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出会い編
最終話
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静かな時間が流れている。時折本をめくる音がするだけ。
部屋には二人。
窓から差し込む光に、銀の髪がキラキラと反射している。アクアマリンのような瞳はなぜか冬の海のように見えるが、隣に座る少女を見るときだけ、その色に相応しい春の空のように穏やかだ。
「どのくらい進んだ」
本を閉じると、少年の雰囲気を僅かに残した青年が、隣で刺繍をする少女の髪を一房掬って指に絡ませて遊ぶ。針を刺す度、指に光る婚約指輪がきらめいてその存在を主張する。それを見るだけで、青年は頬を緩ませた。少女との未来を約束した証。
「あと少し、明後日には完成しそうです」
星空色の髪の少女は、美しい黎明の瞳を柔らかくする。
「ふむ、本当に美しいな、エルシィ」
「ふふ、ありがとうございます。皆さんも褒めてくださるのですが、わたくしのお母様の刺繍はもっともっと素晴らしいのです。日々精進ですわ」
アリスが言うと、エリアストは髪に絡めた指を顎に移動させ、アリスを少し上向かせる。
「違う。刺繍ではない。エルシィのことだ」
その言葉に、アリスは一気に顔が熱くなる。
初めて顔を合わせてから一年半ほど経っていた。
あの日から毎日公爵家へ通っている。学園が休みの日の前日から学園が始まる日までは泊まりがけ。それをあの日、伯爵家へ帰る条件とした。公爵家への通いは必ずエリアストが同乗した。御者や家人にアリスを任せたくないと譲らなかった。そうして婚約を結び、二人で手を取り合い、少しずつ少しずつ歩んできた。
エリアストは変わった。正確には、アリスにだけ、変わった。アリスにだけ、まともな人間のように振る舞えるようになった。それは、アリスの気持ち、心にまで慮ることが出来るようになったことの表れであった。
「少し休憩しよう、エルシィ」
顎にかけた手でするりと頬を撫でると、側のベルを鳴らす。すぐに扉が開き、従者が一礼する。
「少し休憩する」
エリアストの言葉に、かしこまりました、と一礼すると、再び扉は閉じられた。二人きりの室内。そのことにもアリスはもう慣れた。開き直った。いずれ夫婦になるのだから、と。エリアストと添い遂げると決めたとき、世の中の常識で考えることを止めた。二人がどうしたいか、そう考えるようにした。意見が分かれるときは、お互いの妥協点を探す。絶対に譲れないものを明確にする。そうしてお互いを知っていった。
「あの、エル様」
アリスは少し恥ずかしそうにエリアストを呼んだ。エリアストは、どうした、と言うように優しく目を細めた。それだけで、アリスの顔は真っ赤になる。それを見ると、エリアストの心は満ち足りた。嬉しそうにアリスの真っ赤な頬をふにふにとつまむ。
「あ、あのですね、次の学園がお休みの日、ご予定が空いているようでしたら、あの」
頬をつままれながら、珍しくもごもごと口籠もるアリスに、たまらなく愛しさがこみ上げる。
「デートの誘いと受け取っていいか」
両手でアリスの頬を包み、視線を合わせる。恥ずかしさのあまり俯きたいのに俯けず、精一杯の抵抗としてキュッと目を閉じた。
「は、はいぃ」
震える声と、羞恥に固く目を閉じるその姿にたまらなくなった。
そして。
お互いの唇が優しく重なる。
驚いてアリスが目を開けると、愛しげに見つめる瞳が至近距離にあった。
「え、える、さま」
ぶわりと全身が熱を帯びる。
「私の前で目を閉じるということは、くちづけを許してくれた合図、かと」
そう言うと、もう一度唇が重なった。
エリアストは変わった。
アリスは心からそう感じた。
いつからかはわからない。気付けばアリスの心はエリアストで占められていた。元々外見の美しさは突出していたが、正直なところ、怖いとしか思えなかった。いつからだろう、エリアストの目に温度が宿り、死滅した表情筋が僅かに蘇りはじめた。触れる手に優しさが滲み始め、言葉に気遣いが混じり始めると、アリスの心は落ち着かなくなった。ここ半年は、目が合うだけで体中の熱が顔に集まっていると錯覚するほどだ。
母のように、姉のように、根気強くエリアストと向き合っていた頃が懐かしい。
エリアストが、この短期間でここまで変わるとは思っていなかったアリスは、少し遠い目をした。よくぞここまで頑張ってくれた、とエリアストを無性に撫で回したくもあるが、きっとエリアストはそんな扱いを望んでいないだろう。
無遠慮にアリスの顔や唇を舐めたあの頃のエリアストは鳴りを顰め、壊れ物を扱うような、触れるだけの優しいくちづけを時々落とす。嬉しいときにそうするのだと気付いたのは、最近だ。
