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第一章 ヴァルム試験国家編
第二十八話 戦績に付く値札(1)
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雪は、夜のあいだに、砦の輪郭を少しだけ鈍らせていた。
屋根の上も、中庭の石畳も、白い膜を一枚かぶっている。
まだ積もったというほどではない。だが、足音の響き方が、昨日までと違っていた。硬い石を叩く音から、浅い雪を踏みしだく音に変わる。そのわずかな違いが、冬の「次の段階」を告げている。
シュアラは、その音を窓越しに聞きながら、机の上の手帳を開いた。
ページの真ん中、矢傷の跡で紙が細く裂けている。
そこに、昨夜書き足した行がある。
『第五ゲーム:冬の試験国家
担保:死人文官シュアラの存命』
インクはもう乾いているのに、指でなぞると、まだどこか湿っている気がした。
(……自分で書いたんだから、消せとは言えませんね)
口の中で、誰にも聞こえないため息を一つだけ吐く。
胸の奥で、心臓が一拍打つたびに、「担保」という文字がわずかに揺れる。
ヴァレンの声が、耳の奥で蘇った。
『あなたの心臓の鼓動と、この土地の生存日数に、賭けさせてもらいましょう』
懐に差し込んだ封筒の端が、布越しに触れる。
宛名のない死亡届。まだ一度も使っていない、自分の「死」の証明書。
(……抵当権に、死亡届に、「試験国家」に)
自分の身に貼りついた札の数を、頭の中で雑に数えてみて、途中でやめた。
数え終わったところで、軽くなるものは何一つない。
扉の方から、足音が近づいてきた。
今度は、雪を踏む音ではない。石を急いで叩く、細かくて落ち着きのない足音だ。フィンの歩き方だと、耳が先に判断する。
「軍師殿、入るぞ!」
ノックと声がほぼ同時だった。
返事を待つという発想は、彼の中にまだ根付いていないらしい。
「どうぞ」
言い終わる前に扉が開き、冷たい空気が入り込んだ。
フィンの肩には、外の雪がいくつか貼り付いている。息が白い。額には汗も浮かんでいるのに、寒さでその輪郭が曖昧になっていた。
「門に客だ。……いや、客って顔じゃねえな」
「商人ギルドの続き、ですか」
ヴァレンがまだ砦にいる可能性を計算しながら問う。
フィンは首を横に振った。
「違う。赤い旗だ。真ん中に金の紋章。双頭の……あれだよ、帝都の」
脳裏に、王宮の大広間の天井近くに掲げられていた旗が浮かぶ。
金糸で縫い取られた紋章。赤い布。蝋燭の光を受けて、やけに眩しかった。
シュアラは、手帳を閉じた。
「何人ぐらいです?」
「馬に乗ってるのが六。うち二人は鎧。あとの四人は……書類抱えてる感じだな。外套が妙に綺麗だ」
フィンは眉をひそめる。
「門番の話じゃ、『帝都監査局の査察官』って名乗ったらしい。団長に面会を希望、だとよ」
予想していた単語の一つが、実際に口から出てきた瞬間、喉の奥が少しだけ狭くなった。
(帝都監査局……)
父と一緒に見ていた帝国歳入の帳簿。その表紙に押されていた印章と、今門の前に立っている男たちの印章は、おそらく同じだ。
「団長は?」
「もう下に向かってる。監視塔から角笛も鳴ったしな。……で、軍師殿はどうします?」
どうします、と言われても、選択肢は多くない。
ここで「存在を消す」ために使える切り札――死亡届の封筒――に指が向かいかけて、途中で止まった。
今それを開けるのは、あまりにも雑な使い方だ。
帝都の帳簿の上ではとっくに死んでいる身分が、ここで現実に死んだことにされれば、ヴァレンとの「試験国家」条約も、その瞬間に崩れる。
