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武揚会
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二度目の慈寿荘だった。
秋風に揺れる竹林の小径を進む。伊平次は、やや緊張した面持ちだった。
「初めてなのか?」
甚蔵が訊くと、伊平次は頷いた。
「武揚会には近付くなと言われていましたので」
「誰に?」
「局長ですよ」
「なるほど。俺は二度目になるが、お前より緊張していると思う。しっかりしてくれよ」
「わかりました」
やはり、伊平次は物分かりがいい。まるで忠犬のようだ。しかし、緊張するなと言って、その通りに出来るなら苦労は無い。
また風が吹き、竹が揺れる。ここが巣鴨一帯を仕切る裏の首領の寮でなければ、風情を楽しみたいところだった。
竹林を抜けると、若い武士が待っていた。益屋に仕える小向愛次郎だ。
「これは、加瀬様ではありませんか。そちらのお方は初めてですね」
「真山新之助と申します」
伊平次が言うと、小向は笑顔で頷いた。
「そして今日は?」
「先日のお礼を。お陰様で、慈光宗の門主を救えたからね」
「それをわざわざ」
「ちゃんと、手土産を用意しているぜ」
と、甚蔵は途中で購入した菓子折りを掲げて見せた。
小石川掃除町にある、〔お六屋〕の栗饅頭だ。饅頭の中にこし餡に包んだ栗が入っている。
「わかりました。しかし、お約束が無いのでお会いいただけるかわかりません。ですので、まずは以前の場所に」
以前の場所とは、東屋の事だった。そして、以前のように腰の二刀も取り上げられた。
暫く待たされた。甚蔵は、益屋に慈光宗について訊くつもりだった。ただ対価があるわけではない。そこは出たとこ勝負というやつだ。
「やや」
母屋から、益屋が手を振って現れた。上機嫌のようだ。
東屋で、机を挟んで座った。
「おお、よくぞお越しくださいましたな。加瀬様と、そちらは真山様と」
「突然押し掛けて申し訳ない。これは〔お六屋〕の栗饅頭だ。食べてくれ」
甚蔵は、菓子折りを差し出した。
「おお、お心遣い痛み入りまする。私はこれに目が無いのですよ」
「菓子折りの底に黄金なんてないぜ」
「あれば私は加瀬様を軽蔑いたしますよ」
と、背後に控える小向に手渡した。
「して、今日の御用件は」
「三つある。まずは、先日の礼だ。お陰で、智仙の命を救えた」
「ああ、その件ですか。わざわざありがとうございます。何でも隊士の皆様の中から、犠牲が出てしまったとか。謹んでお悔やみを申し上げます」
「いいんだよ。でも、どうして知ってんだい?」
頭を下げる益屋を制して、甚蔵は訊いた。
「四谷界隈の首領から聞いたのですよ。彼とは昔馴染みでしてねぇ」
「武揚会か」
益屋が、こくりと容易く頷く。
「その武揚会と、羅刹道の関係が知りたい」
「ほう、それはそれは」
益屋はそこまで言って、目を細めた。それまで昼行燈な小太りという印象だったが、目の奥の光が強くなると一変した。
(この男は剃刀だ……)
背中に冷たいものが流れる。甚蔵は、丹田に力を込めた。そうしなければ、呑まれると思ったからだ。
「左様な用件でございましたか」
「これが二つ目だ。手土産の分は話が訊きたい」
「しかし、加瀬様は一つ勘違いをしていらっしゃる」
「勘違い? 何が」
「武揚会は、方々で力を持つ者が集まる親睦会のようなもの。統一された組織ではありません。統一された意志も」
「ではお前さんはどうなんだ?」
