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第五章 寂滅の秋(とき)

第十五回 死病(後編)

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 久し振りに、釣りへ出ていた。
 弥陀山の麓。柏の森を流れる、いつもの渓流である。
 夏も終わりを迎え、幾分か涼しくなっていた。
 今回も釣法は友釣りである。先日、山人やまうどの集落を訪れた際、牟呂四に友釣りの要領コツを教わったのだ。そのおかげか、短い時間で清記の魚籠は、すっしりとした重さを感じられるようになっていた。
 三日前、添田に呼び出された。そこで、帯刀が決別するかのように席を立ち、そのまま所領の若宮庄へ帰っていた。執政府にも目立った動きもなく添田が差配し、渦中の兵部は所領に引っ込んだままだ。家中にも城下にも、兵部の家督相続についての話は漏れていない。

(今は平穏なのだが……)

 この静けさが、不気味だった。水面下では、色々と起きているのだろう。そろそろ雷蔵を呼び戻すべきかとも思ったが、こうした政争には関わらせたくないという思いもある。
 ここ数日、清記は塞いだように考え込んでいた。それ故の、釣りである。勧めたのは、三郎助だった。

「非番ですから、釣りでもどうです?」

 と、言ったのだ。そこは流石執事という所か。よく主人の心情を観察していると、感心したものだった。
 釣り糸を見つめ、暫く秋を感じさせる新涼の山風に身を任せた。

「此処にいたのか」

 振り向くと、牟呂四が立っていた。背には何やら荷物を背負っている。

「買い出しだったのか?」
「まぁね。米や野菜は、山じゃ採れねぇもんだからな。そのついでにお前さんの屋敷へ行くと、執事に釣りだと言われた。出直そうと思ったが、柏の森なら、集落ムレへの帰り道だしな」
「そうか。私に何か用か?」

 魚信アタリを感じた清記は、そう言いながらも竿を立た。綺麗な鮎だった。

「釣れているようだな」
「お前のおかげだ」

 清記は魚籠に鮎を放り込み、また竿を投げ入れた。生き餌はまだ十分に元気がある。

山人やまうどというのは、耳目がさとい」
「……」
「今、夜須には不穏な空気が流れているそうだな」
「さて、どうかな」
「他の山人に聞いたが、大量の獣皮の注文があったそうだ。それを依頼した商人というのが、犬山家の御用達だそうでなぁ」

 犬山。その名が牟呂四の口から出て、清記は竿を置いた。

「どうやら、犬山が原因のようだな。その商人が、こうも言ったそうだ。刀剣、弓、甲冑の類も集めていると」
「口が軽い商人だ」
「清記。そりゃ里人が、俺達を人間と思ってないからだぜ。だから口が軽くなるのよ」
「すまぬ」
「なぁに、お前が謝る筋じゃねぇよ。兎に角、この話は伝えた方がいいと思っただけさ」

 そう言って牟呂四は、微笑みを向けた。

「悪いな。だが、もう犬山には関わるな」
「判っているさ。山人は鼻も利くんでね」

 屋敷に戻り、魚籠を下男に預けた。中々の大量である。その釣果に、下男も驚いていた。

「屋敷の者だけでは食べきれん。養生所にも持って行ってくれないか。若幽は鮎が好きでな」

 下男は頷き、嬉々として駆けていった。今夜は鮎が食えるとも思ったのだろう。
 その夜は、鮎を突っつきながら、銚子をちびちびと傾けた。
 酒は強い方ではない。量より、少しずつ嗜む性質タチである。それでも、床に就く時は心地よい酔いを覚える。
 が、ここ最近は幾ら飲んでも酔う事はなかった。悩みが、酔わせないのである。
 どんなに考えても、答えが出るものでもないとは判っている。幕府の決定なのだ。どのような政治工作をした所で、それが覆る事はあり得ない。

(やはり、斬るしかないのか……)

 幕府の命令である以上、剣でしか利景の血統に戻す事は出来ない。だとすれば、それは帯刀ではなく自分の働き所ではないのか。
 それに、遺命がある。利景に託された、兵部暗殺の遺命が。それが、何よりも大きかった。もはや、斬るか斬らぬかではなく、いつ斬るかである。
 帯刀がどのような行動に出るか判らないが、清記の腹は決まった。いや、決まっていたのだ。
 だが、当然兵部も暗殺への備えはしているだろう。牟呂四が言った、武具の買い込み。そして兵部が独力で組織した、山筒隊と逸死隊。全ては夜須藩の為だと説明していたが、此処に至っては、兵部の為というのが明らかになった。
 山筒隊と逸死隊。これは、脅威である。馬鹿正直に相手をしたのでは、命が幾つあっても足りるものではない。だからとて、諦めるつもりもないが。