(私が死ねば、ここも一緒に死ぬ)
ヴァレンの言葉は、あれほど嫌だったのに、今は妙に便利な制約に思えた。
少なくとも、今この瞬間に「ただ逃げる」ことだけは、選択肢から消してくれる。
「……ひとまず、顔を洗ってきます」
「は?」
「火傷痕を、少しだけ目立たせたいので」
フィンが瞬きをした。
「目立たせる? 隠すんじゃなくて?」
「『死んだはずの侯爵令嬢』を探しに来た人たちがいたとして」
自分の声が、思ったよりも落ち着いて聞こえる。
「春の舞踏会で見た顔と、今の私を、簡単に重ねてほしくありません」
理解が追いつくのに、彼の頭の中で三拍ぐらいかかったらしい。
「……ああ。そういうことか」
ようやく納得したようにうなずく。
「じゃあ急いだほうがいいな。若が“帝都様”を上まで連れてくる前に」
「分かりました。フィンさんは、団長のところへ」
「了解」
彼はくるりと踵を返し、廊下を駆けていった。
雪を踏む音と石を叩く音が入り混じる。
シュアラは立ち上がり、壁際に掛けてあった小さな鏡の前に移動した。
鏡に映る自分の顔は、見慣れているはずなのに、今日はどこか他人のようだった。
左頬からこめかみにかけて巻いた淡い布。
布の端から、火傷痕の不規則な赤みがのぞいている。
布を少しだけずらし、痕の範囲を広く露出させる。
冷たい空気に触れた皮膚が、じんと痛んだ。
奥歯を噛みしめながら、指先で痕の縁をなぞる。
色の薄い部分と、まだ赤黒い部分。その境界線を、ほんの少し荒く見せかけるように、布の端を折り曲げた。
(……舞踏会の写真を持ってきて比べられたら、さすがに困りますが)
さすがにそこまで用意周到ではないだろう、と自分に言い聞かせる。
髪をざっと梳き、わざと少し乱したままにした。
帝都の令嬢らしい整った編み込みではなく、辺境に流れ着いた文官の「寝不足」の髪。
鏡の中で、自分が一度だけ深く息を吸う。
肺の奥まで冷たい空気が入ってきた。
「……陰気で、数字もそこそこ、ですかね」
独り言を、布に吸い込ませる。
扉の向こうから、別の足音が聞こえてきた。
今度は重い。鎧の金具がかすかに鳴る。カイだ。
「シュアラ」
扉が開く前に、声だけが届いた。
「団長、どうぞ」
言い終えるより早く、扉が開く。
冷気と一緒に、森色の瞳が入ってきた。
カイは、シュアラの顔を見るなり、眉をひそめた。
「痛くねえのか、それ」
「少しだけ。効果がある方が、査察官の目を引きます」
「引いてどうすんだよ」
言いながらも、視線は火傷の部分に吸い寄せられている。
あの夜、燃える馬車からやっとのことで抜け出したときに負った傷。その痕跡だと知っているからこその、複雑な色だ。
「帝都からの使者は、何と言っていました?」
「『第四ゲームの戦闘報告と、砦の経理状況の確認に来た』だとよ」
カイは、腰に差した手袋を握りしめる。
「それともう一つ。門で文書を見せてた。ゲルトがちらっと読んだらしいが……」
言葉を切る。
彼にしては珍しく、続きがすぐに出てこなかった。
「何と?」
「『財務長官クライフェルト侯爵家令嬢に酷似する者の存在について、調査せよ』」
喉の奥で、何かがからんだ。
予感はしていた。
シルバークリークの丘の上から見ていた謎の影。ギルドの査定官。あちこちからこちらを覗いていた視線たち。
それらのどこかから、帝都に「噂」が届いたのだろう。
「その文書を、今は誰が持っています?」
「門番のところで封を閉じたまま預かってる。正式には、これから俺が受け取って、開封する流れだ」
「でしたら、そのまま『今初めて知った』顔をしてください」
シュアラは言った。
