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11章:森を越えて
3話:森の少女
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翌日、多少の装備を積んでランバート達は出発した。
見送りの時、エドワードの隣にはエメリナが自然な形で立っている。これといって変化があるわけではないが、とても自然に。
「思いは簡単に風化をしません。ですが、エドワードは踏み出す準備を始めました。この争いが終わる頃には、よい報告が聞けるかもしれませんね」
馬上で見送りの場面を思い出していたアルブレヒトが嬉しそうに笑う。そしてそれに、ランバートもクリフも穏やかに笑って頷いた。
道は緩やかに曲がりくねりながら森の中を行く。しばらくは海も見えていたが、日が高くなるくらいには見回す限りの木々ばかりとなる。徐々に海岸線から離れ、少し内陸に入るのだ。
「馬がバテてきてるな」
馬の首を緩く撫でてやりながら、ダンが口にする。確かに馬は少し疲れたようだ。ぶっつけで四時間は乗っている。激しく走らせてはいなくても重量のあるダンなどを乗せた馬は重さもあって疲弊している。
「少し森を入った所に泉があると思う。馬の休憩をかねて、俺達も昼食にしよう」
昼食の時間にはまだ少し早いが良い機会だ。ここから少し行けば綺麗な泉があり、その畔で休める。馬にも食事と給水ができる場所だ。
ランバートの案内でそちらに馬首を向けて十分少々、目の前の木立の合間から青く光る泉が見えだした。
「見晴らし最高じゃん」
嬉しそうにボリスが口笛を吹き、側でコンラッドが「蛇が出る」とか言っている。その様子を笑いながら、一行は休憩地へと向かった。
泉は涼しい風を運んでくる。馬の鞍を外してやると、後は勝手に草を食み、水を飲む。軍の馬は賢くて、こうして放していても勝手に何処かに行くことはない。そのような訓練がされているし、例え離れても指笛を吹けば駆けてくる。
「賢い子達ですね」
レーティスが穏やかに微笑んで馬にブラシをかけてやっている。気持ち良さそうにする馬の首も撫でながら、彼は笑っていた。
「貴方は本当に穏やかですよね」
「まぁ、本来は争いは苦手です。傷つけ合うのは、見るのも苦しいですから」
それは苦笑になったが、本心なんだろう。やがてブラシを終えた馬もゆっくり離れていった。
「矛盾しているとは、思うのですがね。争いは嫌いなのに、その渦中にいるというのは。ただ故郷を守りたい、信じた主の力になりたい、その思いだけでここまで来ましたから」
「文官の方が似合いだと思うけれど?」
「ふふっ、本当に。まぁ、主が国を取りもどしたらそれも良いなと思っていますよ。田舎の領地で、領民と国の為に平和な時間を。それが、私には似合いだと思います」
その為に今は戦う。そういう決意を見せる瞳を見て、ランバートは一つ頷いた。
そんな穏やかな時間が各所であり、馬も十分に休まった。そろそろと思い馬に装備を乗せていたくらいに、風に乗って少女の悲鳴が微かに聞こえた。
「今の、悲鳴だよな?」
驚いて辺りを見回したのはチェルルだけじゃない。ボリスやゼロス、そしてアルブレヒトも辺りを見回し声の主を探した。
「少し遠い。泉の向こう側かな?」
「少女っぽかったよね?」
「誰か、いるのか?」
言ってはなんだが森の中だ、少女というのはちぐはぐだ。でも、まったく可能性がないとは言えない。国境前線に荷を運ぶ商人などはいるし、近くの森で食べられる木の実を集める事もある。
それにバロッサの少年少女のように森に住んで人前に出られない子がいてもおかしくはない。国境なら、他国から違法に入ってきた不法移民だ。
「とりあえず、見てくる」
