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最終章 狼の贄

第一回 秋暑、午後の日②

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 清記は、百姓達の作業を畦道から暫く眺めていた。
 夏が終わり、季節は秋へと変わっていた。赤蜻蛉が目障りなほど飛んでいるが、これが長閑な内住郡の原風景だ。

「わたくし、この地が好きになりましたわ」

 ふと志月の言葉が、脳裏に蘇った。初めて、村に連れてきた時に発したものである。
 この夏に、清記は志月を妻に迎えた。
 志月には、自分で気持ちを打ち明けた。妻になって欲しいと頼んだ。傍にいてくれと。受け入れてくれる自信なんて無かった。断られたら、それで諦めようと思ったが、志月は妻になる事を快諾してくれた。これほどの幸せを、清記は今まで知らなかった。
 婚儀を行い、晴れて夫婦めおとになった。人並みの幸福。そんなものは手に入れる事は出来ない、遠いものだと思っていた。幸せになる資格が無いとも。それが今では、代官の役目を果たして帰宅すると、志月が迎え出てくれる。これが自分なのかと驚いたが、反面で心は満たされていた。
 婚儀では藩主・利永からも祝いの言葉と品を貰い、平山家に対して加増の沙汰もあった。かの犬山梅岳からも、使者がご祝儀を携えて現れた。その時こそは、空気はひりついたか、出席していた大和は終始笑顔だった。
 また、志月を遠野集落ムレへも伴い、そこで山人流の盛大な宴を行った。伏から、必ず連れて来い言われての事だった。
 山人の婚礼衣装に身を包み、神楽のような舞や笛太鼓の演奏、そして豪勢な料理で歓待を受けた。遠野実経の一件で清記は、山人にとって命の恩人という事になったらしい。そして今後も山人を頼むと、代官になった清記に対して実平は頭を下げた。
 そんな事を言われなくても、そのつもりだと清記は返した。山人も領民も等しく守る。それは固く胸に誓っていた。いくら山人が人別帳に記載が無い治外の存在であっても、内住郡に住む者には変わりないのだ。
 妻になった志月は、目を見張るように変わった。以前のような暗い印象は日に日に薄まり、用人の三郎助に支えられながらも、懸命に平山家の奥として励んでいる。家人だけでなく村人の名を覚え、丁寧に挨拶を交わし、時には身分に捉われず話し込む事もあるのだ。

「元々そうした女だったんだよ」

 そう教えてくれたのは、ふらっと村に現れた東馬だった。
 東馬は時折一人で山に入り、遠野集落ムレへ行っているという話は聞いていた。伏に惚れている。本人は臆面もなく言うが、その後二人がどうなったのかは清記にはわからない。
 その東馬は、十日前に藩庁の命令で廻国修行の旅に出ていた。
 東馬は大和の身辺が心配だと拒んだが、藩庁の命令は断る道はなく、しかも説得したのが大和自身だった。
 それに実際の所は、東馬もまんざらではないようだった。実経との死闘で強者が多いと知り、一から鍛え直す気になったらしい。今回の廻国修行では、夜須藩とは縁が深い会津・二本松・庄内の三藩の道場を廻るのだという。
 大身家臣の跡取り息子と言うのに呑気なものだ思ったが、家督を継ぐ気はないと教えてくれたのは志月だった。
 奥寺家には、宮太郎みやたろうという末弟がいる。宮太郎は志月の四歳下で、剣は然程ではないが、生真面目で学問に秀でている。その上、性格は温厚で慎みもある。東馬より家督を継ぐに相応しいと、大和は考えているのだそうだ。
 旅立つ前に、清記は東馬に一つの事を託された。それは、大和の安全である。

「一応、俺が見込んだ護衛は揃えたのだが、何かあったら助けてくれないか」

 暫く沈静化していた梅岳との対立が、再び熱を帯びている。切っ掛けは、犬山派で江戸家老である菊原の疑獄だった。出入りの江戸商人から多額の賄賂を受け取り、便宜を図っていたのだという。中には公金を横領していたという噂もあった。
 大和は容疑を厳しく追及し、梅岳は苦笑して躱しているそうだが、いつ大和の口を塞ごうとするかわからない状況だった。
 このところ、清記は大和に会えていない。家督を継いで、剣術指南をする暇が無くなったのだ。大和はそれを察してか、清記の剣術指南の任を解いてくれた。それは嬉しい配慮であったが、会えていない理由はそれだけではない。夜須藩の破裂寸前の政局で、御手先役の動きは双方を刺激するには十分なのだ。
 ただでさえ、大和の一人娘を御手先役の家に嫁がせた事は、執政府に衝撃を与えたという。梅岳は志月との縁組には反対はしていないし、むしろ清記が身を固める事には賛成だった。表向きはそうでも、警戒はしているのだろう。そして、犬山家には今でも時々呼び出される。だが、梅岳と話すのは月に一度あるかどうかだ。呼び出しの殆どが格之助の相手である。
 ふと、畠を挟んだ正面にある木立が気になった。
 視線を向けても、何も見えない。しかし、何者かに見られている。そんな気がした。
 不快だったが、捨てて置いてもいい。仕掛けてこない限りはと思ったが、清記の足は木立の方へ向いていた。