「団長は何も知らなかった。ここにいる死人文官は、ただの辺境の雑用係。その前提で、話を進めましょう」
カイは、しばらくシュアラを見ていた。
何かを言いかけて、言葉を飲み込む。そのかわりに、机の端を指で二度叩いた。
「……分かった」
短い言葉。
「で、その『雑用係』は、どんな顔して座ってりゃいい」
「陰気で無能そうに見えれば、なおよしです」
自分で言っておきながら、わずかに胸がちくりとした。
それを顔に出さない技術だけは、帝都時代に嫌というほど身につけている。
「数字を少しだけ間違えるのはどうでしょう」
「わざとやるな。癖になる」
「癖にはしません。今日限定です」
カイの口元が、ほんのわずかだけ緩んだ。
「……ゲルトとフィンには、もう話してある。あとは兵どもにも、それとなく回す」
「口裏合わせ、ですね」
「ああ」
森色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見た。
「帝都様が何を調べに来ようが、ここにいるのは『死人文官シュアラ』だ。――それ以外は、全部“噂”にしといてやる」
その言葉が、思った以上に温度を持って胸に刺さった。
シュアラは、一度だけうなずく。
「では、会議室でお待ちしています。団長は、使節団をお連れください」
「おう」
カイが部屋を出ていく。
扉が閉まったあと、わずかな沈黙が落ちた。
心臓が、さっきよりも速く打っている。
それは、ヴァレンに担保にされた鼓動と同じ臓器の動きであるはずなのに、色の違う音に聞こえた。
(……守られるのは、あまり得意ではないのですが)
誰に聞かせるでもない言い訳を胸の奥にしまい、シュアラは手帳とペンを抱えて部屋を出た。
*
小会議室の空気は、いつもより重かった。
蝋燭の火が三本。
窓の外には、白くなりかけた中庭が見える。雪の上に残った足跡の列が、門から執務棟へと続いていた。
長机の一番奥に、カイ。
その右隣にシュアラ。左隣にはゲルト。
扉に近い側に、フィンが控えている。
向かい側には、灰色の外套を着た男が二人と、その後ろに若い書記官が一人。
外套の襟や袖口には、細い金糸が縫い取られている。雪に濡れているのに、布の質は明らかに砦のものとは違った。
年長のほうの男が、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
髭は短く整えられ、指には印章のはまった指輪が光っている。
「第七騎士団ヴァルム砦、臨時団長カイ・フォン・ヴォルフ殿とお見受けする」
滑らかな声だ。
帝都の官僚特有の、抑揚の少ない口調。
「帝都監査局第二課、ルース・ハルデンと申す。こちらが同課所属のディート、後ろが書記官のアルノだ」
名乗りを聞いた瞬間、シュアラの背中のどこかがわずかに冷えた。
名前に聞き覚えがあるわけではない。ただ、「第二課」という響きに、帝都財務省時代の記憶が反応しただけだ。
カイは椅子の背にもたれず、わずかに前傾した姿勢のまま答えた。
「第七騎士団ヴァルム砦臨時団長、カイ・フォン・ヴォルフだ。遠路ご苦労なこった」
礼儀としてぎりぎり許される程度に砕けた口調。
ルースは、薄く笑ったのかもしれない。口元だけがわずかに動いた。
「本日は、帝都より幾つかの確認事項を預かっております」
彼は外套の内ポケットから封筒を取り出した。
赤い封蝋。双頭の紋章。
「正式には、ここで開封すべきものですが……内容については、すでに門で簡単な説明をさせていただきました」
カイは封筒を受け取り、蝋に押された紋章を一瞬だけ眺めた。
そして、テーブルの上で封を切る。
薄い紙が、一枚、机の上に広がった。