エリアストの変化は他者に対してはあまり見られないが、それでもアリスの言葉をきちんと聞いてくれるようになった。アリスに言われたことは守ろうとする。エリアストの対アリスの対応を知っているアリスからすればまだまだまだまだなのだが、他者にしたら、それはもう劇的な変化であることを、アリスは知らない。
例えば挨拶。エリアストに声をかけることが出来る時点で驚愕ものだったが、更に返事までもらえるようになった時の衝撃たるや、筆舌に尽くせない。例えそれが、ああ、とか、ん、など、挨拶の返事としてどうかというものであっても。
婚約者が出来たらしい、と噂になっていたが、だんだんと変化するエリアストに、周囲はその噂が真実であると悟る。そしてその相手は、ファナトラタ伯爵家の愛娘であると噂があったが、一度アリスが学園に姿を見せたことで、噂から確信へ変えた。周囲は貴族平民問わず、アリス・コーサ・ファナトラタ伯爵令嬢を神と崇め、神聖視していた。その最たる者は何を隠そう、ディレイガルド公爵家一同。筆頭公爵家がアリスに頭を垂れるのだ。アレを人にしてくれてありがとう、と。アリスが関わると、良くも悪くも悪魔様魔王様エリアスト様が降臨するので、みんな遠くから手を合わせて拝むだけだ。
今年、アリスは学園に入学する。
どんな形であれ、みんなが見守ることは間違いない。エリアストのアリスへの対応に興味津々だが、それをおくびにも出さないように。決して魔王様を降臨させないように。
神であり地雷でもあるアリス・コーサ・ファナトラタ。
不可侵の少女を、みんなで守っていこうと思う。
*出会い編 おわり*
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
わかりづらい、矛盾している、などございましたら申し訳ありません。
もう一話、番外編を投稿します。そちらは読み飛ばしていただいても差し支えありませんので、気が向いたら読んでいただけると嬉しいです。
このあと、学園編へと続きますので、よろしかったらそちらも読んでいただけると嬉しいです。
最初はこの話を”人間編”としようとしましたが、お読みいただく前ですと、何か誤解を生みそうだと思ったので、単純に”出会い編”としました。ちなみに”学園編”は、”魔王編”とつけようと思っていました。少し内容が想像できますかね(笑)
部屋には二人。
窓から差し込む光に、銀の髪がキラキラと反射している。アクアマリンのような瞳はなぜか冬の海のように見えるが、隣に座る少女を見るときだけ、その色に相応しい春の空のように穏やかだ。
「どのくらい進んだ」
本を閉じると、少年の雰囲気を僅かに残した青年が、隣で刺繍をする少女の髪を一房掬って指に絡ませて遊ぶ。針を刺す度、指に光る婚約指輪がきらめいてその存在を主張する。それを見るだけで、青年は頬を緩ませた。少女との未来を約束した証。
「あと少し、明後日には完成しそうです」
星空色の髪の少女は、美しい黎明の瞳を柔らかくする。
「ふむ、本当に美しいな、エルシィ」
「ふふ、ありがとうございます。皆さんも褒めてくださるのですが、わたくしのお母様の刺繍はもっともっと素晴らしいのです。日々精進ですわ」
アリスが言うと、エリアストは髪に絡めた指を顎に移動させ、アリスを少し上向かせる。
「違う。刺繍ではない。エルシィのことだ」
その言葉に、アリスは一気に顔が熱くなる。
初めて顔を合わせてから一年半ほど経っていた。
あの日から毎日公爵家へ通っている。学園が休みの日の前日から学園が始まる日までは泊まりがけ。それをあの日、伯爵家へ帰る条件とした。公爵家への通いは必ずエリアストが同乗した。御者や家人にアリスを任せたくないと譲らなかった。そうして婚約を結び、二人で手を取り合い、少しずつ少しずつ歩んできた。
エリアストは変わった。正確には、アリスにだけ、変わった。アリスにだけ、まともな人間のように振る舞えるようになった。それは、アリスの気持ち、心にまで慮ることが出来るようになったことの表れであった。
「少し休憩しよう、エルシィ」
顎にかけた手でするりと頬を撫でると、側のベルを鳴らす。すぐに扉が開き、従者が一礼する。
「少し休憩する」
エリアストの言葉に、かしこまりました、と一礼すると、再び扉は閉じられた。二人きりの室内。そのことにもアリスはもう慣れた。開き直った。いずれ夫婦になるのだから、と。エリアストと添い遂げると決めたとき、世の中の常識で考えることを止めた。二人がどうしたいか、そう考えるようにした。意見が分かれるときは、お互いの妥協点を探す。絶対に譲れないものを明確にする。そうしてお互いを知っていった。
