君に捧げる歌

河野彰

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 学園の日常は、残酷なほど変わらずに過ぎていった。
 講義中、ギルバートは最前列で教師の言葉を冷徹に分析し、数席後ろではエミリオが熱心にノートをとる。休み時間になれば、ギルバートは取り巻きの貴族たちに囲まれ、エミリオは平民の友人たちと笑い合いながら、質素なパンを分け合う。  
 すれ違う瞬間に交わすのは、礼儀正しい会釈と、他所他所しい視線に一言の挨拶だけ。だが、その一瞬の視線の裏側で、二人は深夜の静寂を、互いの肌の熱を共有していた。
 しかし、学校の陽光は、二人の秘密を隠すにはあまりに眩しすぎた。
「エミリオか」  
 エミリオが夜の教会でギルバートに声をかけると、彼は昼間の傲慢な響きとは対極にある、縋るような湿り気を帯びた声でエミリオの名を呼んだ。  
 聖堂で向かい合うエミリオは無言で微笑み、ギルバートの首筋に顔を埋める。石鹸の香りと、独り孤独に悶えていた男の微かな汗の匂いが混ざり合う。 
「貴方がお呼びになるのなら、どこへでも」
 自然と二人の唇が触れ合う。 
 二人はまだ、唇を重ねること以上の「一線」を越えてはいなかった。それは、神を信じるエミリオの純潔を守りたいというギルバートの最後の良心であり、同時にエミリオの神聖さを汚したくないという、不器用な祈りでもあった。
 毎夜、エミリオとの密会を終えて寄宿舎の自室に戻ったギルバートを襲うのは、耐え難いほどの飢餓感だった。  
 軍服を脱ぎ捨て、シーツに身を沈めると、暗闇の中にエミリオの残像が浮かび上がる。少し荒れた指先、歌う時に震える喉仏、そして自分を受け入れた時の、あの湿った緑の瞳。あの細いのどに食らいつき、血をすすり、己を突き立てたならどうなることだろう。  
 ギルバートは己の熱を、その大きな掌で慰めた。これは騎士道に反する卑猥な行いであり、何より清らかなエミリオに対する精神的な冒涜だと自覚している。だが、一度知ってしまったエミリオの体温は、王族としての自制心をいとも容易く焼き尽くした。 
(……エミリオ。お前は今、誰を想っている?)  
 果てた後の虚脱感の中で、ギルバートは独り、深い罪悪感と逃れられぬ執着に身を震わせるのだった。
 一方、エミリオは己の身体を慰める術を知らなかった。  
 彼にとってギルバートとの触れ合いは精神の昇華そのものであり、独りで完結する快楽など想像もつかなかった。ただ、深夜に窓を叩く微かな合図があれば、彼は迷わずベッドを抜け出した。夜の冷気が薄いパジャマを透かしても、心はギルバートに逢える歓喜で沸き立っていた。
 講義の合間、エミリオが礼拝堂で一人、祈りを捧げる時間は日ごとに増えていった。かつての彼はただ羊を守るために天を仰いだが、今の祈りには、明確な対象があった。
(神よ……あの方を、ギルバート様を。あの孤高の魂を、どうかお守りください)
 エミリオの中で、信仰と愛は一つの形へと収束した。ギルバートの隣に立つには、羊飼いのままでは足りない。あの方の精神を、その孤独な王座を影から支えるために、自分もまた「聖職者」という名の重みを背負わねばならない。エミリオの緑の瞳には、かつての素朴な輝きに加え、未来の聖職者としての、静かで強固な知性が宿り始めた。
 その頃、ギルバートは、日に日に聖らかになっていくエミリオに、ただ焦燥を募らせていた。エミリオの神への傾倒は日ごとに強くなっていく。夜になればその身体を、唇をギルバートに明け渡すというのに、彼の瞳には神しか見えていないように見えた。

 ある深夜。いつもの礼拝堂で、エミリオは決意を口にした。 
 「ギルバート様。私は卒業後、司祭になるために教会に入ります。貴方が王座に就くとき、その魂を一番近くで守れる者になりたいのです」
 その献身的な告白は、ギルバートにとって最も残酷な別離の宣告に等しかった。 
「聖職だと?! 俺の隣ではなく、神の懐へ入ると言うのか!」  
 ギルバートの理性が、激しい独占欲によって焼き切られた。彼はエミリオの細い体を、祭壇の冷たい石壁に叩きつけるようにして押しつけた。
「お前を神になど渡さない。その身体も、その祈りも、全て俺のものだ」
 ギルバートの唇が、エミリオの声を封じるように力任せに重なった。  
 それはこれまでの初々しいものとは一線を画す、貪欲で熱を帯びた、略奪の口づけであった。ギルバートの舌が、戸惑うエミリオの唇を割り、口内の粘膜を執拗に這い回る。逃げ場を奪われたエミリオの舌を絡め取り、吸い上げ、互いの唾液が糸を引いて顎を伝い落ちるのも構わず、ギルバートはエミリオの聖性を塗り潰そうと躍起になった。
「……んっ、ぁ……ギル、バートさま」  
 エミリオの鼻にかかった熱い吐息が、ギルバートの耳元を濡らした。  
 ギルバートの手が、エミリオの薄いパジャマの上から、その胸元や腰のラインを強く掴み、なぞる。エミリオは背中を反らし、苦しげに瞳を潤ませながらも、自分を求めるギルバートの荒々しい情熱に、抗いようのない喜びを感じていた。吸い付くような音を立てて一度唇が離れると、ギルバートはエミリオの濡れた唇を、獲物を検分するように見つめ、再び、より深く食らいついた。エミリオの口蓋をなぞり、上顎を舐めて奥深くまで侵入するギルバートの舌に、エミリオは自らの知性も、信仰も、全てがこの男の熱に溶かされていくのを感じ、恍惚としてギルバートの黄金の髪に指を絡めた。
 月光が二人を青白く照らすなか、礼拝堂に響くのは、密やかな、水の音を孕んだ接吻の音だけだった。  
 聖職者を目指すというエミリオの清廉な決意を、ギルバートは自らの欲望という名の毒で汚し、同時に、誰よりも深くその存在を刻み込んだ。
「命じる。神にお前を語らせるな。俺の名前だけを呼べ。死ぬまでだ」
 エミリオはその場にひれ伏した。たった一人の王に、そのつま先に口づける。そして、もう一度、自らその熱い口づけを請うように、静かに目を閉じた。
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