48 / 70
第一章 ヴァルム試験国家編
第二十八話 戦績に付く値札(2)
しおりを挟む
ディートと呼ばれた若い方の男が、書類の束を抱え直した。
アルノが、ペン先を紙に当てる。
(容貌と、才覚)
胸のどこかが、苦笑いをした。
容貌は、火傷と布である程度ごまかせる。
問題は、才覚のほうだ。
机の下で、自分の両手を軽く握りしめる。
指先に、インクの染みがこびりついている。
ルースの視線が、静かに問うている。
「この方が、その文官でよろしいか」
カイが答える前に、シュアラは椅子からわずかに腰を浮かせ、軽く頭を下げた。
「……死人文官シュアラと申します」
わざと、声を少しだけくぐもらせる。
喉の奥に重石を入れたような、陰気な調子。
「身分は……?」
「帝都とは直接の関係はございません。北方の小領地で、領主の帳簿を手伝っていた者です」
嘘ではない。
北の小領地の財務を、帳簿の中で散々見てきたのは事実だ。ただし、直接の現場ではなく、帝都の机の上からだが。
ゲルトが、そこで口を挟んだ。
「団長。こいつは俺がヴァルムの手前の町で拾ってきた。ヴォルフ家どころか、帝都の空気も吸ったことねえって本人が言ってたぞ」
彼なりの「口裏合わせ」だった。
ルースの視線が、ゲルトに一瞬だけ移る。
「拾ってきた?」
「ああ。荷車の荷を捌く人手が足りなくてな。たまたま数字が読めるっていうから、その辺の雑用をさせてるだけだ」
フィンが、後ろでこっそりうなずいた。
「死人文官なんて呼び名も、ただのあだ名でして」
フィンも言葉を継ぐ。
「細いし、顔色悪いし、寝てんだか起きてんだか分かんねえから、そう呼んでるだけで」
会議室の空気が、ほんのわずかに揺らいだ。
砦の中では当たり前になりつつあるあだ名が、帝都の官僚の前で口にされると、妙な滑稽さを伴う。
ルースは、その滑稽さを表情に出さなかった。
ただ、指先で机を一度だけ軽く叩く。
「失礼だが」
視線が、再びシュアラに戻る。
「年齢は」
「……十九です」
「侯爵令嬢と同じだな」
「そうですね」
真正面から肯定する。
「ただし、侯爵令嬢は、もっと……」
言葉を探すふりをする。
目線をわずかに窓の外に逃がし、雪を見つめる。
「もっと、背が高くて、綺麗な方だったと聞いております」
ルースの眉が、ごくわずかに動いた。
噂話として耳にしたことがあるのだろう。
「では」
彼は懐から、小さな紙片を取り出した。
そこには、粗いが特徴を捉えた横顔の素描が描かれている。帝都の画家が描いた、春の舞踏会の肖像の模写だろう。
銀糸の髪。整った横顔。仮面は描かれていない。
「これを見て、自分と似ていると思うか」
紙片が、机の上を滑ってくる。
カイがそれをつまみ上げ、こちらへ渡した。
シュアラは、紙片を受け取った。
描かれているのは、かつての自分だ。
火傷を負う前。踊り場で笑うふりをしていた頃の顔。
(……懐かしい、というより)
紙の上の少女は、少しだけ他人行儀に見えた。
「どうだ」
ルースの声が、距離を詰めてくる。
「そうですね」
シュアラは、紙片と鏡の中の自分を見比べるように、首を少し傾けた。
「輪郭は似ているかもしれません」
嘘ではない。
骨の形は変えようがない。
「ただ」
左頬の布を、指で少しだけ押し下げる。
火傷痕が、会議室の空気に露出した。
皮膚の色の違い。細かなひび割れ。赤黒い部分と、白く引きつった部分。
アルノのペン先が、一瞬だけ止まった。
「侯爵令嬢が、こんな顔で舞踏会に出ることは、なかったでしょう」
ルースは、火傷痕をじっと見つめた。
目の奥で、何かを計算している気配がする。
沈黙が落ちた。
机の上の紙片の少女と、椅子に座る火傷の女。
その間にある距離を、どちら側に傾けるかを決める沈黙。
先にその沈黙を破ったのは、思いがけずフィンだった。
「それに、侯爵令嬢様なら、こんなとこには来ねえでしょうよ」
我慢しきれないというように、彼は言った。
「だってそうだろ。こんな雪と泥と蛮族しかいない辺境で、三ヶ月契約の文官なんざ、帝都のお偉いのお姫様がやる仕事じゃねえ」
「フィン」
カイが名前を呼んだが、止める力はあまりこもっていなかった。
「現場の兵の意見としては、そういうことだ」
ゲルトが、肩をすくめる。