「私は武揚会の中で、範となる存在たろうとしています。力を以て裏を支配し、堅気の皆さんを守る。武揚会は江戸の平穏の為にあるのです。それがどうして、羅刹道とかいう外道と関係を持ちましょうか。もし奴らの根城を知っていれば、八つ裂きにしますよ」
冷静に、笑顔で言うぶん、益屋の言葉には凄みがあった。おそらく、嘘ではない。もしこれが嘘であったら、益屋の演技におひねりを投げなければならない。
「慈光宗については?」
「興味はありません。触らぬ神に祟りなしです」
「『触らぬ神に祟りなし』か。しかし、どっちかと言うと仏だ」
「私が求めるのは、利益と平穏です。仏と表の権力は求めていません」
「他の奴らは?」
「加瀬様、もう手土産の分は超えていますよ」
甚蔵は頷いた。栗饅頭はあともうひと包みほど勝っておくべきだったか。
「じゃ、三つ目。先日頼んだ、羅刹道を知っている盗賊は用意出来たかい?」
すると、益屋は目を白黒させた。
「二日前に、屯所へ行ったはずですが?」
「いや、誰も来てはいない」
伊平次と眼を見合わせ頷く。
「毒蛙の万蔵という男ですよ。私のように小太りで、背が低く」
「いや、昨日は一日屯所にいたが、そんな男は来てはいない」
伊平次も隣りで頷く。
「まさか、羅刹道に」
「小向」
益屋が名を呼んだ。控えていた小向が進み出て、耳を寄せた。何やら囁くと、小向は駆け去って行った。
「お話はここで終わりです。どうやら、私も忙しくなるようなので」
「まぁ、あんたの手下が消えたんじゃな」
「お詫びに一つ、教えて差し上げます。大獄院仙右衛門を見ている事です」
益屋は、浅草一帯の首領の名前を告げた。その男は甚蔵も知っている。武揚会の首領は、表の正業を持っているが、この男は正真正銘のやくざだ。それでいて、武揚会では重鎮的存在と目され、慕う者も多い。
「何故?」
「それは私の口から申し上げられません。そんな事をすれば、一合戦になってしまいますからね」
◆◇◆◇◆◇◆◆◇◆◇◆◇◆
不穏な気配は突然だった。
竹林の小径を抜け、東福寺の裏手に差し掛かった辺りだ。周囲は人家は無く、山毛欅や水楢の木立になっている。
「伊平次」
甚蔵が呟くと、伊平次は「ええ」と答えて腰をやや落とした。
周囲を伺う。眼に見える範囲では人影は無い。しかし、気配だけは確かに感じる。
殺気に近い圧力だ。しかし、明確な敵意ではない。こちらを脅すような、そんな意図すら覚える。
「何人だと思う?」
「さて、七ぐらいでしょう」
「そいつは、多く見積もり過ぎじゃねぇかい?」
「では、加瀬様は?」
「五」
気配が強くなる。同田貫正国の重さを意識した。
相手は羅刹道か。或いは、別の。火盗改時代には、盗賊に随分と恨まれた。命を狙う盗賊も少なくない。おそらく、それは伊平次も同じだろう。
「来ます」
木々の間から、ぬうっと人が現れた。その数、十。いつの間に周囲を取り囲んでいた。
「おいおい、絶体絶命じゃねぇかよ」
甚蔵は嘯いたが、伊平次は何も応えず正面を見据えている。
十名の武士たち。小袖に野袴、そして打裂羽織。全身を暗い色でまとめた武士だ。塗笠を目深に被っているので、その顔は見えない。
「手を引け」
一人が前に進み出て言った。どうやら指図役らしいが、声は高く若い。
「何から?」
「慈光宗」
「何故? 俺らは羅刹道の捜査をしてんだがねぇ」
甚蔵が訊くと、指図役は庇を指で摘まみ上げた。
「見ない顔だな。新入りか?」
「誰だ、あんた」
羅刹道ではない。それは雰囲気でわかる。言うなれば、よく統率された猟犬だ。狂信者とわけが違う。
「名乗らぬよ。しかし、逸撰隊はよく死ぬものだ。まぁ、指図役が女だから仕方ないか」
「よく死ぬってのは、否定せんよ。しかし、新入りの俺でも上役に対してそんな言い方されると、腹が立つなぁ」