シュアラの位置からは、文字のすべては読めない。ただ、いくつかの単語が目に飛び込んできた。
『第四ゲーム』『死者ゼロ』『侯爵令嬢』『酷似』
喉の奥で、小さな音が鳴りそうになった。
カイは紙を読んでいる。
森色の瞳が、文字の列を追う。途中で視線が一瞬だけ横に流れ、シュアラの左頬の火傷のあたりで止まりかけたが、すぐに戻った。
「……ふん」
紙を読み終えると、彼は鼻から短く息を吐いた。
「で、帝都様は、うちの砦に『幽霊でも出るのか』って聞きに来たわけだ」
ルースの目が、わずかに細くなる。
その変化を、シュアラは見逃さなかった。
「文書にありますように」
ルースは、淡々と言葉を継ぐ。
「第一に、第四ゲームと称される戦闘において、当砦が『犠牲者ゼロ』と報告している点について、状況確認を」
「それは報告の通りだ」
カイは短く答える。
「第二に、この砦に勤務する文官の一人について」
今度は、はっきりと視線がシュアラに向けられた。
「帝都にて死亡と処理されたはずのクライフェルト侯爵家令嬢と『容貌・才覚において酷似する者がいる』との噂が複数寄せられております。その真偽を確認したく存じます」
屋根の上も、中庭の石畳も、白い膜を一枚かぶっている。
まだ積もったというほどではない。だが、足音の響き方が、昨日までと違っていた。硬い石を叩く音から、浅い雪を踏みしだく音に変わる。そのわずかな違いが、冬の「次の段階」を告げている。
シュアラは、その音を窓越しに聞きながら、机の上の手帳を開いた。
ページの真ん中、矢傷の跡で紙が細く裂けている。
そこに、昨夜書き足した行がある。
『第五ゲーム:冬の試験国家
担保:死人文官シュアラの存命』
インクはもう乾いているのに、指でなぞると、まだどこか湿っている気がした。
(……自分で書いたんだから、消せとは言えませんね)
口の中で、誰にも聞こえないため息を一つだけ吐く。
胸の奥で、心臓が一拍打つたびに、「担保」という文字がわずかに揺れる。
ヴァレンの声が、耳の奥で蘇った。
『あなたの心臓の鼓動と、この土地の生存日数に、賭けさせてもらいましょう』
懐に差し込んだ封筒の端が、布越しに触れる。
宛名のない死亡届。まだ一度も使っていない、自分の「死」の証明書。
(……抵当権に、死亡届に、「試験国家」に)
自分の身に貼りついた札の数を、頭の中で雑に数えてみて、途中でやめた。
数え終わったところで、軽くなるものは何一つない。
扉の方から、足音が近づいてきた。
今度は、雪を踏む音ではない。石を急いで叩く、細かくて落ち着きのない足音だ。フィンの歩き方だと、耳が先に判断する。
「軍師殿、入るぞ!」
ノックと声がほぼ同時だった。
返事を待つという発想は、彼の中にまだ根付いていないらしい。
「どうぞ」
言い終わる前に扉が開き、冷たい空気が入り込んだ。
フィンの肩には、外の雪がいくつか貼り付いている。息が白い。額には汗も浮かんでいるのに、寒さでその輪郭が曖昧になっていた。
「門に客だ。……いや、客って顔じゃねえな」
「商人ギルドの続き、ですか」
ヴァレンがまだ砦にいる可能性を計算しながら問う。
フィンは首を横に振った。
「違う。赤い旗だ。真ん中に金の紋章。双頭の……あれだよ、帝都の」
脳裏に、王宮の大広間の天井近くに掲げられていた旗が浮かぶ。
金糸で縫い取られた紋章。赤い布。蝋燭の光を受けて、やけに眩しかった。
シュアラは、手帳を閉じた。
「何人ぐらいです?」
「馬に乗ってるのが六。うち二人は鎧。あとの四人は……書類抱えてる感じだな。外套が妙に綺麗だ」
フィンは眉をひそめる。
「門番の話じゃ、『帝都監査局の査察官』って名乗ったらしい。団長に面会を希望、だとよ」
