106 / 145
第五章 寂滅の秋(とき)
第十五回 死病(後編)
しおりを挟む
久し振りに、釣りへ出ていた。
弥陀山の麓。柏の森を流れる、いつもの渓流である。
夏も終わりを迎え、幾分か涼しくなっていた。
今回も釣法は友釣りである。先日、山人の集落を訪れた際、牟呂四に友釣りの要領を教わったのだ。そのおかげか、短い時間で清記の魚籠は、すっしりとした重さを感じられるようになっていた。
三日前、添田に呼び出された。そこで、帯刀が決別するかのように席を立ち、そのまま所領の若宮庄へ帰っていた。執政府にも目立った動きもなく添田が差配し、渦中の兵部は所領に引っ込んだままだ。家中にも城下にも、兵部の家督相続についての話は漏れていない。
(今は平穏なのだが……)
この静けさが、不気味だった。水面下では、色々と起きているのだろう。そろそろ雷蔵を呼び戻すべきかとも思ったが、こうした政争には関わらせたくないという思いもある。
ここ数日、清記は塞いだように考え込んでいた。それ故の、釣りである。勧めたのは、三郎助だった。
「非番ですから、釣りでもどうです?」
と、言ったのだ。そこは流石執事という所か。よく主人の心情を観察していると、感心したものだった。
釣り糸を見つめ、暫く秋を感じさせる新涼の山風に身を任せた。
「此処にいたのか」
振り向くと、牟呂四が立っていた。背には何やら荷物を背負っている。
「買い出しだったのか?」
「まぁね。米や野菜は、山じゃ採れねぇもんだからな。そのついでにお前さんの屋敷へ行くと、執事に釣りだと言われた。出直そうと思ったが、柏の森なら、集落への帰り道だしな」
「そうか。私に何か用か?」
魚信を感じた清記は、そう言いながらも竿を立た。綺麗な鮎だった。
「釣れているようだな」
「お前のおかげだ」
清記は魚籠に鮎を放り込み、また竿を投げ入れた。生き餌はまだ十分に元気がある。
「山人というのは、耳目が敏い」
「……」
「今、夜須には不穏な空気が流れているそうだな」
「さて、どうかな」
「他の山人に聞いたが、大量の獣皮の注文があったそうだ。それを依頼した商人というのが、犬山家の御用達だそうでなぁ」
犬山。その名が牟呂四の口から出て、清記は竿を置いた。
「どうやら、犬山が原因のようだな。その商人が、こうも言ったそうだ。刀剣、弓、甲冑の類も集めていると」
「口が軽い商人だ」
「清記。そりゃ里人が、俺達を人間と思ってないからだぜ。だから口が軽くなるのよ」
「すまぬ」
「なぁに、お前が謝る筋じゃねぇよ。兎に角、この話は伝えた方がいいと思っただけさ」
そう言って牟呂四は、微笑みを向けた。
「悪いな。だが、もう犬山には関わるな」
「判っているさ。山人は鼻も利くんでね」
屋敷に戻り、魚籠を下男に預けた。中々の大量である。その釣果に、下男も驚いていた。
「屋敷の者だけでは食べきれん。養生所にも持って行ってくれないか。若幽は鮎が好きでな」
下男は頷き、嬉々として駆けていった。今夜は鮎が食えるとも思ったのだろう。
その夜は、鮎を突っつきながら、銚子をちびちびと傾けた。
酒は強い方ではない。量より、少しずつ嗜む性質である。それでも、床に就く時は心地よい酔いを覚える。
が、ここ最近は幾ら飲んでも酔う事はなかった。悩みが、酔わせないのである。
どんなに考えても、答えが出るものでもないとは判っている。幕府の決定なのだ。どのような政治工作をした所で、それが覆る事はあり得ない。
(やはり、斬るしかないのか……)
幕府の命令である以上、剣でしか利景の血統に戻す事は出来ない。だとすれば、それは帯刀ではなく自分の働き所ではないのか。