「あの、エル様」
アリスは少し恥ずかしそうにエリアストを呼んだ。エリアストは、どうした、と言うように優しく目を細めた。それだけで、アリスの顔は真っ赤になる。それを見ると、エリアストの心は満ち足りた。嬉しそうにアリスの真っ赤な頬をふにふにとつまむ。
「あ、あのですね、次の学園がお休みの日、ご予定が空いているようでしたら、あの」
頬をつままれながら、珍しくもごもごと口籠もるアリスに、たまらなく愛しさがこみ上げる。
「デートの誘いと受け取っていいか」
両手でアリスの頬を包み、視線を合わせる。恥ずかしさのあまり俯きたいのに俯けず、精一杯の抵抗としてキュッと目を閉じた。
「は、はいぃ」
震える声と、羞恥に固く目を閉じるその姿にたまらなくなった。
そして。
お互いの唇が優しく重なる。
驚いてアリスが目を開けると、愛しげに見つめる瞳が至近距離にあった。
「え、える、さま」
ぶわりと全身が熱を帯びる。
「私の前で目を閉じるということは、くちづけを許してくれた合図、かと」
そう言うと、もう一度唇が重なった。
エリアストは変わった。
アリスは心からそう感じた。
いつからかはわからない。気付けばアリスの心はエリアストで占められていた。元々外見の美しさは突出していたが、正直なところ、怖いとしか思えなかった。いつからだろう、エリアストの目に温度が宿り、死滅した表情筋が僅かに蘇りはじめた。触れる手に優しさが滲み始め、言葉に気遣いが混じり始めると、アリスの心は落ち着かなくなった。ここ半年は、目が合うだけで体中の熱が顔に集まっていると錯覚するほどだ。
母のように、姉のように、根気強くエリアストと向き合っていた頃が懐かしい。
エリアストが、この短期間でここまで変わるとは思っていなかったアリスは、少し遠い目をした。よくぞここまで頑張ってくれた、とエリアストを無性に撫で回したくもあるが、きっとエリアストはそんな扱いを望んでいないだろう。
無遠慮にアリスの顔や唇を舐めたあの頃のエリアストは鳴りを顰め、壊れ物を扱うような、触れるだけの優しいくちづけを時々落とす。嬉しいときにそうするのだと気付いたのは、最近だ。
エリアストの変化は他者に対してはあまり見られないが、それでもアリスの言葉をきちんと聞いてくれるようになった。アリスに言われたことは守ろうとする。エリアストの対アリスの対応を知っているアリスからすればまだまだまだまだなのだが、他者にしたら、それはもう劇的な変化であることを、アリスは知らない。
例えば挨拶。エリアストに声をかけることが出来る時点で驚愕ものだったが、更に返事までもらえるようになった時の衝撃たるや、筆舌に尽くせない。例えそれが、ああ、とか、ん、など、挨拶の返事としてどうかというものであっても。
婚約者が出来たらしい、と噂になっていたが、だんだんと変化するエリアストに、周囲はその噂が真実であると悟る。そしてその相手は、ファナトラタ伯爵家の愛娘であると噂があったが、一度アリスが学園に姿を見せたことで、噂から確信へ変えた。周囲は貴族平民問わず、アリス・コーサ・ファナトラタ伯爵令嬢を神と崇め、神聖視していた。その最たる者は何を隠そう、ディレイガルド公爵家一同。筆頭公爵家がアリスに頭を垂れるのだ。アレを人にしてくれてありがとう、と。アリスが関わると、良くも悪くも悪魔様魔王様エリアスト様が降臨するので、みんな遠くから手を合わせて拝むだけだ。
今年、アリスは学園に入学する。
どんな形であれ、みんなが見守ることは間違いない。エリアストのアリスへの対応に興味津々だが、それをおくびにも出さないように。決して魔王様を降臨させないように。
神であり地雷でもあるアリス・コーサ・ファナトラタ。
不可侵の少女を、みんなで守っていこうと思う。
*出会い編 おわり*
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
わかりづらい、矛盾している、などございましたら申し訳ありません。
もう一話、番外編を投稿します。そちらは読み飛ばしていただいても差し支えありませんので、気が向いたら読んでいただけると嬉しいです。
このあと、学園編へと続きますので、よろしかったらそちらも読んでいただけると嬉しいです。
最初はこの話を”人間編”としようとしましたが、お読みいただく前ですと、何か誤解を生みそうだと思ったので、単純に”出会い編”としました。ちなみに”学園編”は、”魔王編”とつけようと思っていました。少し内容が想像できますかね(笑)
応援ありがとうございます!
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