「こいつは確かに数字は読めるが、帝都の令嬢みたいな上等なもんじゃねえ。雨が降ったら頭痛いって言うし、夜更かしすると翌日ろくに口もきかねえ。――普通の、どこにでもいる文官だ」
どこにでもいる、という言葉が、妙に温かかった。
ルースは、少しだけ目を細めた。
「普通の文官、にしては、第四ゲームでの戦果は異常だが」
「運が良かったんだろ」
カイが割って入る。
「敵の足が滑った。匂いが風に乗らなかった。そういう類のな」
ルースが、カイを見た。
「報告書には、『囮隊の配置』や『撤退ラインの事前設定』といった記述があったと記憶しているが」
「それを書いたのはこいつだ」
カイは、隣のシュアラを顎で示した。
「だが、それを実際にやったのは、雪の上で槍と盾を持って走り回ってた連中だ。机の上の線だけで勝てるなら、俺たちの鎧はいらねえよ」
言葉の選び方は粗い。
だが、その粗さの裏に、「机の上の線」を守ろうとする意地が透けて見えた。
ルースは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「なるほど」
彼は椅子の背にもたれた。
「では、こうしましょう」
ディートに目配せをし、一枚の紙を引き出させる。
「クライフェルト侯爵家令嬢については、『噂に反して該当者なし』とする。ただし、この砦における文官シュアラの動向については、今後の報告に必ず記載すること」
カイの肩が、わずかに強張った。
「監視対象ってことか?」
「そういう言い方もできる」
ルースは、あっさりと認めた。
「ただし、身柄の拘束や召喚は、現時点では命じられていない。帝都も、噂だけで人を引きずり出すほど暇ではないのでね」
その言葉が、慰めにはならないことぐらい分かっている。
だが、最悪の事態はひとまず避けられた。
「それから」
ルースは、別の書類を机の上に置いた。
「これはあなた方にとって、あまり耳障りのよくない話だろうが」
紙の上には、新しい税率と、徴兵枠の数字が並んでいた。
増税。兵の追加召集。帝都が、戦の負債を地方に押し付けている証拠。
ゲルトが、無意識に舌打ちしそうになり、途中で飲み込んだ。
「冬の最中に兵を抜く気かよ」
「命令です」
ルースは、淡々と言った。
「もっとも、ここで全てをそのまま適用すれば、あなた方の『試験国家』とやらは、たちまち破綻するでしょうが」
その単語に、シュアラの心臓が一拍跳ねた。
「……何のことをおっしゃっているのか、分かりかねます」
「商人ギルドの査定官から、いくつか面白い報告が上がってきている」
ルースは、わずかに口元を歪めた。
「『ヴァルム砦と三村を一つの国家ユニットとして扱う実験が進行中』『試験国家』という単語まで使われていた。――帝都は、あなた方の遊びを全て把握しているわけではないが、全く知らぬわけでもない」
ヴァレンの灰色の目が、別の部屋の空気を通してこちらを見ているような錯覚がした。
カイが、言葉を選びながら口を開く。
「帝都様が何をどう呼ぼうが、ここはただの砦だ」
「そうであるうちは、我々も見て見ぬふりができる」
ルースは、椅子から立ち上がった。
「本日の査察は、ひとまずここまでとしましょう。倉庫と兵舎の確認は、部下に任せます。団長殿、協力感謝する」
形式的な礼。
カイも立ち上がり、礼を返す。
会議室の空気が、少しずつ動き始めた。
ルースたちが部屋を出て行く。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
しばらくのあいだ、誰も口を開かなかった。
先に動いたのは、フィンだ。
大きく息を吐き、背中を丸める。
「……疲れた」
「椅子に座ってただけだろうが」
ゲルトがぼそりと言う。
「いや、心臓的には槍持って突撃したくらいには疲れましたよ」
フィンは胸に手を当てた。
「死人文官殿は?」
問いかけられていると気づいた瞬間、シュアラは自分の手がまだ紙片を握りしめていることに気づいた。
春の舞踏会の横顔。
火傷のない、自分。
紙片をそっと折りたたみ、机の隅に置く。
「……演技は、下手ではなかったでしょうか」
「上出来だ」
カイが即答した。
「俺は一生あんな陰気な声を聞きたくねえがな」
言いながらも、口元にはわずかな笑いがある。