「ゼロス、一人で行くなよ。ボリスの他に、腕の立つのがもう一人」
「そんなら、俺がいくかね。最近運動不足だ」
ダンが立ち上がり、ガタイのいい男三人が泉の対岸を目指して素早く移動していく。その背をクリフとコナンが心配そうに見守っていた。
「妙です」
「アルブレヒトさん?」
「この森は戦場に近い。故に影や臭いが流れてきて、私の感覚も狂ってしまうのですが」
「臭い?」
ランバートは鼻をヒクつかせてみるが、新緑の匂いしか分からない。確かに戦場などは酷い臭いがするものだ。主に血の臭いや木の焼ける臭い、腐敗臭というものだ。
だが流石にまだそんなものは臭ってこない。
「無念の思い。痛い、苦しい、助けて、死にたくない、どうして死ななきゃいけないんだ。憎い、悔しい、助けて、助けて。そうした訴えが流れてきます。声にならない声が集まって、臭いにもなって流れてくるんです。少し、気分が悪い」
「苦労をしますね、その体質は」
「往々にして人と違うということは、有益性よりも苦痛が多いものです。受け入れられないだけじゃない。他人では分からない感覚を自分でどうにかしなければいけないんです。これでも締め出しているのですがね」
辺りを見回し、フッと短く息を吐き出したアルブレヒトの瞳は辺りを気にし、疲れた顔を見せた。
しばらくして、ダンが一人の少女を抱えて戻ってきた。体にマントを巻き付けたその子はぐったりと意識がない。
ゼロスとボリスは妙に疲れた顔をしている。そこに僅かな血の臭いがした。
「ダン、その子は?」
「保護した。どうやら泉の側に住み着いていたっぽいな。小屋があって、その中で男共に犯されてた」
「一人で?」
こんな森の中に、まだ十二~三歳の少女が一人で住んでいたのか?
だがその問いかけに、ダンは静かに首を振った。
「近くに新しい墓っぽいのがあったし、小屋の中に生活痕があった。どうやら、母子だろうな」
心配して駆け寄ったクリフに少女を明け渡したダンが、嫌なものを見るような顔をして頭をかく。どうにも、落ち着かない様子だ。
「襲ってたのは盗賊風の男五人、うち三人はゼロスとボリスが斬り倒したが、二人逃げた。これまでの気味の悪い奴等じゃなくて、ゲスだが生きてたな。その子、相当酷い状態だった」
まだ幼い少女に、大の大人がなんて無情な事をするのか。泣き腫らした目元に、殴られたのだろう細い体に痣を残して、血痕や欲望の跡も生々しいままだ。
「あの子、気味が悪い」
「アルブレヒトさん?」
ふと口をついたアルブレヒトは、少女を見て嫌な顔をする。眉根を寄せ、どうにも落ち着かない様子だ。
「心が空っぽです。魂まで抜けたような」
「どういうことですか?」
「……酷く惨い仕打ちを受けた者や、そういう光景を心が壊れるまで見せられた者がたまになります。生きているのに、死んでいる。悲しみや怒り、憎しみ、苦しみ。そんな感情すらも失ってしまった。そんな感じがします」
「読めない」と、アルブレヒトは呟いて少女から離れた。そして絶対に、触れようとはしなかったのである。
その後、ここよりはもう少し進みたいと全員が馬で進んだ。少女はダンが馬に乗せている。
アルブレヒトは「お家に返してきなさい」と、まるで犬猫を拾った子供に母親が言うように言ったのだが、流石にそれはできないと彼以外が判断した。なにせ二人取り残している。戻ってきたら確実にこの少女はまた辱めを受けるだろう。
それに戦争が始まる。あの場所では確実に巻き込まれるだろう。保護するにしても、まずは騎士団に預けなければ。
そうして夕方近くまで進んで野営を組んだ。料理はランバートとコンラッドが、水や薪は二人一組で力の少ない面々が集め、力のある面々が周囲を見回り整えていく。
そのうちに少女は目を覚ましたが、まるで抜け殻のようだった。瞳は何も映していないようだし、声も発しなかった。ぺたんと座ったまま、呆然としている。
