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Round.13 会えない理由、言えない本音
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愛する人が近くにいるのに、触れられない。それは、甘美な拷問だった。
舞踏会から三日が過ぎた。
カミラは自室の窓辺に立って、庭園を見下ろしていた。薔薇が風に揺れている。青い空に白い雲が流れていく。美しい午後だった。でも、胸の奥に小さな寂しさがある。
窓ガラスに額を押し当てると、冷たい感触が伝わってくる。外の世界は明るいのに、心の中だけが曇っているような気がした。
アシュランに、会えない。
言葉を交わせない日々が、こんなにも長く感じるなんて。
あの夜以来、彼は忙しいのだと手紙が届いた。政務に追われている、会議が続いている、もう少し待っていてほしい——。
丁寧な言葉が並んでいたけれど、カミラには分かる。何かが、違う。インクの染み方が、いつもより乱れている。ペンを持つ手が、震えていたのかもしれない。
手紙は机の引き出しに、大切にしまってある。何度も読み返した。でも、読み返すたびに、彼の声が遠くなっていく気がした。
「カミラ様」
背後から声がかかった。
振り返ると、侍女のマーガレットが立っていた。紺色の髪を綺麗にまとめて、凛とした表情をしている。
カミラより三つ年上の彼女は、いつも的確で、優しい。部屋に入ってくる足音も、物腰も、全てが落ち着いている。
「はい、マーガレット」
「お茶の時間ですよ。それとも、このままずっと窓を見続けますか?」
マーガレットの言葉には、少しだけ茶目っ気がある。叱るのではなく、そっと促すような口調だ。
「そんなに長い間見ていたかしら」
「ええ」
淡々と答えるマーガレットに、カミラは慌てて椅子に座った。
マーガレットが紅茶を淹れてくれる。ポットからカップへ、琥珀色の液体が注がれていく。湯気が立ち上って、優しい香りが広がった。部屋の空気が、少しだけ温かくなる。
「アシュラン様のことで、悩んでいらっしゃるのでしょう?」
「……どうして分かるの?」
「だって、ずっとため息ばかりですもの」
マーガレットは微笑んだ。その微笑みには、叱責も哀れみもない。ただ、理解がある。
「あの舞踏会の夜から、様子がおかしいですわ。何かあったのでしょう?」
「その……」
カミラは頬を染めた。
あの夜のことを思い出すと、心臓が跳ねる。何度も重ねた口づけ。熱い吐息。背中を撫でる指先——。身体の奥に、まだあの時の感触が残っているような気がする。
「まあ、その顔!」
マーガレットが笑った。声を立てずに、でも楽しそうに。
「何があったか、だいたい想像がつきますわ」
「マーガレット!」
「でも、それなのにアシュラン様は会ってくださらない。それが寂しいのですね」
「……うん」
カミラは正直に頷いた。
紅茶カップを両手で包む。陶器の温もりが、手のひらに伝わってくる。
「手紙は毎日届くの。でも、会えない。どうしてなのか、私には分からなくて」
紅茶を一口飲む。温かいけれど、胸の寂しさは消えない。甘い香りが鼻腔をくすぐるけれど、味がよく分からなかった。
「きっと、アシュラン様なりの理由があるのですわ」
マーガレットが優しく言った。
「男性は不器用ですもの。特に、本当に大切な人の前では」
その言葉が、カミラの胸にそっと沈んでいく。
窓の外では、風が木々を揺らしている。葉が擦れ合う音が、遠くから聞こえてきた。
*
その夜、カミラは指南書を開いた。
ランプの光が、ページを照らしている。窓の外は暗くて、星が瞬いていた。部屋の中は静かで、自分の息づかいだけが響いていた。
古びた紙の感触が、指先に馴染んでいる。何度も開いたページは、少しだけ柔らかくなっていた。
『第十四の秘訣:彼が距離を置く時——それは、愛が深すぎる証』
『男性が急に会わなくなる時、それは二つの理由があります。一つは、愛が冷めた時。もう一つは——愛が深すぎて、自分を制御できなくなった時』
「愛が、深すぎて……」
カミラは指南書を見つめた。
文字が、ランプの光の中で揺れている。まるで生きているみたいに。
アシュランは、あの夜、何度も言った。「結婚式まで待ってほしい」と。「王家の戒律がある」と。
でも、その声は苦しそうだった。まるで、自分自身と戦っているような——。喉の奥から絞り出すような、そんな声だった。
(アシュラン様……)
カミラは胸に手を当てた。
会いたい。話したい。せめて、その顔を見たい。
でも、彼は会ってくれない。
なぜ?