「そうですね。あれを日常的に続けるのは、私も遠慮したいです」
胸の奥に、遅れて少しだけ笑いが湧いた。
それは緊張の残りかすと一緒に、息になって外に出ていく。
ゲルトが、机の上の徴兵と増税の紙をつまみ上げる。
「こっちのほうが、本番だな」
「ええ」
シュアラは、手帳を開いた。
裂けたページの隣に、新しい行を書く。
『補助ゲーム:帝都査察回避
結果:一時的成功 監視対象指定』
インクが、紙の繊維にじわりと染み込んでいく。
「“監視対象”ってのはよ」
フィンが机にもたれかかりながら言った。
「逆から見りゃ、『帝都まで届くくらい目立つようになった』ってことだろ?」
「褒め言葉としては、微妙ですね」
「悪くねえさ」
カイが、手袋を指先で弄びながら言った。
「帝都がどう見てようが、ここでお前を何て呼ぶか決めるのは、俺たちだ」
死人文官。
あだ名のはずだった言葉が、少しだけ違う重みを帯びる。
雪は、窓の向こうで静かに降り続いていた。
白い粒が、砦の輪郭をさらに鈍らせる。
その中で、ヴァルム砦という小さな盤面と、その上に座る死人文官一人分の重さが、たしかに誰かの手で支えられている。
シュアラは、ペン先を止めた。
心臓が一度打つ。
それは、ヴァレンが数字として数えた鼓動であり、帝都監査局が監視対象として線を引いた鼓動であり――何より、この砦の誰かが「守りたい」と言ってしまった鼓動でもあった。
(……面倒な担保ですね、本当に)
小さく苦笑いをして、手帳を閉じた。
雪の白さが、窓一枚隔てた向こう側で、静かに濃くなっていく。
冬の「第五ゲーム」は、まだ始まったばかりだった。
アルノが、ペン先を紙に当てる。
(容貌と、才覚)
胸のどこかが、苦笑いをした。
容貌は、火傷と布である程度ごまかせる。
問題は、才覚のほうだ。
机の下で、自分の両手を軽く握りしめる。
指先に、インクの染みがこびりついている。
ルースの視線が、静かに問うている。
「この方が、その文官でよろしいか」
カイが答える前に、シュアラは椅子からわずかに腰を浮かせ、軽く頭を下げた。
「……死人文官シュアラと申します」
わざと、声を少しだけくぐもらせる。
喉の奥に重石を入れたような、陰気な調子。
「身分は……?」
「帝都とは直接の関係はございません。北方の小領地で、領主の帳簿を手伝っていた者です」
嘘ではない。
北の小領地の財務を、帳簿の中で散々見てきたのは事実だ。ただし、直接の現場ではなく、帝都の机の上からだが。
ゲルトが、そこで口を挟んだ。
「団長。こいつは俺がヴァルムの手前の町で拾ってきた。ヴォルフ家どころか、帝都の空気も吸ったことねえって本人が言ってたぞ」
彼なりの「口裏合わせ」だった。
ルースの視線が、ゲルトに一瞬だけ移る。
「拾ってきた?」
「ああ。荷車の荷を捌く人手が足りなくてな。たまたま数字が読めるっていうから、その辺の雑用をさせてるだけだ」
フィンが、後ろでこっそりうなずいた。
「死人文官なんて呼び名も、ただのあだ名でして」
フィンも言葉を継ぐ。
「細いし、顔色悪いし、寝てんだか起きてんだか分かんねえから、そう呼んでるだけで」
会議室の空気が、ほんのわずかに揺らいだ。
砦の中では当たり前になりつつあるあだ名が、帝都の官僚の前で口にされると、妙な滑稽さを伴う。
ルースは、その滑稽さを表情に出さなかった。
ただ、指先で机を一度だけ軽く叩く。
「失礼だが」
視線が、再びシュアラに戻る。
「年齢は」
「……十九です」
「侯爵令嬢と同じだな」
「そうですね」
真正面から肯定する。
「ただし、侯爵令嬢は、もっと……」
言葉を探すふりをする。
目線をわずかに窓の外に逃がし、雪を見つめる。
「もっと、背が高くて、綺麗な方だったと聞いております」
ルースの眉が、ごくわずかに動いた。
噂話として耳にしたことがあるのだろう。
「では」
彼は懐から、小さな紙片を取り出した。
そこには、粗いが特徴を捉えた横顔の素描が描かれている。帝都の画家が描いた、春の舞踏会の肖像の模写だろう。
銀糸の髪。整った横顔。仮面は描かれていない。
「これを見て、自分と似ていると思うか」
紙片が、机の上を滑ってくる。
カイがそれをつまみ上げ、こちらへ渡した。
シュアラは、紙片を受け取った。
