冷気が交互に触れてくる。
(……終わった)
そう思った瞬間、足がほんの少しふらついた。
雪と石畳の境目で、踵が滑る。
紙束が腕からずれかけたところで、誰かの手がそれを支えた。
「おっと」
低い声。
聞き慣れたはずなのに、今日は妙に荒く聞こえる。
顔を上げると、すぐ目の前にカイがいた。
鎧の上半分を脱ぎかけた格好で、髪はいつも以上に乱れている。
左眉の古い傷の下で、森色の目だけが鋭く光っていた。
その目の下に、うっすらと青黒い影がある。
疲労だけではない。
怒りとも、安堵とも、別の何かが混ざった色だった。
「団長……?」
思わずそう呼ぶと、カイの喉がわずかに動いた。
握られた腕に、強い力がこもる。
痛い、と言いそうになって口を閉じる。
カイは、しばらく何も言わなかった。
じっとシュアラの顔を見ている。
紙束に矢の跡はないか。包帯の下に血が滲んでいないか。
そんなふうに、一つ一つ確認するような目だった。
「……軍師殿」
ようやく、低い声が落ちてきた。
「はい」
「勝手に第五ゲーム始めたら、どうするつもりだった」
喉の奥が、きゅ、と鳴る。
自分でも気づかないうちに、視線が紙束へと逃げていた。
「第五ゲームは、まだ始めていません」
「囮の荷車の上に乗るのは、第四ゲームの延長か」
「はい。第四ゲームの一部です」
できるだけ平坦な声で答える。
「砦と村の冬を守るためのゲームであって、自分の命を削るゲームではありません」
「……本当にそうか?」
カイの声が、少しだけ低くなった。
「俺には、お前が自分の勘定を後回しにしてるようにしか見えねえ」
「後回しにしている自覚はあります」
否定しようとして、やめた。
「ですが、今日に限って言えば――」
抱えていた紙束を抱き直す。
矢で裂けた手帳と同じくらい、その紙も今は頼りない。
「第四ゲームの、決算が出ました」
自分でも驚くほど、いつもの文官らしい声が出た。
「砦側死者ゼロ。村側死者ゼロ。――ご報告いたします、団長」
カイの目が、ほんのわずかに細くなった。
次の瞬間、彼の口が何かを言いかける。
その続きが、どんな言葉になるのか。
シュアラには、まだ分からなかった。
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