窓の外で、夜風が吹いている。カーテンが、わずかに揺れた。
*
翌日の昼下がり。
カミラは庭園を散歩していた。マーガレットが付き添ってくれている。
陽射しが暖かくて、肌に心地よい。鳥のさえずりが聞こえる。でも、どこか上の空だった。
薔薇の小道を歩きながら、カミラはあの夜のことを思い出していた。月明かりの下で交わした口づけ。アシュランの熱い手。背中を撫でる指先の、あの丁寧さ。
足元の小石を蹴ると、コロコロと転がっていく。その音が、やけに大きく聞こえた。
「カミラ様、あちらを」
マーガレットが指差した。
顔を上げると、遠くの回廊に——アシュランの姿があった。
陽光を受けて白金色に光る髪。黒いジャケットを着て、書類を抱えている。誰かと話しながら、急ぎ足で歩いていく。
距離があるのに、彼の姿が、鮮明に見えた。
「アシュラン様!」
カミラは思わず声を上げた。
でも——。
アシュランは、一瞬だけこちらを見た。
その瞳が、カミラを捉える。サファイアブルーの瞳が、切ないほど優しく——そして、苦しそうに揺れた。
時間が、止まったような気がした。
でも、彼は立ち止まらなかった。
小さく頭を下げて、そのまま行ってしまう。
背中が、遠ざかっていく。黒い影が、だんだん小さくなる。
「あ……」
カミラの手が、虚しく宙を掴んだ。
胸が、痛い。息が、詰まる。
喉の奥に、何かが詰まったような感覚がある。言葉にならない叫びが、胸の中で渦巻いていた。
「カミラ様……」
マーガレットが心配そうに肩に手を置いた。その手が、温かい。
「大丈夫ですわ」
カミラは無理に笑った。でも、声が震えている。目が、熱い。
「大丈夫じゃないですわよ」
マーガレットが優しく言った。
「お部屋に戻りましょう。今日は、ゆっくりお休みになって」
「でも……」
「アシュラン様も、お辛いのですわ。あの表情を見れば分かります」
マーガレットの声が、静かに響いた。
「あの方は、あなたを避けているのではなく——自分自身から、逃げていらっしゃるのです」
その言葉が、カミラの心に深く沈んでいく。
風が吹いて、髪が揺れた。薔薇の香りが、鼻先をかすめる。
*
その夜、カミラは眠れなかった。
ベッドに横になっても、目が冴えている。天井を見つめても、何も見えない。月明かりが、カーテンの隙間から差し込んでいた。
寝返りを打つ。シーツが擦れる音が、やけに大きく聞こえる。
アシュランの顔が、まぶたの裏に浮かぶ。
あの苦しそうな瞳。
会いたいのに、会えない。触れたいのに、触れられない。
どうして?