それに、遺命がある。利景に託された、兵部暗殺の遺命が。それが、何よりも大きかった。もはや、斬るか斬らぬかではなく、いつ斬るかである。
帯刀がどのような行動に出るか判らないが、清記の腹は決まった。いや、決まっていたのだ。
だが、当然兵部も暗殺への備えはしているだろう。牟呂四が言った、武具の買い込み。そして兵部が独力で組織した、山筒隊と逸死隊。全ては夜須藩の為だと説明していたが、此処に至っては、兵部の為というのが明らかになった。
山筒隊と逸死隊。これは、脅威である。馬鹿正直に相手をしたのでは、命が幾つあっても足りるものではない。だからとて、諦めるつもりもないが。
(何があろうと、利景様の最後の命令を果たすのみ)
清記は、傍に置いていた扶桑正宗を手に取った。
長く付き合ってきた、相棒。この刀で、数多くの命を奪ってきた。親しい者でさえも。全ては栄生家に命じられ、栄生家を助ける為だった。その最後に、栄生一門の血を吸う。なんと皮肉な事か。
(どうせ、長くない命だ)
腹で飼っている獣は、次第と暴れる間隔が短くなってきている。食欲も、以前に比べて落ちているように思える。
死にゆく命ならば、利景へ最後のご奉公をするのみ。それは決めているが、雷蔵や家人をどうするか。それが悩みの種だ。
雷蔵を共にする気はない。だが、〔大逆人の子〕と後ろ指を刺されるであろうし、共に罪を負う事も考えられる。家人達も、次の雇い先を見付けるのは難しい。
(雷蔵は夜須から逃す。家人には銭を分け与えよう)
それしかない。甚だ身勝手な事だが、平山家が犬山の世で生きる事など受け入れられない。
その時だった。臓腑から突き上げる強い衝撃を覚えた。
腹を抑え、思わず前屈みになった。身体が震える。そして、悪寒。それなのに、汗が滲み出ていく。
第二波が来た。何かが、突き上げられる。気持ち悪さ。それを覚えた時には、畳の上に深紅の花が咲いた。身体が倒れていく。それに抗う事が出来ない。
障子が荒々しく開けられた。声。三郎助が何か叫んでいる。
「騒ぐな」
そう呟いたが、意識は薄れていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
目が覚めた時には、清記は床の中にいた。
自分の部屋だ。身体を起こすと、すぐに抱き留められた。三郎助だった。
「ご無理をなされずに」
若干の倦怠感はあるが、気分は悪くなかった。腹の獣も暴れ疲れたのか、すっかり静まっている。
「喉が渇いた」
そう言うと、三郎助が下女を呼び水を用意させた。清記の顔を見てか、安堵の表情を浮かべる。
冷まし湯が用意され、少しずつ口に流し込んだ。
「何日寝ていた?」
「二日と半日でございます」
外は雨が降っていた。それで蒸しているのであろう。
「それほどか。その間、変わりはないか?」
「ええ。家中は私が、代官所は磯田殿がまとめておりますから」
「藩庁はどうだ?」
「藩庁ですか? 特に、何も聞いておりませぬが」
「そうか」
「それよりもです、殿。何故、病だという事をお隠しになられていたのですか」
「喚くな」
「喚きますとも。私は平山家執事でございますぞ。早く言ってくだされば、このような事にならぬものを」
「死病だ。言っても言わなくても同じ事」
そう言うと、三郎助が悲壮な顔で首を振った。聞きたくない。そう言わんがばかりにである。
「何を弱気な。若幽を呼びます。治療をしっかりと受けてもらいますぞ」
部屋を飛び出した三郎助が、若幽を引き連れて戻ってきた。
診察はすぐに始まった。若幽は漢方だけでなく、長崎で西洋医学も治めた蘭方医である。御典医に登用されるほどの腕前だが、民衆の医者でありたいという希望から、平山家に雇われている。