これを乱暴を受けた事による心神喪失と取るのか、それともアルブレヒトの感じる異質と取るのか、全員が戸惑った。
それでも食事として温かなスープを渡せば、大人しくそれを食べている。さて、どうしたものかだ。
「アルブレヒトさん」
「わかりませんよ、私には。あの子からは何も感じられない。なのに周囲は酷い臭いと死者の思念が渦巻いているんです。こうなれば、私もただの人と同じ感覚しか持ちません」
そうまで言われてしまうと何とも言いがたい。
このまま連れて行くのがいいのか。それとも。でもやはり、非情な決断はできないままだった。
その夜、二人一組で火の番と警戒をしていたが、ランバートは眠れないままだった。寝付けずに体だけを休めていると、不意に背後からガサガサと音がした。
「誰だ!」
緊張も相まって声を出し、火の番をしているチェルルがすぐに松明をそちらにかざす。
森は真っ暗なまま。だが確かにその闇の中からズズゥ、ガサガサという何かを引きずるような音がしている。
眠っていたはずのキフラスもきて、闇の方へと視線を向ける。やがてゆっくりと、闇の中から這いずる手が見えた。
「ひぃ!」
気の弱いコナンは声を上げて体を引く。明らかにホラーだ。木々の根が隆起するような森の奥から、血色の悪い傷だらけの腕がにょっきり地を這うのだから。
次第に全体が見えてくる。それは、男だった。ボサボサの髪は数日は確実に洗っていないし、血色も悪い。目つきも悪くヒゲもはえて、上半身は裸だろう。
だが間違いなく生きている人間であり、被害者だ。男の背中には刃こぼれのした剣が突き立っていて、血を流していた。
「だ……だずげでぐでぇ」
ダミ声のまま口から血の泡を吐いて男は最後まで手を伸ばす。だがその手は途中で落ちた。持ち上がった頭部、その首の後ろに突如矢が突き立ったからだった。
「敵襲!!」
ランバートの声にすぐに臨戦態勢を取る。アルブレヒト、コナンは中心にいて援護射撃、クリフは後の後方支援の為にアルブレヒトの側にいた。そして保護した少女もその側へと置かれた。
襲撃者は十数人だが、先に襲ってきた屍のような奴とは違う。基本の武器は弓なのだろうが、数人は剣を使ってくる。明らかな殺意があり、言葉はないものの手応えがあった。
「こんな奴等が忍び込んでるのかよ!」
「砦についたら絶対に報告だ!」
連携が取れている。接近戦を得意とする者が切り結んでこちらの動きが止まる。そこにすかさず矢が飛んでくる。
ランバートが前に出ると、側にキフラスがつく。自然と任せられる相手がいるのは心強い。キフラスが敵と切り結ぶと、どこからか矢が飛んでくる。彼はそれをちゃんと分かって避けられる。その分ランバートは射手の方角を見つけてそこにナイフを投げた。
「きゃあぁ!」
ガサガサと音がして人が落ちたのを感じると、そこへと駆けていく。キフラスと切り結んでいた相手が慌てて走ろうとしたが、キフラスはそれを許さず相手に手傷を負わせた。
ランバートが音を頼りに木の根元に行くと、そこには一人の女性が倒れていた。ナイフは見事に女性の肩に刺さっている。弓は落ち、弦が切れていた。だが彼女は生きていて、時折身じろいでいる。
とりあえず縛りあげ、自陣に運ぶ事にした。ロープで足と手を拘束し、口には布を噛ませておく。そうして振り向くと、キフラスも相手を生きたまま拘束していた。
「女?」
驚いたように赤い目を丸くしたキフラスは、悔しそうな男を見る。男女がペアになっている。その意味は、深いように思った。
「自陣に運ぶ。何か、分かるかもしれない」
「分かった」
思えば自陣から離れている。焚き火の光は見えるものの、人の影は見えない。ランバートはキフラスと共に自陣へと向かい走った。
自陣ではアルブレヒトとコナンが主に弓兵を狙って矢を番えている。