カミラは起き上がった。
窓の外を見る。星が、たくさん瞬いている。夜空は深くて、吸い込まれそうだった。
(アシュラン様……今、何を考えているのでしょうか)
同じ空の下にいるのに、こんなにも遠い。
*
同じ夜、アシュランは執務室にいた。
机には書類が山積みになっている。でも、一つも手がつけられていない。インクの染みが、紙の上で広がっている。ペンを落としてしまったのだ。
彼は窓の外を見つめていた。
カミラの顔が、脳裏から離れない。
あの舞踏会の夜。真紅のドレス。甘い香り。柔らかい唇——。
身体が、あの感触を覚えている。指先が、彼女の背中の曲線を覚えている。
彼女の笑顔を見るたびに、心の奥の何かが軋む。理性が、恋にひび割れていく音がする。
「……駄目だ」
アシュランは拳を握りしめた。
あの夜、彼は限界だった。もう少しで、全てを忘れるところだった。
カミラを抱きしめて、ドレスの紐を解いて、その肌に触れて——。
想像するだけで、身体が熱くなる。
「駄目だ」
もう一度、自分に言い聞かせる。
彼には、守らなければならないものがある。
王家の戒律。結婚前に、花嫁に深く触れてはならない。
それは、代々受け継がれてきた掟だ。
でも——。
「それだけじゃない」
アシュランは目を閉じた。
本当の理由は、もっと深いところにある。暗くて、冷たいところに。
幼い頃、彼はカミラを——閉じ込めた。
大好きだから。誰にも渡したくなかったから。ずっと一緒にいたかったから。
でも、カミラは泣いた。
怖がって、震えて、泣いた。
その時、アシュランは理解した。
自分の愛は、時に——相手を傷つける。
「だから、僕は……」
アシュランは窓に額を押し当てた。ガラスが、冷たい。
「君を、壊してしまうのが怖い」
机の上には、カミラへの手紙が置かれている。
何度も書き直した手紙。でも、本当のことは書けなかった。破り捨てた紙が、足元に散らばっている。
『愛しているから、会えない』
『触れたいから、触れられない』
『君を守りたいから、距離を置く』
そんな矛盾した想い。
カミラには、伝えられない。
月が、窓の外で冷たく光っている。
*
翌朝、カミラは再び手紙を受け取った。
アシュランからの手紙。丁寧な文字で、こう書かれていた。でも、よく見ると、文字が少しだけ震えている。
『カミラへ。
会えなくて、ごめん。
でも、これは君のためなんだ。
僕には、守らなければならない戒律がある。
王家に代々伝わる大切な掟。
結婚前に、花嫁に深く触れてはならない——。
それを破れば、不幸が訪れると言われている。
だから、結婚式まで、もう少しだけ待っていてほしい。
君を愛している。誰よりも。
アシュラン』
カミラは手紙を読んで、涙がこぼれそうになった。
紙が、わずかに震える。握る手に、力が入らない。
「戒律……」
マーガレットが隣で、静かに言った。
「でも、カミラ様。これは、本当の理由ではないかもしれませんわ」
「え?」
「男性が『戒律』や『ルール』を理由にする時——本当は、もっと深い何かを隠していることが多いのです」
マーガレットの紺色の髪が、朝日に揺れた。窓から差し込む光が、彼女の横顔を照らしている。
「アシュラン様は、何かを恐れていらっしゃる。あなたを失うことを。あるいは——」
「あるいは?」
「あなたを、傷つけてしまうことを」
その言葉が、カミラの胸に沈んだ。
そうだ。あの夜、アシュランは言った。
「君を、驚かせてしまった」と。
まるで、自分が何か悪いことをしたかのように。罪を犯したかのように。
でも、カミラは全然驚いていなかった。むしろ、もっと——。
「私……アシュラン様に、会いたい」
カミラは立ち上がった。椅子が、ギシリと音を立てた。
「このまま待っているだけじゃ、何も変わらない」
「その意気ですわ!」
マーガレットが笑った。瞳が、策を思いついたように輝いた。
「では、作戦を立てましょう。どうやって、あの頑固な王子様に会うか」
「作戦?」
「ええ。正面から行っても、きっと逃げられますわ。ならば——」
マーガレットの目が、いたずらっぽく光った。
「少しばかり、策を弄しましょう」