「上役が上役なら、手下も手下だ」
指図役はそう言い捨てて、踵を返した。
「忠告は一度きりだ。慈光宗を嗅ぎまわるな」
「だから、お前たちは誰なんだよ」
指図役は答えず、片手を挙げる。すると、囲んでいた人影が消えた。
「屯所に帰ったら、上役に伝えてくれ。復讐なんて止めて家に帰って来いと」
そう言い残し、指図役は木々の間に消えていった。
気配が消えると、伊平次が構えを解いた。甚蔵も溜息を吐く。
「誰だありゃ」
「明楽弥十郎。公儀御庭番です」
「御庭番? 明楽? それって、お前」
「姐さんの死んだ旦那の弟です」
甚蔵は思わず声を挙げていた。公儀御庭番に、紅子の義弟に、死んだ旦那。衝撃の連続に流石の甚蔵も飲み込めないでいる。
「ちょっと待て。どういう事だ。順を追って話せ」
「しかし」
「上州で命を助けたろ? その貸しを返してもらおうか」
甚蔵は近くの石に腰かけて、伊平次の話を聞いた。
紅子は御庭番である倉地家に生まれ、明楽伝十郎という男と結婚した。しかし伝十郎が何者かに殺されると、その年に産んだ男児を捨てて出奔した。後を継いだのが弥十郎というわけだった。
しかし、紅子という女はよくわからない。祖父は老中で叔父が藩主なでもある。
「で、その復讐ってのは?」
その質問に、伊平次は答えにくそうな表情を浮かべた。こいつにしては珍しいくらいだ。
「伝十郎様の傍には、羅刹天の木簡が落ちていたそうです」
「つまり、組頭は旦那を羅刹道に殺されたと」
「ええ」
そういう事だったのか。だが、紅子は羅刹天の捜査に執念を燃やしている、という風には見えない。復讐に燃える者は、何が何でもという危うさがある。部下を殺されて逸撰隊を選んだ、自分自身のように。しかし、紅子はどこまでも冷静に見える。それが逆に、意志の強さを表しているのかもしれない。
「さ、帰ろうか。御庭番の件を伝えねばな」
秋風に揺れる竹林の小径を進む。伊平次は、やや緊張した面持ちだった。
「初めてなのか?」
甚蔵が訊くと、伊平次は頷いた。
「武揚会には近付くなと言われていましたので」
「誰に?」
「局長ですよ」
「なるほど。俺は二度目になるが、お前より緊張していると思う。しっかりしてくれよ」
「わかりました」
やはり、伊平次は物分かりがいい。まるで忠犬のようだ。しかし、緊張するなと言って、その通りに出来るなら苦労は無い。
また風が吹き、竹が揺れる。ここが巣鴨一帯を仕切る裏の首領の寮でなければ、風情を楽しみたいところだった。
竹林を抜けると、若い武士が待っていた。益屋に仕える小向愛次郎だ。
「これは、加瀬様ではありませんか。そちらのお方は初めてですね」
「真山新之助と申します」
伊平次が言うと、小向は笑顔で頷いた。
「そして今日は?」
「先日のお礼を。お陰様で、慈光宗の門主を救えたからね」
「それをわざわざ」
「ちゃんと、手土産を用意しているぜ」
と、甚蔵は途中で購入した菓子折りを掲げて見せた。
小石川掃除町にある、〔お六屋〕の栗饅頭だ。饅頭の中にこし餡に包んだ栗が入っている。
「わかりました。しかし、お約束が無いのでお会いいただけるかわかりません。ですので、まずは以前の場所に」
以前の場所とは、東屋の事だった。そして、以前のように腰の二刀も取り上げられた。
暫く待たされた。甚蔵は、益屋に慈光宗について訊くつもりだった。ただ対価があるわけではない。そこは出たとこ勝負というやつだ。
「やや」
母屋から、益屋が手を振って現れた。上機嫌のようだ。
東屋で、机を挟んで座った。
「おお、よくぞお越しくださいましたな。加瀬様と、そちらは真山様と」
