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書斎の獅子

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 華やかな洋館に対し、少しばかりレトロな書斎であった。
 様々な専門書が並ぶ備え付けの本棚や、重厚感のある机。
 そして応接用のテーブルにいたるまで。艶のある、しかし趣のある家具に囲まれている。
 
「そんなに緊張しなくていい」

 落ち着きのあるバリトンボイスが、上質な革張りの長椅子に座る彼の耳にひびく。

「とはいっても、私も実は緊張しているがね」

 そう言って薄く微笑んだ者。それが大嶌 恭太郎おおしま きょうたろう氏である。
 大嶌グループのトップに君臨し、この国の一端をにぎっていると言っても過言ではない男だ。
 
「あ、あの、僕。い、いきなり、お世話になりまして……」

 主がいないのに、屋敷に居候することになった身。陸斗は一向に力が抜けない状態で、どもりながら非礼を詫びた。
 しかし恭太郎は優しく目を細め、彼を見つめる。

「むしろ私の方から指示を出したのだよ。君が、家出をしたってお母様から聞いてね」
「えっ」

 そんなこと聞いたことがなかった。やはり母は、大嶌家と連絡を取り合っていたのだ。
 彼の心の中に、再びどんよりとしたモノが込み上げる。まるで、肉親に身売りされたような気分だった。
 
「君が、ご家族の間に複雑な問題を抱えているのも認識している」
「はぁ……」
「私は、君の力になりたいのだよ」

 思わずもらした不快げな声に気を悪くする様子もなく、彼は腕を小さく首をかしげて言う。
 
「そのためには、まず君のことを知りたい。お母様や周りから聞いた情報ではなく、生身の君自身を」
「!」

 綺麗に上がった口角。
 そう。この男もαの多分に漏れず、とても美しい容姿をしていた。
 容姿だけでない。聡明で知的、穏やかな物腰。さらに接する者を虜にする、なにか大人の男の色気のような――これがこの国のトップクラスのαと呼ばれる男のフェロモンなのか。

「僕は……」
「怖がらなくていい。むしろ、恐れているのは私かもしれないが」
「え?」
 
 彼は小さく肩をすくめ、ウィンクする。

「君のような若者に嫌われないかと、オジサンは必死なのさ」
「そんな!」

 とんでもない。むしろ、目の前の男の魅力にクラクラとしてしまいそうなのに。
 これが威圧のフェロモンでないのが、また彼がタダモノでない証明になっている。
 Ωを、しかも十代という若いそれを前にして飛びかからない方がすごいのだ。
 たいていが舌なめずりせんばかりに、迫ってくるというのに。発情期でなくても、そのただよってくるフェロモンで分かる者には分かる。
 そして抗えない。
 それが残酷なる、本能。忌まわしき、であると陸斗は思っていた。

「陸斗君、と呼んでいいかね」

 大きい手だが長い指を組んだ恭太郎が、瞳を優しげに細める。

「こう言ってはどうかと思うが――あぁ。すまない、もっとくつろいで。紅茶も、冷めてしまう前にどうぞ」
「あ、すみません……」

 目の前に置かれた、繊細なデザインのカップ。フルーティーな香りがただようそれに、慎重に口をつける。
 ふわりと広がる風味に、思わず傾けていたカップを戻す。
 昼間に飲んだ紅茶とはちがう。フレーバーティーといえばそうだが、溢れ出るみずみずしさというか。とにかく、深く染みわたる極上の味に驚く他はない 。
 まったくもって未知の味。ただそれが美味いということだけは、わかっていた。蠱惑的な、猛毒のように――。

「陸斗君」

 うっとりと雫を飲み下した時だった。
 すぐ近くで、男の声が聞こえる。

「あ、あの……」
「怖がらなくていい」

 気がつけば長椅子の、すぐ隣に座っていた。
 いつの間に、とか。なぜこんなに近いのか、なんて不審に思うヒマもなく。
 耳朶をなでるバリトンボイスに、小さく震えた。

「身体を楽にしなさい。そうだ、いい子だ」
「あ……ぁ」

(ち、力が)

 頭の中に突如として、前後不覚の霧が発生したようだ。
 下半身を中心に、ズンと重くなる。そして広がる熱に這い上がる、

「これ……っ……」

(まるで)

 発情期の時のような。いや、正確には少し違った。
 通常のそれを中に燃える炎とすれば、これはまるで遠火でじっくりと炙られるようだ。
 もどかしいとも思える熱に、緩慢かんまんに揺らぐ意識。
 知らず知らずのうちに焼き殺されてしまうんじゃないか、という恐怖に息が乱れた。