二人の視線が、合う。そして、同時に笑った。
*
その日の夕方。
アシュランは執務室で書類と格闘していた。
会議が続いて、頭が痛い。こめかみを押さえても、痛みは引かない。でも、仕事に集中すれば、カミラのことを考えずに済む——はずだった。
でも、無理だった。
どれだけ書類を読んでも、彼女の顔が浮かぶ。文字が、彼女の赤い髪の色に見える。
あの赤い髪。グリーンアイ。柔らかい唇——。
「……集中しろ」
自分に言い聞かせる。
その時、ドアがノックされた。コンコンと、優しい音。
「アシュラン様、お茶をお持ちしました」
侍女の声。聞き慣れない声だった。
「ああ、入って」
アシュランは書類から目を離さなかった。
ドアが開いて、足音が近づいてくる。床を踏む音が、規則正しく響く。
ティーカップが、机の上に置かれた。陶器が、木にぶつかる小さな音。
良い香りが漂う。紅茶の香りと——何か、甘い香り。
「ありがとう」
アシュランは顔も上げずに言った。
でも——。
その香りに、何か覚えがある。
甘くて、優しくて、どこか懐かしい——。
ハッとして顔を上げると——。
そこには、侍女の服を着たカミラが立っていた。
赤い髪を後ろでまとめて、エプロンをつけている。グリーンアイが、いたずらっぽく輝いていた。まるで、悪戯に成功した子供のように。
「……カミラ!?」
「こんばんは、アシュラン様」
カミラがニッコリ笑った。その笑顔が、夕日に照らされて輝いている。
「お茶、お持ちしました」
「どうして、君が……」
「マーガレットに頼んで、服を借りたの」
カミラはクスクスと笑った。声が、鈴のように響く。
「だって、会ってくれないんですもの」
アシュランは言葉を失った。
可愛い。可愛すぎる。そして——。
会いたかった。こんなにも。
胸が、締め付けられる。
「カミラ……」
「アシュラン様」
カミラが一歩近づいた。床がきしむ音。
「どうして、避けるの?」
「避けてなんか——」
「嘘」
カミラの瞳が、まっすぐアシュランを見つめた。
その瞳に、全てを見透かされているような気がした。
「あなたは、私から逃げている」
その言葉が、アシュランの胸を突き刺した。
「……ごめん」
「謝らないで」
カミラがもう一歩近づく。彼女の体温が、空気を伝わって感じられる。
「ただ、理由を教えて欲しいのです。本当の理由を」
アシュランは目を逸らした。
言えない。あの夜のことも、閉じ込め事件のことも。全部、言えない。
「僕には……戒律があるんだ」
「それだけ?」
カミラの声が、優しく響いた。
「本当に、それだけなの?」
沈黙が落ちた。
夕暮れの光が、二人を照らしている。窓の外で、鳥が鳴いた。
「……カミラ」
アシュランがゆっくりと顔を上げた。
「僕は——」
でも、その先の言葉が出てこない。
どう説明すればいいのか。
この想いを。この恐怖を。全部。
「君を、愛しすぎているんだ」
ようやく、そう言った。声が、震えている。
「触れたい。抱きしめたい。君の全てを、知りたい」
「でも?」
「でも……怖い」
彼女の笑顔を見るたびに、心の奥の何かが軋む。理性が、恋にひび割れていく音がする。
アシュランの声が、震えた。
「君を、壊してしまうのが」
カミラは、静かにアシュランの手を取った。
その手が、温かい。生きている。
「私は、壊れたりしませんわ」
その手が、アシュランの手を包む。
「アシュラン様が思っているより、ずっと強いの」
「カミラ……」
「だから」
カミラが微笑んだ。夕日が、彼女の顔を照らしている。
「もっと、私を信じて」
夕日が、二人を優しく包んでいた。
アシュランの心に、小さな光が灯る。
でも、まだ——全ては話せない。
あの夜のことを。
全てを。
閉じ込めた記憶を。
婚前交渉バトル——。
二人の距離は、少しだけ縮まった。
でも、まだ明かされていない秘密がある。
王子の過去。
そして、まだ癒えぬ傷。
そのすべてが明らかになる日は——もうすぐ、訪れる。
その夜の月が、まるで二人の過去を照らすように輝いていた。
舞踏会から三日が過ぎた。
