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Round.12 花びら舞う、初めての口づけ
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恋する令嬢が知らないのは、自分が放つ魅力が、どれほど相手の理性を破壊していくかということだ。そして——初めてのキスは、二人の関係を決定的に変える。
舞踏会の三日前。カミラは自室で指南書のページをめくっていた。
午後の光が窓から差し込み、埃が舞う。静かな部屋に、紙の擦れる音だけが響いた。
「次の秘訣は……」
そこには、こう書かれていた。
『第十三の秘訣:彼の心を奪う最後の一押し——魅惑のドレスと香り』
『舞踏会は最大のチャンス。普段とは違う、大胆な装いで彼の視線を独占しなさい。そして、特別な香りで彼の記憶に刻み込むのです。彼があなたのことを、一瞬たりとも忘れられないように』
「大胆な装い……」
カミラは頬を染めた。
いつもは控えめな色を選んでいたけれど、今回は違う。今回は——。
「真紅のドレス、ですわね」
決心した時、心臓が一つ大きく跳ねた。
(今度こそ、わたくし自身の力で、アシュラン様の心を奪ってみせますわ)
*
翌日、カミラはルシアンの調合室を訪れた。
薬草の匂いと、魔法陣の淡い光に満ちた部屋。棚には色とりどりの小瓶が並んでいる。
「ルシアン、いらっしゃいますか?」
「……何の用でしょうか、カミラ様」
ルシアンが振り返った。黒髪が、実験台の明かりを反射する。グレーの瞳が、無表情のままカミラを見た。
「あの、お願いがあって……」
「また、ですか」
ルシアンは溜息をついた。
「どうせ、アシュラン様を誘惑する魔法アイテムでしょう」
「そ、そんな風に言わないでください!」
カミラは慌てた。
「ただ……舞踏会で、特別な何かが欲しくて」
「香水」
ルシアンは少し考えてから、棚に向かった。
「……仕方ありませんね」
彼は小瓶をいくつか取り出し、調合を始めた。淡い光が、液体の中で揺れる。
「この香りは、魔力を帯びた花のエッセンスです。あなたの体温に反応して、優しく香ります」
「まあ……」
「そして」
ルシアンは、さらに別の液体を加えた。
「あなたの感情が高ぶると、魔力が花びらのように舞います」
「花びら……?」
「視覚効果です。ロマンティックでしょう」
ルシアンは無表情のまま言った。でも、その声には、わずかな優しさが滲んでいる。
「ありがとう、ルシアン!」
「……別に、礼を言われるようなことではありません」
ルシアンはそっぽを向いた。
「ただ、アシュラン様が暴走しないように願うばかりです」
*
舞踏会当日の夕方。
カミラは鏡の前に立っていた。
真紅のドレスが、身体のラインを美しく際立たせる。オフショルダーのデザインが、白い肩を覗かせている。赤い髪を編み上げて、小さな花の髪飾りをつけた。
ルシアンの調合薬を、首筋に一滴。
甘く、でも上品な香りが、ふわりと広がった。
「……行きましょう」
カミラは深呼吸をした。グリーンアイが、鏡の中で輝いている。
*
王宮の大広間は、すでに華やかな音楽と光に満ちていた。
シャンデリアが煌めき、貴族たちが優雅に踊っている。テーブルには色とりどりの料理が並び、給仕たちが忙しく動き回っていた。
アシュランは、階段の下で待っていた。
プラチナブロンドの髪を整え、黒いタキシードを纏っている。サファイアブルーの瞳が、階段の上を見つめた。
そして——。
カミラが現れた。
時が、止まった。
真紅のドレス。赤い髪。白い肩。
階段を降りてくる彼女の姿が、まるでスローモーションのように見える。
周囲の音が消えた。音楽も、話し声も、全てが遠くなる。
アシュランの視界には、カミラしかいなかった。
「……」
息をするのを、忘れた。
心臓が、激しく脈打つ。全身の血液が、沸騰しそうなほど熱くなる。