「クリフ、治療頼む!」
「ランバート!」
こちらを見て、クリフは慌てて近づいて女性の治療を開始した。男の方も斬られた傷がある。それらを丁寧に洗い、深ければ縫い、薬を塗って包帯をしていく。
「大丈夫そうか?」
「命に関わらないよ」
笑ったクリフに安堵の笑みを浮かべて貌を上げた。その瞬間、ランバートの目は恐怖に揺れた。
「アルブレヒトさん!」
「!」
ふらりと少女が立ち上がり、何も映していない目をアルブレヒトに向ける。その手には細い管のようなものが握られている。それを、口に持っていった。
キフラスが走り、ランバートも走った。だが少女の動きが速い。無心のまま吹いたそこから真っ直ぐに銀色の物が飛ぶ。至近距離だ、外さない。
「駄目!」
アルブレヒトの背後を狙ったのだろう。だがその前にコナンが入り込んで銀色のそれを受けた。腕に刺さった事でそこを抑えたが、あまり痛そうにはしていない。見れば左の腕に羽根のついた針が刺さっていた。
「貴様!」
キフラスが少女の体を地面に引き倒して腕を捻り動きを封じる。その間にランバートは少女の手から筒を取り上げ、コナンを地面に座らせて針を抜いた。
「クリフ、水!」
「こっち!」
傷を水で綺麗に洗う。これがただの針であるはずがない。アルブレヒトの暗殺を狙うなら毒が塗られているはずだ。
「コナン、体の具合は? ほんの小さな痛みとか、違和感でもいい」
「ううん、大丈夫。今の所は何も」
コナンも戸惑いながら答えた。その時少女の口から唸るような悲鳴が発せられた。
「なっ」
抑えていたキフラスもあまりの形相に恐れて体を離し立ち尽くしてしまった。
少女は全身を痙攣させてジタバタと四肢をバラバラに動かしたかと思えば、やがてがくりと力が抜けた。
「口の中に毒を仕込んでいたのでしょうね」
アルブレヒトがぽつりと溢す。そしてコナンの腕を見て、不安そうな顔をした。
「針に毒を塗っていても、量は微量。それでも暗殺となれば、ジワリと広がる可能性があります。ここで対処するには限りがある。できるだけ早く砦に運びましょう」
「せめて毒の種類が分かれば」
ランバートは力尽きた少女の服を探って、その袖口に数本の同種の針を見つけた。だがそこにはこれという特徴はなく、特定には至らない。
「コナン!」
やがてそれぞれ敵を撃退した面々が戻ってきて、コナンを案じた。そしてとりあえず先に進むことを決めたのだった。
見送りの時、エドワードの隣にはエメリナが自然な形で立っている。これといって変化があるわけではないが、とても自然に。
「思いは簡単に風化をしません。ですが、エドワードは踏み出す準備を始めました。この争いが終わる頃には、よい報告が聞けるかもしれませんね」
馬上で見送りの場面を思い出していたアルブレヒトが嬉しそうに笑う。そしてそれに、ランバートもクリフも穏やかに笑って頷いた。
道は緩やかに曲がりくねりながら森の中を行く。しばらくは海も見えていたが、日が高くなるくらいには見回す限りの木々ばかりとなる。徐々に海岸線から離れ、少し内陸に入るのだ。
「馬がバテてきてるな」
馬の首を緩く撫でてやりながら、ダンが口にする。確かに馬は少し疲れたようだ。ぶっつけで四時間は乗っている。激しく走らせてはいなくても重量のあるダンなどを乗せた馬は重さもあって疲弊している。
「少し森を入った所に泉があると思う。馬の休憩をかねて、俺達も昼食にしよう」
昼食の時間にはまだ少し早いが良い機会だ。ここから少し行けば綺麗な泉があり、その畔で休める。馬にも食事と給水ができる場所だ。
ランバートの案内でそちらに馬首を向けて十分少々、目の前の木立の合間から青く光る泉が見えだした。
「見晴らし最高じゃん」