カミラは自室の窓辺に立って、庭園を見下ろしていた。薔薇が風に揺れている。青い空に白い雲が流れていく。美しい午後だった。でも、胸の奥に小さな寂しさがある。
窓ガラスに額を押し当てると、冷たい感触が伝わってくる。外の世界は明るいのに、心の中だけが曇っているような気がした。
アシュランに、会えない。
言葉を交わせない日々が、こんなにも長く感じるなんて。
あの夜以来、彼は忙しいのだと手紙が届いた。政務に追われている、会議が続いている、もう少し待っていてほしい——。
丁寧な言葉が並んでいたけれど、カミラには分かる。何かが、違う。インクの染み方が、いつもより乱れている。ペンを持つ手が、震えていたのかもしれない。
手紙は机の引き出しに、大切にしまってある。何度も読み返した。でも、読み返すたびに、彼の声が遠くなっていく気がした。
「カミラ様」
背後から声がかかった。
振り返ると、侍女のマーガレットが立っていた。紺色の髪を綺麗にまとめて、凛とした表情をしている。
カミラより三つ年上の彼女は、いつも的確で、優しい。部屋に入ってくる足音も、物腰も、全てが落ち着いている。
「はい、マーガレット」
「お茶の時間ですよ。それとも、このままずっと窓を見続けますか?」
マーガレットの言葉には、少しだけ茶目っ気がある。叱るのではなく、そっと促すような口調だ。
「そんなに長い間見ていたかしら」
「ええ」
淡々と答えるマーガレットに、カミラは慌てて椅子に座った。
マーガレットが紅茶を淹れてくれる。ポットからカップへ、琥珀色の液体が注がれていく。湯気が立ち上って、優しい香りが広がった。部屋の空気が、少しだけ温かくなる。
「アシュラン様のことで、悩んでいらっしゃるのでしょう?」
「……どうして分かるの?」
「だって、ずっとため息ばかりですもの」
マーガレットは微笑んだ。その微笑みには、叱責も哀れみもない。ただ、理解がある。
「あの舞踏会の夜から、様子がおかしいですわ。何かあったのでしょう?」
「その……」
カミラは頬を染めた。
あの夜のことを思い出すと、心臓が跳ねる。何度も重ねた口づけ。熱い吐息。背中を撫でる指先——。身体の奥に、まだあの時の感触が残っているような気がする。
「まあ、その顔!」
マーガレットが笑った。声を立てずに、でも楽しそうに。
「何があったか、だいたい想像がつきますわ」
「マーガレット!」
「でも、それなのにアシュラン様は会ってくださらない。それが寂しいのですね」
「……うん」
カミラは正直に頷いた。
紅茶カップを両手で包む。陶器の温もりが、手のひらに伝わってくる。
「手紙は毎日届くの。でも、会えない。どうしてなのか、私には分からなくて」
紅茶を一口飲む。温かいけれど、胸の寂しさは消えない。甘い香りが鼻腔をくすぐるけれど、味がよく分からなかった。
「きっと、アシュラン様なりの理由があるのですわ」
マーガレットが優しく言った。
「男性は不器用ですもの。特に、本当に大切な人の前では」
その言葉が、カミラの胸にそっと沈んでいく。
窓の外では、風が木々を揺らしている。葉が擦れ合う音が、遠くから聞こえてきた。
*
その夜、カミラは指南書を開いた。
ランプの光が、ページを照らしている。窓の外は暗くて、星が瞬いていた。部屋の中は静かで、自分の息づかいだけが響いていた。
古びた紙の感触が、指先に馴染んでいる。何度も開いたページは、少しだけ柔らかくなっていた。
『第十四の秘訣:彼が距離を置く時——それは、愛が深すぎる証』
『男性が急に会わなくなる時、それは二つの理由があります。一つは、愛が冷めた時。もう一つは——愛が深すぎて、自分を制御できなくなった時』
「愛が、深すぎて……」
カミラは指南書を見つめた。
文字が、ランプの光の中で揺れている。まるで生きているみたいに。
アシュランは、あの夜、何度も言った。「結婚式まで待ってほしい」と。「王家の戒律がある」と。
でも、その声は苦しそうだった。まるで、自分自身と戦っているような——。喉の奥から絞り出すような、そんな声だった。
(アシュラン様……)
カミラは胸に手を当てた。
会いたい。話したい。せめて、その顔を見たい。
でも、彼は会ってくれない。
なぜ?