そして——彼の周りの魔力が、激しく揺れ始めた。
(駄目だ。落ち着け)
アシュランは必死に魔力を制御した。でも、視線はカミラから離せない。
カミラが階段を降りきった。
その瞬間、男性たちの視線が一斉にカミラへ向かい、女性たちの間に微かなざわめきが走った。
アシュランの魔力が、さらに激しく波打つ。会場の魔法陣が、ピリピリと震えた。
「……落ち着いてください、アシュラン様」
背後から、ルシアンの低い声が聞こえた。
「あなたの魔力が暴走しかけています」
「……分かっている」
アシュランは拳を握りしめた。
そして、カミラへと歩み寄った。
「カミラ」
「アシュラン様」
カミラが微笑んだ。その笑顔が、アシュランの胸を突き刺す。
「今夜は……」
アシュランはカミラの手を取った。
「一歩も、君を離さない」
その声は、静かだが——絶対的だった。
*
ワルツが始まった。
アシュランがカミラの腰に手を回し、優雅に踊り始める。
音楽に合わせて、二人の身体が一体となって動く。カミラのドレスの裾が、美しく広がった。
そして——。
カミラの身体から、淡い微光が溢れ始めた。
まるで花びらのように、キラキラと舞う魔力。ルシアンの香水の効果だ。
周囲の人々が、息を呑んだ。
「カミラ……」
アシュランが囁いた。
「今日の君は、一段と美しい」
「ありがとうございます」
カミラは頬を染めた。アシュランの手が、腰にある。その熱が、ドレス越しに伝わってくる。
「いや、美しいなんて言葉では足りない」
アシュランの瞳が、カミラの唇を見た。
「君は——誰よりも、眩しい」
曲が終わっても、アシュランは手を離さなかった。
「少し……外の空気を吸いに行こうか」
その声には、有無を言わせない響きがあった。
「はい」
カミラは頷いた。
*
二人は庭園へ出た。
月明かりが、優しく二人を照らしている。薔薇が咲き誇る小道。魔法の光が、木々の間で揺れていた。薔薇の香りが、夜風に混じって淡く漂う。
人混みから離れて、ようやく二人きりになれた。
「カミラ」
アシュランが立ち止まった。
ゆっくりと振り返る。その瞳が、月明かりの中で輝いている。
「アシュラン様……今日は、いつもと違いますね」
「……ああ」
アシュランが一歩、近づいた。
「君が、あまりにも美しくて」
もう一歩。
「もう……我慢できない」
アシュランがカミラの頬に手を添えた。
その手が、わずかに震えている。
「ずっと、触れたかった」
顔を近づける。カミラの吐息が、アシュランの唇にかかる。
「ずっと……こうしたかったんだ」
唇が、触れた。
優しく——けれど熱い。
カミラの身体から、さらに多くの微光が溢れ出した。まるで祝福するかのように、薔薇の花びらのように舞う。
アシュランの魔力も呼応して、周囲の魔法陣が柔らかな輝きを放ち始めた。
一度では、足りなかった。
「カミラ……」
名前を呼びながら、もう一度。
「カミラ」
さらに、もう一度。
何度も、何度も。
優しいキスが、次第に深くなっていく。貪るように、求めるように。
アシュランの腕が、カミラの背中を抱きしめた。
カミラの身体が、熱くなる。全身から、熱の霞のような魔力が立ち上った。体温の上昇が、視覚化されている。
「んっ……」
カミラが小さく声を漏らした。
その声に、アシュランの理性が揺らぐ。
息が荒くなる。心臓が、激しく鳴る。
アシュランの手が、カミラの背中をゆっくりと撫でた。ドレスの布越しに、彼女の体温が伝わってくる。
指先が、背中の紐に触れた——。
「っ……」
アシュランがハッと我に返った。
慌ててカミラから離れる。
周囲の魔法陣が、激しく明滅していた。暴走寸前だ。
「ごめん……」
アシュランは息を整えながら言った。
「僕は……やり過ぎた」
拳を握りしめる。その手が、震えている。
「君を、驚かせてしまった」
「アシュラン様……」
