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第二章 マリーハイツ公約編
第三十七話 魔導水庭と消えた戸籍(2)
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役所を出ると、丘の斜面を吹き上げる風が、布越しに頬を刺した。
白い壁と青い屋根が、昼の光の中で眩しく連なっている。その中腹、少し高い位置に、クラウスの案内で聞いたアルスリス家があった。
三人分ほどの幅の石段を上っていく。
段々畑の間を縫うように続く細い階段の両側には、冬の名残のキャベツと、芽吹いたばかりのハーブが揺れている。遠く、港の方からは波と人の声が微かに届いた。
「ここか」
カイが足を止めた先に、小さな木の扉と白い壁の家があった。
窓辺には干した魚と、洗い立ての布がかかっている。屋根の端には、簡素な風見がついていて、海からの風にくるくると回っていた。
「いいとこだな」
ボルグがぼそりと言った。
「坂はきついが、見晴らしは悪くねえ」
フィンは、周囲の家並みと路地の形を目でなぞっている。零札たちは、一段低いところで待機していた。声は届くが、家の中までは覗き込めない距離だ。
「入るのは、私と団長だけで十分でしょう」
シュアラが言うと、カイは頷いた。
「ボルグとフィンと、お前らはここで見張りだ。妙な連中が近寄ってきたら、さりげなく追い払え」
「さりげなく、ですね」
フィンが苦笑する。
「大声出して追い払ったら、余計目立ちますからね」
シュアラは扉の前に立ち、軽くノックした。
しばらくして、靴音が近づく気配。扉が軋んで開いた。
「はい」
現れたのは、肩を少し落とした中年の女だった。
髪は後ろでひとつに束ねられ、顔には浅くも深くもない皺が刻まれている。目元の形は、どこかで聞いた名前の人に似ていた。
「どちら様で?」
女の視線が、シュアラとカイの服装と肩の紋章を素早くなぞる。その瞬間、わずかに緊張が走った。
「マリーハイツに滞在している、帝国軍の者です」
カイが、いつもより少し丁寧な声で言った。
「突然の訪問、失礼します。アルスリス家でお間違いないでしょうか」
「そうだけど……」
女の目が細くなる。
「リリーシアのことで、また何か?」
「また」という言葉の重さが、扉の隙間から漏れた。
シュアラは、布越しに深く頭を下げた。
「はい。リリーシアさんのことで伺いました」
女の顔に、一瞬だけ険しさが浮かぶ。
「帝都の人なら、もう十分でしょう。あの子のしたことも、あの子がどうなったかも、何度も説明しました。紙まで書かされて」
女は、扉の縁を指先でつまむように握りしめた。節の白い指が、木に食い込む。
「申し訳ありません」
シュアラは、頭を上げずに言った。
「私たちが知りたいのは、帝都に送られた話ではありません。ここで――マリーハイツで、リリーシアさんがどう暮らしていたかです」
「どう……暮らしてたか」
女の声が、少し揺れた。
「帝都の帳簿には、彼女の名前が残っていませんでした」
シュアラは、静かに続ける。
「だから、あなたの口から、彼女の名前を、もう一度聞きたい」
沈黙が、短く落ちた。
女は、視線を一度だけ足元に落とし、それからゆっくりと扉を開いた。
「……上がって」
家の中は、海の匂いがした。
玄関の脇には、干した魚を入れた籠と、港から持ち帰ったらしいロープの束。壁には、小さな壊れた網が掛けられている。奥の方から、煮干しとハーブの匂いが薄く流れてきた。
「狭いけど」
女は、奥の部屋へと二人を通した。
窓からは、港が少しだけ見える位置だ。
粗末な木の机の上には、簡単な帳面と、半分ほど使われたインク壺。それに、角が擦り切れた本が数冊積まれていた。
「昔は、あの子の本がもっと積んであったんだよ」
女は、机をちらりと見た。
指先が、積まれた本の一番上を撫でる。紙の端が、かさりと音を立てた。
「帝都に行くとき、半分は持っていった。残った半分は……読める者がいなくてね」
「ここで勉強してたんですか」
カイが尋ねると、女は小さく笑った。
「港で魚の数を数えて、丘を駆け上がってきて、その勢いのまま机に突っ伏して寝る。そんな子だったよ」
その言葉に、老主人の話が重なる。
「朝は漁師の荷揚げを手伝って、昼は学院で字を習って、夜は港の灯りの下で本を読んでいた」
シュアラは、昨夜聞いた言葉を心の中でなぞった。
