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番外編:オリヴァーシリーズ
5話:オリヴァーの憂い
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アレックスからのお誘いがあったのは、ファウストとランバートが花見から帰ってきた二日後の平日夜。直ぐに応じて翌日外で食事という運びになった。
仕事を定時に終えて湯をもらい、薄青いジャケットに着替えた。仕事着が黒のため私服は薄い色合いが多い。ドレスコードを整えて一階へと向かうと、第二師団が修練を終えて上がるところだった。
「あっ、オリヴァーお出かけ?」
明るい薄茶色の髪を揺らし、愛らしい同色の瞳をクリクリとさせた同僚の姿に、オリヴァーは魅了と言われる微笑を浮かべた。
「ウェイン、お疲れ様です。今あがりですか?」
「うん、そうだよ。お食事?」
「えぇ」
実に人懐っこい様子で近づいてこられると、オリヴァーも警戒心が解けてしまう。まるで幼子と接しているような感覚になってしまうのだ。
「お疲れ様です、オリヴァー様」
「ランバート、お疲れ様です」
ウェインの後ろから現れたランバートに、オリヴァーは笑みを浮かべる。
オリヴァーにとってランバートは、ちょっと面白く、同時に見守っていたい部下だ。不器用で、少し可哀想。でもそれを自分では自覚できていない。そして、育ち始めているだろう幼い愛情を見守りたい相手だ。
「お食事、楽しんできてください」
「有り難う。では、また明日」
ヒラヒラと手を振って、オリヴァーは宿舎をあとにした。
◆◇◆
ラセーニョ通りの待ち合わせ。そこに彼はいた。黒のジャケットにドレスシャツの彼は最初の夜に見たものに似ている。前回は少しカジュアルな様子もあったが、やはり彼にはフォーマルが似合う。気が引き締まる。
「こんばんは」
声をかければ、濃紺の瞳がこちらを見る。ガス灯の柔らかな明かりに照らされ、穏やかに眇められた瞳を見て、オリヴァーはにっこりと笑った。
「こんばんは、オリヴァー殿。受けてくれて嬉しく思う」
手を取ってその甲に口づける彼に、オリヴァーは穏やかに微笑んだ。
「疲れてはいないか?」
「平気ですよ。楽しみに一日を過ごせました」
「そう言ってもらえると嬉しい。誘ってよかった」
嫌みなく微笑まれる表情は、大人の男の色香がある。やはりアレックスは色気のある男だ。
「さて、行こうか」
手を引かれ、隣に並ぶ。夜のラセーニョ通りは紳士淑女が寄り合って歩いている。その中を同じ様子で男が二人で歩くのだ。当然視線は感じる。
「お嫌ではありませんか?」
「何が?」
「視線が」
問えば、初めて気づいたと言わんばかりにアレックスが周囲を見る。だがこれと言って気にした様子もなく、実に簡単に笑った。
「貴方が美しいからだろう」
「おや、おべっかですか?」
「まさか。本心だ。気にならないよ。あまり周囲の目など気にして生きてはいないから、今更だ」
そう、何でもない事のように言われる。それに少し驚いて、同時に微笑む。オリヴァーがどれだけ女性的な美があっても男だ。女装をすれば分からないが。
そもそもこんな風に町を歩く事が珍しい。誰かと一緒に食事なんて、経験が少ない。
「オリヴァー殿は気になるか?」
「そうですね」
「嫌か?」
問われ、笑う。嫌なのは彼が変に見られる事であって、自分の事ではない。
「平気です。貴方が嫌な思いをしていないのでしたら、私は何も気にはなりません」
「そうか」
穏やかに見守るような濃紺の瞳が、柔らかく微笑んでいた。