(何があろうと、利景様の最後の命令を果たすのみ)

 清記は、傍に置いていた扶桑正宗を手に取った。
 長く付き合ってきた、相棒。この刀で、数多くの命を奪ってきた。親しい者でさえも。全ては栄生家に命じられ、栄生家を助ける為だった。その最後に、栄生一門の血を吸う。なんと皮肉な事か。

(どうせ、長くない命だ)

 腹で飼っている獣は、次第と暴れる間隔が短くなってきている。食欲も、以前に比べて落ちているように思える。
 死にゆく命ならば、利景へ最後のご奉公をするのみ。それは決めているが、雷蔵や家人をどうするか。それが悩みの種だ。
 雷蔵を共にする気はない。だが、〔大逆人の子〕と後ろ指を刺されるであろうし、共に罪を負う事も考えられる。家人達も、次の雇い先を見付けるのは難しい。

(雷蔵は夜須から逃す。家人には銭を分け与えよう)

 それしかない。甚だ身勝手な事だが、平山家が犬山の世で生きる事など受け入れられない。
 その時だった。臓腑から突き上げる強い衝撃を覚えた。
 腹を抑え、思わず前屈みになった。身体が震える。そして、悪寒。それなのに、汗が滲み出ていく。
 第二波が来た。何かが、突き上げられる。気持ち悪さ。それを覚えた時には、畳の上に深紅の花が咲いた。身体が倒れていく。それに抗う事が出来ない。
 障子が荒々しく開けられた。声。三郎助が何か叫んでいる。

「騒ぐな」

 そう呟いたが、意識は薄れていった。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 目が覚めた時には、清記は床の中にいた。
 自分の部屋だ。身体を起こすと、すぐに抱き留められた。三郎助だった。

「ご無理をなされずに」

 若干の倦怠感はあるが、気分は悪くなかった。腹の獣も暴れ疲れたのか、すっかり静まっている。

「喉が渇いた」

 そう言うと、三郎助が下女を呼び水を用意させた。清記の顔を見てか、安堵の表情を浮かべる。
 冷まし湯が用意され、少しずつ口に流し込んだ。

「何日寝ていた?」
「二日と半日でございます」

 外は雨が降っていた。それで蒸しているのであろう。

「それほどか。その間、変わりはないか?」
「ええ。家中は私が、代官所は磯田殿がまとめておりますから」
「藩庁はどうだ?」
「藩庁ですか? 特に、何も聞いておりませぬが」
「そうか」
「それよりもです、殿。何故、病だという事をお隠しになられていたのですか」
「喚くな」
「喚きますとも。私は平山家執事でございますぞ。早く言ってくだされば、このような事にならぬものを」
「死病だ。言っても言わなくても同じ事」

 そう言うと、三郎助が悲壮な顔で首を振った。聞きたくない。そう言わんがばかりにである。

「何を弱気な。若幽を呼びます。治療をしっかりと受けてもらいますぞ」

 部屋を飛び出した三郎助が、若幽を引き連れて戻ってきた。
 診察はすぐに始まった。若幽は漢方だけでなく、長崎で西洋医学も治めた蘭方医である。御典医に登用されるほどの腕前だが、民衆の医者でありたいという希望から、平山家に雇われている。
 見慣れない器具を使っての診察は、半刻ほど続いた。

「死病であろう、若幽」

 そう訊くと、若幽は目を瞑り、暫くして頷いた。

「やはりな」
「楢塚、貴様という奴は」
「三郎助、控えよ」

 声を荒げた三郎助を、清記は止めた。

「若幽は、自分の職分を果たしたまでだ。……それで、若幽。私はあとどれほど生きられるのだろうか?」
「私は、幾人か同じ症状の患者を見てまいりました。その経験から言うと、養生して一年。早くて半年」
「そうか……」

 決意が、より固まった。あと半年。その間の内に、必ず兵部の首を獲る。その為の算段も、今日より始める。

「雷蔵には言ったのか?」
「ええ。昨日、お見舞いに来られました。また来られるそうですが」
「病気の事は伏せて欲しい。家中にもだ。過労という事にしてくれないか」

 若幽は頷いた。元より、患者の症状についてあれこれ語る医者ではないとは判っている。
 三郎助は今にも泣き出しそうな表情を浮かべたが

「見栄を張りたいのだ、死ぬまで」

 と言うと、何とか納得してくれた。
 その夜は粥を流し込み、ぐっすりと眠った。翌日には、磯田が下役を引き連れて見舞いに現れた。その日の午後には、どこから話を聞きつけたのか、牟呂四から精がつく猪肉と薬草、羽合からは御種人参が届けられた。
 おおやけには過労という事になっている。そう三郎助が届け出たからだ。その三郎助は病名を知った翌日から平然として、いつも通りに振舞っていた。そこに、執事としての年季を感じる。
 また夜には廉平が姿を見せた。廉平にだけは、兵部の一件を伝えている。
 廉平には、藩庁と城下の様子を探らせていた。間違っても、兵部や孫一には近付くなと命じている。報告では、まだ藩庁に動きは無いという。そして、この静けさこそ不気味だとも。