予想していた単語の一つが、実際に口から出てきた瞬間、喉の奥が少しだけ狭くなった。
(帝都監査局……)
父と一緒に見ていた帝国歳入の帳簿。その表紙に押されていた印章と、今門の前に立っている男たちの印章は、おそらく同じだ。
「団長は?」
「もう下に向かってる。監視塔から角笛も鳴ったしな。……で、軍師殿はどうします?」
どうします、と言われても、選択肢は多くない。
ここで「存在を消す」ために使える切り札――死亡届の封筒――に指が向かいかけて、途中で止まった。
今それを開けるのは、あまりにも雑な使い方だ。
帝都の帳簿の上ではとっくに死んでいる身分が、ここで現実に死んだことにされれば、ヴァレンとの「試験国家」条約も、その瞬間に崩れる。
(私が死ねば、ここも一緒に死ぬ)
ヴァレンの言葉は、あれほど嫌だったのに、今は妙に便利な制約に思えた。
少なくとも、今この瞬間に「ただ逃げる」ことだけは、選択肢から消してくれる。
「……ひとまず、顔を洗ってきます」
「は?」
「火傷痕を、少しだけ目立たせたいので」
フィンが瞬きをした。
「目立たせる? 隠すんじゃなくて?」
「『死んだはずの侯爵令嬢』を探しに来た人たちがいたとして」
自分の声が、思ったよりも落ち着いて聞こえる。
「春の舞踏会で見た顔と、今の私を、簡単に重ねてほしくありません」
理解が追いつくのに、彼の頭の中で三拍ぐらいかかったらしい。
「……ああ。そういうことか」
ようやく納得したようにうなずく。
「じゃあ急いだほうがいいな。若が“帝都様”を上まで連れてくる前に」
「分かりました。フィンさんは、団長のところへ」
「了解」
彼はくるりと踵を返し、廊下を駆けていった。
雪を踏む音と石を叩く音が入り混じる。
シュアラは立ち上がり、壁際に掛けてあった小さな鏡の前に移動した。
鏡に映る自分の顔は、見慣れているはずなのに、今日はどこか他人のようだった。
左頬からこめかみにかけて巻いた淡い布。
布の端から、火傷痕の不規則な赤みがのぞいている。
布を少しだけずらし、痕の範囲を広く露出させる。
冷たい空気に触れた皮膚が、じんと痛んだ。
奥歯を噛みしめながら、指先で痕の縁をなぞる。
色の薄い部分と、まだ赤黒い部分。その境界線を、ほんの少し荒く見せかけるように、布の端を折り曲げた。
(……舞踏会の写真を持ってきて比べられたら、さすがに困りますが)
さすがにそこまで用意周到ではないだろう、と自分に言い聞かせる。
髪をざっと梳き、わざと少し乱したままにした。
帝都の令嬢らしい整った編み込みではなく、辺境に流れ着いた文官の「寝不足」の髪。
鏡の中で、自分が一度だけ深く息を吸う。
肺の奥まで冷たい空気が入ってきた。
「……陰気で、数字もそこそこ、ですかね」
独り言を、布に吸い込ませる。
扉の向こうから、別の足音が聞こえてきた。
今度は重い。鎧の金具がかすかに鳴る。カイだ。
「シュアラ」
扉が開く前に、声だけが届いた。
「団長、どうぞ」
言い終えるより早く、扉が開く。
冷気と一緒に、森色の瞳が入ってきた。
カイは、シュアラの顔を見るなり、眉をひそめた。
「痛くねえのか、それ」
「少しだけ。効果がある方が、査察官の目を引きます」
「引いてどうすんだよ」
言いながらも、視線は火傷の部分に吸い寄せられている。
あの夜、燃える馬車からやっとのことで抜け出したときに負った傷。その痕跡だと知っているからこその、複雑な色だ。
「帝都からの使者は、何と言っていました?」
「『第四ゲームの戦闘報告と、砦の経理状況の確認に来た』だとよ」
カイは、腰に差した手袋を握りしめる。