連れてきてもらったのは小さなレストランだった。雰囲気のいい温かな明かりの店内には、カップルばかりが座っている。奥まったテーブルに案内されて腰を下ろし、ワインとコースを選んで向かい合った。
「先日はすまなかった。その後もと思っていたのに」
「構いません。ご用事、間に合いましたか?」
問えば実に歯切れの悪い表情をされる。何か言いたくない事なのだろうと察し、オリヴァーは問うことを止めた。あまり踏み込めば良いことはない。長い経験がそう告げている。丁度良い頃合いで食前酒が出され、二人は乾杯をした。
「問わないんだな」
ぽつりと、少し寂しげにアレックスが言う。それを見て、オリヴァーは曖昧に笑った。
「問うていい事なのか、私には判断が難しく思えましたので。お家の事をあれこれと詮索されるのは、嫌な部分もございましょう?」
「確かに、そうかもしれない。だが、聞いてくれないのもどこか寂しく思える」
案外近い距離にいる。そうも感じる言葉に胸の奥が軋む。どこかでストッパーがかかりそうな予感に、切ない思いが混ざり合ってくる。
「実は少し厄介な事があって、誰かに愚痴を言いたかったんだ。気分もいまいち晴れなくて、どうしても顔が見たかった」
「厄介事ですか?」
問えば頷く。運ばれる料理を食べながら、オリヴァーはアレックスを観察する。偽らない彼の眉根が困ったように寄っている。だが、不愉快とまでは言えないのだろう。そこに暗い感情までは見えていない。
「実は、見合いの話が持ち上がってしまった」
「見合い!」
思わず驚いて、少し大きな声が出てしまった。恥じ入るように口に手を当て、小さく「申し訳ありません」と謝罪をする。驚いたアレックスは、それでも嬉しそうに笑った。
「驚かせたか」
「すみません」
「いや、素直に嬉しい。驚いてくれないんじゃないかと思っていた」
自分でも驚いている。オリヴァーは自分の身に突如起こった感情の波に驚いた。それを表に出してしまうなんて、らしくなかった。
「そうだな……少し俺の話を聞いてくれるか?」
肩の力が抜けたように語る人を、オリヴァーは心の安まらない気持ちで見上げ、頷いた。
「前にも話した通り、俺は地方貴族の出だ。爵位などあってないようなものだから、無視して王都で実業家のような事をしている。幸い多少の元手はあったから、今もそれなりにやれている」
そこまでは前も聞いた。最初の夜に話してくれたことだ。
「両親は健在。妹もいる」
「この間お会いした?」
「あぁ、そうだ。サフィールという」
兄妹だと誰もが疑わない容姿だった。髪の色や瞳の色が同じだし、身のうちより漂う雰囲気もまた、どこか似通っていた。
「俺は思春期の頃には自分の性癖を理解していた。だから王都に出ると決めた時に、両親にはそのことをカミングアウトして、嫁は諦めてもらった。だから、多少疎遠になっている」
「そのような事をなさったのですか?」
さぞや親御さんは嘆いただろう。これほど立派に育った息子に、突然「男が好きだ」と言われたら。
「幸い賢く利発な妹がいて、その妹にもよい婚約者がいる。優しく大らかな男で、俺も太鼓判を押している。家は妹が婚約者と共に継いでいくと言ってくれたし、両親もそれで納得している。家庭の中は比較的収まっているんだ」
「ではなぜ、お見合いなどという話が出たのですか?」
両親は彼の性癖を知っていて、妹は素敵な婚約者と幸せに家を継ぐ。ならば彼がどのように生きようとも構わないはずなのに。
苦笑したアレックスは、困り顔で頷いた。
「俺には三つ上の従姉妹がいる。昔から俺を弟のように可愛がってくれた、面倒見のよいお節介な従姉妹だ。その女性は現在王都の男爵家に嫁いでいる。俺が王都に来るとあれこれと世話を焼きたがるんだ」
「そういうことですか」
では、その人が進めているのか。彼の性癖を理解できずに。