見慣れない器具を使っての診察は、半刻ほど続いた。
「死病であろう、若幽」
そう訊くと、若幽は目を瞑り、暫くして頷いた。
「やはりな」
「楢塚、貴様という奴は」
「三郎助、控えよ」
声を荒げた三郎助を、清記は止めた。
「若幽は、自分の職分を果たしたまでだ。……それで、若幽。私はあとどれほど生きられるのだろうか?」
「私は、幾人か同じ症状の患者を見てまいりました。その経験から言うと、養生して一年。早くて半年」
「そうか……」
決意が、より固まった。あと半年。その間の内に、必ず兵部の首を獲る。その為の算段も、今日より始める。
「雷蔵には言ったのか?」
「ええ。昨日、お見舞いに来られました。また来られるそうですが」
「病気の事は伏せて欲しい。家中にもだ。過労という事にしてくれないか」
若幽は頷いた。元より、患者の症状についてあれこれ語る医者ではないとは判っている。
三郎助は今にも泣き出しそうな表情を浮かべたが
「見栄を張りたいのだ、死ぬまで」
と言うと、何とか納得してくれた。
その夜は粥を流し込み、ぐっすりと眠った。翌日には、磯田が下役を引き連れて見舞いに現れた。その日の午後には、どこから話を聞きつけたのか、牟呂四から精がつく猪肉と薬草、羽合からは御種人参が届けられた。
公には過労という事になっている。そう三郎助が届け出たからだ。その三郎助は病名を知った翌日から平然として、いつも通りに振舞っていた。そこに、執事としての年季を感じる。
また夜には廉平が姿を見せた。廉平にだけは、兵部の一件を伝えている。
廉平には、藩庁と城下の様子を探らせていた。間違っても、兵部や孫一には近付くなと命じている。報告では、まだ藩庁に動きは無いという。そして、この静けさこそ不気味だとも。
「この際、ゆっくり休んでくだせい。お互い若くねぇんですから」
清記は苦笑いを浮かべた。廉平には、病気の事を言っていない。
そうした中で雷蔵が再び現れたのは、目が覚めて七日後の事だった。その頃には床上し、普段通り動けるようになっていた。
「中々来れずに申し訳ありません」
暫く見ないうちに、雷蔵の顔が精悍なものに変貌していた。これが成長というものだろうか。親の手元に置くより、それは早い。
「顔色もよさそうで。思ったよりお元気そうで何よりです」
「過労だ。私もそう若くないという事だな」
「無理が祟ったのでしょう。深江へのお役目の後は、利景様のご逝去ですから。羽合殿も心配しておられました」
雷蔵が、口許に微かな笑みを浮かべた。その表情が、実に亡き妻に似ている。
「どうだ、町奉行所は?」
「十手の重みに慣れてきましたよ。ですが、大変なお役目です。下手人を追って市井を駆け巡り、奉行所に戻っては城下の政事を司らなければならない。代官所とやる事には変わりないのですが、如何せん広いのです。管轄する範囲も、見るべき人間の種類も」
「だが、鍛えられただろう?」
雷蔵は、深く頷いた。
「他には?」
「役人も色々いるのですね、父上。賄賂を取る奴、やくざとつるむ奴、律儀に務める奴。その中で、仲良くしていかなければならない。これが一番骨でした」
雷蔵には、町奉行所の仕事よりも人々の中での事の方が学びがあったようだ。改めて、この機会を与えてくれた羽合には感謝しなくてはならない。
「雷蔵」
清記は名を呼んだ。雷蔵が顔を向ける。少しずつ、大人の顔立ちになってきている。
「そろそろ、お前に家督を譲ろうと思っている」
その一言に驚いたのか、流石の雷蔵も涼しい顔を思わず崩した。
「父上。お倒れになったと言え、まだ老け込むには早くありませんか?」
「どうせ、お前が後を継ぐのだ。私は隠居の身でお前を補佐する」
「私など、まだまだ未熟です」