「落ち着きがないって、よく怒ったさ」
女は、窓の外を見ながら言った。視線は港の方を向いているが、焦点はどこか遠くにある。
「飯を食べてるときも、魚の数を数える癖が抜けなくてね。『この皿に何匹』『あっちの鍋に何匹』って。あの子の頭の中じゃ、いつも何かが増えたり減ったりしてたんだろうね」
「数字は、好きだったんですね」
「好き、だったんだろうねえ」
女の頬に、懐かしさと寂しさが同居したような笑みが浮かぶ。
「魔法は下手だったけどさ」
そう言って、女は肩をすくめた。
「やっぱり」
カイが思わず口を挟んだ。
「ここでもそう言われるのか」
「ここでも、さ」
女は、少しだけ口元を緩めた。
「火を出せって言われて煤をまき散らすし、水を出せって言われて床を水浸しにする。宿の親父さんに、何度スープを駄目にしたって怒られたか」
「老主人も、覚えていました」
シュアラが言う。
「『いい子だった』と」
「……あの人」
女は小さく笑い、すぐにその笑みを拭った。
「いい子だったよ」
短い言葉に、誇らしさと、どうしようもない喪失感が滲む。
「帝都に行くって話が来たときはね、怖かったけど、嬉しかった。あの子が好きだった数字だの字だのを、もっと学べるって」
女の視線が、机の上の帳面に落ちる。
しばし沈黙。指先がインク壺のふちをなぞり、途中で止まった。
「先生が言ったんだよ。『マリーハイツから、帝都に出す子だ』って。港の誰もが、自分のことみたいに喜んでくれた。……それが、こんなことになるとはね」
部屋の空気が、少し重くなる。
「帝都からは、どんな知らせが」
シュアラが、慎重に尋ねた。
「最初は、紙だったよ」
女は、棚から折りたたまれた羊皮紙を取り出した。端が少し擦り切れている。
「ここでの功績だの、研究への貢献だの、難しい言葉でいっぱいの紙。あの子の名前が、立派な書体で書いてあった」
シュアラは、それを遠目に見た。
帝都式の整った文字。装飾的な頭文字。そこに確かに「リリーシア・アルスリス」とある。
女は、指でその名前の部分だけをそっと撫でた。
「次に来たのは」
指先が、羊皮紙の端をぎゅっと握りしめる。白くなった指の節が、震えた。
「『深海の魔女』って呼び名と……『失踪』って言葉だけ」
部屋の中の音が、いったん消えた気がした。
「遺体は見つかっていません。儀式の混乱の中で、波に呑まれた可能性が高い、って。そんな文言が書かれていたよ」
帝都の帳簿で見たのと、同じ言葉だ。
(失踪)
(遺体未確認)
(帝都に報告済み)
それらは、紙の上ではたった数語だ。
だが、目の前の人間にとっては、それが全てを終わらせる印になっている。
「それから何度か、帝都の人が来たよ」
女は続けた。
「あの子が何をして、どういう儀式に関わって、誰と契約して――そんなことばかり聞かれた」
「答えられましたか」
「答えられるわけないだろう」
女は、少し声を荒げた。羊皮紙を机に置き、その上に手のひらを広げる。
「あの子は、ここで魚の数を数えて、学院で字を習って、夜には本を読んでただけだ。深海の何かと契約するような話は、一度だって聞いたことがない」
カイが、ゆっくりと息を吐く。
「ただの、港町の娘だった」
シュアラが、その言葉を拾う。
女は、ぎゅっと目を閉じた。
「そうだよ」
かすれた声が漏れる。
「ただの港の娘だよ。偉い家の生まれでもない。特別な器なんかじゃない。潮の匂いのする服で帰ってきて、魚の骨を皿の端にきれいに並べて、それを自慢げに見せてくるような子だった」
その情景が、ありありと浮かぶ。
皿の上に並んだ細い骨。得意そうな顔。その向こうで、港の灯りが揺れている。
「帝都の人たちはね、『深海の魔女』だの『契約者』だの、いろんな言葉をくっつけてきた」
女は、拳を握った。その拳には、さっきまで羊皮紙があった場所の温度が残っている。
「でも、あたしらにとっては、最後まで、ただのあの子なんだよ」
沈黙が、再び部屋を満たした。
窓の外で、港の方から子どもの声が微かに届く。
昨日見た「魔女ごっこ」の笑い声が、頭のどこかで重なった。
(零札の男たちも言っていた)
シュアラは思い出す。
『俺たちだって人間だろ』
冗談めかした笑いの裏に、かすかな怒りと諦めを滲ませながら。
(深海魔導も深海契約も、“魔女”も零札も)
視線を落とすと、自分の帳面の上にも、さっき写したばかりの「対象者一二三」という文字がある。