ふと、怒りのようなものがこみ上げてくる。顔も知らない相手を憎らしく思う、そんな感情が芽生えて沈んだ。持ってはいけない感情であり、持つ資格のない感情だ。オリヴァーは彼の恋人ではない。友というのも少し違う。知り合いという方がしっくりとくる間柄だ。そんな人間が彼の縁者に、知りもしないで負の感情を抱くのは間違いだ。
「何度も言っているのだが、どうしても理解してもらえない。女性の良さを分からないからだと、もう何度も見合いの席をセッティングされて、その度に断りを入れている。今回も断ったのだが、相手は男爵家のご令嬢で綺麗な方で優しいのだと、熱心に口説かれて。今回だけだと、受けたんだ」
「そうですか」
他に言葉がない。何を言えばいい。「良かった」なんて言いたくはないし、だからと言って「断ってください」は言えない。
どうにも感情がモヤモヤとしている。こういうのは初めてかもしれない。煮え切らないような、気持ちの悪いものだ。
「オリヴァー殿」
「はい」
「俺と、付き合ってくれないか」
食べかけた料理を落としてしまいそうな衝撃だった。バカみたいに口を開けたまま呆けてしまう。その様子に、アレックスは愉快そうに笑った。
「あの……なんて?」
「正式にお付き合いを申し出た。それとも、まだ早いだろうか」
「いえ、そのような事はないのですが」
気持ちの揺れが大きくなっていく。オリヴァーは凝視したまま、アレックスを伺った。
嫌いじゃない。むしろ好印象だ。飾らず、偽らず。彼の心はいつもオリヴァーにオープンだ。そういう相手は初めてで、戸惑うと同時に好ましい。
だが同時に、後ろめたい。何も隠さない彼に対して、オリヴァーは隠してばかりだ。心も、過去も。
「……すまない、悩ませたみたいだ。少し、はやった」
「え?」
「すまない、オリヴァー殿。俺が不安なんだ。突然降ってわいたお見合いの話に、自分の立ち位置が揺らいだ。貴方との関係をどこに置けばいいのか分からず、先走ってしまった」
少し赤い顔、背けられた視線。らしくない彼の様子に、なぜか嫌な感じがする。彼に向ける感情ではなく、自分に向かう感情だ。拒んでしまった。
「ゆっくり育んで行きたいと思ったのに、悪かった。忘れてくれ」
「あの……いいえ」
「お見合いは断るつもりだ。家がなんと言おうと、従姉妹が何を言おうと俺は自分を偽って生きて行く事はできない。だから、気にしなくてもいい」
「はい」
引っかかりは胸を締め付ける。これでいいのだろうかと、思う心はなおも不安を煽る。オリヴァーもまた素直ではない。選ぶ事が苦手で、つかみ取る事が苦手だ。
「すまない、せっかくの食事にこのような話をして」
「いえ、構いません」
デザートが来て、一緒に食べる。美味しいはずの物はこの日、味がぼけて分からなかった。
帰り道、待ち合わせの場所で分かれる。人の少なくなった場所で手の甲に口づけられて「おやすみ」を言う。その手が離れるよりも前に、オリヴァーは逃げの言葉を口にした。
「もしも」
「?」
「もしも本当に良いお相手なら、もしも家の関係が崩れてしまうようなら、お受けください。私の事など捨て置いて構いません」
「オリヴァー殿!」
驚いたように、そして責めるように見つめる濃紺の瞳。それを見返し、オリヴァーは艶やかに笑った。
「私は貴方の恋人ではありませんよ。そのくらいの者と未来とを天秤に掛けてはなりません。それに、貴方が誰かのものとなっても遊ぶ事はできましょう。こうしてたまに、食事をいたしましょう。私はそれで構わないのです」
「……本気で言っているのか?」
「勿論です」
怒っているのは分かった。嫌われたのもどこかで悟った。でも、安心した自分がいる。不相応な幸せを手にしかけて恐れたから、溢れて安堵したのかもしれない。