描かれているのは、かつての自分だ。
火傷を負う前。踊り場で笑うふりをしていた頃の顔。
(……懐かしい、というより)
紙の上の少女は、少しだけ他人行儀に見えた。
「どうだ」
ルースの声が、距離を詰めてくる。
「そうですね」
シュアラは、紙片と鏡の中の自分を見比べるように、首を少し傾けた。
「輪郭は似ているかもしれません」
嘘ではない。
骨の形は変えようがない。
「ただ」
左頬の布を、指で少しだけ押し下げる。
火傷痕が、会議室の空気に露出した。
皮膚の色の違い。細かなひび割れ。赤黒い部分と、白く引きつった部分。
アルノのペン先が、一瞬だけ止まった。
「侯爵令嬢が、こんな顔で舞踏会に出ることは、なかったでしょう」
ルースは、火傷痕をじっと見つめた。
目の奥で、何かを計算している気配がする。
沈黙が落ちた。
机の上の紙片の少女と、椅子に座る火傷の女。
その間にある距離を、どちら側に傾けるかを決める沈黙。
先にその沈黙を破ったのは、思いがけずフィンだった。
「それに、侯爵令嬢様なら、こんなとこには来ねえでしょうよ」
我慢しきれないというように、彼は言った。
「だってそうだろ。こんな雪と泥と蛮族しかいない辺境で、三ヶ月契約の文官なんざ、帝都のお偉いのお姫様がやる仕事じゃねえ」
「フィン」
カイが名前を呼んだが、止める力はあまりこもっていなかった。
「現場の兵の意見としては、そういうことだ」
ゲルトが、肩をすくめる。
「こいつは確かに数字は読めるが、帝都の令嬢みたいな上等なもんじゃねえ。雨が降ったら頭痛いって言うし、夜更かしすると翌日ろくに口もきかねえ。――普通の、どこにでもいる文官だ」
どこにでもいる、という言葉が、妙に温かかった。
ルースは、少しだけ目を細めた。
「普通の文官、にしては、第四ゲームでの戦果は異常だが」
「運が良かったんだろ」
カイが割って入る。
「敵の足が滑った。匂いが風に乗らなかった。そういう類のな」
ルースが、カイを見た。
「報告書には、『囮隊の配置』や『撤退ラインの事前設定』といった記述があったと記憶しているが」
「それを書いたのはこいつだ」
カイは、隣のシュアラを顎で示した。
「だが、それを実際にやったのは、雪の上で槍と盾を持って走り回ってた連中だ。机の上の線だけで勝てるなら、俺たちの鎧はいらねえよ」
言葉の選び方は粗い。
だが、その粗さの裏に、「机の上の線」を守ろうとする意地が透けて見えた。
ルースは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「なるほど」
彼は椅子の背にもたれた。
「では、こうしましょう」
ディートに目配せをし、一枚の紙を引き出させる。
「クライフェルト侯爵家令嬢については、『噂に反して該当者なし』とする。ただし、この砦における文官シュアラの動向については、今後の報告に必ず記載すること」
カイの肩が、わずかに強張った。
「監視対象ってことか?」
「そういう言い方もできる」
ルースは、あっさりと認めた。
「ただし、身柄の拘束や召喚は、現時点では命じられていない。帝都も、噂だけで人を引きずり出すほど暇ではないのでね」
その言葉が、慰めにはならないことぐらい分かっている。
だが、最悪の事態はひとまず避けられた。
「それから」
ルースは、別の書類を机の上に置いた。
「これはあなた方にとって、あまり耳障りのよくない話だろうが」
紙の上には、新しい税率と、徴兵枠の数字が並んでいた。
増税。兵の追加召集。帝都が、戦の負債を地方に押し付けている証拠。
ゲルトが、無意識に舌打ちしそうになり、途中で飲み込んだ。
「冬の最中に兵を抜く気かよ」
「命令です」
ルースは、淡々と言った。
「もっとも、ここで全てをそのまま適用すれば、あなた方の『試験国家』とやらは、たちまち破綻するでしょうが」
その単語に、シュアラの心臓が一拍跳ねた。
「……何のことをおっしゃっているのか、分かりかねます」
「商人ギルドの査定官から、いくつか面白い報告が上がってきている」
ルースは、わずかに口元を歪めた。
「『ヴァルム砦と三村を一つの国家ユニットとして扱う実験が進行中』『試験国家』という単語まで使われていた。――帝都は、あなた方の遊びを全て把握しているわけではないが、全く知らぬわけでもない」