(呼び名も番号も違っても、帳簿に並ぶ前は、どれも誰か一人の手と声と体温を持っていた人間だ)
使い捨てにするために、先に名前を削り、別の印を貼る。
そのやり口を思うだけで、喉の奥が冷たくなった。
帳簿の上では、数字と記号に変えられた「対象者」。
でもここでは、皿に残った魚の骨の並べ方まで覚えている、誰か一人の娘だ。
「……教えてくださって、ありがとうございました」
シュアラは、深く頭を下げた。
「何か、あの子にしてやれることがあるなら」
女の声が、少しだけ柔らかくなった。
「別に、仇をとってほしいとか、そういうんじゃない。ただ……名前を、どこかに残してやってほしい」
その言葉は、シュアラの胸の奥にまっすぐ届いた。
「残します」
シュアラは顔を上げ、はっきりと言った。
「帳簿の上で、ですか」
「はい。帳簿の上で」
カイが横目で彼女を見る。
女は、小さく息を吐き、かすかな微笑みを浮かべた。
「帳簿でも、構わないさ。あの子は数字が好きだったからね」
*
アルスリス家を後にし、石段を下りていく。
丘の斜面を渡る風は冷たいが、砦のそれよりは柔らかい。白い壁と青い屋根の向こう、港の水面がきらきらと光っている。
「どうだった」
少し前を歩いていたカイが、振り返りながら尋ねた。
「……数字ではなく、『誰か一人の娘』として、ようやく理解できました」
シュアラは、布の下で小さく息を吐いた。
「帝都の帳簿に載っていなかった行を、ここで見つけた気分です」
「帳簿の話に戻るのかよ」
フィンが笑う。
「感想を言わせても、すぐ数字に変えますね、軍師殿は」
「仕事ですから」
「そういう仕事しかしてねえだろ、お前」
カイが肩をすくめる。
「ゼロ損耗に、航路の公約に、今度は人の名誉回復まで抱える気か」
「全部、帳簿に書けます」
シュアラは即答した。
「帝都の帳簿が拾わなかった行を、一つだけ、こちら側で書き足しておきます」
零札の男が、少し後ろから口を挟んだ。
「俺たちの名前も、ついでにどっかに紛れ込ませといてくれませんかね」
「検討しておきます」
即答に、男たちの間に小さな笑いが広がる。
「怖いなあ、その『検討』」
フィンが苦笑した。
「たぶん、気づいたらどこかの欄外に『備考:零札の名誉回復も兼ねる』とか書かれてるんですよ」
「それなら、まあ、悪くねえ」
カイが、港の方を見ながらぽつりと言った。
「誰かの名前を、ゼロじゃない場所に置いてやれるならな」
宿へ戻る途中、小さな広場からロッタ魔導水庭の塔が見えた。
昼の光の中でも、ガラスの塔の中の水は青く輝き、ゆっくりと逆流している。
その向こう、港の出入り口には、見慣れない模様の旗を掲げた小さな船が入ってくるのが見えた。
帝都の紋章に似た輪郭が、陽炎の向こうで揺れる。
「……急がないと、帳簿を書く時間も削られそうですね」
シュアラは、誰にともなく小さく呟いた。
青い帳面を取り出し、歩きながら表紙を開く。
一番最後のページ。
まだ何も書かれていない欄外に、細い字で一行だけ書き足す。
『備考:ヴァルム砦とマリーハイツを結ぶ本公約は、リリーシア・アルスリスの名誉回復を兼ねる』
インクが乾くまでの間、彼女は帳面を閉じなかった。
丘の上で、ロッタ魔導水庭の塔が、風にわずかにきしむ音を立てる。
港の方からは、さきほどの船の到着を告げる鐘の音が遅れて届いた。
帝都の帳簿から消された名前が、一つだけ、別の帳簿に移された。
それはきっと、帝都から見れば、取るに足らない欄外の一行にすぎない。
(それでも)
シュアラは、布の内側で静かに目を閉じた。
(ここから始める)
ゼロ損耗の数字と、失われた戸籍と、ただの港の娘の名を、同じページの上に並べて。
白い壁と青い屋根が、昼の光の中で眩しく連なっている。その中腹、少し高い位置に、クラウスの案内で聞いたアルスリス家があった。
三人分ほどの幅の石段を上っていく。
段々畑の間を縫うように続く細い階段の両側には、冬の名残のキャベツと、芽吹いたばかりのハーブが揺れている。遠く、港の方からは波と人の声が微かに届いた。
「ここか」
カイが足を止めた先に、小さな木の扉と白い壁の家があった。
窓辺には干した魚と、洗い立ての布がかかっている。屋根の端には、簡素な風見がついていて、海からの風にくるくると回っていた。
「いいとこだな」
ボルグがぼそりと言った。
「坂はきついが、見晴らしは悪くねえ」