強く手を握られる。それよりも前に抜け出して背を向けた。胸が痛いのは一時だけ。そう、数日もすれば消えてなくなる痛みなのだ。
仕事を定時に終えて湯をもらい、薄青いジャケットに着替えた。仕事着が黒のため私服は薄い色合いが多い。ドレスコードを整えて一階へと向かうと、第二師団が修練を終えて上がるところだった。
「あっ、オリヴァーお出かけ?」
明るい薄茶色の髪を揺らし、愛らしい同色の瞳をクリクリとさせた同僚の姿に、オリヴァーは魅了と言われる微笑を浮かべた。
「ウェイン、お疲れ様です。今あがりですか?」
「うん、そうだよ。お食事?」
「えぇ」
実に人懐っこい様子で近づいてこられると、オリヴァーも警戒心が解けてしまう。まるで幼子と接しているような感覚になってしまうのだ。
「お疲れ様です、オリヴァー様」
「ランバート、お疲れ様です」
ウェインの後ろから現れたランバートに、オリヴァーは笑みを浮かべる。
オリヴァーにとってランバートは、ちょっと面白く、同時に見守っていたい部下だ。不器用で、少し可哀想。でもそれを自分では自覚できていない。そして、育ち始めているだろう幼い愛情を見守りたい相手だ。
「お食事、楽しんできてください」
「有り難う。では、また明日」
ヒラヒラと手を振って、オリヴァーは宿舎をあとにした。
◆◇◆
ラセーニョ通りの待ち合わせ。そこに彼はいた。黒のジャケットにドレスシャツの彼は最初の夜に見たものに似ている。前回は少しカジュアルな様子もあったが、やはり彼にはフォーマルが似合う。気が引き締まる。
「こんばんは」
声をかければ、濃紺の瞳がこちらを見る。ガス灯の柔らかな明かりに照らされ、穏やかに眇められた瞳を見て、オリヴァーはにっこりと笑った。
「こんばんは、オリヴァー殿。受けてくれて嬉しく思う」
手を取ってその甲に口づける彼に、オリヴァーは穏やかに微笑んだ。
「疲れてはいないか?」
「平気ですよ。楽しみに一日を過ごせました」
「そう言ってもらえると嬉しい。誘ってよかった」
嫌みなく微笑まれる表情は、大人の男の色香がある。やはりアレックスは色気のある男だ。
「さて、行こうか」
手を引かれ、隣に並ぶ。夜のラセーニョ通りは紳士淑女が寄り合って歩いている。その中を同じ様子で男が二人で歩くのだ。当然視線は感じる。
「お嫌ではありませんか?」
「何が?」
「視線が」
問えば、初めて気づいたと言わんばかりにアレックスが周囲を見る。だがこれと言って気にした様子もなく、実に簡単に笑った。
「貴方が美しいからだろう」
「おや、おべっかですか?」
「まさか。本心だ。気にならないよ。あまり周囲の目など気にして生きてはいないから、今更だ」
そう、何でもない事のように言われる。それに少し驚いて、同時に微笑む。オリヴァーがどれだけ女性的な美があっても男だ。女装をすれば分からないが。
そもそもこんな風に町を歩く事が珍しい。誰かと一緒に食事なんて、経験が少ない。
「オリヴァー殿は気になるか?」
「そうですね」
「嫌か?」
問われ、笑う。嫌なのは彼が変に見られる事であって、自分の事ではない。
「平気です。貴方が嫌な思いをしていないのでしたら、私は何も気にはなりません」
「そうか」
穏やかに見守るような濃紺の瞳が、柔らかく微笑んでいた。
連れてきてもらったのは小さなレストランだった。雰囲気のいい温かな明かりの店内には、カップルばかりが座っている。奥まったテーブルに案内されて腰を下ろし、ワインとコースを選んで向かい合った。
「先日はすまなかった。その後もと思っていたのに」
「構いません。ご用事、間に合いましたか?」