窓の外で、夜風が吹いている。カーテンが、わずかに揺れた。
*
翌日の昼下がり。
カミラは庭園を散歩していた。マーガレットが付き添ってくれている。
陽射しが暖かくて、肌に心地よい。鳥のさえずりが聞こえる。でも、どこか上の空だった。
薔薇の小道を歩きながら、カミラはあの夜のことを思い出していた。月明かりの下で交わした口づけ。アシュランの熱い手。背中を撫でる指先の、あの丁寧さ。
足元の小石を蹴ると、コロコロと転がっていく。その音が、やけに大きく聞こえた。
「カミラ様、あちらを」
マーガレットが指差した。
顔を上げると、遠くの回廊に——アシュランの姿があった。
陽光を受けて白金色に光る髪。黒いジャケットを着て、書類を抱えている。誰かと話しながら、急ぎ足で歩いていく。
距離があるのに、彼の姿が、鮮明に見えた。
「アシュラン様!」
カミラは思わず声を上げた。
でも——。
アシュランは、一瞬だけこちらを見た。
その瞳が、カミラを捉える。サファイアブルーの瞳が、切ないほど優しく——そして、苦しそうに揺れた。
時間が、止まったような気がした。
でも、彼は立ち止まらなかった。
小さく頭を下げて、そのまま行ってしまう。
背中が、遠ざかっていく。黒い影が、だんだん小さくなる。
「あ……」
カミラの手が、虚しく宙を掴んだ。
胸が、痛い。息が、詰まる。
喉の奥に、何かが詰まったような感覚がある。言葉にならない叫びが、胸の中で渦巻いていた。
「カミラ様……」
マーガレットが心配そうに肩に手を置いた。その手が、温かい。
「大丈夫ですわ」
カミラは無理に笑った。でも、声が震えている。目が、熱い。
「大丈夫じゃないですわよ」
マーガレットが優しく言った。
「お部屋に戻りましょう。今日は、ゆっくりお休みになって」
「でも……」
「アシュラン様も、お辛いのですわ。あの表情を見れば分かります」
マーガレットの声が、静かに響いた。
「あの方は、あなたを避けているのではなく——自分自身から、逃げていらっしゃるのです」
その言葉が、カミラの心に深く沈んでいく。
風が吹いて、髪が揺れた。薔薇の香りが、鼻先をかすめる。
*
その夜、カミラは眠れなかった。
ベッドに横になっても、目が冴えている。天井を見つめても、何も見えない。月明かりが、カーテンの隙間から差し込んでいた。
寝返りを打つ。シーツが擦れる音が、やけに大きく聞こえる。
アシュランの顔が、まぶたの裏に浮かぶ。
あの苦しそうな瞳。
会いたいのに、会えない。触れたいのに、触れられない。
どうして?