「それともう一つ。門で文書を見せてた。ゲルトがちらっと読んだらしいが……」
言葉を切る。
彼にしては珍しく、続きがすぐに出てこなかった。
「何と?」
「『財務長官クライフェルト侯爵家令嬢に酷似する者の存在について、調査せよ』」
喉の奥で、何かがからんだ。
予感はしていた。
シルバークリークの丘の上から見ていた謎の影。ギルドの査定官。あちこちからこちらを覗いていた視線たち。
それらのどこかから、帝都に「噂」が届いたのだろう。
「その文書を、今は誰が持っています?」
「門番のところで封を閉じたまま預かってる。正式には、これから俺が受け取って、開封する流れだ」
「でしたら、そのまま『今初めて知った』顔をしてください」
シュアラは言った。
「団長は何も知らなかった。ここにいる死人文官は、ただの辺境の雑用係。その前提で、話を進めましょう」
カイは、しばらくシュアラを見ていた。
何かを言いかけて、言葉を飲み込む。そのかわりに、机の端を指で二度叩いた。
「……分かった」
短い言葉。
「で、その『雑用係』は、どんな顔して座ってりゃいい」
「陰気で無能そうに見えれば、なおよしです」
自分で言っておきながら、わずかに胸がちくりとした。
それを顔に出さない技術だけは、帝都時代に嫌というほど身につけている。
「数字を少しだけ間違えるのはどうでしょう」
「わざとやるな。癖になる」
「癖にはしません。今日限定です」
カイの口元が、ほんのわずかだけ緩んだ。
「……ゲルトとフィンには、もう話してある。あとは兵どもにも、それとなく回す」
「口裏合わせ、ですね」
「ああ」
森色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見た。
「帝都様が何を調べに来ようが、ここにいるのは『死人文官シュアラ』だ。――それ以外は、全部“噂”にしといてやる」
その言葉が、思った以上に温度を持って胸に刺さった。
シュアラは、一度だけうなずく。
「では、会議室でお待ちしています。団長は、使節団をお連れください」
「おう」
カイが部屋を出ていく。
扉が閉まったあと、わずかな沈黙が落ちた。
心臓が、さっきよりも速く打っている。
それは、ヴァレンに担保にされた鼓動と同じ臓器の動きであるはずなのに、色の違う音に聞こえた。
(……守られるのは、あまり得意ではないのですが)
誰に聞かせるでもない言い訳を胸の奥にしまい、シュアラは手帳とペンを抱えて部屋を出た。
*
小会議室の空気は、いつもより重かった。
蝋燭の火が三本。
窓の外には、白くなりかけた中庭が見える。雪の上に残った足跡の列が、門から執務棟へと続いていた。
長机の一番奥に、カイ。
その右隣にシュアラ。左隣にはゲルト。
扉に近い側に、フィンが控えている。
向かい側には、灰色の外套を着た男が二人と、その後ろに若い書記官が一人。
外套の襟や袖口には、細い金糸が縫い取られている。雪に濡れているのに、布の質は明らかに砦のものとは違った。
年長のほうの男が、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
髭は短く整えられ、指には印章のはまった指輪が光っている。
「第七騎士団ヴァルム砦、臨時団長カイ・フォン・ヴォルフ殿とお見受けする」
滑らかな声だ。
帝都の官僚特有の、抑揚の少ない口調。
「帝都監査局第二課、ルース・ハルデンと申す。こちらが同課所属のディート、後ろが書記官のアルノだ」
名乗りを聞いた瞬間、シュアラの背中のどこかがわずかに冷えた。
名前に聞き覚えがあるわけではない。ただ、「第二課」という響きに、帝都財務省時代の記憶が反応しただけだ。