「僕には……守らなければならない、約束があるんだ」
言葉が喉で詰まったように、しばし沈黙が落ちた。
月の光が、二人の間を静かに照らす。
「王家の戒律で……結婚前に、花嫁に深く触れてはならないと」
その声には、苦悩が滲んでいる。
「だから……ここまでだ」
沈黙が落ちた。
月明かりだけが、二人を照らしている。
カミラの心臓は、まだ激しく鳴っていた。身体が、まだ熱い。
「あの……」
カミラが顔を上げた。
頬が、真っ赤に染まっている。
「アシュラン様」
「……何?」
「私は……驚いてなんて、いません」
カミラはアシュランをまっすぐ見つめた。グリーンアイが、月明かりの中で揺れる。
「むしろ……」
声が震える。でも、言わなければ。
「もっと……して欲しかったです」
アシュランの表情が、凍りついた。
「……今」
その声が、低く、危険なほど甘い。
「何と言った?」
「もっと……」
カミラは涙目になりながらも、続けた。
「アシュラン様に、触れて欲しかったです」
その瞬間、アシュランの魔力が激しく揺れた。
周囲の魔法陣が、一斉に明滅する。薔薇の花が、魔力の波に揺れた。
「……カミラ」
一拍の沈黙。
「君は、僕を……試しているのか?」
一歩、近づく。
「これ以上は……本当に、僕は止まれなくなる」
カミラの肩を掴む。その手に、力が入る。
「だから、お願いだ」
アシュランの声が、わずかに震えた。
「結婚式まで……待っていてほしい」
カミラの頬に、そっと触れる。
「君を……誰よりも、愛している」
そして——もう一度、優しくキスをした。
短いキス。でも、そこには全ての想いが込められていた。
*
二人は庭園から戻った。
カミラの心臓は、まだドキドキと鳴っている。唇が、まだ熱い。
アシュランの手は、まだわずかに震えていた。
(アシュラン様……あんなに、情熱的だなんて)
カミラは頬を押さえた。
(指南書には、こんなこと書いてなかった)
(でも……もっと、もっと欲しくなってしまいますわ)
(こんな気持ち、知らなかった……これが恋の本当の意味なのでしょうか)
一方、アシュランは——。
(……危なかった)
彼は拳を握りしめた。
(もう少しで、全てを忘れるところだった)
(カミラ……君は、僕の理性を全て奪っていく)
(結婚式まで……本当に、持つだろうか)
月明かりの下、二人の影が重なっている。
初めての本格的なキス。
それは、二人の関係を——決定的に、変えた。
*
その夜、廊下で。
ルシアンとライネルが、遠くから二人を見送っていた。
「なあ、ルシアン」
「……何でしょう」
「アシュラン、大丈夫か? さっき、魔力がヤバかったぞ」
「ええ。暴走寸前でした」
ルシアンは無表情のまま、溜息をついた。
「でも、ちゃんと止まれたようだな! さすがだ!」
ライネルは明るく言った。
「……次は、どうでしょうか」
ルシアンは窓の外を見た。月が、冷たく光っている。
「カミラ様も、どんどん大胆になっています」
「まあ、婚約者同士だし——」
「問題は、アシュラン様が自分を許せるかどうかです」
ルシアンの声が、低くなった。
「あの方は……まだ、あの夜のことを引きずっている」
「……ああ、あの事件か」
ライネルの表情が、珍しく真剣になった。
「ええ」
ルシアンは頷いた。
「いずれ、全てが明らかになる日が来るでしょう」
「その時、カミラは——」
「受け入れられるでしょうか。アシュラン様の、本当の姿を」
沈黙が落ちた。
二人は、それぞれの部屋へと戻っていった。
婚前交渉バトル——。
初めてのキスは、すべてを変える“始まり”だった。
王子の抑えきれない想い。
令嬢の無自覚な誘惑。
そして、まだ明かされていない過去。
全てが、少しずつ——動き始めている。
舞踏会の三日前。カミラは自室で指南書のページをめくっていた。
午後の光が窓から差し込み、埃が舞う。静かな部屋に、紙の擦れる音だけが響いた。
