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数日後。
マサシは出来上がったマンガを持って、たちばな書房の多田編集長のもとを訪ねた。
社内の廊下は、古い木の床が軋み、壁には過去に連載された作品のポスターが所狭しと貼られていた。
活字の匂いとインクの香りが混ざり合い、どこか懐かしい空気が漂っている。
受付の女性がにっこりと笑い、「多田編集長、マサシさんです」と内線で告げた。
数秒後、奥のドアが開き、「どうぞ」という声が聞こえた。
多田編集長の部屋は、本と原稿で埋め尽くされていた。
机の上は山のように積まれた原稿に覆われ、それでもなお、新たな紙束が床にまで広がっている。
多田は五十代半ば、白髪が混じったグレーの髪を短く刈り込み、眼鏡の奥の目は鋭いけれども、どこか温かみを感じさせる。
彼はマサシを見るなり、微笑んだ。
「おう、来たか。待ってたよ」
マサシは緊張で喉が渇いたように感じた。
手にしたファイルケースをぎゅっと握りしめ、声を絞り出す。
「⋯⋯完成しました。タイトルは『塔の向こう』です」
多田はうなずき、手を差し出した。
マサシは震える指でケースを開け、原稿を取り出す。
多田はそれを丁寧に机の上に並べ、一コマずつ、ゆっくりと目を通し始めた。
部屋の中は静かだった。
時計の秒針の音だけが、かすかに響く。
マサシは窓の外を見た。
街の空は曇り空で、雲の隙間からたまに太陽の光が差し込んでいた。
まるで、何かが始まる前の、静けさそのものだった。
多田の表情は読めなかった。
真剣なまなざしでページをめくり、時折、ペンで何かをメモしている。
マサシの心臓は、まるでマンガのコマ割りのように、規則正しく、しかし速く鼓動していた。
――もし、気に入られなかったら。
――もし、夢がここで終わってしまったら。
そんな不安が、頭をよぎる。
でも、そのたびに、カズの言葉が蘇った。
『これで、お前の物語が始まる。オレの夢が途切れた場所から――お前の夢が始まる』
多田が最後のページをめくった。
そして、しばらくの間、何も言わなかった。
マサシは息をひそめた。
やがて、多田はゆっくりと顔を上げた。
その目には、わずかに光が宿っていた。
「⋯⋯いいね」
一言だけ。
でも、その声には重みがあった。
「とてもいい。特に、最後のコマ。『でも、行かなくちゃ』という小さな落書き。あれは⋯⋯胸を打つよ」
マサシの目が、じわりと熱くなった。
「主人公が塔の扉に手をかけるシーン。光を前にして、『今の僕が消えても、いいのか?』と問う。その迷いと、それでも進もうとする意志の狭間――そこに、君の声がちゃんと乗ってる。これは⋯⋯マンガというよりも、心の記録みたいだ」
多田は立ち上がり、窓際へ歩いた。
カーテンの隙間から外を眺めながら、静かに続けた。
「オレも若い頃、誰かの作品に救われたことがある。夢を捨てかけたとき、たった一冊のマンガが、またペンを握る勇気をくれた。君のこの作品には、そのときのあの作品に似た、何かがある。言葉じゃ言い表せない、だけど確かに存在する“温度”が」
マサシは、思わず涙をこぼした。
こらえようとしたが、もう止められなかった。
「⋯⋯ありがとうございます」
「君の描いた“塔”は、誰の心にもあるよ。過去の自分、失ったもの、立ち直れなかった瞬間――それを前にして、進むか、立ち止まるか。その選択を、君はとても丁寧に、でも力強く描いた。これは⋯⋯掲載に値する作品だ」
マサシは顔を上げた。
「⋯⋯本当に?」
多田は振り返り、にっこりと笑った。
「もちろん。『月刊コミック・スピリット』の次号に、『塔の向こう』第一話、掲載決定だ。契約書は後で事務所が持っていく。君は、もうプロのマンガ家だ」
その瞬間、マサシの胸の中が、まるで塔の向こうの光のように、広がっていった。
言葉にならない感情が、全身を駆け巡る。
「でもな、マサシくん」
多田は真剣な顔に戻った。
「掲載は始まりだ。読者の心に届くかどうかは、これからだ。辛いこともあるだろう。締切に追われ、批評に傷つき、自信を失う日もある。それでも、ペンを離さないでくれ。君の“声”は、誰かを救うかもしれない。その可能性を、ずっと信じてほしい」
マサシは、力強くうなずいた。
「⋯⋯はい。絶対に、続けます」
多田が机の引き出しを開け、一冊のノートを取り出した。表紙には『連載ノート』と書かれている。
「これ、君にやる。カズ・タチバナが、かつて使っていたものだ。彼も、君と同じくらい、夢を信じる男だった。途中で辞めてしまったけど⋯⋯その意志は、こうして君の中に生き続けている。面白いものだな」
マサシはノートを受け取り、そっと開いた。
中には、カズのラフスケッチや、物語の構想、編集部とのやり取りのメモがびっしりと書き込まれていた。
最後のページには、まだ完成していない第二話の冒頭が、途中で止まっていた。
――『塔の向こう』第二話『光の重さ』
その文字を見た瞬間、マサシの胸が熱くなった。
「⋯⋯次は、僕が書き続ける」
多田はうなずき、彼の肩を軽く叩いた。
「じゃあ、来月の打ち合わせまでに、第二話のラフを出してもらえるかな?」
「はい。必ず」
マサシは、ファイルケースとノートを抱え、編集部を後にした。
外に出ると、空はすっかり晴れていた。
雲の切れ間から、金色の光が降り注いでいる。
彼は空を見上げ、カズのペンをポケットから取り出した。
金属の冷たさが、手のひらに心地よく感じられた。
――カズ。
――僕の声が、届くよ。
そして、彼は歩き出した。
次の原稿用紙に向かって、次のコマに向かって。
塔の向こうへ――。
まだ誰も見たことのない世界へ。
数日後。
マサシは出来上がったマンガを持って、たちばな書房の多田編集長のもとを訪ねた。
社内の廊下は、古い木の床が軋み、壁には過去に連載された作品のポスターが所狭しと貼られていた。
活字の匂いとインクの香りが混ざり合い、どこか懐かしい空気が漂っている。
受付の女性がにっこりと笑い、「多田編集長、マサシさんです」と内線で告げた。
数秒後、奥のドアが開き、「どうぞ」という声が聞こえた。
多田編集長の部屋は、本と原稿で埋め尽くされていた。
机の上は山のように積まれた原稿に覆われ、それでもなお、新たな紙束が床にまで広がっている。
多田は五十代半ば、白髪が混じったグレーの髪を短く刈り込み、眼鏡の奥の目は鋭いけれども、どこか温かみを感じさせる。
彼はマサシを見るなり、微笑んだ。
「おう、来たか。待ってたよ」
マサシは緊張で喉が渇いたように感じた。
手にしたファイルケースをぎゅっと握りしめ、声を絞り出す。
「⋯⋯完成しました。タイトルは『塔の向こう』です」
多田はうなずき、手を差し出した。
マサシは震える指でケースを開け、原稿を取り出す。
多田はそれを丁寧に机の上に並べ、一コマずつ、ゆっくりと目を通し始めた。
部屋の中は静かだった。
時計の秒針の音だけが、かすかに響く。
マサシは窓の外を見た。
街の空は曇り空で、雲の隙間からたまに太陽の光が差し込んでいた。
まるで、何かが始まる前の、静けさそのものだった。
多田の表情は読めなかった。
真剣なまなざしでページをめくり、時折、ペンで何かをメモしている。
マサシの心臓は、まるでマンガのコマ割りのように、規則正しく、しかし速く鼓動していた。
――もし、気に入られなかったら。
――もし、夢がここで終わってしまったら。
そんな不安が、頭をよぎる。
でも、そのたびに、カズの言葉が蘇った。
『これで、お前の物語が始まる。オレの夢が途切れた場所から――お前の夢が始まる』
多田が最後のページをめくった。
そして、しばらくの間、何も言わなかった。
マサシは息をひそめた。
やがて、多田はゆっくりと顔を上げた。
その目には、わずかに光が宿っていた。
「⋯⋯いいね」
一言だけ。
でも、その声には重みがあった。
「とてもいい。特に、最後のコマ。『でも、行かなくちゃ』という小さな落書き。あれは⋯⋯胸を打つよ」
マサシの目が、じわりと熱くなった。
「主人公が塔の扉に手をかけるシーン。光を前にして、『今の僕が消えても、いいのか?』と問う。その迷いと、それでも進もうとする意志の狭間――そこに、君の声がちゃんと乗ってる。これは⋯⋯マンガというよりも、心の記録みたいだ」
多田は立ち上がり、窓際へ歩いた。
カーテンの隙間から外を眺めながら、静かに続けた。
「オレも若い頃、誰かの作品に救われたことがある。夢を捨てかけたとき、たった一冊のマンガが、またペンを握る勇気をくれた。君のこの作品には、そのときのあの作品に似た、何かがある。言葉じゃ言い表せない、だけど確かに存在する“温度”が」
マサシは、思わず涙をこぼした。
こらえようとしたが、もう止められなかった。
「⋯⋯ありがとうございます」
「君の描いた“塔”は、誰の心にもあるよ。過去の自分、失ったもの、立ち直れなかった瞬間――それを前にして、進むか、立ち止まるか。その選択を、君はとても丁寧に、でも力強く描いた。これは⋯⋯掲載に値する作品だ」
マサシは顔を上げた。
「⋯⋯本当に?」
多田は振り返り、にっこりと笑った。
「もちろん。『月刊コミック・スピリット』の次号に、『塔の向こう』第一話、掲載決定だ。契約書は後で事務所が持っていく。君は、もうプロのマンガ家だ」
その瞬間、マサシの胸の中が、まるで塔の向こうの光のように、広がっていった。
言葉にならない感情が、全身を駆け巡る。
「でもな、マサシくん」
多田は真剣な顔に戻った。
「掲載は始まりだ。読者の心に届くかどうかは、これからだ。辛いこともあるだろう。締切に追われ、批評に傷つき、自信を失う日もある。それでも、ペンを離さないでくれ。君の“声”は、誰かを救うかもしれない。その可能性を、ずっと信じてほしい」
マサシは、力強くうなずいた。
「⋯⋯はい。絶対に、続けます」
多田が机の引き出しを開け、一冊のノートを取り出した。表紙には『連載ノート』と書かれている。
「これ、君にやる。カズ・タチバナが、かつて使っていたものだ。彼も、君と同じくらい、夢を信じる男だった。途中で辞めてしまったけど⋯⋯その意志は、こうして君の中に生き続けている。面白いものだな」
マサシはノートを受け取り、そっと開いた。
中には、カズのラフスケッチや、物語の構想、編集部とのやり取りのメモがびっしりと書き込まれていた。
最後のページには、まだ完成していない第二話の冒頭が、途中で止まっていた。
――『塔の向こう』第二話『光の重さ』
その文字を見た瞬間、マサシの胸が熱くなった。
「⋯⋯次は、僕が書き続ける」
多田はうなずき、彼の肩を軽く叩いた。
「じゃあ、来月の打ち合わせまでに、第二話のラフを出してもらえるかな?」
「はい。必ず」
マサシは、ファイルケースとノートを抱え、編集部を後にした。
外に出ると、空はすっかり晴れていた。
雲の切れ間から、金色の光が降り注いでいる。
彼は空を見上げ、カズのペンをポケットから取り出した。
金属の冷たさが、手のひらに心地よく感じられた。
――カズ。
――僕の声が、届くよ。
そして、彼は歩き出した。
次の原稿用紙に向かって、次のコマに向かって。
塔の向こうへ――。
まだ誰も見たことのない世界へ。
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