カイは椅子の背にもたれず、わずかに前傾した姿勢のまま答えた。
「第七騎士団ヴァルム砦臨時団長、カイ・フォン・ヴォルフだ。遠路ご苦労なこった」
礼儀としてぎりぎり許される程度に砕けた口調。
ルースは、薄く笑ったのかもしれない。口元だけがわずかに動いた。
「本日は、帝都より幾つかの確認事項を預かっております」
彼は外套の内ポケットから封筒を取り出した。
赤い封蝋。双頭の紋章。
「正式には、ここで開封すべきものですが……内容については、すでに門で簡単な説明をさせていただきました」
カイは封筒を受け取り、蝋に押された紋章を一瞬だけ眺めた。
そして、テーブルの上で封を切る。
薄い紙が、一枚、机の上に広がった。
シュアラの位置からは、文字のすべては読めない。ただ、いくつかの単語が目に飛び込んできた。
『第四ゲーム』『死者ゼロ』『侯爵令嬢』『酷似』
喉の奥で、小さな音が鳴りそうになった。
カイは紙を読んでいる。
森色の瞳が、文字の列を追う。途中で視線が一瞬だけ横に流れ、シュアラの左頬の火傷のあたりで止まりかけたが、すぐに戻った。
「……ふん」
紙を読み終えると、彼は鼻から短く息を吐いた。
「で、帝都様は、うちの砦に『幽霊でも出るのか』って聞きに来たわけだ」
ルースの目が、わずかに細くなる。
その変化を、シュアラは見逃さなかった。
「文書にありますように」
ルースは、淡々と言葉を継ぐ。
「第一に、第四ゲームと称される戦闘において、当砦が『犠牲者ゼロ』と報告している点について、状況確認を」
「それは報告の通りだ」
カイは短く答える。
「第二に、この砦に勤務する文官の一人について」
今度は、はっきりと視線がシュアラに向けられた。
「帝都にて死亡と処理されたはずのクライフェルト侯爵家令嬢と『容貌・才覚において酷似する者がいる』との噂が複数寄せられております。その真偽を確認したく存じます」
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「まあアルフォンス様! スカーレット様も本当は心優しい方のはずですわ。わたくしたちの真実の愛の力で彼女を正しい道に導いて差し上げましょう…!」
「ああセレスティア!君はなんて清らかなんだ!よし、我々の愛でスカーレットを更生させよう!」
(…………はぁ。茶番は他所でやってくれる?)
自分たちの恋路に酔いしれ、私を「救済すべき悪」と見なすめでたい頭の二人組。
あなたたちの自己満足のために私の首が飛んでたまるものですか!
絶望の淵でゲームの知識を総動員して見つけ出した唯一の活路。
それは血も涙もない「漆黒の皇帝」と万人に恐れられる若き皇帝ゼノン陛下に接触するという、あまりに危険な【裏ルート】だった。
「命惜しさにこの私に魂でも売りに来たか。愚かで滑稽で…そして実に唆る女だ、スカーレット」
氷の視線に射抜かれ覚悟を決めたその時。
冷酷非情なはずの皇帝陛下はなぜか私の悪あがきを心底面白そうに眺め、その美しい唇を歪めた。
「良いだろう。お前を私の『籠の中の真紅の鳥』として、この手ずから愛でてやろう」
その日から私の運命は激変!
「他の男にその瞳を向けるな。お前のすべては私のものだ」
皇帝陛下からの凄まじい独占欲と息もできないほどの甘い溺愛に、スカーレットの心臓は鳴りっぱなし!?
その頃、王宮では――。
「今頃スカーレットも一人寂しく己の罪を反省しているだろう」
「ええアルフォンス様。わたくしたちが彼女を温かく迎え入れてあげましょうね」
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