フィンは、周囲の家並みと路地の形を目でなぞっている。零札たちは、一段低いところで待機していた。声は届くが、家の中までは覗き込めない距離だ。
「入るのは、私と団長だけで十分でしょう」
シュアラが言うと、カイは頷いた。
「ボルグとフィンと、お前らはここで見張りだ。妙な連中が近寄ってきたら、さりげなく追い払え」
「さりげなく、ですね」
フィンが苦笑する。
「大声出して追い払ったら、余計目立ちますからね」
シュアラは扉の前に立ち、軽くノックした。
しばらくして、靴音が近づく気配。扉が軋んで開いた。
「はい」
現れたのは、肩を少し落とした中年の女だった。
髪は後ろでひとつに束ねられ、顔には浅くも深くもない皺が刻まれている。目元の形は、どこかで聞いた名前の人に似ていた。
「どちら様で?」
女の視線が、シュアラとカイの服装と肩の紋章を素早くなぞる。その瞬間、わずかに緊張が走った。
「マリーハイツに滞在している、帝国軍の者です」
カイが、いつもより少し丁寧な声で言った。
「突然の訪問、失礼します。アルスリス家でお間違いないでしょうか」
「そうだけど……」
女の目が細くなる。
「リリーシアのことで、また何か?」
「また」という言葉の重さが、扉の隙間から漏れた。
シュアラは、布越しに深く頭を下げた。
「はい。リリーシアさんのことで伺いました」
女の顔に、一瞬だけ険しさが浮かぶ。
「帝都の人なら、もう十分でしょう。あの子のしたことも、あの子がどうなったかも、何度も説明しました。紙まで書かされて」
女は、扉の縁を指先でつまむように握りしめた。節の白い指が、木に食い込む。
「申し訳ありません」
シュアラは、頭を上げずに言った。
「私たちが知りたいのは、帝都に送られた話ではありません。ここで――マリーハイツで、リリーシアさんがどう暮らしていたかです」
「どう……暮らしてたか」
女の声が、少し揺れた。
「帝都の帳簿には、彼女の名前が残っていませんでした」
シュアラは、静かに続ける。
「だから、あなたの口から、彼女の名前を、もう一度聞きたい」
沈黙が、短く落ちた。
女は、視線を一度だけ足元に落とし、それからゆっくりと扉を開いた。
「……上がって」
家の中は、海の匂いがした。
玄関の脇には、干した魚を入れた籠と、港から持ち帰ったらしいロープの束。壁には、小さな壊れた網が掛けられている。奥の方から、煮干しとハーブの匂いが薄く流れてきた。
「狭いけど」
女は、奥の部屋へと二人を通した。
窓からは、港が少しだけ見える位置だ。
粗末な木の机の上には、簡単な帳面と、半分ほど使われたインク壺。それに、角が擦り切れた本が数冊積まれていた。
「昔は、あの子の本がもっと積んであったんだよ」
女は、机をちらりと見た。
指先が、積まれた本の一番上を撫でる。紙の端が、かさりと音を立てた。
「帝都に行くとき、半分は持っていった。残った半分は……読める者がいなくてね」
「ここで勉強してたんですか」
カイが尋ねると、女は小さく笑った。
「港で魚の数を数えて、丘を駆け上がってきて、その勢いのまま机に突っ伏して寝る。そんな子だったよ」
その言葉に、老主人の話が重なる。
「朝は漁師の荷揚げを手伝って、昼は学院で字を習って、夜は港の灯りの下で本を読んでいた」
シュアラは、昨夜聞いた言葉を心の中でなぞった。
「落ち着きがないって、よく怒ったさ」
女は、窓の外を見ながら言った。視線は港の方を向いているが、焦点はどこか遠くにある。
「飯を食べてるときも、魚の数を数える癖が抜けなくてね。『この皿に何匹』『あっちの鍋に何匹』って。あの子の頭の中じゃ、いつも何かが増えたり減ったりしてたんだろうね」
「数字は、好きだったんですね」
「好き、だったんだろうねえ」
女の頬に、懐かしさと寂しさが同居したような笑みが浮かぶ。
「魔法は下手だったけどさ」
そう言って、女は肩をすくめた。
「やっぱり」
カイが思わず口を挟んだ。
「ここでもそう言われるのか」
「ここでも、さ」
女は、少しだけ口元を緩めた。
「火を出せって言われて煤をまき散らすし、水を出せって言われて床を水浸しにする。宿の親父さんに、何度スープを駄目にしたって怒られたか」
「老主人も、覚えていました」
シュアラが言う。
「『いい子だった』と」
「……あの人」
女は小さく笑い、すぐにその笑みを拭った。
「いい子だったよ」
短い言葉に、誇らしさと、どうしようもない喪失感が滲む。