カミラは起き上がった。
窓の外を見る。星が、たくさん瞬いている。夜空は深くて、吸い込まれそうだった。
(アシュラン様……今、何を考えているのでしょうか)
同じ空の下にいるのに、こんなにも遠い。
*
同じ夜、アシュランは執務室にいた。
机には書類が山積みになっている。でも、一つも手がつけられていない。インクの染みが、紙の上で広がっている。ペンを落としてしまったのだ。
彼は窓の外を見つめていた。
カミラの顔が、脳裏から離れない。
あの舞踏会の夜。真紅のドレス。甘い香り。柔らかい唇——。
身体が、あの感触を覚えている。指先が、彼女の背中の曲線を覚えている。
彼女の笑顔を見るたびに、心の奥の何かが軋む。理性が、恋にひび割れていく音がする。
「……駄目だ」
アシュランは拳を握りしめた。
あの夜、彼は限界だった。もう少しで、全てを忘れるところだった。
カミラを抱きしめて、ドレスの紐を解いて、その肌に触れて——。
想像するだけで、身体が熱くなる。
「駄目だ」
もう一度、自分に言い聞かせる。
彼には、守らなければならないものがある。
王家の戒律。結婚前に、花嫁に深く触れてはならない。
それは、代々受け継がれてきた掟だ。
でも——。
「それだけじゃない」
アシュランは目を閉じた。
本当の理由は、もっと深いところにある。暗くて、冷たいところに。
幼い頃、彼はカミラを——閉じ込めた。
大好きだから。誰にも渡したくなかったから。ずっと一緒にいたかったから。
でも、カミラは泣いた。
怖がって、震えて、泣いた。
その時、アシュランは理解した。
自分の愛は、時に——相手を傷つける。
「だから、僕は……」
アシュランは窓に額を押し当てた。ガラスが、冷たい。
「君を、壊してしまうのが怖い」
机の上には、カミラへの手紙が置かれている。
何度も書き直した手紙。でも、本当のことは書けなかった。破り捨てた紙が、足元に散らばっている。
『愛しているから、会えない』
『触れたいから、触れられない』
『君を守りたいから、距離を置く』
そんな矛盾した想い。
カミラには、伝えられない。
月が、窓の外で冷たく光っている。
*
翌朝、カミラは再び手紙を受け取った。
アシュランからの手紙。丁寧な文字で、こう書かれていた。でも、よく見ると、文字が少しだけ震えている。
『カミラへ。
会えなくて、ごめん。
でも、これは君のためなんだ。
僕には、守らなければならない戒律がある。
王家に代々伝わる大切な掟。
結婚前に、花嫁に深く触れてはならない——。
それを破れば、不幸が訪れると言われている。
だから、結婚式まで、もう少しだけ待っていてほしい。
君を愛している。誰よりも。
アシュラン』
カミラは手紙を読んで、涙がこぼれそうになった。
紙が、わずかに震える。握る手に、力が入らない。
「戒律……」
マーガレットが隣で、静かに言った。
「でも、カミラ様。これは、本当の理由ではないかもしれませんわ」
「え?」
「男性が『戒律』や『ルール』を理由にする時——本当は、もっと深い何かを隠していることが多いのです」
マーガレットの紺色の髪が、朝日に揺れた。窓から差し込む光が、彼女の横顔を照らしている。
「アシュラン様は、何かを恐れていらっしゃる。あなたを失うことを。あるいは——」
「あるいは?」
「あなたを、傷つけてしまうことを」
その言葉が、カミラの胸に沈んだ。
そうだ。あの夜、アシュランは言った。
「君を、驚かせてしまった」と。
まるで、自分が何か悪いことをしたかのように。罪を犯したかのように。
でも、カミラは全然驚いていなかった。むしろ、もっと——。
「私……アシュラン様に、会いたい」
カミラは立ち上がった。椅子が、ギシリと音を立てた。
「このまま待っているだけじゃ、何も変わらない」
「その意気ですわ!」
マーガレットが笑った。瞳が、策を思いついたように輝いた。
「では、作戦を立てましょう。どうやって、あの頑固な王子様に会うか」
「作戦?」
「ええ。正面から行っても、きっと逃げられますわ。ならば——」
マーガレットの目が、いたずらっぽく光った。
「少しばかり、策を弄しましょう」
二人の視線が、合う。そして、同時に笑った。
*