嬉しそうにボリスが口笛を吹き、側でコンラッドが「蛇が出る」とか言っている。その様子を笑いながら、一行は休憩地へと向かった。
泉は涼しい風を運んでくる。馬の鞍を外してやると、後は勝手に草を食み、水を飲む。軍の馬は賢くて、こうして放していても勝手に何処かに行くことはない。そのような訓練がされているし、例え離れても指笛を吹けば駆けてくる。
「賢い子達ですね」
レーティスが穏やかに微笑んで馬にブラシをかけてやっている。気持ち良さそうにする馬の首も撫でながら、彼は笑っていた。
「貴方は本当に穏やかですよね」
「まぁ、本来は争いは苦手です。傷つけ合うのは、見るのも苦しいですから」
それは苦笑になったが、本心なんだろう。やがてブラシを終えた馬もゆっくり離れていった。
「矛盾しているとは、思うのですがね。争いは嫌いなのに、その渦中にいるというのは。ただ故郷を守りたい、信じた主の力になりたい、その思いだけでここまで来ましたから」
「文官の方が似合いだと思うけれど?」
「ふふっ、本当に。まぁ、主が国を取りもどしたらそれも良いなと思っていますよ。田舎の領地で、領民と国の為に平和な時間を。それが、私には似合いだと思います」
その為に今は戦う。そういう決意を見せる瞳を見て、ランバートは一つ頷いた。
そんな穏やかな時間が各所であり、馬も十分に休まった。そろそろと思い馬に装備を乗せていたくらいに、風に乗って少女の悲鳴が微かに聞こえた。
「今の、悲鳴だよな?」
驚いて辺りを見回したのはチェルルだけじゃない。ボリスやゼロス、そしてアルブレヒトも辺りを見回し声の主を探した。
「少し遠い。泉の向こう側かな?」
「少女っぽかったよね?」
「誰か、いるのか?」
言ってはなんだが森の中だ、少女というのはちぐはぐだ。でも、まったく可能性がないとは言えない。国境前線に荷を運ぶ商人などはいるし、近くの森で食べられる木の実を集める事もある。
それにバロッサの少年少女のように森に住んで人前に出られない子がいてもおかしくはない。国境なら、他国から違法に入ってきた不法移民だ。
「とりあえず、見てくる」
「ゼロス、一人で行くなよ。ボリスの他に、腕の立つのがもう一人」
「そんなら、俺がいくかね。最近運動不足だ」
ダンが立ち上がり、ガタイのいい男三人が泉の対岸を目指して素早く移動していく。その背をクリフとコナンが心配そうに見守っていた。
「妙です」
「アルブレヒトさん?」
「この森は戦場に近い。故に影や臭いが流れてきて、私の感覚も狂ってしまうのですが」
「臭い?」
ランバートは鼻をヒクつかせてみるが、新緑の匂いしか分からない。確かに戦場などは酷い臭いがするものだ。主に血の臭いや木の焼ける臭い、腐敗臭というものだ。
だが流石にまだそんなものは臭ってこない。
「無念の思い。痛い、苦しい、助けて、死にたくない、どうして死ななきゃいけないんだ。憎い、悔しい、助けて、助けて。そうした訴えが流れてきます。声にならない声が集まって、臭いにもなって流れてくるんです。少し、気分が悪い」
「苦労をしますね、その体質は」
「往々にして人と違うということは、有益性よりも苦痛が多いものです。受け入れられないだけじゃない。他人では分からない感覚を自分でどうにかしなければいけないんです。これでも締め出しているのですがね」
辺りを見回し、フッと短く息を吐き出したアルブレヒトの瞳は辺りを気にし、疲れた顔を見せた。
しばらくして、ダンが一人の少女を抱えて戻ってきた。体にマントを巻き付けたその子はぐったりと意識がない。
ゼロスとボリスは妙に疲れた顔をしている。そこに僅かな血の臭いがした。
「ダン、その子は?」
「保護した。どうやら泉の側に住み着いていたっぽいな。小屋があって、その中で男共に犯されてた」
「一人で?」
こんな森の中に、まだ十二~三歳の少女が一人で住んでいたのか?
