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恵一篇 (6)

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あたりが静まり返り、恵一はすべてが終わったことを悟った。戦闘中は、爆音が鳴り響き強い熱風が絶え間なく襲いかかり、身体を起こすこともできなかった。恵一は、ピックアップトラックの荷台に全身を伏せて震えていた。肉の焼ける匂いと火薬の匂いが漂う。恵一が、ようやく上半身を起こすと、眼下に広がるのは一面の焼け野原だった。恵一には目の前の光景が信じられなかった。今までのすべてが信じられない。士官学校で学んだことや、両親の顔や、弟の顔がぐるぐると頭の中を駆け巡る。言葉が出てこない。そこへ、藤永ミロと男が、肩を寄せ合うようにして恵一の待つピックアップトラックに向かって歩いてくる。恵一は、自分一人が生き残ったわけではないことをようやく悟った。咆哮したいほどの強い感情が襲ってくる。二人の顔は泥だらけで、アーマードスーツは、ところどころ壊れかけている。恵一が、声を上げようとしたその瞬間、ミロと男が、抱き合って口づけをした。それは深くすべてを飲み込むような口づけで、恵一は、自分の声が吸い込まれてしまったように感じた。
「坊主、生き延びたな」
とミロが声をかけた。恵一は呆然自失状態で、ミロに返事をすることもできなかった。ただ口をぽかんと開けて、ミロを見る。ミロは、ニヤリと笑って運転席に座り、イグニッションキーをまわした。ミロと一緒にいる男が助手席に座り、ドアを閉めた。恵一は、その男が坂本忍中佐であることを知らなかったが、二人が口づけを交わす様子から、男とミロが特別な関係にあることはわかった。
ミロは、トラックを運転しながら助手席の男とぼそぼそと何事かを話し合っている。恵一は、自分が生き延びたことをようやく実感し始めていた。焼け野原が途絶え、他の車両が周囲にぽつぽつと見えるようになってくる。信号が機能し始めている地域に入った。
赤信号でトラックが停止する。すると助手席に座る男が、いきなりミロを抱きしめ、再び激しい口づけをしている。こんなシーンを見るのは、友達からこっそり借りたエロのホロスコープ以外、あり得なかった。男は、さらにミロを押し倒すかのようにして彼女の身体をまさぐり始めていた。恵一は、目を離すことができない。
後ろから、いくつものクラクションが聞こえてくる。信号が青に変わったのだ。
ミロが何事かを短く言い、二人はようやく身体を離す。トラックは再び動き始めた。
ミロと忍は、その後もぼそぼそと何かを話合いながら、四谷基地本部へ向けてドライブを続けた。二人の会話は途絶えることなく続いたが、流暢で早口の英語と日本語が混ざり合っている上に、恵一のいる場所からは、話の内容までは聞き取れなかった。ときどき低い笑い声が聞こえてくる。二人の親密な様子が容易に想像できた。
気が付くともう四谷基地のエントランスに来ていた。守衛が常駐する強固なゲートを複数通過し、最後の門をくぐると、男はハンドルを握るミロの手を握り、エンジンを切らせた。男はそのままミロを抱き寄せ、二人はお互いを貪り合うように抱き合って口づけを交わす。恵一は、このようなものを見てはいけない気がしたがどうしても目を離すことができない。やがて、ミロが甘いうめき声を上げ始め、恵一は思わず身体の位置をずらしてもっとよく見ようとした。その途端、恵一の足の下にある装甲板のようなものを踏みつけ、大きな金属音を立ててしまう。ミロと男は、はっと我に返った。
「そういえば君がいたな、すまん」
と男が後ろを振り返って声をかけた。ミロは、荒い息を吐きながら、乱れた服装を直している。
「……!ごごご、ごめんなさい! ボ、ボクは、誰にも言いません、ごめんなさいごめんなさい!」
男ははははと声をたてて笑い、
「なに、誰に言っても構わないさ」
と言った。その声が終わるか終わらないかのうちに、ミロが再びエンジンをかけトラックを発進させた。トラックが、巨大な武器庫に近づくと、何名もの士官が飛び出して来た。
「坂本中佐!」
という叫び声が聞こえる。恵一は、そこで初めてこの大柄な男性が坂本忍中佐であることを知り、再び呆然となる。
「坂本中佐!」
というほとんど金切声のような悲痛な女性の叫び声が聞こえ、人混みの中から泣きながら村瀬中尉が飛び出して来た。
「中佐! ご無事でいらしたのですね!」
村瀬は人目も気にせずに大泣きしながら、前のめりで転びそうになりながら忍に駆け寄っていく。忍は、助手席のドアを開けて、村瀬に向かって歩いていき、村瀬中尉を抱きとめた。村瀬は狂ったように忍の胸の中で泣き続ける。恵一はそれを見て、激しく混乱した。坂本忍はさきほどまで、ここで藤永ミロと抱き合っていたのに。
「おい、坊主。降りろ。出張調査命令が出ているから、私はこのまま長春へ飛ぶ」
というミロの低い声が前から聞こえてきた。ミロは、ハンドルを握って前を向いたままだったから、彼女の表情はわからなかった。恵一がトラックから飛び降りた瞬間、ミロはトラックを急発進させ、あっという間に走り去った。

佐官クラスに昇進して以来、忍自身がKIWAを操縦したり白兵戦に参加したりすることは、めっきり少なくなった。司令官として本艦で指揮を執ることが多い。ミロはKIWAパイロットのエースなので、昇進後も恐らく前線に投入され続けるだろう。忍にとっては、久しぶりの白兵戦への参加で、アドレナリンが噴出している。そのため、セックスがしたくてたまらなかった。本当に抱きたいのはミロだった。共に戦ったのはミロだ。そして忍の気持ちを本当に理解できるのはミロしかいないし、何より忍が本当に誰よりも好きなのはミロだった。だから、ミロに香港への調査出張命令が出ているのは知っていたが、一晩共にしてから行かせるつもりだった。忍の権限があれば、その程度の都合は、いくらでもつく。
村瀬が飛び出して来たのは誤算だった。しかし、村瀬が、忍の生命を死ぬほど心配していたであろうことは容易に想像できるし、村瀬は、忍とミロの関係をまったく知らない。そういう村瀬の気持ちを無下にすることは忍にはできなかった。ミロには、それがわかっていた。
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