「この際、ゆっくり休んでくだせい。お互い若くねぇんですから」

 清記は苦笑いを浮かべた。廉平には、病気の事を言っていない。
 そうした中で雷蔵が再び現れたのは、目が覚めて七日後の事だった。その頃には床上し、普段通り動けるようになっていた。

「中々来れずに申し訳ありません」

 暫く見ないうちに、雷蔵の顔が精悍なものに変貌していた。これが成長というものだろうか。親の手元に置くより、それは早い。

「顔色もよさそうで。思ったよりお元気そうで何よりです」
「過労だ。私もそう若くないという事だな」
「無理が祟ったのでしょう。深江へのお役目の後は、利景様のご逝去ですから。羽合殿も心配しておられました」

 雷蔵が、口許に微かな笑みを浮かべた。その表情が、実に亡き妻に似ている。

「どうだ、町奉行所は?」
「十手の重みに慣れてきましたよ。ですが、大変なお役目です。下手人を追って市井を駆け巡り、奉行所に戻っては城下まちの政事を司らなければならない。代官所とやる事には変わりないのですが、如何せん広いのです。管轄する範囲も、見るべき人間の種類も」
「だが、鍛えられただろう?」

 雷蔵は、深く頷いた。

「他には?」
「役人も色々いるのですね、父上。賄賂を取る奴、やくざとつるむ奴、律儀に務める奴。その中で、仲良くしていかなければならない。これが一番骨でした」

 雷蔵には、町奉行所の仕事よりも人々の中での事の方が学びがあったようだ。改めて、この機会を与えてくれた羽合には感謝しなくてはならない。

「雷蔵」

 清記は名を呼んだ。雷蔵が顔を向ける。少しずつ、大人の顔立ちになってきている。

「そろそろ、お前に家督を譲ろうと思っている」

 その一言に驚いたのか、流石の雷蔵も涼しい顔を思わず崩した。

「父上。お倒れになったと言え、まだ老け込むには早くありませんか?」
「どうせ、お前が後を継ぐのだ。私は隠居の身でお前を補佐する」
「私など、まだまだ未熟です」
「だから、補佐をするのだ。家中には三郎助、代官所には磯田。それに宇治原や廉平もいるのだ。心配する事もない」

 雷蔵の目が、真っ直ぐに見つめてくる。何かを測っているつもりなのか。わが子ながら、何とも禍々しい。そして、この一年でここまで変わったのかと、驚かされる。

「いずれの話だ。今日明日のような話ではない」
「判りました。ならば、そのつもりで準備をします。しかし」
「なんだ?」
「御別家の家臣にはなりたくないですね」
「おい、その話を誰に聞いた? 羽合か?」

 すると、雷蔵が首を振った。

「若宮様ですよ」
「帯刀様が?」
「ええ。誘われましたよ、二人で斬らんか? と」
「それで、お前は何と答えた?」
「私に人殺しの命を下せるのは、父上だけだと」

 そう言って雷蔵は鼻を鳴らし、冷笑を浮かべた。

「兎に角、私は御別家の家臣など御免です」
「それを言った所で、どうしようもないぞ」
「ええ。ですが、私はいつまでも亡き殿の臣ですよ」

 雷蔵は一礼をして、屋敷を辞去した。今も大きな事件を追って忙しいらしい。その合間を縫っての見舞いだった。
 清記は、誰もいなくなった部屋で横になった。床上したとは言え、まだ本調子とは言い難い。

(あの子は、私を許しておらぬな)

 雷蔵の視線が、脳裏に浮かんだ。
 眞鶴を斬れと命じた事。それが、父子の間に大きな溝を生んだ。
 元より、その件について許しを乞うつもりもない。それに、冷酷な判断をした事に後悔はしていないのだ。ああしなければ、雷蔵は勤王派に通じた疑いを持たれ、藩庁から追求の手が伸びる所だったのだ。
 雷蔵を守る為。そう言ってしまうのは、親の独善だろうか。

(雷蔵には、何も言うまい)

 今回こそは、全て一人で決する。そして雷蔵には、新たな人生を歩んで欲しい。
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