問えば実に歯切れの悪い表情をされる。何か言いたくない事なのだろうと察し、オリヴァーは問うことを止めた。あまり踏み込めば良いことはない。長い経験がそう告げている。丁度良い頃合いで食前酒が出され、二人は乾杯をした。
「問わないんだな」
ぽつりと、少し寂しげにアレックスが言う。それを見て、オリヴァーは曖昧に笑った。
「問うていい事なのか、私には判断が難しく思えましたので。お家の事をあれこれと詮索されるのは、嫌な部分もございましょう?」
「確かに、そうかもしれない。だが、聞いてくれないのもどこか寂しく思える」
案外近い距離にいる。そうも感じる言葉に胸の奥が軋む。どこかでストッパーがかかりそうな予感に、切ない思いが混ざり合ってくる。
「実は少し厄介な事があって、誰かに愚痴を言いたかったんだ。気分もいまいち晴れなくて、どうしても顔が見たかった」
「厄介事ですか?」
問えば頷く。運ばれる料理を食べながら、オリヴァーはアレックスを観察する。偽らない彼の眉根が困ったように寄っている。だが、不愉快とまでは言えないのだろう。そこに暗い感情までは見えていない。
「実は、見合いの話が持ち上がってしまった」
「見合い!」
思わず驚いて、少し大きな声が出てしまった。恥じ入るように口に手を当て、小さく「申し訳ありません」と謝罪をする。驚いたアレックスは、それでも嬉しそうに笑った。
「驚かせたか」
「すみません」
「いや、素直に嬉しい。驚いてくれないんじゃないかと思っていた」
自分でも驚いている。オリヴァーは自分の身に突如起こった感情の波に驚いた。それを表に出してしまうなんて、らしくなかった。
「そうだな……少し俺の話を聞いてくれるか?」
肩の力が抜けたように語る人を、オリヴァーは心の安まらない気持ちで見上げ、頷いた。
「前にも話した通り、俺は地方貴族の出だ。爵位などあってないようなものだから、無視して王都で実業家のような事をしている。幸い多少の元手はあったから、今もそれなりにやれている」
そこまでは前も聞いた。最初の夜に話してくれたことだ。
「両親は健在。妹もいる」
「この間お会いした?」
「あぁ、そうだ。サフィールという」
兄妹だと誰もが疑わない容姿だった。髪の色や瞳の色が同じだし、身のうちより漂う雰囲気もまた、どこか似通っていた。
「俺は思春期の頃には自分の性癖を理解していた。だから王都に出ると決めた時に、両親にはそのことをカミングアウトして、嫁は諦めてもらった。だから、多少疎遠になっている」
「そのような事をなさったのですか?」
さぞや親御さんは嘆いただろう。これほど立派に育った息子に、突然「男が好きだ」と言われたら。
「幸い賢く利発な妹がいて、その妹にもよい婚約者がいる。優しく大らかな男で、俺も太鼓判を押している。家は妹が婚約者と共に継いでいくと言ってくれたし、両親もそれで納得している。家庭の中は比較的収まっているんだ」
「ではなぜ、お見合いなどという話が出たのですか?」
両親は彼の性癖を知っていて、妹は素敵な婚約者と幸せに家を継ぐ。ならば彼がどのように生きようとも構わないはずなのに。
苦笑したアレックスは、困り顔で頷いた。
「俺には三つ上の従姉妹がいる。昔から俺を弟のように可愛がってくれた、面倒見のよいお節介な従姉妹だ。その女性は現在王都の男爵家に嫁いでいる。俺が王都に来るとあれこれと世話を焼きたがるんだ」
「そういうことですか」
では、その人が進めているのか。彼の性癖を理解できずに。
ふと、怒りのようなものがこみ上げてくる。顔も知らない相手を憎らしく思う、そんな感情が芽生えて沈んだ。持ってはいけない感情であり、持つ資格のない感情だ。オリヴァーは彼の恋人ではない。友というのも少し違う。知り合いという方がしっくりとくる間柄だ。そんな人間が彼の縁者に、知りもしないで負の感情を抱くのは間違いだ。