「突然押し掛けて申し訳ない。これは〔お六屋〕の栗饅頭だ。食べてくれ」
甚蔵は、菓子折りを差し出した。
「おお、お心遣い痛み入りまする。私はこれに目が無いのですよ」
「菓子折りの底に黄金なんてないぜ」
「あれば私は加瀬様を軽蔑いたしますよ」
と、背後に控える小向に手渡した。
「して、今日の御用件は」
「三つある。まずは、先日の礼だ。お陰で、智仙の命を救えた」
「ああ、その件ですか。わざわざありがとうございます。何でも隊士の皆様の中から、犠牲が出てしまったとか。謹んでお悔やみを申し上げます」
「いいんだよ。でも、どうして知ってんだい?」
頭を下げる益屋を制して、甚蔵は訊いた。
「四谷界隈の首領から聞いたのですよ。彼とは昔馴染みでしてねぇ」
「武揚会か」
益屋が、こくりと容易く頷く。
「その武揚会と、羅刹道の関係が知りたい」
「ほう、それはそれは」
益屋はそこまで言って、目を細めた。それまで昼行燈な小太りという印象だったが、目の奥の光が強くなると一変した。
(この男は剃刀だ……)
背中に冷たいものが流れる。甚蔵は、丹田に力を込めた。そうしなければ、呑まれると思ったからだ。
「左様な用件でございましたか」
「これが二つ目だ。手土産の分は話が訊きたい」
「しかし、加瀬様は一つ勘違いをしていらっしゃる」
「勘違い? 何が」
「武揚会は、方々で力を持つ者が集まる親睦会のようなもの。統一された組織ではありません。統一された意志も」
「ではお前さんはどうなんだ?」
「私は武揚会の中で、範となる存在たろうとしています。力を以て裏を支配し、堅気の皆さんを守る。武揚会は江戸の平穏の為にあるのです。それがどうして、羅刹道とかいう外道と関係を持ちましょうか。もし奴らの根城を知っていれば、八つ裂きにしますよ」
冷静に、笑顔で言うぶん、益屋の言葉には凄みがあった。おそらく、嘘ではない。もしこれが嘘であったら、益屋の演技におひねりを投げなければならない。
「慈光宗については?」
「興味はありません。触らぬ神に祟りなしです」
「『触らぬ神に祟りなし』か。しかし、どっちかと言うと仏だ」
「私が求めるのは、利益と平穏です。仏と表の権力は求めていません」
「他の奴らは?」
「加瀬様、もう手土産の分は超えていますよ」
甚蔵は頷いた。栗饅頭はあともうひと包みほど勝っておくべきだったか。
「じゃ、三つ目。先日頼んだ、羅刹道を知っている盗賊は用意出来たかい?」
すると、益屋は目を白黒させた。
「二日前に、屯所へ行ったはずですが?」
「いや、誰も来てはいない」
伊平次と眼を見合わせ頷く。
「毒蛙の万蔵という男ですよ。私のように小太りで、背が低く」
「いや、昨日は一日屯所にいたが、そんな男は来てはいない」
伊平次も隣りで頷く。
「まさか、羅刹道に」
「小向」
益屋が名を呼んだ。控えていた小向が進み出て、耳を寄せた。何やら囁くと、小向は駆け去って行った。
「お話はここで終わりです。どうやら、私も忙しくなるようなので」
「まぁ、あんたの手下が消えたんじゃな」
「お詫びに一つ、教えて差し上げます。大獄院仙右衛門を見ている事です」
益屋は、浅草一帯の首領の名前を告げた。その男は甚蔵も知っている。武揚会の首領は、表の正業を持っているが、この男は正真正銘のやくざだ。それでいて、武揚会では重鎮的存在と目され、慕う者も多い。
「何故?」
「それは私の口から申し上げられません。そんな事をすれば、一合戦になってしまいますからね」
◆◇◆◇◆◇◆◆◇◆◇◆◇◆
不穏な気配は突然だった。
竹林の小径を抜け、東福寺の裏手に差し掛かった辺りだ。周囲は人家は無く、山毛欅や水楢の木立になっている。