(さて、誰の手によるものか)

 まず、梅岳の顔が浮かんだ。しかし、あの男が今更自分の何を探るのか? と思い、打ち消した。次に大和の顔。これも義父となった大和の性格を考えれば無い。次に、衣非外記。今や、奥寺派の副長と呼べる存在となった衣非ならありえる。どうして大和が、あの男を重く用いるのか、理解出来ない。あの男は獅子身中の虫。あの男なら、自分と梅岳との繋がりを探っている可能性はある。
 しかし、平山家には敵は多い。御手先役としても念真流の宗家としても恨みを買っていて、その可能性の方が大きい。これまでに、お役目の最中に刺客が襲ってきたなんて事もあった。
 杉の木が生い茂る林。この木立を抜ければ、非人小屋がある。此処の非人は建花寺村の抱非人であるが、その中の一部は代々御手先役の役目や始末屋稼業で生じた死体の処理もしている。平山家が与えられた闇の役目を知る上、役目の相棒という存在。それ故に、清記はこの非人小屋への配慮を篤くしている。

(まぁ、非人共ではあるまいよ)

 非人は相棒とは言え不可触。用も無くこの杉林を抜ける事も無ければ、用件があればそれなりの手順を踏むはずだった。
 杉林の中で、清記は佇立した。風が鳴った。杉の木が揺れる。すると、男が木陰からぬっと姿を現した。
 深編笠の男。旅をしてきたのか、旅装の羽織袴が薄汚れている。距離はどれほどか。咄嗟に意識してしまうような圧を、清記はしたたかに感じた。

「平山清記殿とお見受けするが、如何かな?」

 男が静かに言った。

「左様。私が内住郡代官の平山清記だが」
「はて……。俺が耳にした肩書と違うなぁ」

 と、男が言って深編笠の顎紐に手をやった。
 見た事の無い顔が露わになった。
 歳は四十を言っているだろう。鼻の下に髭を蓄え、顔は汗と垢で黒光りしている。しかし、そこに漲った生命力は無い。虚無に満ちた暗い翳り。裏街道を歩んできた男の顔だった。

「誰ぞに何と言われたのかな?」
「念真流宗家、御手先役の平山清記」

 それで、この男の用件を清記は理解した。刺客である。

「なるほど。それを知っている貴殿は?」
「越州浪人、吉田軍兵衛よしだ ぐんべえというもんだ」
「吉田殿、誰の差し金か聞いても無駄だろうか」

 すると、吉田と名乗った浪人は口を大きく開けて一笑した。

「誰の差し金でもない。自らの意思だ」
「遺恨か?」
「人生の最後に念真流と立ち合いたい、その一心だ」

 人生の最後。その言葉の意味を解せずにいると、吉田は更に言葉を続けた。

「死病を患っていてな。夜須までの旅も必死であったが、こうして何とか辿りつく事が出来た」
「どうして斯様な真似を?」
「貴公に斬ってもらう為よ。念真流の名に、俺は憧れに似たものを抱いていてな。しかし、どうしても念真流の剣に辿り着けなかったのだ。ところが今年の春の終わりに、貴公の名とこの場所を教えてもらった。平山殿であれば、儂を斬ってくれると」
「誰に?」
「穴水主税介という男だ」

 清記は言葉に詰まった。吉田の顔が笑む。予想通りの反応とでも思っているのだろうか。
 主税介は、愚かにも夜須藩を致仕し、栄生帯刀に仕官し陪臣となった。平山家と決別した。言わば、敵となったと言っても過言ではない。いつの日か、御手先役の地位を狙って動いてくる。その時は受けて立つ。覚悟は既にしていた。

「穴水は達者でしたかな?」

 吉田が笑顔で頷いた。

「それは良かった。では吉田殿がよければ、此処で始めましょうか?」
「ああ。実は立っているだけでも、中々しんどいのだ」

 吉田が、腰の一刀を抜き払った。清記はそれを確認して、扶桑正宗に手を掛けた。

〔第一回 了〕
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