「次の秘訣は……」
そこには、こう書かれていた。
『第十三の秘訣:彼の心を奪う最後の一押し——魅惑のドレスと香り』
『舞踏会は最大のチャンス。普段とは違う、大胆な装いで彼の視線を独占しなさい。そして、特別な香りで彼の記憶に刻み込むのです。彼があなたのことを、一瞬たりとも忘れられないように』
「大胆な装い……」
カミラは頬を染めた。
いつもは控えめな色を選んでいたけれど、今回は違う。今回は——。
「真紅のドレス、ですわね」
決心した時、心臓が一つ大きく跳ねた。
(今度こそ、わたくし自身の力で、アシュラン様の心を奪ってみせますわ)
*
翌日、カミラはルシアンの調合室を訪れた。
薬草の匂いと、魔法陣の淡い光に満ちた部屋。棚には色とりどりの小瓶が並んでいる。
「ルシアン、いらっしゃいますか?」
「……何の用でしょうか、カミラ様」
ルシアンが振り返った。黒髪が、実験台の明かりを反射する。グレーの瞳が、無表情のままカミラを見た。
「あの、お願いがあって……」
「また、ですか」
ルシアンは溜息をついた。
「どうせ、アシュラン様を誘惑する魔法アイテムでしょう」
「そ、そんな風に言わないでください!」
カミラは慌てた。
「ただ……舞踏会で、特別な何かが欲しくて」
「香水」
ルシアンは少し考えてから、棚に向かった。
「……仕方ありませんね」
彼は小瓶をいくつか取り出し、調合を始めた。淡い光が、液体の中で揺れる。
「この香りは、魔力を帯びた花のエッセンスです。あなたの体温に反応して、優しく香ります」
「まあ……」
「そして」
ルシアンは、さらに別の液体を加えた。
「あなたの感情が高ぶると、魔力が花びらのように舞います」
「花びら……?」
「視覚効果です。ロマンティックでしょう」
ルシアンは無表情のまま言った。でも、その声には、わずかな優しさが滲んでいる。
「ありがとう、ルシアン!」
「……別に、礼を言われるようなことではありません」
ルシアンはそっぽを向いた。
「ただ、アシュラン様が暴走しないように願うばかりです」
*
舞踏会当日の夕方。
カミラは鏡の前に立っていた。
真紅のドレスが、身体のラインを美しく際立たせる。オフショルダーのデザインが、白い肩を覗かせている。赤い髪を編み上げて、小さな花の髪飾りをつけた。
ルシアンの調合薬を、首筋に一滴。
甘く、でも上品な香りが、ふわりと広がった。
「……行きましょう」
カミラは深呼吸をした。グリーンアイが、鏡の中で輝いている。
*
王宮の大広間は、すでに華やかな音楽と光に満ちていた。
シャンデリアが煌めき、貴族たちが優雅に踊っている。テーブルには色とりどりの料理が並び、給仕たちが忙しく動き回っていた。
アシュランは、階段の下で待っていた。
プラチナブロンドの髪を整え、黒いタキシードを纏っている。サファイアブルーの瞳が、階段の上を見つめた。
そして——。
カミラが現れた。
時が、止まった。
真紅のドレス。赤い髪。白い肩。
階段を降りてくる彼女の姿が、まるでスローモーションのように見える。
周囲の音が消えた。音楽も、話し声も、全てが遠くなる。
アシュランの視界には、カミラしかいなかった。
「……」
息をするのを、忘れた。
心臓が、激しく脈打つ。全身の血液が、沸騰しそうなほど熱くなる。
そして——彼の周りの魔力が、激しく揺れ始めた。
(駄目だ。落ち着け)
アシュランは必死に魔力を制御した。でも、視線はカミラから離せない。
カミラが階段を降りきった。
その瞬間、男性たちの視線が一斉にカミラへ向かい、女性たちの間に微かなざわめきが走った。
アシュランの魔力が、さらに激しく波打つ。会場の魔法陣が、ピリピリと震えた。
「……落ち着いてください、アシュラン様」
背後から、ルシアンの低い声が聞こえた。
「あなたの魔力が暴走しかけています」
「……分かっている」
アシュランは拳を握りしめた。
そして、カミラへと歩み寄った。
