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第9話 最低限のモラル
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人にやられて嫌なことはしない、それは人として最低限のモラルだ。しかし人は人にしてもらいたいと思うことを実行する習性も持ち合わせる。
17歳になった次の日から兄を見かけても声をかけなくなった。兄がそうしてほしいと俺を無視するのでそれに従ったが、それでは自分の心がもたない。だから俺は兄を避けて生活するようになった。朝は朝食より前に家を出て、夜はなるべく遅く帰り夕食を共にしない。極力友人の家に泊まるように心がけ、それがかなわないときには図書館や公園でぼんやりやり過ごした。
兄に会わないということは母に会わないということでもあったが、心配をかけないように母にはこまめに連絡した。兄との関係のもつれで母を煩わせるわけにはいかなかったからだ。
母との事務的な連絡のやり取りで、兄が就職を機に家を出るということを知る。普段は兄に無関心を装ってメッセージのやり取りをしていたが、この時ばかりは返信をできなかった。兄が家を出る理由は十中八九、俺が原因だったがそれをどうにかできる手立てを持ち合わせていない。だからせめて兄が家を出るまでの1年間、俺が奪ってしまった母と兄の生活になるべく干渉しないように生きることしか償う方法がなかった。
まるで家出少年のような生活だった。家に近寄らないように泊まり歩き、家に人がいない時を見計らって着替えを取りに行く。母には青春を謳歌しているようにみせながら、実情は全く異なっていた。手持ちのお金がないためいつもお腹を空かせていたのだ。周りが受験一色に染まる中、俺はバイトを始めようかと1人違う景色を見ていた。
人生でこんなに春休みを長く感じたことはない。
今日は夕方から友達の家に泊めてもらう算段だったが、図書館が休館日だったため仕方なしに公園でぼんやりしていた。いつもはこどもがいっぱい遊んでいるのに今日はやけに少ない。その理由を突然降り出した豪雨で知ることとなる。雨宿りできる店を探して走ったが、店につく頃には入店を躊躇うほど濡れてしまっていた。このまま友達の家に行くこともできず、家に誰もいないことを願って帰路についた。
玄関のドアをそっと引く。鍵がかかっていることに歓喜してなんの考えもなしに家に飛び込んだ。その開放感と眼前の光景との温度差に声にならない声を出してしまう。兄が玄関先に立っていたのだ。
兄も雨に打たれたのかバスタオルで髪の毛を拭いていた。バスタオルの隙間から兄の美しい目が覗く。その視線は回避することはできたが、このまま兄の横を通り家に入るわけにもいかず、踵を返し玄関ドアを押した。次の瞬間、目の前が真っ白になる。
「お風呂、沸いてるよ」
視界を白く染めて、顔を暖かく包むそれが、兄がかけてくれたバスタオルだと知る。呼吸が急に乱れて、いてもたってもいられなくなり、かけてもらったバスタオルを引き抜いて靴棚の上に置いた。
「あ、ありがとう」
そう言って再び玄関ドアに手をかけた時、腕を引っ張られた。予想だにしない兄の行動に虚を突かれ、なされるがまま引き寄せられる。玄関に上がっている兄に引っ張られた俺はそのまま胸に飛び込んだ。
懐かしい兄の胸の匂いが顔全体を包み、その暖かさに気がどうにかなりそうだった。理性とか恋慕とか、そんなものがどうでもいいくらいに懐かしくて、暴れだす感情から思ってもみない言葉が飛び出す。
「お兄ちゃん……」
もう取り返しのつかないことは沢山してきたのに、この期に及んで自分の理解すら超えたことを言う。その自分の言葉に驚愕し身動きがとれずにいると兄は俺の頭をすっぽり腕で包んで、優しく抱きしめる。その狂おしいまでの懐かしい匂いが俺をさらに呼吸困難にさせた。もっと嗅ぎたいのに呼吸がままならない。兄はそれを宥めるように背中を撫でる。
兄に抱きつきたい衝動を必死に堪えて拳を握り、その力で腕を震わせていたら兄は腕をそっと撫でた。
「灯……一緒にお風呂入るよ……」
久しぶりに聞いた優しい兄の声に、意味を理解することも、息を吸うこともできず、俺は胸に顔を埋めるように何度も頷くことしかできなかった。
17歳になった次の日から兄を見かけても声をかけなくなった。兄がそうしてほしいと俺を無視するのでそれに従ったが、それでは自分の心がもたない。だから俺は兄を避けて生活するようになった。朝は朝食より前に家を出て、夜はなるべく遅く帰り夕食を共にしない。極力友人の家に泊まるように心がけ、それがかなわないときには図書館や公園でぼんやりやり過ごした。
兄に会わないということは母に会わないということでもあったが、心配をかけないように母にはこまめに連絡した。兄との関係のもつれで母を煩わせるわけにはいかなかったからだ。
母との事務的な連絡のやり取りで、兄が就職を機に家を出るということを知る。普段は兄に無関心を装ってメッセージのやり取りをしていたが、この時ばかりは返信をできなかった。兄が家を出る理由は十中八九、俺が原因だったがそれをどうにかできる手立てを持ち合わせていない。だからせめて兄が家を出るまでの1年間、俺が奪ってしまった母と兄の生活になるべく干渉しないように生きることしか償う方法がなかった。
まるで家出少年のような生活だった。家に近寄らないように泊まり歩き、家に人がいない時を見計らって着替えを取りに行く。母には青春を謳歌しているようにみせながら、実情は全く異なっていた。手持ちのお金がないためいつもお腹を空かせていたのだ。周りが受験一色に染まる中、俺はバイトを始めようかと1人違う景色を見ていた。
人生でこんなに春休みを長く感じたことはない。
今日は夕方から友達の家に泊めてもらう算段だったが、図書館が休館日だったため仕方なしに公園でぼんやりしていた。いつもはこどもがいっぱい遊んでいるのに今日はやけに少ない。その理由を突然降り出した豪雨で知ることとなる。雨宿りできる店を探して走ったが、店につく頃には入店を躊躇うほど濡れてしまっていた。このまま友達の家に行くこともできず、家に誰もいないことを願って帰路についた。
玄関のドアをそっと引く。鍵がかかっていることに歓喜してなんの考えもなしに家に飛び込んだ。その開放感と眼前の光景との温度差に声にならない声を出してしまう。兄が玄関先に立っていたのだ。
兄も雨に打たれたのかバスタオルで髪の毛を拭いていた。バスタオルの隙間から兄の美しい目が覗く。その視線は回避することはできたが、このまま兄の横を通り家に入るわけにもいかず、踵を返し玄関ドアを押した。次の瞬間、目の前が真っ白になる。
「お風呂、沸いてるよ」
視界を白く染めて、顔を暖かく包むそれが、兄がかけてくれたバスタオルだと知る。呼吸が急に乱れて、いてもたってもいられなくなり、かけてもらったバスタオルを引き抜いて靴棚の上に置いた。
「あ、ありがとう」
そう言って再び玄関ドアに手をかけた時、腕を引っ張られた。予想だにしない兄の行動に虚を突かれ、なされるがまま引き寄せられる。玄関に上がっている兄に引っ張られた俺はそのまま胸に飛び込んだ。
懐かしい兄の胸の匂いが顔全体を包み、その暖かさに気がどうにかなりそうだった。理性とか恋慕とか、そんなものがどうでもいいくらいに懐かしくて、暴れだす感情から思ってもみない言葉が飛び出す。
「お兄ちゃん……」
もう取り返しのつかないことは沢山してきたのに、この期に及んで自分の理解すら超えたことを言う。その自分の言葉に驚愕し身動きがとれずにいると兄は俺の頭をすっぽり腕で包んで、優しく抱きしめる。その狂おしいまでの懐かしい匂いが俺をさらに呼吸困難にさせた。もっと嗅ぎたいのに呼吸がままならない。兄はそれを宥めるように背中を撫でる。
兄に抱きつきたい衝動を必死に堪えて拳を握り、その力で腕を震わせていたら兄は腕をそっと撫でた。
「灯……一緒にお風呂入るよ……」
久しぶりに聞いた優しい兄の声に、意味を理解することも、息を吸うこともできず、俺は胸に顔を埋めるように何度も頷くことしかできなかった。
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