その日の夕方。
アシュランは執務室で書類と格闘していた。
会議が続いて、頭が痛い。こめかみを押さえても、痛みは引かない。でも、仕事に集中すれば、カミラのことを考えずに済む——はずだった。
でも、無理だった。
どれだけ書類を読んでも、彼女の顔が浮かぶ。文字が、彼女の赤い髪の色に見える。
あの赤い髪。グリーンアイ。柔らかい唇——。
「……集中しろ」
自分に言い聞かせる。
その時、ドアがノックされた。コンコンと、優しい音。
「アシュラン様、お茶をお持ちしました」
侍女の声。聞き慣れない声だった。
「ああ、入って」
アシュランは書類から目を離さなかった。
ドアが開いて、足音が近づいてくる。床を踏む音が、規則正しく響く。
ティーカップが、机の上に置かれた。陶器が、木にぶつかる小さな音。
良い香りが漂う。紅茶の香りと——何か、甘い香り。
「ありがとう」
アシュランは顔も上げずに言った。
でも——。
その香りに、何か覚えがある。
甘くて、優しくて、どこか懐かしい——。
ハッとして顔を上げると——。
そこには、侍女の服を着たカミラが立っていた。
赤い髪を後ろでまとめて、エプロンをつけている。グリーンアイが、いたずらっぽく輝いていた。まるで、悪戯に成功した子供のように。
「……カミラ!?」
「こんばんは、アシュラン様」
カミラがニッコリ笑った。その笑顔が、夕日に照らされて輝いている。
「お茶、お持ちしました」
「どうして、君が……」
「マーガレットに頼んで、服を借りたの」
カミラはクスクスと笑った。声が、鈴のように響く。
「だって、会ってくれないんですもの」
アシュランは言葉を失った。
可愛い。可愛すぎる。そして——。
会いたかった。こんなにも。
胸が、締め付けられる。
「カミラ……」
「アシュラン様」
カミラが一歩近づいた。床がきしむ音。
「どうして、避けるの?」
「避けてなんか——」
「嘘」
カミラの瞳が、まっすぐアシュランを見つめた。
その瞳に、全てを見透かされているような気がした。
「あなたは、私から逃げている」
その言葉が、アシュランの胸を突き刺した。
「……ごめん」
「謝らないで」
カミラがもう一歩近づく。彼女の体温が、空気を伝わって感じられる。
「ただ、理由を教えて欲しいのです。本当の理由を」
アシュランは目を逸らした。
言えない。あの夜のことも、閉じ込め事件のことも。全部、言えない。
「僕には……戒律があるんだ」
「それだけ?」
カミラの声が、優しく響いた。
「本当に、それだけなの?」
沈黙が落ちた。
夕暮れの光が、二人を照らしている。窓の外で、鳥が鳴いた。
「……カミラ」
アシュランがゆっくりと顔を上げた。
「僕は——」
でも、その先の言葉が出てこない。
どう説明すればいいのか。
この想いを。この恐怖を。全部。
「君を、愛しすぎているんだ」
ようやく、そう言った。声が、震えている。
「触れたい。抱きしめたい。君の全てを、知りたい」
「でも?」
「でも……怖い」
彼女の笑顔を見るたびに、心の奥の何かが軋む。理性が、恋にひび割れていく音がする。
アシュランの声が、震えた。
「君を、壊してしまうのが」
カミラは、静かにアシュランの手を取った。
その手が、温かい。生きている。
「私は、壊れたりしませんわ」
その手が、アシュランの手を包む。
「アシュラン様が思っているより、ずっと強いの」
「カミラ……」
「だから」
カミラが微笑んだ。夕日が、彼女の顔を照らしている。
「もっと、私を信じて」
夕日が、二人を優しく包んでいた。
アシュランの心に、小さな光が灯る。
でも、まだ——全ては話せない。
あの夜のことを。
全てを。
閉じ込めた記憶を。
婚前交渉バトル——。
二人の距離は、少しだけ縮まった。
でも、まだ明かされていない秘密がある。
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そして、まだ癒えぬ傷。
そのすべてが明らかになる日は——もうすぐ、訪れる。
その夜の月が、まるで二人の過去を照らすように輝いていた。
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