続・性春時代

あかいとまと

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特訓

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### 特訓

 翌日、朝の光がまだ部屋の隅にこびりついている時間。
 マサシはすでに机の前に座っていた。
 スケッチブックの上には、昨夜書き殴った「塔」のラフが何枚も重ねられ、隅には「どうやって描くか」という文字がぐちゃぐちゃに書き込まれている。
 手は震えていた。
 カズの言葉が頭の中をぐるぐると巡る―― 。

「絵がキレイじゃなければ、読者は飛ばす。意味がない」

「⋯⋯キレイって、どうすればいいんだ⋯⋯」  

 彼は鉛筆を握り直した。
 線は硬く、ぎこちない。
 どこか「正解」を求めて、線をなぞっているような気がした。  

 そのとき、部屋のドアがノックされた。  

「よお、寝てたか?」  

 カズが、いつものジャケットを羽織って立っていた。
 手には、古びたスケッチブックと、鉛筆を束ねた袋。  

「寝てないよ⋯⋯」

 とマサシは正直に答えた。  

 カズはにやりと笑った。

「いいね。それこそが、マンガを始める第一歩だ。寝られないってことは、夢が動き出した証拠だ」  

 彼は部屋に入り、マサシの机の上に目をやった。  

「⋯⋯うん。ダメだな。」  

 マサシの心臓が跳ねた。  

「線が硬すぎる。まるで、誰かの真似をしてるみたいだ。お前は、自分の夢を描いてるんだろ? だったら、線だって、お前の呼吸に合わせて動いてなきゃいけない」  

 カズはスケッチブックを奪い取ると、真っ白なページをめくった。  

「ほら、やってみろ。今から、五分間、何も考えずに描け。夢の塔。でも、写真見ながらじゃねえ。頭の中にある、あの感覚のままに」  

 マサシは迷った。
 でも、カズの目は本気だった。  

 彼は鉛筆を走らせた。  

 最初はぎこちない。
 でも、三秒も経たないうちに、手が勝手に動き始めた。
 線が歪み、重なり、塔の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
 風景はぐちゃぐちゃで、構図もめちゃくちゃ。
 でも―― 。

「おっ?」  

 カズが目を細めた。  

「⋯⋯見えてきたな。この歪み、この狂気じみた線。これがお前の夢の質感だ。完璧な絵より、百倍おもしろい」  

 マサシは驚いた。  

「でも⋯⋯こんなに雑でいいんですか?」  

「雑じゃねえ。生々しいんだ。マンガってのは、完璧な絵を並べるもんじゃねえ。『感情の断片を、紙に叩きつける』もんだ。読者は、完璧な顔より、震えた線のほうが、人の心を感じる」  

 カズは立ち上がり、壁にピンでスケッチを止めた。  

「今日のテーマはこれだ。『感情を線にのせる』。絵の技術より、先に、《お前の心の震え》を描け」  

 そして、特訓が始まった。  



 午前中――「表情」の特訓。

「まず、顔だ。主人公が塔を見た瞬間、どんな顔をしてる?」  

 マサシは考える。  

「⋯⋯驚き? それとも、恐怖?」  

「それだけじゃねえ。お前の夢で、塔を見たとき、心のどこが、どう動いた? 喉の奥が乾いた? 足がすくんだ? それとも、胸の奥が熱くなった?」  

 マサシは目を閉じた。  

 思い出した。
 夢の中で、塔を見上げたとき―― 。

「⋯⋯行かなきゃいけない」

 という、不思議な使命感。  

「⋯⋯胸が、熱かった。でも、怖かった。でも、それでも⋯⋯行きたかった」  

「よし。それだ」  

 カズは鉛筆を渡した。  

「じゃあ、その顔を描け。『怖くて、でも行きたくて、でも自分じゃもう立てない』って顔を」  

 マサシは描いた。
 目は大きく見開かれ、口は半開き。
 でも、その目には、涙のようなものが浮かんでいる。
 鼻の横に、震える線。  

 カズはしばらく黙って見てから、うなずいた。  

「⋯⋯いい。これなら、セリフがなくても伝わる。読者は、この顔を見て、『この人は、何かを失いながらも、進まなきゃいけない』って感じる。《それが、マンガの力だ》」  



 午後――「動き」の特訓。

「次は、体の動きだ」  

 カズはマサシを外に連れ出した。
 公園のベンチに座り、通り過ぎる人々を観察させた。  

「お前、あの女の人が何を考えているか、わかるか?」  

 スーツを着た女性が、スマホを見ながら早歩きで歩いていく。  

「⋯⋯忙しい? 怒ってる?」  

「違う。肩の角度を見てみろ。少し下がってるだろ? でも、足は速い。これはな、『がんばってるけど、もう限界』って体のサインだ」  

 カズはスケッチブックにその女性のシルエットをさらさらと描いた。  

「マンガのキャラも同じだ。顔だけじゃねえ。《体全体が、セリフを話してる》んだ。」  

 マサシはそれを真似して、夢の主人公が塔に向かって歩くシーンを描いた。  

 足は前へ出ているが、背中はわずかに反り返っている。
 手は拳を握り、でも、その指先は震えている。  

「⋯⋯これで、『進みたいけど、怖くて、でも進むしかない』って伝わるか?」  

 カズは笑った。  

「伝わるよ。お前、もう、マンガの『見せ方』を、体で覚えてきている」  



 夜――「背景」の特訓。

「最後に、背景だ。」  

 カズはマサシの夢のラフを見て言った。  

「塔の周り、空が黒いな。でも、なんで黒い?」  

「⋯⋯夢がそうだったから⋯⋯」  

「それじゃだめだ。《背景は、主人公の心だ》。空が黒いなら、『主人公の心が、希望を失ってる』って意味になる。でも、お前の夢は、そうだったか?」  

 マサシは考える。  

「⋯⋯いや。黒い空なのに、塔だけが光ってた。不思議に、希望を感じた」  

「なら、空は黒くていい。でも、『塔の光が、その黒を切り裂いてる』ように描け。《背景は、感情の象徴だ》」  

 マサシは改めて描いた。  

 空は重たい黒。
 でも、塔の先端から、細い光の筋が、星のように広がっている。
 風もないのに、草が、その光に向かって少しだけ傾いている。  

 カズはうなずいた。  

「⋯⋯いい。これで、読者は『この世界は暗いけど、何かが待ってる』って感じる。《言葉より、絵のほうが、何百倍も深く心に届く》」  



 深夜――初めてのコマ割り完成。

 マサシは、一枚の原稿用紙に、ようやく第一ページを完成させた。  

 第一コマ:夢の塔が、巨大なパノラマで描かれている。
 空は黒く、塔だけが微かに光る。  

 第二コマ:主人公の後ろ姿。 
 小さく、震える手で、塔を見上げている。  

 第三コマ:クローズアップ。
 顔は半分影に隠れ、目だけが光っている。  

 第四コマ:地面に落ちた影。
 その影が、『塔に向かって歩き出している』。
 ――でも、主人公の体はまだ動いていない。  

 第五コマ:空白。
 真っ白なコマ。  

 カズはそれをじっと見た。  

 やがて、ぽつりと言った。  

「⋯⋯この白いコマ、何だ?」  

「⋯⋯心の、空白です」  

 マサシは声を震わせた。  

「塔を見た瞬間、頭が真っ白になった。でも、その空白の向こうに、何かが聞こえた気がした。言葉じゃない。でも、『お前はここに来なきゃいけなかった』って、声みたいに⋯⋯」  

 カズは、長いこと黙っていた。  

 そして、そっと言った。  

「⋯⋯お前、もう、一人で歩いていけるな」  

「え⋯⋯?」  

「オレの役目は、ここまでだ。お前の絵には、『もう、答えじゃなくて、問いが宿ってる』。それが、本当のマンガだ」  

 マサシは、原稿用紙を見つめた。  

 その白いコマが、まるで未来そのもののように感じられた。  



 数日後。

 マサシは、ひとつのマンガを完成させた。  

 タイトルは―― 。

『塔の向こう』

 第一話の最後のコマには、主人公が塔の扉に手をかけ、その先に光を見つめる場面。  

 セリフは一つだけ。  

「⋯⋯もし、今の僕が消えても、いいのか?」

 その下に、小さな落書きのような文字。  

「でも、行かなくちゃ」

 それをカズに見せると、彼はただ、うなずいた。  

 そして、昔使っていたペンをマサシに渡した。  

「これで、お前の物語が始まる。オレの夢が途切れた場所から――お前の夢が始まる」  

 マサシは、そのペンを握りしめた。  

 窓の外では、また星空が瞬いていた。  

 彼は、そっと原稿用紙に手を置いた。  

「⋯⋯次は、君の声を、もっと遠くまで届けるよ」  

 そして、また一筆を走らせた。  

 ――その線の先には、まだ誰も見たことのない世界が、待っていた。





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