「だから、補佐をするのだ。家中には三郎助、代官所には磯田。それに宇治原や廉平もいるのだ。心配する事もない」
雷蔵の目が、真っ直ぐに見つめてくる。何かを測っているつもりなのか。わが子ながら、何とも禍々しい。そして、この一年でここまで変わったのかと、驚かされる。
「いずれの話だ。今日明日のような話ではない」
「判りました。ならば、そのつもりで準備をします。しかし」
「なんだ?」
「御別家の家臣にはなりたくないですね」
「おい、その話を誰に聞いた? 羽合か?」
すると、雷蔵が首を振った。
「若宮様ですよ」
「帯刀様が?」
「ええ。誘われましたよ、二人で斬らんか? と」
「それで、お前は何と答えた?」
「私に人殺しの命を下せるのは、父上だけだと」
そう言って雷蔵は鼻を鳴らし、冷笑を浮かべた。
「兎に角、私は御別家の家臣など御免です」
「それを言った所で、どうしようもないぞ」
「ええ。ですが、私はいつまでも亡き殿の臣ですよ」
雷蔵は一礼をして、屋敷を辞去した。今も大きな事件を追って忙しいらしい。その合間を縫っての見舞いだった。
清記は、誰もいなくなった部屋で横になった。床上したとは言え、まだ本調子とは言い難い。
(あの子は、私を許しておらぬな)
雷蔵の視線が、脳裏に浮かんだ。
眞鶴を斬れと命じた事。それが、父子の間に大きな溝を生んだ。
元より、その件について許しを乞うつもりもない。それに、冷酷な判断をした事に後悔はしていないのだ。ああしなければ、雷蔵は勤王派に通じた疑いを持たれ、藩庁から追求の手が伸びる所だったのだ。
雷蔵を守る為。そう言ってしまうのは、親の独善だろうか。
(雷蔵には、何も言うまい)
今回こそは、全て一人で決する。そして雷蔵には、新たな人生を歩んで欲しい。
弥陀山の麓。柏の森を流れる、いつもの渓流である。
夏も終わりを迎え、幾分か涼しくなっていた。
今回も釣法は友釣りである。先日、山人の集落を訪れた際、牟呂四に友釣りの要領を教わったのだ。そのおかげか、短い時間で清記の魚籠は、すっしりとした重さを感じられるようになっていた。
三日前、添田に呼び出された。そこで、帯刀が決別するかのように席を立ち、そのまま所領の若宮庄へ帰っていた。執政府にも目立った動きもなく添田が差配し、渦中の兵部は所領に引っ込んだままだ。家中にも城下にも、兵部の家督相続についての話は漏れていない。
(今は平穏なのだが……)
この静けさが、不気味だった。水面下では、色々と起きているのだろう。そろそろ雷蔵を呼び戻すべきかとも思ったが、こうした政争には関わらせたくないという思いもある。
ここ数日、清記は塞いだように考え込んでいた。それ故の、釣りである。勧めたのは、三郎助だった。
「非番ですから、釣りでもどうです?」
と、言ったのだ。そこは流石執事という所か。よく主人の心情を観察していると、感心したものだった。
釣り糸を見つめ、暫く秋を感じさせる新涼の山風に身を任せた。
「此処にいたのか」
振り向くと、牟呂四が立っていた。背には何やら荷物を背負っている。
「買い出しだったのか?」
「まぁね。米や野菜は、山じゃ採れねぇもんだからな。そのついでにお前さんの屋敷へ行くと、執事に釣りだと言われた。出直そうと思ったが、柏の森なら、集落への帰り道だしな」
「そうか。私に何か用か?」
魚信を感じた清記は、そう言いながらも竿を立た。綺麗な鮎だった。
「釣れているようだな」
「お前のおかげだ」
清記は魚籠に鮎を放り込み、また竿を投げ入れた。生き餌はまだ十分に元気がある。
「山人というのは、耳目が敏い」
「……」
「今、夜須には不穏な空気が流れているそうだな」
「さて、どうかな」