「大丈夫だ、あらがうな。私を信じて」
「きょ、きょたろ、さん……」

 思わず恭太郎にすがりつく。
 熱い、焦らすような熱がつらい。
 目の前の男だけが、この苦痛をや和らげてくれるような。そんな藁をもつかむ感情に追い込まれているのを、果たして彼は理解しているだろうか。
 
「たす、けて……」

(ああ。盛られた)

 これはなにかの薬の作用か。この紅茶には、きっと誘発剤がはいっているのだろう。
 絶望と羞恥が限りなく暗い色で、胸中に渦巻いていく。

(やはり、αなんて)

 エゴイストで冷血な、Ωを人とも思わないサディスティックな存在なんだと思い知らされる。
 悔しさに、悲しみに、怒りに握りしめた手からは薄く血がにじんでいるだろう。
 そんな痛みすら感じぬままに、目尻から涙を流した。

(一瞬でも、信じた僕がバカだった)

「呼吸をしなさい。ゆっくりと、ほら。吸って……吐いて」
「はぁ……っ……ぁ……ぅ」

 肩を抱く逞しい腕を、払いのけることすらできない。

 ――この男はつくづく美しい。
 四十は超えているだろうに、とうてい見えぬ若々しい容姿。強靭としか表現しようのない肉体は、まるで芸術作品のような造形美。
 まるでギリシャ神話を元につくられた、男神の像ごとく。
 服の上からでもわかるほどに見事であった。国籍、性別を問わず魅了する者とはこういう存在をいうのだろう。
 陸斗は自らの感情を裏切って、彼に媚びようとする自身を嫌悪した。
 
(やめろ。やめてくれ)

「きょ、恭太郎……さん……僕……」
「心配しなくていい。すぐに
「あぁ……っ……ぁ……で、でも……」

 耳元で吐かれる吐息も、性感を高めるには充分すぎた。
 
(あぁぁぁっ、ちからっ、ぬけちゃ……)

 もうすっかり座れなくなる。
 彼にしなだれかかる身体は、深い底なし沼に沈んでいくようなものだ。
 抗う術もなく、とろり蕩けていく意識に感情だけが悲鳴をあげていた。

「あっ……ぁ、あー……ぁ……」
「つらいなら私につかまっていなさい」
「や……ぁ、やだ……はつ、じょ……したく、なぃぃ……」

 今はまだ意識が混濁する程度だが、すぐにそれが濃い性的な色になる――そう思うと、焦りがつのる。

(このαに、抱かれるのか)

 組み伏せられて蹂躙される。もしかしたら、息子である太郎を拒絶する自分に対する報復かもしれない。
 単に、目の前に食えそうなΩがあるから手を出したに過ぎないのかも。

(最悪だ)

 しかしどこかで、何かが違うとも感じていた。

「陸斗君、落ち着きなさい」
「いやぁっ……さわ、ん、ないで……っ」

 するりと背中をなでられて震える。怖いのに、すがりたい。満たされたい。この雄に――。

「陸斗君、しっかりしなさい。よく私の声を聞くんだ」
「あ……ぅ……」

(あれ。なんか)

 小さな違和感が、ようやく感覚と繋がり始めた時だ。
 激しく扉を殴打する音が、思考を遮った

「おいテメェ!なにしやがった!!!」

 次の瞬間には。
 大きな怒号と同じくして、ドアがぶち破られたらしい。
 木片が飛び散り、重厚であったはずの空間が戦場のように化した。
 
「っ、陸斗!」

 語尾を震わせた、悲痛な叫びような声。
 それとともに、駆け寄らんとする者を彼はゆっくりと見あげる。

(太郎)

 そこには深い怒りと悲しみを滲ませ、息を荒らげた少年が仁王立ちしてたたずんでいた。

「あんたを、許さねぇ」

 ギッ、と強い殺意にも相当する視線をこちらに向けてくる。
  
「ひっ!?」
  
 またたく間にあの攻撃的なフェロモンが書斎中を満たしていく様に、陸斗は戦慄した。
 Ωだけでなく、βをも屈服させるそれはまさに威嚇いかく。猛獣に牙を剥かれた小動物のそれなのである。

「彼は、俺のもんだ。誰にもわたさねぇ」
「……やれやれ」

 呆れた様子で大きくため息をついたのは、父の恭太郎である。
 腰が抜けるのほどのフェロモンに、なんの反応を示していないようだ。
 震える陸斗の肩をあやすように抱きしめて、口を開く。

「今のお前は、彼を愛する資格など持たないな」
「!」

 それは姉の仁子が、弟である太郎に言ったセリフであった。
 少年の表情に、絶望が混じった――。
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