ヴァレンの灰色の目が、別の部屋の空気を通してこちらを見ているような錯覚がした。
カイが、言葉を選びながら口を開く。
「帝都様が何をどう呼ぼうが、ここはただの砦だ」
「そうであるうちは、我々も見て見ぬふりができる」
ルースは、椅子から立ち上がった。
「本日の査察は、ひとまずここまでとしましょう。倉庫と兵舎の確認は、部下に任せます。団長殿、協力感謝する」
形式的な礼。
カイも立ち上がり、礼を返す。
会議室の空気が、少しずつ動き始めた。
ルースたちが部屋を出て行く。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
しばらくのあいだ、誰も口を開かなかった。
先に動いたのは、フィンだ。
大きく息を吐き、背中を丸める。
「……疲れた」
「椅子に座ってただけだろうが」
ゲルトがぼそりと言う。
「いや、心臓的には槍持って突撃したくらいには疲れましたよ」
フィンは胸に手を当てた。
「死人文官殿は?」
問いかけられていると気づいた瞬間、シュアラは自分の手がまだ紙片を握りしめていることに気づいた。
春の舞踏会の横顔。
火傷のない、自分。
紙片をそっと折りたたみ、机の隅に置く。
「……演技は、下手ではなかったでしょうか」
「上出来だ」
カイが即答した。
「俺は一生あんな陰気な声を聞きたくねえがな」
言いながらも、口元にはわずかな笑いがある。
「そうですね。あれを日常的に続けるのは、私も遠慮したいです」
胸の奥に、遅れて少しだけ笑いが湧いた。
それは緊張の残りかすと一緒に、息になって外に出ていく。
ゲルトが、机の上の徴兵と増税の紙をつまみ上げる。
「こっちのほうが、本番だな」
「ええ」
シュアラは、手帳を開いた。
裂けたページの隣に、新しい行を書く。
『補助ゲーム:帝都査察回避
結果:一時的成功 監視対象指定』
インクが、紙の繊維にじわりと染み込んでいく。
「“監視対象”ってのはよ」
フィンが机にもたれかかりながら言った。
「逆から見りゃ、『帝都まで届くくらい目立つようになった』ってことだろ?」
「褒め言葉としては、微妙ですね」
「悪くねえさ」
カイが、手袋を指先で弄びながら言った。
「帝都がどう見てようが、ここでお前を何て呼ぶか決めるのは、俺たちだ」
死人文官。
あだ名のはずだった言葉が、少しだけ違う重みを帯びる。
雪は、窓の向こうで静かに降り続いていた。
白い粒が、砦の輪郭をさらに鈍らせる。
その中で、ヴァルム砦という小さな盤面と、その上に座る死人文官一人分の重さが、たしかに誰かの手で支えられている。
シュアラは、ペン先を止めた。
心臓が一度打つ。
それは、ヴァレンが数字として数えた鼓動であり、帝都監査局が監視対象として線を引いた鼓動であり――何より、この砦の誰かが「守りたい」と言ってしまった鼓動でもあった。
(……面倒な担保ですね、本当に)
小さく苦笑いをして、手帳を閉じた。
雪の白さが、窓一枚隔てた向こう側で、静かに濃くなっていく。
冬の「第五ゲーム」は、まだ始まったばかりだった。
11
あなたにおすすめの小説
感情の無い聖女様は、公爵への生贄にされてしまいました
九条 雛
恋愛
「――私など、ただの〝祈り人形〟でございます。人形に感情はありませぬ……」
悪逆非道の公爵の元へと生贄として捧げられてしまった聖女は、格子の付いた窓を見上げてそう呟く。
公爵は嗜虐に満ちた笑みを浮かべ言い放つ。
「これからは、三食きちんと食べてもらおう。こうして俺のモノとなったからには、今までのような生活を送れるとは思わぬことだな」
――これは、不幸な境遇で心を閉ざしてしまった少女と、その笑顔を取り戻そうとする男の物語。
完結 「愛が重い」と言われたので尽くすのを全部止めたところ
音爽(ネソウ)
恋愛
アルミロ・ルファーノ伯爵令息は身体が弱くいつも臥せっていた。財があっても自由がないと嘆く。
だが、そんな彼を幼少期から知る婚約者ニーナ・ガーナインは献身的につくした。
相思相愛で結ばれたはずが健気に尽くす彼女を疎ましく感じる相手。
どんな無茶な要望にも応えていたはずが裏切られることになる。
記憶を失くして転生しました…転生先は悪役令嬢?