「他の山人に聞いたが、大量の獣皮の注文があったそうだ。それを依頼した商人というのが、犬山家の御用達だそうでなぁ」
犬山。その名が牟呂四の口から出て、清記は竿を置いた。
「どうやら、犬山が原因のようだな。その商人が、こうも言ったそうだ。刀剣、弓、甲冑の類も集めていると」
「口が軽い商人だ」
「清記。そりゃ里人が、俺達を人間と思ってないからだぜ。だから口が軽くなるのよ」
「すまぬ」
「なぁに、お前が謝る筋じゃねぇよ。兎に角、この話は伝えた方がいいと思っただけさ」
そう言って牟呂四は、微笑みを向けた。
「悪いな。だが、もう犬山には関わるな」
「判っているさ。山人は鼻も利くんでね」
屋敷に戻り、魚籠を下男に預けた。中々の大量である。その釣果に、下男も驚いていた。
「屋敷の者だけでは食べきれん。養生所にも持って行ってくれないか。若幽は鮎が好きでな」
下男は頷き、嬉々として駆けていった。今夜は鮎が食えるとも思ったのだろう。
その夜は、鮎を突っつきながら、銚子をちびちびと傾けた。
酒は強い方ではない。量より、少しずつ嗜む性質である。それでも、床に就く時は心地よい酔いを覚える。
が、ここ最近は幾ら飲んでも酔う事はなかった。悩みが、酔わせないのである。
どんなに考えても、答えが出るものでもないとは判っている。幕府の決定なのだ。どのような政治工作をした所で、それが覆る事はあり得ない。
(やはり、斬るしかないのか……)
幕府の命令である以上、剣でしか利景の血統に戻す事は出来ない。だとすれば、それは帯刀ではなく自分の働き所ではないのか。
それに、遺命がある。利景に託された、兵部暗殺の遺命が。それが、何よりも大きかった。もはや、斬るか斬らぬかではなく、いつ斬るかである。
帯刀がどのような行動に出るか判らないが、清記の腹は決まった。いや、決まっていたのだ。
だが、当然兵部も暗殺への備えはしているだろう。牟呂四が言った、武具の買い込み。そして兵部が独力で組織した、山筒隊と逸死隊。全ては夜須藩の為だと説明していたが、此処に至っては、兵部の為というのが明らかになった。
山筒隊と逸死隊。これは、脅威である。馬鹿正直に相手をしたのでは、命が幾つあっても足りるものではない。だからとて、諦めるつもりもないが。
(何があろうと、利景様の最後の命令を果たすのみ)
清記は、傍に置いていた扶桑正宗を手に取った。
長く付き合ってきた、相棒。この刀で、数多くの命を奪ってきた。親しい者でさえも。全ては栄生家に命じられ、栄生家を助ける為だった。その最後に、栄生一門の血を吸う。なんと皮肉な事か。
(どうせ、長くない命だ)
腹で飼っている獣は、次第と暴れる間隔が短くなってきている。食欲も、以前に比べて落ちているように思える。
死にゆく命ならば、利景へ最後のご奉公をするのみ。それは決めているが、雷蔵や家人をどうするか。それが悩みの種だ。
雷蔵を共にする気はない。だが、〔大逆人の子〕と後ろ指を刺されるであろうし、共に罪を負う事も考えられる。家人達も、次の雇い先を見付けるのは難しい。
(雷蔵は夜須から逃す。家人には銭を分け与えよう)
それしかない。甚だ身勝手な事だが、平山家が犬山の世で生きる事など受け入れられない。
その時だった。臓腑から突き上げる強い衝撃を覚えた。
腹を抑え、思わず前屈みになった。身体が震える。そして、悪寒。それなのに、汗が滲み出ていく。
第二波が来た。何かが、突き上げられる。気持ち悪さ。それを覚えた時には、畳の上に深紅の花が咲いた。身体が倒れていく。それに抗う事が出来ない。
障子が荒々しく開けられた。声。三郎助が何か叫んでいる。
「騒ぐな」