「帝都に行くって話が来たときはね、怖かったけど、嬉しかった。あの子が好きだった数字だの字だのを、もっと学べるって」
女の視線が、机の上の帳面に落ちる。
しばし沈黙。指先がインク壺のふちをなぞり、途中で止まった。
「先生が言ったんだよ。『マリーハイツから、帝都に出す子だ』って。港の誰もが、自分のことみたいに喜んでくれた。……それが、こんなことになるとはね」
部屋の空気が、少し重くなる。
「帝都からは、どんな知らせが」
シュアラが、慎重に尋ねた。
「最初は、紙だったよ」
女は、棚から折りたたまれた羊皮紙を取り出した。端が少し擦り切れている。
「ここでの功績だの、研究への貢献だの、難しい言葉でいっぱいの紙。あの子の名前が、立派な書体で書いてあった」
シュアラは、それを遠目に見た。
帝都式の整った文字。装飾的な頭文字。そこに確かに「リリーシア・アルスリス」とある。
女は、指でその名前の部分だけをそっと撫でた。
「次に来たのは」
指先が、羊皮紙の端をぎゅっと握りしめる。白くなった指の節が、震えた。
「『深海の魔女』って呼び名と……『失踪』って言葉だけ」
部屋の中の音が、いったん消えた気がした。
「遺体は見つかっていません。儀式の混乱の中で、波に呑まれた可能性が高い、って。そんな文言が書かれていたよ」
帝都の帳簿で見たのと、同じ言葉だ。
(失踪)
(遺体未確認)
(帝都に報告済み)
それらは、紙の上ではたった数語だ。
だが、目の前の人間にとっては、それが全てを終わらせる印になっている。
「それから何度か、帝都の人が来たよ」
女は続けた。
「あの子が何をして、どういう儀式に関わって、誰と契約して――そんなことばかり聞かれた」
「答えられましたか」
「答えられるわけないだろう」
女は、少し声を荒げた。羊皮紙を机に置き、その上に手のひらを広げる。
「あの子は、ここで魚の数を数えて、学院で字を習って、夜には本を読んでただけだ。深海の何かと契約するような話は、一度だって聞いたことがない」
カイが、ゆっくりと息を吐く。
「ただの、港町の娘だった」
シュアラが、その言葉を拾う。
女は、ぎゅっと目を閉じた。
「そうだよ」
かすれた声が漏れる。
「ただの港の娘だよ。偉い家の生まれでもない。特別な器なんかじゃない。潮の匂いのする服で帰ってきて、魚の骨を皿の端にきれいに並べて、それを自慢げに見せてくるような子だった」
その情景が、ありありと浮かぶ。
皿の上に並んだ細い骨。得意そうな顔。その向こうで、港の灯りが揺れている。
「帝都の人たちはね、『深海の魔女』だの『契約者』だの、いろんな言葉をくっつけてきた」
女は、拳を握った。その拳には、さっきまで羊皮紙があった場所の温度が残っている。
「でも、あたしらにとっては、最後まで、ただのあの子なんだよ」
沈黙が、再び部屋を満たした。
窓の外で、港の方から子どもの声が微かに届く。
昨日見た「魔女ごっこ」の笑い声が、頭のどこかで重なった。
(零札の男たちも言っていた)
シュアラは思い出す。
『俺たちだって人間だろ』
冗談めかした笑いの裏に、かすかな怒りと諦めを滲ませながら。
(深海魔導も深海契約も、“魔女”も零札も)
視線を落とすと、自分の帳面の上にも、さっき写したばかりの「対象者一二三」という文字がある。
(呼び名も番号も違っても、帳簿に並ぶ前は、どれも誰か一人の手と声と体温を持っていた人間だ)
使い捨てにするために、先に名前を削り、別の印を貼る。
そのやり口を思うだけで、喉の奥が冷たくなった。
帳簿の上では、数字と記号に変えられた「対象者」。
でもここでは、皿に残った魚の骨の並べ方まで覚えている、誰か一人の娘だ。
「……教えてくださって、ありがとうございました」
シュアラは、深く頭を下げた。
「何か、あの子にしてやれることがあるなら」
女の声が、少しだけ柔らかくなった。
「別に、仇をとってほしいとか、そういうんじゃない。ただ……名前を、どこかに残してやってほしい」
その言葉は、シュアラの胸の奥にまっすぐ届いた。
「残します」
シュアラは顔を上げ、はっきりと言った。
「帳簿の上で、ですか」
「はい。帳簿の上で」
カイが横目で彼女を見る。
女は、小さく息を吐き、かすかな微笑みを浮かべた。
「帳簿でも、構わないさ。あの子は数字が好きだったからね」
*
アルスリス家を後にし、石段を下りていく。