ねこママ
恋愛
「いいかげんにしないかっ!」
バシッ!!
わたくしは咄嗟に、フリード様の腕に抱き付くメリンダ様を引き離さなければと手を伸ばしてしまい…頬を叩かれてバランスを崩し倒れこみ、壁に頭を強く打ち付け意識を失いました。
目が覚めると知らない部屋、豪華な寝台に…近付いてくるのはメイド? 何故髪が緑なの?
最後の記憶は私に向かって来る車のライト…交通事故?
ここは何処? 家族? 友人? 誰も思い出せない……
前世を思い出したセレンディアだが、事故の衝撃で記憶を失くしていた……
前世の自分を含む人物の記憶だけが消えているようです。
転生した先の記憶すら全く無く、頭に浮かぶものと違い過ぎる世界観に戸惑っていると……?
悪役令嬢を断罪したくせに、今さら溺愛とか都合が良すぎますわ!
nacat
恋愛
侯爵令嬢リディアは、無実の罪で婚約者の王太子に断罪された。
冷笑を浮かべ、すべてを捨てて国外へ去った彼女が、数年後、驚くべき姿で帰ってくる。
誰もが羨む天才魔導師として──。
今さら後悔する王太子、ざまぁを噛みしめる貴族令嬢たち。
そして、リディアをひそかに守ってきた公爵の青年が、ようやく想いを告げる時が来た。
これは、不当な断罪を受けた少女が、自分の誇りと愛を取り戻す溺愛系ロマンス。
すべての「裏切られた少女」たちに捧ぐ、痛快で甘く切ない逆転劇。
『処刑されるたびに12歳に戻る悪役令嬢、7回目の人生は「何もせず寝て過ごす」ことに決めたら、なぜか周囲が勝手に勘違いして聖女扱いされています
六角
恋愛
公爵令嬢リリアーナは、18歳の誕生日に必ず断罪・処刑されては12歳に戻るという地獄のループを6回も繰り返していた。 真面目に努力しても、剣を極めても、裏社会を支配しても、結局は殺される運命。 心折れた彼女は、7回目の人生でついに決意する。 「もう頑張らない。どうせ死ぬなら、今回はひたすら寝て過ごそう」と。
しかし、安眠を求めて「うるさい」と敵を黙らせれば『王者の覇気』と恐れられ、寝ぼけて放った魔法は『神の奇跡』と崇められ、枕への異常なこだわりは『深遠なる儀式』と誤解されてしまう。 気がつけば、ストーカー気味のヤンデレ王子、パン屋の元ヒロイン、狂犬の如きライバル令嬢、元部下の暗殺者、そして不眠症の魔王までもが彼女の信者となり、リリアーナは意図せずして国を、そして世界を救う「最強の聖女」へと祭り上げられていく。
「お願いだから、私を寝かせて!」 睡眠欲だけで運命(システム)さえもねじ伏せる、無気力悪役令嬢の痛快勘違いサクセス(?)ストーリー!
地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに
有賀冬馬
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。
選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。
地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。
失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。
「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」
彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。
そして、私は彼の正妃として王都へ……
無関心夫の手を離した公爵夫人は、異国の地で運命の香りと出会う
佐原香奈
恋愛
建国祭の夜、冷徹な公爵セドリック・グランチェスターは、妻セレスティーヌを舞踏会に残し、早々に会場を後にした。
それが、必死に縋り付いていた妻が、手を離す決意をさせたとも知らず、夜中まで仕事のことしか考えていなかった。
セドリックが帰宅すると、屋敷に残されていたのは、一通の離縁届と脱ぎ捨てられた絹の靴。そして、彼女が置いていった嗅いだことのない白檀の香りだけだった。
すべてを捨てて貿易都市カリアへ渡った彼女は、名もなき調香師「セレス」として覚醒する。
一方、消えた妻を追うセドリックの手元に届いたのは、かつての冷たい香りとは似て非なる、温かな光を宿した白檀の香水。
「これは、彼女の復讐か、それとも再生か——」
執念に駆られ、見知らぬ地へ降り立った公爵が目にしたのは、異国の貿易王の隣で、誰よりも自由に、見たこともない笑顔で微笑む「他人」となった妻の姿だった。
バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました
美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる