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3話
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その出来事以来、慧の朝の日課に猫の餌やりが加わった。
餌皿を地面に置き、すぐさま部屋の外に飛び出す。扉をちょっとだけ開けて、窓からひょいと入り込んだ猫が、かふかふと可愛らしい音を立てながら餌を食べる様子を隙間から眺めていると、
「こぉら」
と背後から声がかかった。廊下と庭を区切る腰壁にもたれかかったカノンが、腕を組んで慧を見下ろしている。全く気配がしなかったので驚いたが、それよりも再会できた喜びの方が勝った。
慧は素早く立ち上がると、これから試合でも始めるかのような大仰さで深々とお辞儀をする。
「おはようございます、カノンさん」
「おはようじゃないよ、おはようじゃあ。それより先に何か言うことがあるんじゃないの?」
慧は首を傾げた。「言うべきこと」が何なのか本当に分からなかったのだ。カノンは呆れた様子で深々と息を吐き出すと、足を一歩前に踏み出した。
「餌やりをするなら、僕に一言言ってくれよ。餌代だって決して安くはないんだからさ」
カノンは勢いよく扉を開け放った。音に驚いた数匹の猫が窓から飛び出していったが、餌皿にありついていた猫は、カノンと慧を一瞥して、すぐに興味を失って食事を再開する。
カノンは不機嫌な表情を貼り付けたまま部屋に入り、猫の傍らにしゃがみ込んだ。
「来なよ」
「え?」
「君、気配がありすぎるんだ。それだけ存在感を放ってて猫が逃げないってことは、そういうことだよ」
逡巡していると、カノンがもう一度呼びかけてくる。慧は恐る恐るとカノンの隣にしゃがんで、猫の頭をそっと撫でた。
猫耳がピクっと震え、指に当たる。驚いて手を引っ込めた慧は、猫が逃げないと分かると、もう一度手を伸ばした。
今度は指先ではなく、掌をしっかりと頭部に乗せる。作り物ではない温かい感触に、胸の奥が騒めきを覚えた。
「……柔らかい」
「そりゃ猫だから」
「生きてる」
「そりゃ猫だから」
辺りを見回した。部屋に残った猫は慧には一切の関心を向けず、ひたすらに餌を食べ続ける。彼等の片耳は桜の花びらのように先端が欠けていて、彼等が管理された存在であることを示している。
「猫に名前はあるんすか?」
「名前なんてつけてないよ。ただでさえここにいる人は皆ペットみたいな名前をしてるのに、猫の名前なんて覚えてる余裕はないだろ。でも、適当に呼んだらどれか1匹は答えてくれるんじゃない?」
「カノンさんは普段、何て名前でこの子達を呼んでるんです?」
「……『可愛い』だよ。これが一番確実だ」
カノンは猫を撫でる。ぶっきらぼうな態度とは裏腹に、その手つきは優しい。
「カノンさんって猫が好きなんすか?」
「まあ。少なくとも人間よりはね」
慧の脳はカノンの皮肉な言動を濾過し、その中にある純粋な部分だけを抽出した。
「えへへ。俺もです。俺も猫、好き。一緒ですね」
だらしなく笑う慧に、カノンは胡乱な視線を向ける。
「……で、どうして餌やりなんかを? これ以上やるつもりなら、君にも餌代を要求するけどいい?」
カノンに問いかけられた途端、慧は俯いて、唇をもごもごと不明瞭に動かした。
「……から」
「ごめん、なんて?」
「だから、その……カノンさんにもう一度会いたかったんです。ここに来れば、カノンさんはきっと俺に話しかけにくるって、思ってましたから」
慧の頬はうっすらと赤く染まる。慧の目的がカノンには分からなかった。
「もしかして、まだうるさかった? 一応声は抑えたつもりなんだけど」
「いえ、決してその話がしたいわけではなくて!」
慌てて首を振る。とは言え、隣室から聞こえる声が自分の眠りを妨げているのは相変わらずだった。確かにカノンは声を控えめにしてくれているらしい。だが、どうしようもなく薄っぺらい壁を前に、その努力は意味を成さなかった。
声が溢れるのを精一杯我慢している様子が却って悩ましさを増幅させ、結局眠りの質は悪いままだ。
今はそのことについて話すつもりはない。今度こそ騒音問題が解決してしまったら、それはそれでもったいない気がしている。
「その……俺、この街に来るのが初めてだから、全然知り合いがいないんすよ。それで、もしよければカノンさんとはこれからも仲よくしたいなぁって……」
恥ずかしさから、語尾にいくにつれ声は萎んでいく。カノンのリアクションを横目で見ると、カノンは慧をじっと見つめていた。正しくは、彼の視線は全て慧の股間に集中している。
「君と仲よく……?」
「ちょっと、どこ見ながら話してるんすか!」
「だって、君がとっても意味ありげなことを言うから」
「仲良し(意味深)じゃないっすよぉ! 俺は本当に、あんたとただ、お喋りしたりとか、そういうことがしたいんです!」
空っぽの部屋に、慧の叫び声が虚しく響く。気がつけば猫は1匹残らず外に出てしまっていた。
「お喋り? 君と僕が? 何のために?」
カノンは目をまん丸と見開いて、本当に不思議そうにしている。
拒絶ではなく、当惑。刺々しさを感じさせる言葉遣いとは裏腹に、慧を見る目は純粋さを煮詰めた結晶のように透き通っている。
慧が何故ここまでカノンと仲よくしたいのか、カノンは理解していないのだ。だけど、慧自身も自分の感情を上手く説明できないのだから、仕方ないことなのかもしれない。
「ダメっすか」
「いや、別にダメってことはないけど……」
依然として都合のいい脳味噌は、カノンの「ダメってことはない」という言葉を「いい」と受け取った。胸中に喜びが込み上げ、慧は表情を綻ばせる。
「ありがとうございます!」
誰かと一緒にいたいと思うのに理屈がいるのだろうか。理由のない愛おしさを猫に抱くように、カノンとの距離をもっと近づけたいという衝動が慧の中にはあった。
「とにかく俺、明日もここに来るんで! 次会った時も仲良くしてやってください。じゃあまた!」
慧は再び直角のお辞儀をすると、さっと身を翻して部屋から飛び出していった。
「ちょ、ちょっと!」
カノンの呼び止める声が聞こえるが、脇目も振らずに走り続ける。走りながら、首に掛けていたヘッドフォンを耳に装着する。鳴り響くシンフォニーは、自分の今の気持ちのように明るく弾んでいた。
餌皿を地面に置き、すぐさま部屋の外に飛び出す。扉をちょっとだけ開けて、窓からひょいと入り込んだ猫が、かふかふと可愛らしい音を立てながら餌を食べる様子を隙間から眺めていると、
「こぉら」
と背後から声がかかった。廊下と庭を区切る腰壁にもたれかかったカノンが、腕を組んで慧を見下ろしている。全く気配がしなかったので驚いたが、それよりも再会できた喜びの方が勝った。
慧は素早く立ち上がると、これから試合でも始めるかのような大仰さで深々とお辞儀をする。
「おはようございます、カノンさん」
「おはようじゃないよ、おはようじゃあ。それより先に何か言うことがあるんじゃないの?」
慧は首を傾げた。「言うべきこと」が何なのか本当に分からなかったのだ。カノンは呆れた様子で深々と息を吐き出すと、足を一歩前に踏み出した。
「餌やりをするなら、僕に一言言ってくれよ。餌代だって決して安くはないんだからさ」
カノンは勢いよく扉を開け放った。音に驚いた数匹の猫が窓から飛び出していったが、餌皿にありついていた猫は、カノンと慧を一瞥して、すぐに興味を失って食事を再開する。
カノンは不機嫌な表情を貼り付けたまま部屋に入り、猫の傍らにしゃがみ込んだ。
「来なよ」
「え?」
「君、気配がありすぎるんだ。それだけ存在感を放ってて猫が逃げないってことは、そういうことだよ」
逡巡していると、カノンがもう一度呼びかけてくる。慧は恐る恐るとカノンの隣にしゃがんで、猫の頭をそっと撫でた。
猫耳がピクっと震え、指に当たる。驚いて手を引っ込めた慧は、猫が逃げないと分かると、もう一度手を伸ばした。
今度は指先ではなく、掌をしっかりと頭部に乗せる。作り物ではない温かい感触に、胸の奥が騒めきを覚えた。
「……柔らかい」
「そりゃ猫だから」
「生きてる」
「そりゃ猫だから」
辺りを見回した。部屋に残った猫は慧には一切の関心を向けず、ひたすらに餌を食べ続ける。彼等の片耳は桜の花びらのように先端が欠けていて、彼等が管理された存在であることを示している。
「猫に名前はあるんすか?」
「名前なんてつけてないよ。ただでさえここにいる人は皆ペットみたいな名前をしてるのに、猫の名前なんて覚えてる余裕はないだろ。でも、適当に呼んだらどれか1匹は答えてくれるんじゃない?」
「カノンさんは普段、何て名前でこの子達を呼んでるんです?」
「……『可愛い』だよ。これが一番確実だ」
カノンは猫を撫でる。ぶっきらぼうな態度とは裏腹に、その手つきは優しい。
「カノンさんって猫が好きなんすか?」
「まあ。少なくとも人間よりはね」
慧の脳はカノンの皮肉な言動を濾過し、その中にある純粋な部分だけを抽出した。
「えへへ。俺もです。俺も猫、好き。一緒ですね」
だらしなく笑う慧に、カノンは胡乱な視線を向ける。
「……で、どうして餌やりなんかを? これ以上やるつもりなら、君にも餌代を要求するけどいい?」
カノンに問いかけられた途端、慧は俯いて、唇をもごもごと不明瞭に動かした。
「……から」
「ごめん、なんて?」
「だから、その……カノンさんにもう一度会いたかったんです。ここに来れば、カノンさんはきっと俺に話しかけにくるって、思ってましたから」
慧の頬はうっすらと赤く染まる。慧の目的がカノンには分からなかった。
「もしかして、まだうるさかった? 一応声は抑えたつもりなんだけど」
「いえ、決してその話がしたいわけではなくて!」
慌てて首を振る。とは言え、隣室から聞こえる声が自分の眠りを妨げているのは相変わらずだった。確かにカノンは声を控えめにしてくれているらしい。だが、どうしようもなく薄っぺらい壁を前に、その努力は意味を成さなかった。
声が溢れるのを精一杯我慢している様子が却って悩ましさを増幅させ、結局眠りの質は悪いままだ。
今はそのことについて話すつもりはない。今度こそ騒音問題が解決してしまったら、それはそれでもったいない気がしている。
「その……俺、この街に来るのが初めてだから、全然知り合いがいないんすよ。それで、もしよければカノンさんとはこれからも仲よくしたいなぁって……」
恥ずかしさから、語尾にいくにつれ声は萎んでいく。カノンのリアクションを横目で見ると、カノンは慧をじっと見つめていた。正しくは、彼の視線は全て慧の股間に集中している。
「君と仲よく……?」
「ちょっと、どこ見ながら話してるんすか!」
「だって、君がとっても意味ありげなことを言うから」
「仲良し(意味深)じゃないっすよぉ! 俺は本当に、あんたとただ、お喋りしたりとか、そういうことがしたいんです!」
空っぽの部屋に、慧の叫び声が虚しく響く。気がつけば猫は1匹残らず外に出てしまっていた。
「お喋り? 君と僕が? 何のために?」
カノンは目をまん丸と見開いて、本当に不思議そうにしている。
拒絶ではなく、当惑。刺々しさを感じさせる言葉遣いとは裏腹に、慧を見る目は純粋さを煮詰めた結晶のように透き通っている。
慧が何故ここまでカノンと仲よくしたいのか、カノンは理解していないのだ。だけど、慧自身も自分の感情を上手く説明できないのだから、仕方ないことなのかもしれない。
「ダメっすか」
「いや、別にダメってことはないけど……」
依然として都合のいい脳味噌は、カノンの「ダメってことはない」という言葉を「いい」と受け取った。胸中に喜びが込み上げ、慧は表情を綻ばせる。
「ありがとうございます!」
誰かと一緒にいたいと思うのに理屈がいるのだろうか。理由のない愛おしさを猫に抱くように、カノンとの距離をもっと近づけたいという衝動が慧の中にはあった。
「とにかく俺、明日もここに来るんで! 次会った時も仲良くしてやってください。じゃあまた!」
慧は再び直角のお辞儀をすると、さっと身を翻して部屋から飛び出していった。
「ちょ、ちょっと!」
カノンの呼び止める声が聞こえるが、脇目も振らずに走り続ける。走りながら、首に掛けていたヘッドフォンを耳に装着する。鳴り響くシンフォニーは、自分の今の気持ちのように明るく弾んでいた。
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