「伊平次」
甚蔵が呟くと、伊平次は「ええ」と答えて腰をやや落とした。
周囲を伺う。眼に見える範囲では人影は無い。しかし、気配だけは確かに感じる。
殺気に近い圧力だ。しかし、明確な敵意ではない。こちらを脅すような、そんな意図すら覚える。
「何人だと思う?」
「さて、七ぐらいでしょう」
「そいつは、多く見積もり過ぎじゃねぇかい?」
「では、加瀬様は?」
「五」
気配が強くなる。同田貫正国の重さを意識した。
相手は羅刹道か。或いは、別の。火盗改時代には、盗賊に随分と恨まれた。命を狙う盗賊も少なくない。おそらく、それは伊平次も同じだろう。
「来ます」
木々の間から、ぬうっと人が現れた。その数、十。いつの間に周囲を取り囲んでいた。
「おいおい、絶体絶命じゃねぇかよ」
甚蔵は嘯いたが、伊平次は何も応えず正面を見据えている。
十名の武士たち。小袖に野袴、そして打裂羽織。全身を暗い色でまとめた武士だ。塗笠を目深に被っているので、その顔は見えない。
「手を引け」
一人が前に進み出て言った。どうやら指図役らしいが、声は高く若い。
「何から?」
「慈光宗」
「何故? 俺らは羅刹道の捜査をしてんだがねぇ」
甚蔵が訊くと、指図役は庇を指で摘まみ上げた。
「見ない顔だな。新入りか?」
「誰だ、あんた」
羅刹道ではない。それは雰囲気でわかる。言うなれば、よく統率された猟犬だ。狂信者とわけが違う。
「名乗らぬよ。しかし、逸撰隊はよく死ぬものだ。まぁ、指図役が女だから仕方ないか」
「よく死ぬってのは、否定せんよ。しかし、新入りの俺でも上役に対してそんな言い方されると、腹が立つなぁ」
「上役が上役なら、手下も手下だ」
指図役はそう言い捨てて、踵を返した。
「忠告は一度きりだ。慈光宗を嗅ぎまわるな」
「だから、お前たちは誰なんだよ」
指図役は答えず、片手を挙げる。すると、囲んでいた人影が消えた。
「屯所に帰ったら、上役に伝えてくれ。復讐なんて止めて家に帰って来いと」
そう言い残し、指図役は木々の間に消えていった。
気配が消えると、伊平次が構えを解いた。甚蔵も溜息を吐く。
「誰だありゃ」
「明楽弥十郎。公儀御庭番です」
「御庭番? 明楽? それって、お前」
「姐さんの死んだ旦那の弟です」
甚蔵は思わず声を挙げていた。公儀御庭番に、紅子の義弟に、死んだ旦那。衝撃の連続に流石の甚蔵も飲み込めないでいる。
「ちょっと待て。どういう事だ。順を追って話せ」
「しかし」
「上州で命を助けたろ? その貸しを返してもらおうか」
甚蔵は近くの石に腰かけて、伊平次の話を聞いた。
紅子は御庭番である倉地家に生まれ、明楽伝十郎という男と結婚した。しかし伝十郎が何者かに殺されると、その年に産んだ男児を捨てて出奔した。後を継いだのが弥十郎というわけだった。
しかし、紅子という女はよくわからない。祖父は老中で叔父が藩主なでもある。
「で、その復讐ってのは?」
その質問に、伊平次は答えにくそうな表情を浮かべた。こいつにしては珍しいくらいだ。
「伝十郎様の傍には、羅刹天の木簡が落ちていたそうです」
「つまり、組頭は旦那を羅刹道に殺されたと」
「ええ」
そういう事だったのか。だが、紅子は羅刹天の捜査に執念を燃やしている、という風には見えない。復讐に燃える者は、何が何でもという危うさがある。部下を殺されて逸撰隊を選んだ、自分自身のように。しかし、紅子はどこまでも冷静に見える。それが逆に、意志の強さを表しているのかもしれない。
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