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その日から、二人は急速に近づいた。エミリオが控えめながら、わずかな一歩でその距離を縮めたのだった。
「おはようございます、ギルバート様」
「ん」
今まですれ違う度にエミリオが見ていたのは地に落ちたギルバートの影だった。それが遠慮がちにではあるが、その美しい頬あたりへ目線を据えて挨拶するようになった。ギルバートも短くだが返答を返す。
まず変わったのは、共に机を囲む図書室の空気だった。
それまでは互いの論理の穴を探すために向けられていた視線が、今は一つの頁を共有するために注がれている。難解な古典を読み解く最中、エミリオがふと、羊飼いの知恵に聖書の詩句を交えて「神の慈悲」を語る。ギルバートはそれを「非合理的だ」と切り捨てる代わりに、ペンを置き、エミリオの言葉が紡ぐ景色を頭の中に描くようになった。
「……お前の言う通りなら、この一節は軍事的な統治ではなく、民の安らぎとして解釈すべきか」
ギルバートが零す独り言のような言葉に、エミリオは「左様でございます」と花がほころぶように笑う。その笑顔を見るたび、ギルバートの胸の奥にある、王子という名の堅い結び目が一つずつ解けていく。
食堂での風景も一変した。
華美な円卓の中央で取り巻きに取り囲まれ食事を摂っていたギルバートは、今やエミリオと同じ、窓際の質素な席を好むようになった。 エミリオが食酢平民向けの麦とじゃがいものスープを、ギルバートは「田舎臭い味だ」と毒づきながらも、差し出されれば当然のように口にする。噛み締めるたびに広がる土の甘みは、宮廷のどんな贅を尽くした菓子よりも、ギルバートの乾いた心を潤した。
放課後の時間は、二人の「聖域」となった。 ある日はギルバートの広大な私室で。またある日は、学生寮の端にあるエミリオの質素な小部屋で。 部屋を行き来する際、ギルバートはエミリオの歩幅が自分よりわずかに短いことに気づき、無意識に足を緩めた。エミリオはその優しさに気づかないふりをして、隣を歩くギルバートの衣の擦れる音を、この世で最も美しい音楽のように聴いていた。
エミリオの部屋は狭く、古びた羊皮紙と野草の香りが満ちている。 そこで共に課題をこなし、疲れるとエミリオが故郷の民謡や聖歌を口ずさむ。ギルバートはその歌を聴きながら、王としての義務でも王子としての虚栄でもない、ただの「ギルバート」という一人の人間として呼吸することを許されていく。
「エミリオ。……明日の朝も、あの場所で待っていろ」
別れ際、ギルバートが掛ける言葉は、相変わらず命令のような響きを帯びている。 けれど、その声には以前のような棘はなく、代わりにエミリオの手を握りしめた時の、あの切実な熱が宿っていた。エミリオは深く頭を垂れ、立ち去る王子の背中に向かって、心のなかで何度も繰り返す。
(お慕いしております。好みをすべて捧げても良いほどに……)
影を踏んでいた日々は遠く。今、二人の歩む足跡は、夕暮れの回廊に一つに重なり合っていた。
「おはようございます、ギルバート様」
「ん」
今まですれ違う度にエミリオが見ていたのは地に落ちたギルバートの影だった。それが遠慮がちにではあるが、その美しい頬あたりへ目線を据えて挨拶するようになった。ギルバートも短くだが返答を返す。
まず変わったのは、共に机を囲む図書室の空気だった。
それまでは互いの論理の穴を探すために向けられていた視線が、今は一つの頁を共有するために注がれている。難解な古典を読み解く最中、エミリオがふと、羊飼いの知恵に聖書の詩句を交えて「神の慈悲」を語る。ギルバートはそれを「非合理的だ」と切り捨てる代わりに、ペンを置き、エミリオの言葉が紡ぐ景色を頭の中に描くようになった。
「……お前の言う通りなら、この一節は軍事的な統治ではなく、民の安らぎとして解釈すべきか」
ギルバートが零す独り言のような言葉に、エミリオは「左様でございます」と花がほころぶように笑う。その笑顔を見るたび、ギルバートの胸の奥にある、王子という名の堅い結び目が一つずつ解けていく。
食堂での風景も一変した。
華美な円卓の中央で取り巻きに取り囲まれ食事を摂っていたギルバートは、今やエミリオと同じ、窓際の質素な席を好むようになった。 エミリオが食酢平民向けの麦とじゃがいものスープを、ギルバートは「田舎臭い味だ」と毒づきながらも、差し出されれば当然のように口にする。噛み締めるたびに広がる土の甘みは、宮廷のどんな贅を尽くした菓子よりも、ギルバートの乾いた心を潤した。
放課後の時間は、二人の「聖域」となった。 ある日はギルバートの広大な私室で。またある日は、学生寮の端にあるエミリオの質素な小部屋で。 部屋を行き来する際、ギルバートはエミリオの歩幅が自分よりわずかに短いことに気づき、無意識に足を緩めた。エミリオはその優しさに気づかないふりをして、隣を歩くギルバートの衣の擦れる音を、この世で最も美しい音楽のように聴いていた。
エミリオの部屋は狭く、古びた羊皮紙と野草の香りが満ちている。 そこで共に課題をこなし、疲れるとエミリオが故郷の民謡や聖歌を口ずさむ。ギルバートはその歌を聴きながら、王としての義務でも王子としての虚栄でもない、ただの「ギルバート」という一人の人間として呼吸することを許されていく。
「エミリオ。……明日の朝も、あの場所で待っていろ」
別れ際、ギルバートが掛ける言葉は、相変わらず命令のような響きを帯びている。 けれど、その声には以前のような棘はなく、代わりにエミリオの手を握りしめた時の、あの切実な熱が宿っていた。エミリオは深く頭を垂れ、立ち去る王子の背中に向かって、心のなかで何度も繰り返す。
(お慕いしております。好みをすべて捧げても良いほどに……)
影を踏んでいた日々は遠く。今、二人の歩む足跡は、夕暮れの回廊に一つに重なり合っていた。
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