だがその問いかけに、ダンは静かに首を振った。
「近くに新しい墓っぽいのがあったし、小屋の中に生活痕があった。どうやら、母子だろうな」
心配して駆け寄ったクリフに少女を明け渡したダンが、嫌なものを見るような顔をして頭をかく。どうにも、落ち着かない様子だ。
「襲ってたのは盗賊風の男五人、うち三人はゼロスとボリスが斬り倒したが、二人逃げた。これまでの気味の悪い奴等じゃなくて、ゲスだが生きてたな。その子、相当酷い状態だった」
まだ幼い少女に、大の大人がなんて無情な事をするのか。泣き腫らした目元に、殴られたのだろう細い体に痣を残して、血痕や欲望の跡も生々しいままだ。
「あの子、気味が悪い」
「アルブレヒトさん?」
ふと口をついたアルブレヒトは、少女を見て嫌な顔をする。眉根を寄せ、どうにも落ち着かない様子だ。
「心が空っぽです。魂まで抜けたような」
「どういうことですか?」
「……酷く惨い仕打ちを受けた者や、そういう光景を心が壊れるまで見せられた者がたまになります。生きているのに、死んでいる。悲しみや怒り、憎しみ、苦しみ。そんな感情すらも失ってしまった。そんな感じがします」
「読めない」と、アルブレヒトは呟いて少女から離れた。そして絶対に、触れようとはしなかったのである。
その後、ここよりはもう少し進みたいと全員が馬で進んだ。少女はダンが馬に乗せている。
アルブレヒトは「お家に返してきなさい」と、まるで犬猫を拾った子供に母親が言うように言ったのだが、流石にそれはできないと彼以外が判断した。なにせ二人取り残している。戻ってきたら確実にこの少女はまた辱めを受けるだろう。
それに戦争が始まる。あの場所では確実に巻き込まれるだろう。保護するにしても、まずは騎士団に預けなければ。
そうして夕方近くまで進んで野営を組んだ。料理はランバートとコンラッドが、水や薪は二人一組で力の少ない面々が集め、力のある面々が周囲を見回り整えていく。
そのうちに少女は目を覚ましたが、まるで抜け殻のようだった。瞳は何も映していないようだし、声も発しなかった。ぺたんと座ったまま、呆然としている。
これを乱暴を受けた事による心神喪失と取るのか、それともアルブレヒトの感じる異質と取るのか、全員が戸惑った。
それでも食事として温かなスープを渡せば、大人しくそれを食べている。さて、どうしたものかだ。
「アルブレヒトさん」
「わかりませんよ、私には。あの子からは何も感じられない。なのに周囲は酷い臭いと死者の思念が渦巻いているんです。こうなれば、私もただの人と同じ感覚しか持ちません」
そうまで言われてしまうと何とも言いがたい。
このまま連れて行くのがいいのか。それとも。でもやはり、非情な決断はできないままだった。
その夜、二人一組で火の番と警戒をしていたが、ランバートは眠れないままだった。寝付けずに体だけを休めていると、不意に背後からガサガサと音がした。
「誰だ!」
緊張も相まって声を出し、火の番をしているチェルルがすぐに松明をそちらにかざす。
森は真っ暗なまま。だが確かにその闇の中からズズゥ、ガサガサという何かを引きずるような音がしている。
眠っていたはずのキフラスもきて、闇の方へと視線を向ける。やがてゆっくりと、闇の中から這いずる手が見えた。
「ひぃ!」
気の弱いコナンは声を上げて体を引く。明らかにホラーだ。木々の根が隆起するような森の奥から、血色の悪い傷だらけの腕がにょっきり地を這うのだから。
次第に全体が見えてくる。それは、男だった。ボサボサの髪は数日は確実に洗っていないし、血色も悪い。目つきも悪くヒゲもはえて、上半身は裸だろう。
だが間違いなく生きている人間であり、被害者だ。男の背中には刃こぼれのした剣が突き立っていて、血を流していた。
「だ……だずげでぐでぇ」
ダミ声のまま口から血の泡を吐いて男は最後まで手を伸ばす。だがその手は途中で落ちた。持ち上がった頭部、その首の後ろに突如矢が突き立ったからだった。
「敵襲!!」
ランバートの声にすぐに臨戦態勢を取る。アルブレヒト、コナンは中心にいて援護射撃、クリフは後の後方支援の為にアルブレヒトの側にいた。そして保護した少女もその側へと置かれた。