丘の斜面を渡る風は冷たいが、砦のそれよりは柔らかい。白い壁と青い屋根の向こう、港の水面がきらきらと光っている。
「どうだった」
少し前を歩いていたカイが、振り返りながら尋ねた。
「……数字ではなく、『誰か一人の娘』として、ようやく理解できました」
シュアラは、布の下で小さく息を吐いた。
「帝都の帳簿に載っていなかった行を、ここで見つけた気分です」
「帳簿の話に戻るのかよ」
フィンが笑う。
「感想を言わせても、すぐ数字に変えますね、軍師殿は」
「仕事ですから」
「そういう仕事しかしてねえだろ、お前」
カイが肩をすくめる。
「ゼロ損耗に、航路の公約に、今度は人の名誉回復まで抱える気か」
「全部、帳簿に書けます」
シュアラは即答した。
「帝都の帳簿が拾わなかった行を、一つだけ、こちら側で書き足しておきます」
零札の男が、少し後ろから口を挟んだ。
「俺たちの名前も、ついでにどっかに紛れ込ませといてくれませんかね」
「検討しておきます」
即答に、男たちの間に小さな笑いが広がる。
「怖いなあ、その『検討』」
フィンが苦笑した。
「たぶん、気づいたらどこかの欄外に『備考:零札の名誉回復も兼ねる』とか書かれてるんですよ」
「それなら、まあ、悪くねえ」
カイが、港の方を見ながらぽつりと言った。
「誰かの名前を、ゼロじゃない場所に置いてやれるならな」
宿へ戻る途中、小さな広場からロッタ魔導水庭の塔が見えた。
昼の光の中でも、ガラスの塔の中の水は青く輝き、ゆっくりと逆流している。
その向こう、港の出入り口には、見慣れない模様の旗を掲げた小さな船が入ってくるのが見えた。
帝都の紋章に似た輪郭が、陽炎の向こうで揺れる。
「……急がないと、帳簿を書く時間も削られそうですね」
シュアラは、誰にともなく小さく呟いた。
青い帳面を取り出し、歩きながら表紙を開く。
一番最後のページ。
まだ何も書かれていない欄外に、細い字で一行だけ書き足す。
『備考:ヴァルム砦とマリーハイツを結ぶ本公約は、リリーシア・アルスリスの名誉回復を兼ねる』
インクが乾くまでの間、彼女は帳面を閉じなかった。
丘の上で、ロッタ魔導水庭の塔が、風にわずかにきしむ音を立てる。
港の方からは、さきほどの船の到着を告げる鐘の音が遅れて届いた。
帝都の帳簿から消された名前が、一つだけ、別の帳簿に移された。
それはきっと、帝都から見れば、取るに足らない欄外の一行にすぎない。
(それでも)
シュアラは、布の内側で静かに目を閉じた。
(ここから始める)
ゼロ損耗の数字と、失われた戸籍と、ただの港の娘の名を、同じページの上に並べて。
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⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎
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路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。
熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。
「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」
甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。
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気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて――
しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!?
「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」
年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。
ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。
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