「カミラ」
「アシュラン様」
カミラが微笑んだ。その笑顔が、アシュランの胸を突き刺す。
「今夜は……」
アシュランはカミラの手を取った。
「一歩も、君を離さない」
その声は、静かだが——絶対的だった。
*
ワルツが始まった。
アシュランがカミラの腰に手を回し、優雅に踊り始める。
音楽に合わせて、二人の身体が一体となって動く。カミラのドレスの裾が、美しく広がった。
そして——。
カミラの身体から、淡い微光が溢れ始めた。
まるで花びらのように、キラキラと舞う魔力。ルシアンの香水の効果だ。
周囲の人々が、息を呑んだ。
「カミラ……」
アシュランが囁いた。
「今日の君は、一段と美しい」
「ありがとうございます」
カミラは頬を染めた。アシュランの手が、腰にある。その熱が、ドレス越しに伝わってくる。
「いや、美しいなんて言葉では足りない」
アシュランの瞳が、カミラの唇を見た。
「君は——誰よりも、眩しい」
曲が終わっても、アシュランは手を離さなかった。
「少し……外の空気を吸いに行こうか」
その声には、有無を言わせない響きがあった。
「はい」
カミラは頷いた。
*
二人は庭園へ出た。
月明かりが、優しく二人を照らしている。薔薇が咲き誇る小道。魔法の光が、木々の間で揺れていた。薔薇の香りが、夜風に混じって淡く漂う。
人混みから離れて、ようやく二人きりになれた。
「カミラ」
アシュランが立ち止まった。
ゆっくりと振り返る。その瞳が、月明かりの中で輝いている。
「アシュラン様……今日は、いつもと違いますね」
「……ああ」
アシュランが一歩、近づいた。
「君が、あまりにも美しくて」
もう一歩。
「もう……我慢できない」
アシュランがカミラの頬に手を添えた。
その手が、わずかに震えている。
「ずっと、触れたかった」
顔を近づける。カミラの吐息が、アシュランの唇にかかる。
「ずっと……こうしたかったんだ」
唇が、触れた。
優しく——けれど熱い。
カミラの身体から、さらに多くの微光が溢れ出した。まるで祝福するかのように、薔薇の花びらのように舞う。
アシュランの魔力も呼応して、周囲の魔法陣が柔らかな輝きを放ち始めた。
一度では、足りなかった。
「カミラ……」
名前を呼びながら、もう一度。
「カミラ」
さらに、もう一度。
何度も、何度も。
優しいキスが、次第に深くなっていく。貪るように、求めるように。
アシュランの腕が、カミラの背中を抱きしめた。
カミラの身体が、熱くなる。全身から、熱の霞のような魔力が立ち上った。体温の上昇が、視覚化されている。
「んっ……」
カミラが小さく声を漏らした。
その声に、アシュランの理性が揺らぐ。
息が荒くなる。心臓が、激しく鳴る。
アシュランの手が、カミラの背中をゆっくりと撫でた。ドレスの布越しに、彼女の体温が伝わってくる。
指先が、背中の紐に触れた——。
「っ……」
アシュランがハッと我に返った。
慌ててカミラから離れる。
周囲の魔法陣が、激しく明滅していた。暴走寸前だ。
「ごめん……」
アシュランは息を整えながら言った。
「僕は……やり過ぎた」
拳を握りしめる。その手が、震えている。
「君を、驚かせてしまった」
「アシュラン様……」
「僕には……守らなければならない、約束があるんだ」
言葉が喉で詰まったように、しばし沈黙が落ちた。
月の光が、二人の間を静かに照らす。
「王家の戒律で……結婚前に、花嫁に深く触れてはならないと」
その声には、苦悩が滲んでいる。
「だから……ここまでだ」
沈黙が落ちた。
月明かりだけが、二人を照らしている。
カミラの心臓は、まだ激しく鳴っていた。身体が、まだ熱い。
「あの……」
カミラが顔を上げた。
頬が、真っ赤に染まっている。
「アシュラン様」
「……何?」
「私は……驚いてなんて、いません」
カミラはアシュランをまっすぐ見つめた。グリーンアイが、月明かりの中で揺れる。