「何度も言っているのだが、どうしても理解してもらえない。女性の良さを分からないからだと、もう何度も見合いの席をセッティングされて、その度に断りを入れている。今回も断ったのだが、相手は男爵家のご令嬢で綺麗な方で優しいのだと、熱心に口説かれて。今回だけだと、受けたんだ」
「そうですか」
他に言葉がない。何を言えばいい。「良かった」なんて言いたくはないし、だからと言って「断ってください」は言えない。
どうにも感情がモヤモヤとしている。こういうのは初めてかもしれない。煮え切らないような、気持ちの悪いものだ。
「オリヴァー殿」
「はい」
「俺と、付き合ってくれないか」
食べかけた料理を落としてしまいそうな衝撃だった。バカみたいに口を開けたまま呆けてしまう。その様子に、アレックスは愉快そうに笑った。
「あの……なんて?」
「正式にお付き合いを申し出た。それとも、まだ早いだろうか」
「いえ、そのような事はないのですが」
気持ちの揺れが大きくなっていく。オリヴァーは凝視したまま、アレックスを伺った。
嫌いじゃない。むしろ好印象だ。飾らず、偽らず。彼の心はいつもオリヴァーにオープンだ。そういう相手は初めてで、戸惑うと同時に好ましい。
だが同時に、後ろめたい。何も隠さない彼に対して、オリヴァーは隠してばかりだ。心も、過去も。
「……すまない、悩ませたみたいだ。少し、はやった」
「え?」
「すまない、オリヴァー殿。俺が不安なんだ。突然降ってわいたお見合いの話に、自分の立ち位置が揺らいだ。貴方との関係をどこに置けばいいのか分からず、先走ってしまった」
少し赤い顔、背けられた視線。らしくない彼の様子に、なぜか嫌な感じがする。彼に向ける感情ではなく、自分に向かう感情だ。拒んでしまった。
「ゆっくり育んで行きたいと思ったのに、悪かった。忘れてくれ」
「あの……いいえ」
「お見合いは断るつもりだ。家がなんと言おうと、従姉妹が何を言おうと俺は自分を偽って生きて行く事はできない。だから、気にしなくてもいい」
「はい」
引っかかりは胸を締め付ける。これでいいのだろうかと、思う心はなおも不安を煽る。オリヴァーもまた素直ではない。選ぶ事が苦手で、つかみ取る事が苦手だ。
「すまない、せっかくの食事にこのような話をして」
「いえ、構いません」
デザートが来て、一緒に食べる。美味しいはずの物はこの日、味がぼけて分からなかった。
帰り道、待ち合わせの場所で分かれる。人の少なくなった場所で手の甲に口づけられて「おやすみ」を言う。その手が離れるよりも前に、オリヴァーは逃げの言葉を口にした。
「もしも」
「?」
「もしも本当に良いお相手なら、もしも家の関係が崩れてしまうようなら、お受けください。私の事など捨て置いて構いません」
「オリヴァー殿!」
驚いたように、そして責めるように見つめる濃紺の瞳。それを見返し、オリヴァーは艶やかに笑った。
「私は貴方の恋人ではありませんよ。そのくらいの者と未来とを天秤に掛けてはなりません。それに、貴方が誰かのものとなっても遊ぶ事はできましょう。こうしてたまに、食事をいたしましょう。私はそれで構わないのです」
「……本気で言っているのか?」
「勿論です」
怒っているのは分かった。嫌われたのもどこかで悟った。でも、安心した自分がいる。不相応な幸せを手にしかけて恐れたから、溢れて安堵したのかもしれない。
強く手を握られる。それよりも前に抜け出して背を向けた。胸が痛いのは一時だけ。そう、数日もすれば消えてなくなる痛みなのだ。
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