襲撃者は十数人だが、先に襲ってきた屍のような奴とは違う。基本の武器は弓なのだろうが、数人は剣を使ってくる。明らかな殺意があり、言葉はないものの手応えがあった。
「こんな奴等が忍び込んでるのかよ!」
「砦についたら絶対に報告だ!」
連携が取れている。接近戦を得意とする者が切り結んでこちらの動きが止まる。そこにすかさず矢が飛んでくる。
ランバートが前に出ると、側にキフラスがつく。自然と任せられる相手がいるのは心強い。キフラスが敵と切り結ぶと、どこからか矢が飛んでくる。彼はそれをちゃんと分かって避けられる。その分ランバートは射手の方角を見つけてそこにナイフを投げた。
「きゃあぁ!」
ガサガサと音がして人が落ちたのを感じると、そこへと駆けていく。キフラスと切り結んでいた相手が慌てて走ろうとしたが、キフラスはそれを許さず相手に手傷を負わせた。
ランバートが音を頼りに木の根元に行くと、そこには一人の女性が倒れていた。ナイフは見事に女性の肩に刺さっている。弓は落ち、弦が切れていた。だが彼女は生きていて、時折身じろいでいる。
とりあえず縛りあげ、自陣に運ぶ事にした。ロープで足と手を拘束し、口には布を噛ませておく。そうして振り向くと、キフラスも相手を生きたまま拘束していた。
「女?」
驚いたように赤い目を丸くしたキフラスは、悔しそうな男を見る。男女がペアになっている。その意味は、深いように思った。
「自陣に運ぶ。何か、分かるかもしれない」
「分かった」
思えば自陣から離れている。焚き火の光は見えるものの、人の影は見えない。ランバートはキフラスと共に自陣へと向かい走った。
自陣ではアルブレヒトとコナンが主に弓兵を狙って矢を番えている。
「クリフ、治療頼む!」
「ランバート!」
こちらを見て、クリフは慌てて近づいて女性の治療を開始した。男の方も斬られた傷がある。それらを丁寧に洗い、深ければ縫い、薬を塗って包帯をしていく。
「大丈夫そうか?」
「命に関わらないよ」
笑ったクリフに安堵の笑みを浮かべて貌を上げた。その瞬間、ランバートの目は恐怖に揺れた。
「アルブレヒトさん!」
「!」
ふらりと少女が立ち上がり、何も映していない目をアルブレヒトに向ける。その手には細い管のようなものが握られている。それを、口に持っていった。
キフラスが走り、ランバートも走った。だが少女の動きが速い。無心のまま吹いたそこから真っ直ぐに銀色の物が飛ぶ。至近距離だ、外さない。
「駄目!」
アルブレヒトの背後を狙ったのだろう。だがその前にコナンが入り込んで銀色のそれを受けた。腕に刺さった事でそこを抑えたが、あまり痛そうにはしていない。見れば左の腕に羽根のついた針が刺さっていた。
「貴様!」
キフラスが少女の体を地面に引き倒して腕を捻り動きを封じる。その間にランバートは少女の手から筒を取り上げ、コナンを地面に座らせて針を抜いた。
「クリフ、水!」
「こっち!」
傷を水で綺麗に洗う。これがただの針であるはずがない。アルブレヒトの暗殺を狙うなら毒が塗られているはずだ。
「コナン、体の具合は? ほんの小さな痛みとか、違和感でもいい」
「ううん、大丈夫。今の所は何も」
コナンも戸惑いながら答えた。その時少女の口から唸るような悲鳴が発せられた。
「なっ」
抑えていたキフラスもあまりの形相に恐れて体を離し立ち尽くしてしまった。
少女は全身を痙攣させてジタバタと四肢をバラバラに動かしたかと思えば、やがてがくりと力が抜けた。
「口の中に毒を仕込んでいたのでしょうね」
アルブレヒトがぽつりと溢す。そしてコナンの腕を見て、不安そうな顔をした。
「針に毒を塗っていても、量は微量。それでも暗殺となれば、ジワリと広がる可能性があります。ここで対処するには限りがある。できるだけ早く砦に運びましょう」
「せめて毒の種類が分かれば」
ランバートは力尽きた少女の服を探って、その袖口に数本の同種の針を見つけた。だがそこにはこれという特徴はなく、特定には至らない。
「コナン!」
やがてそれぞれ敵を撃退した面々が戻ってきて、コナンを案じた。そしてとりあえず先に進むことを決めたのだった。
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