「むしろ……」
声が震える。でも、言わなければ。
「もっと……して欲しかったです」
アシュランの表情が、凍りついた。
「……今」
その声が、低く、危険なほど甘い。
「何と言った?」
「もっと……」
カミラは涙目になりながらも、続けた。
「アシュラン様に、触れて欲しかったです」
その瞬間、アシュランの魔力が激しく揺れた。
周囲の魔法陣が、一斉に明滅する。薔薇の花が、魔力の波に揺れた。
「……カミラ」
一拍の沈黙。
「君は、僕を……試しているのか?」
一歩、近づく。
「これ以上は……本当に、僕は止まれなくなる」
カミラの肩を掴む。その手に、力が入る。
「だから、お願いだ」
アシュランの声が、わずかに震えた。
「結婚式まで……待っていてほしい」
カミラの頬に、そっと触れる。
「君を……誰よりも、愛している」
そして——もう一度、優しくキスをした。
短いキス。でも、そこには全ての想いが込められていた。
*
二人は庭園から戻った。
カミラの心臓は、まだドキドキと鳴っている。唇が、まだ熱い。
アシュランの手は、まだわずかに震えていた。
(アシュラン様……あんなに、情熱的だなんて)
カミラは頬を押さえた。
(指南書には、こんなこと書いてなかった)
(でも……もっと、もっと欲しくなってしまいますわ)
(こんな気持ち、知らなかった……これが恋の本当の意味なのでしょうか)
一方、アシュランは——。
(……危なかった)
彼は拳を握りしめた。
(もう少しで、全てを忘れるところだった)
(カミラ……君は、僕の理性を全て奪っていく)
(結婚式まで……本当に、持つだろうか)
月明かりの下、二人の影が重なっている。
初めての本格的なキス。
それは、二人の関係を——決定的に、変えた。
*
その夜、廊下で。
ルシアンとライネルが、遠くから二人を見送っていた。
「なあ、ルシアン」
「……何でしょう」
「アシュラン、大丈夫か? さっき、魔力がヤバかったぞ」
「ええ。暴走寸前でした」
ルシアンは無表情のまま、溜息をついた。
「でも、ちゃんと止まれたようだな! さすがだ!」
ライネルは明るく言った。
「……次は、どうでしょうか」
ルシアンは窓の外を見た。月が、冷たく光っている。
「カミラ様も、どんどん大胆になっています」
「まあ、婚約者同士だし——」
「問題は、アシュラン様が自分を許せるかどうかです」
ルシアンの声が、低くなった。
「あの方は……まだ、あの夜のことを引きずっている」
「……ああ、あの事件か」
ライネルの表情が、珍しく真剣になった。
「ええ」
ルシアンは頷いた。
「いずれ、全てが明らかになる日が来るでしょう」
「その時、カミラは——」
「受け入れられるでしょうか。アシュラン様の、本当の姿を」
沈黙が落ちた。
二人は、それぞれの部屋へと戻っていった。
婚前交渉バトル——。
初めてのキスは、すべてを変える“始まり”だった。
王子の抑えきれない想い。
令嬢の無自覚な誘惑。
そして、まだ明かされていない過去。
全てが、少しずつ——動き始めている。
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高瀬由衣(たかせゆい)二十七歳。金ナシ、職ナシ、彼氏ナシ。ついでに結婚願望も丸でナシ。
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直人は縁談よけのため、由衣に仮初の花嫁役を打診する。その代わりその間の生活費は全て直人が持つという。
便利な仮初の妻が欲しい直人と、金は無いけど東京に居続けたい由衣。
利害の一致から始まった愛のない結婚生活のはずが、気付けばいつの間にか世話焼きで独占欲強めな幼なじみCEOに囲い込まれていて――。
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