そう呟いたが、意識は薄れていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
目が覚めた時には、清記は床の中にいた。
自分の部屋だ。身体を起こすと、すぐに抱き留められた。三郎助だった。
「ご無理をなされずに」
若干の倦怠感はあるが、気分は悪くなかった。腹の獣も暴れ疲れたのか、すっかり静まっている。
「喉が渇いた」
そう言うと、三郎助が下女を呼び水を用意させた。清記の顔を見てか、安堵の表情を浮かべる。
冷まし湯が用意され、少しずつ口に流し込んだ。
「何日寝ていた?」
「二日と半日でございます」
外は雨が降っていた。それで蒸しているのであろう。
「それほどか。その間、変わりはないか?」
「ええ。家中は私が、代官所は磯田殿がまとめておりますから」
「藩庁はどうだ?」
「藩庁ですか? 特に、何も聞いておりませぬが」
「そうか」
「それよりもです、殿。何故、病だという事をお隠しになられていたのですか」
「喚くな」
「喚きますとも。私は平山家執事でございますぞ。早く言ってくだされば、このような事にならぬものを」
「死病だ。言っても言わなくても同じ事」
そう言うと、三郎助が悲壮な顔で首を振った。聞きたくない。そう言わんがばかりにである。
「何を弱気な。若幽を呼びます。治療をしっかりと受けてもらいますぞ」
部屋を飛び出した三郎助が、若幽を引き連れて戻ってきた。
診察はすぐに始まった。若幽は漢方だけでなく、長崎で西洋医学も治めた蘭方医である。御典医に登用されるほどの腕前だが、民衆の医者でありたいという希望から、平山家に雇われている。
見慣れない器具を使っての診察は、半刻ほど続いた。
「死病であろう、若幽」
そう訊くと、若幽は目を瞑り、暫くして頷いた。
「やはりな」
「楢塚、貴様という奴は」
「三郎助、控えよ」
声を荒げた三郎助を、清記は止めた。
「若幽は、自分の職分を果たしたまでだ。……それで、若幽。私はあとどれほど生きられるのだろうか?」
「私は、幾人か同じ症状の患者を見てまいりました。その経験から言うと、養生して一年。早くて半年」
「そうか……」
決意が、より固まった。あと半年。その間の内に、必ず兵部の首を獲る。その為の算段も、今日より始める。
「雷蔵には言ったのか?」
「ええ。昨日、お見舞いに来られました。また来られるそうですが」
「病気の事は伏せて欲しい。家中にもだ。過労という事にしてくれないか」
若幽は頷いた。元より、患者の症状についてあれこれ語る医者ではないとは判っている。
三郎助は今にも泣き出しそうな表情を浮かべたが
「見栄を張りたいのだ、死ぬまで」
と言うと、何とか納得してくれた。
その夜は粥を流し込み、ぐっすりと眠った。翌日には、磯田が下役を引き連れて見舞いに現れた。その日の午後には、どこから話を聞きつけたのか、牟呂四から精がつく猪肉と薬草、羽合からは御種人参が届けられた。
公には過労という事になっている。そう三郎助が届け出たからだ。その三郎助は病名を知った翌日から平然として、いつも通りに振舞っていた。そこに、執事としての年季を感じる。
また夜には廉平が姿を見せた。廉平にだけは、兵部の一件を伝えている。
廉平には、藩庁と城下の様子を探らせていた。間違っても、兵部や孫一には近付くなと命じている。報告では、まだ藩庁に動きは無いという。そして、この静けさこそ不気味だとも。
「この際、ゆっくり休んでくだせい。お互い若くねぇんですから」
清記は苦笑いを浮かべた。廉平には、病気の事を言っていない。
そうした中で雷蔵が再び現れたのは、目が覚めて七日後の事だった。その頃には床上し、普段通り動けるようになっていた。
「中々来れずに申し訳ありません」
暫く見ないうちに、雷蔵の顔が精悍なものに変貌していた。これが成長というものだろうか。親の手元に置くより、それは早い。
「顔色もよさそうで。思ったよりお元気そうで何よりです」
「過労だ。私もそう若くないという事だな」
「無理が祟ったのでしょう。深江へのお役目の後は、利景様のご逝去ですから。羽合殿も心配しておられました」
雷蔵が、口許に微かな笑みを浮かべた。その表情が、実に亡き妻に似ている。
「どうだ、町奉行所は?」
「十手の重みに慣れてきましたよ。ですが、大変なお役目です。下手人を追って市井を駆け巡り、奉行所に戻っては城下の政事を司らなければならない。代官所とやる事には変わりないのですが、如何せん広いのです。管轄する範囲も、見るべき人間の種類も」
「だが、鍛えられただろう?」
雷蔵は、深く頷いた。
「他には?」
「役人も色々いるのですね、父上。賄賂を取る奴、やくざとつるむ奴、律儀に務める奴。その中で、仲良くしていかなければならない。これが一番骨でした」
雷蔵には、町奉行所の仕事よりも人々の中での事の方が学びがあったようだ。改めて、この機会を与えてくれた羽合には感謝しなくてはならない。
「雷蔵」
清記は名を呼んだ。雷蔵が顔を向ける。少しずつ、大人の顔立ちになってきている。
「そろそろ、お前に家督を譲ろうと思っている」
その一言に驚いたのか、流石の雷蔵も涼しい顔を思わず崩した。
「父上。お倒れになったと言え、まだ老け込むには早くありませんか?」
「どうせ、お前が後を継ぐのだ。私は隠居の身でお前を補佐する」
「私など、まだまだ未熟です」
「だから、補佐をするのだ。家中には三郎助、代官所には磯田。それに宇治原や廉平もいるのだ。心配する事もない」
雷蔵の目が、真っ直ぐに見つめてくる。何かを測っているつもりなのか。わが子ながら、何とも禍々しい。そして、この一年でここまで変わったのかと、驚かされる。
「いずれの話だ。今日明日のような話ではない」
「判りました。ならば、そのつもりで準備をします。しかし」
「なんだ?」
「御別家の家臣にはなりたくないですね」
「おい、その話を誰に聞いた? 羽合か?」
すると、雷蔵が首を振った。
「若宮様ですよ」
「帯刀様が?」
「ええ。誘われましたよ、二人で斬らんか? と」
「それで、お前は何と答えた?」
「私に人殺しの命を下せるのは、父上だけだと」
そう言って雷蔵は鼻を鳴らし、冷笑を浮かべた。
「兎に角、私は御別家の家臣など御免です」
「それを言った所で、どうしようもないぞ」
「ええ。ですが、私はいつまでも亡き殿の臣ですよ」
雷蔵は一礼をして、屋敷を辞去した。今も大きな事件を追って忙しいらしい。その合間を縫っての見舞いだった。
清記は、誰もいなくなった部屋で横になった。床上したとは言え、まだ本調子とは言い難い。
(あの子は、私を許しておらぬな)
雷蔵の視線が、脳裏に浮かんだ。
眞鶴を斬れと命じた事。それが、父子の間に大きな溝を生んだ。
元より、その件について許しを乞うつもりもない。それに、冷酷な判断をした事に後悔はしていないのだ。ああしなければ、雷蔵は勤王派に通じた疑いを持たれ、藩庁から追求の手が伸びる所だったのだ。
雷蔵を守る為。そう言ってしまうのは、親の独善だろうか。
(雷蔵には、何も言うまい)
今回こそは、全て一人で決する。そして雷蔵には、新たな人生を歩んで欲しい。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
33
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる