【完結】囲われサブリナは、今日も幸せ

ジュレヌク

文字の大きさ
1 / 7

囲われサブリナは、今日も幸せ 前編

しおりを挟む
「サブリナァ~、きみとの~こんやくを~はきさせてもらぅ~」
「じいや、もっと感情を込めなくては、練習になりません!さぁ、もう一度!」
「お嬢様、老体に、これ以上は無理でございます。どうか、お許しを………」

 丸眼鏡越しに見える小さな瞳をショボショボと瞬き、長年この屋敷に仕えるシルベスターは、シワシワの手を胸元で組んで懇願した。人より長い手足のせいか、はたまた、ひょろ高い身長のせいか、その姿はカマキリに良く似ている。

 カンタンテ公爵家の一人娘であるサブリナは、普段決して我儘を言わぬ、穏やかで心優しい娘だ。そんな彼女が、あまりにも思いつめた表情で頼み込むので、老執事は、致し方なく『婚約破棄ごっこ』に付き合っていた。
 しかし、その回数が百を超え、自分の声がかすれ始めたので、流石に止めることにしたのだ。

「じいやしか、お願いできる人がいないのに、私を見捨てると言うの?ふぇっふえっふぇーーーーん」

 四阿のテーブルに顔を突っ伏し泣き崩れるサブリナ。少女から乙女へと変わりつつある十二歳の彼女は、羽化した蝶の様な美しさを持ちながら、まだまだ幼さの残る立ち居振る舞いをする。
 薄っすらと化粧を施した顔をゴシゴシと手で擦り、スンスン鼻を鳴らす姿を、少し離れた生け垣の向こう側から覗き見ていた婚約者のクリストファーは、

『泣き声も可愛いなんて、本当に、ズルいな』

とお門違いなことを思っていた。 
 彼の座右の銘は、『人生は、サブリナを愛でる為にある』だ。彼女を見つめる瞳は、優しさに満ちている。

 ただ、この青年、人間を

『サブリナとサブリナ以外』

に分けている。それ以外に対する態度は、今も昔も変わらない。
 そう、全く変わらないクズなのだ……。



 十八年前、クリストファーは、世界に名を轟かせる軍事国家ミリアムの第五王子として生まれた。その大きさは、一般的な赤子のほぼ倍はあり、歴代の王子を取り上げた産婆ですら腰を抜かした。 

「血が止まりません!誰か、医師を連れてきてください!」

 産婆の叫び声に宮殿内が騒然とし、走り込んでくる医師団に道を開けるので精一杯だった。

「痛い、痛い、痛い。憎らしい顔だこと。本当に、見たくもない!早く、連れて行って!」

 錯乱状態で暴れるソラリスを、医師団が必死に押さえつける。その壮絶な光景に恐ろしくなった産婆は、赤子を抱えて部屋を飛び出した。

「二度と連れて戻らないで!捨ててくれても良いわ!」

 出ていく背中に、ソラリスが絶叫を上げる。その形相は、悪鬼の如く、目は釣り上がり、怒りで真っ赤に充血していた。

 彼女は、元は、他国の王女だった。末っ子ということもあり、蝶よ花よと可愛がられ、愛されるのが当たり前だと思っていた。父も母も兄も側から離れないものだから、ずっと母国で暮らせるのだと、信じて疑っていなかった。
 しかし、十七歳の春、国と国の架け橋となるべく、無理矢理ミリアムへと嫁がされた。夫となる男は、故郷では見たことのない大柄で粗暴な人物だった。

「お前が、ソラリスか」
「はい」
「見目は良いな。もう少し笑えないのか?」
「え………」
「まぁ、いい。侍女達は、勝手に使え。足りないものがあれば、言えば揃えさせる。俺を煩わせなければ、何をしてもいい」

 一方的にカイザーが言いたいことだけ言う初対面は、あっけなく終わった。それでも、いつか、彼が自分を愛してくれると思っていた。何故なら、母国では、彼女は常に特別扱いだったからだ。

 一年後、第一子であるアレクサンダー第一王子を産んだときは、自らの使命を果たせたと喜んでいた。自分に似た線の細い、やや女性的な面立ちの我が子が、愛おしくて仕方なかった。

「これからは、ここで、私の家族を増やしていくのよ」

 出産後、息子を見に来ることすらしないカイザーに不満を持ちながらも、ソラリスは、明るい未来を夢見ていた。

 それなのに、自分の与り知らぬ所で後宮建設が決まっていた。見目麗しい女が、カイザーの側妃として召し上げられる。中には、結婚間近の伯爵令嬢までいた。後宮内に響く鳴き声を聞く度に、彼女の心は死んでいった。

 母国では白百合と評された気品のある容姿は、表情筋が動かなくなったことで、逆に威厳が際立ち、王妃らしくなったとも言える。
 ただ、カイザーの好みからは程遠くなった為、寵愛を得られることはなかった。
 


 そんなソラリスが再びカイザーの子をなしたのは、アレクサンダーを産んで十年目のことだった。

「お止めください」

 酒に酔ったカイザーが、何を思ったのか突然ソラリスの寝所に現れた。

「煩い。お前は、王妃だろう?俺を受け入れる責任がある」

 酒臭い男からは、愛情など一欠片も感じられなかった。拒否しようにも、力では勝てない。助けを呼ぼうが、誰も来ない。
 しかも、残酷なことに、数ヶ月後、月のものが来なかった。産む前から我が子を憎む母親に子を託せるはずもなく、その後、クリストファーは、乳母に育てられた。誰からも愛されない赤子は、誰も愛さない子供へと育った。



 クリストファーが十一歳になる頃、王太子になったアレクサンダーと王太子妃との間に、三つ子の息子が生まれた。その時点で、かろうじて残されていたスペアという存在価値すらなくなった。だからといって、それを気にするような繊細な心を、彼は、持ち合わせていなかった。
 
 まさに傍若無人を人型にしたようなクリストファーは、ある日、庭園の一角で王妃主催の茶会準備が進められているのを見つけた。いたずら心に火がつき、どこからともなく一匹の豚を用意すると、

「そら、行け!」

食器が並べられたテーブルの上に投げた。

ブヒブヒ

ガシャンガシャン

 暴れる豚と逃げ回る侍女達。取り押さえに来た近衛兵も、走り回る豚に手を焼いている。

「クリストファー殿下、何故このようなことを!」

 正義感と忠誠心で苦言を呈する者が、クリストファーの前に立ちはだかり、必死に説得しようとする。

「貴方は、この国の第五王子なのですよ!兄上であられるアレクサンダー殿下をお支えするのが貴方の役目!」

 クリストファーは、その様子を、憮然とした表情で眺めていた。

『俺は、誰かを支えるために生まれたんじゃない。それに、いつ、産んでくれと頼んだ?勝手に産んで、勝手に人の価値を決めるな』

 物心ついたときから燻る感情は、更にクリストファーを荒ぶらせる。

「うるさい!俺の前に立つな!」

 年の割には発育した逞しい腕で、バシッと殴れば、相手は軽く吹っ飛んだ。

「ガハッ、だ、だれか、殿下をお止めしろ……」

 そう言われても、誰一人、クリストファーに近づく者はいない。

「ふん!最初から、そうしておけばいいものを」

 人並み外れた腕力で邪魔者を捻じ伏せれば、彼の視界は、精神的にも物理的にも、非常に良好なものになった。

『ミリアム王家の悪魔』

 そう陰口を叩かれる彼を、父であるカイザーは、野放しにしている。アリのように這いつくばる護衛達を足蹴にする様は、退屈を持て余す王の娯楽の一つだったからだ。
 臣下から訴状が上がっても、

「好きにしろ。殺せるものなら、殺せばいい」

と鼻で笑っていた。こうして、クリストファーという化け物は、スクスクと育っていった。
 しかし、十四歳になった頃、永遠に続くと思っていた立場が突然危機に陥った。





「カイザー様、どうかお慈悲を」

 王座に座るカイザーの足にすがるのは、一番の寵愛を賜る側妃プルメリア。普段なら、その美貌で王を虜にする彼女が、髪を振り乱して泣きわめいていた。

「あの子は、まだ十五歳になったばかりなのですよ!なのに、結婚相手が、四十三歳だなんて!私より年上ではないですか!」

 第四王子だったプルメリアの息子が、十五歳という若さで二十八歳も年上の女性と政略結婚をすることになったのだ。跡継ぎの居なかった兄の急死により、突如王位を継承した東の国の女王は、脆弱な基盤を固めるために、どうしても強力な後ろ盾が必要だった。
 そこで、ミリアム王家から王配となりうる子息を貰い受ける為に、理不尽とも言える通商条約を受け入れたのだ。実質、属国化と言っても過言ではない。戦争にかかる莫大な金額と人材的損失を考えると、たった一人の人間を渡すだけで得られる対価としては十分過ぎるだろう。
 しかし、我が子を奪われる母親は、黙っているわけにはいかない。

「なぜ、私の子なのですか!第二、第三王子の婚姻を破棄させて、送り出せば済む話ではありませんか!」

 既に他国から嫁を貰い、子までなす彼らを離婚させれば、外交問題になることは、馬鹿でも分かる。普通の側妃が、ここまでゴネれば、即座に首が飛んでいただろう。
 しかし、カイザーは、笑いながらプルメリアの顎を掴んだ。

「何故か、お前には怒りがわかぬ。しかし、言うことを聞かぬ者には毒杯を与えねばな」

 チラリとカイザーが視線を向けた先に居たのは、プルメリアの息子達だった。

「選ばせてやろう。どの子供をお前の代わりにする?」
「え?」

 そこで、プルメリアは、やっと状況を飲み込めた。自分の代わりに、子供が毒杯を飲まされそうになっているのだ。カイザーに、子供への愛情など砂の一粒分すらもない。

「全員でもいいぞ?」
「あ……お許しを……私が浅はかでございました」

 絶望に崩れ落ちたプルメリアを、侍女達が支えて退出する。ざわつく家臣達の動揺等興味のないカイザーは、口元をニヤつかせながら隣に座る王妃を見た。

「ソラリス、どうだ?こんなに簡単に国が手に入るなら、お前の所の不用品(クリストファー)も、他国に王配として贈ってしまうのも妙案だと思わないか?」

 今回のような前例が出来たことで、王妃以外にも四人の側妃を持つ子沢山なカイザーは、婚姻していない不必要な息子達の新たな使い道に気づいてしまった。他国に王配として出荷し、自国に有利な条約を結び、その後も裏で操り人形として死ぬまでこき使う。戦争をせずに領土を広げられるとあって、カイザーは、第二、第三の出荷先選定に熱中し始めた。

 

「………」

カイザーの横で、無言を貫くソラリスは、内心ムカついていた。確かに、クリストファーは、彼女にとって不用品以下である。愛息のアレクサンダーが王位を得る時の差し障りになるやもしれない。
 だが、たかが側妃が産んだ下賤な子供と、元王女である自分が産んだ子供を同列にされることが気に食わなかった。これは、プライドの問題である。
 クリストファーは、理不尽な理由で手当り次第に人を殴るため、家臣達からの受けが悪い。外に追い出せるとなれば、皆が、喜んで協力するだろう。いつも自分を蔑ろにする臣下達の思惑通りにことが運ぶことも、全くもって癪である。 

「便箋と封筒を用意して」

 自室に戻り、最初にやったことは、手紙を書くことだった。宛先は、王の右腕とされるミョルニール・カンタンテ公爵。筋骨隆々の体を持ちながら、切れ者と知られる頭脳の持ち主で、この国の宰相を担っている。伴侶を病気で早くに亡くした彼が、妻に生き写しの一人娘サブリナを溺愛しているのは有名な話だ。手放す気など全く無く、将来的には娘に婿を取ろうと考えてるという。

「それなら、クリストファーでも良いでしょう?」

 ソラリスは、ミョルニールにクリストファーとの婚約を打診した。
 しかし、

「誠にありがたい申し出ではございますが、まだ、娘は八歳。どうかお許しを」

短い文面から拒否感が溢れている。歩いた跡に屍が転がると噂される第五王子に、可愛い娘を傷物にされてはたまらない。しかも、婚姻の意味すら分からぬ幼児である。
 頑なに首を縦に振らなかったミョルニールに対し、ソラリスは、母国で王になっていた兄を動かし、彼に圧力を掛けた。

『我が国との友好のためにも、甥との婚姻を考えて欲しい』

 物言いは丁寧だが、拒否権の無い命令だ。こうして、ソラリスは、『断れば、国際問題』と言う最終奥義を発動し、とうとう力技でクリストファーとサブリナの顔合わせまで持ち込んだ。
 だが、ミョルニールも、大国の宰相を務める男。最後の最後になんとか、『娘が気に入らなければ断れること』を前提条件に入れた。眼光鋭いクリストファーに会えば、気の弱いサブリナは、確実に怯えるだろうと期待して。そして、運命の出会いが訪れる。





 クリストファー、十四歳。

 サブリナ、八歳。

 場所は、王家所有の植物園。  

 春の日の中、花は咲き乱れ、天国のような美しさ。そこに降り立った妖精かと見紛うばかりの美少女が、

「は…はじめまして、サ…サ…サ…サブリナ・カンタンテ……と、もうしましゅ」

緊張のあまり、自己紹介で噛んだ。

「あの、あの、あの………もうしわけございません」

 自分の犯した失態に、恥ずかしさでプルプル震えるサブリナは、ポロリと一粒の涙を流した。サワサワとそよぐ風に、フワフワとしたクセのある彼女の柔らかなプラチナブロンドの髪が揺れる。大泣きしたいのを必死に我慢し、キュッとスカートを握りしめる小さな手。
 この世の愛らしさを全て凝縮したような姿に、クリストファーは、雷に打たれたような衝撃を受けた。今まで彼の周りには、鉄仮面の如く表情筋が動かないソラリスか、一様に暗い顔をした侍女しか居らず、健気で可憐な少女など生まれて初めて見たのだ。突如自分の胸に沸き起こった感情を理解しきれず胸を押さえ、サブリナを凝視する。
 そんなクリストファーに気付いたミョルニールは、

「大丈夫だよ、サブリナ。さぁ、こちらに来なさい」

と自分の体で娘を隠した。不安からサブリナは、ピタリと父親の足にしがみつく。

「よく頑張ったね」

 頭を撫でられ、サブリナは、眉をへニョリと下げた。そこで再び、クリストファーは、『庇護欲』という新たな感情を手に入れた。

『彼女が、俺の妻に?あぁ、なんて、最高なんだ』

 それが愛なのかと言われると、些か歪すぎて他人の理解を得ることは難しいだろう。
 しかし、クリストファーの心の中に、他には代えがたい特別な人として刻まれた。普段、暴力によって物事を解決する彼だが、決して頭が悪いわけではない。この小さな壊れ物のような少女が、自分を怖がっていることくらい感じていた。

『先ずは、距離を詰めなければ……』

 一計を案じたクリストファーは、いつもの極悪非道さをひた隠し、

「『私』は、クリストファー・ミリアム。クリスと呼んでくれるかい?サブリナ」

と優しい微笑みを浮かべて自己紹介をした。
 普段、人を睨んだことしかない瞳と怒鳴り声しか上げたことのない口が、緩やかな弧を描くと、なんと、完璧な王子様が出来上がったのだ。深い緑色の瞳に、襟足を短く切りそろえた銀色の髪。大きな体を曲げて小さな自分に視線を合わせてくれる紳士的な態度。
 他人に免疫のないサブリナは、節穴としか言えない瞳を煌めかせ、薄ピンク色に頬を染めた。
 今が、畳み込む時だと気付いたクリストファーは、さっと片膝を芝生の上につき、八歳児の手の甲に口づけた。

「な!なんてことを!」

 汚れのない娘に、唇をつけるなど、許せるわけがない。ミョルニールは、サブリナを抱え上げると、王妃だけに頭を下げ、そのまま走り去った。 
 残された二人の反応は、真逆だ。

『もう、無理だわ。これで、何もかも終わりよ』

 ソラリスは、諦めの境地に達し、さっさと自分の部屋へ引きこもった。もう二度と、クリストファーの顔も見たくない。殆ど無かった親子の縁は、ここで完全に途切れた。

 一方のクリストファーは、

『サブリナが、欲しい!』

強烈な欲求に目覚めた。こうなると、無駄に行動力のある男は、猪突猛進だ。可愛い婚約者との未来の為に、あのクリストファーが、思いもよらぬ行動を起こした。



 先ずは、彼女を怖がらせないように、王子らしい礼儀作法を学ぶ必要がある。そこで彼が目をつけたのは、実兄であるアレクサンダーだ。軍事国家であるミリアムは、カイザーを筆頭に荒くれ者が多く、それが当たり前とされている。
 しかし、アレクサンダーだけは、違った。王妃ソラリスが母国から教師陣を呼び寄せ、王太子としての教育をほどこしたのだ。正しい王子の見本としては、最高傑作である。
 そして、昔から勘が良いクリストファーは、目で見て覚えれば大抵真似る事が出来るという特技を持っていた。

「それで、私の元に来たと?」
「あぁ」
「どう見ても、人にものを頼む人間の態度とは思えないが?」

 眼の前で腕組みをして踏ん反り返るクリストファーに、アレクサンダーは、顔を引きつらせた。元々、仲の良い兄弟ではない。それどころか、言葉を交わすのは、今日が初めてだ。
 それなのに、クリストファーは、緊張感すらなく、断られるとも思っていない。

「別に、手取り足取り教えろとは言ってない。ただ、側で観察させろと言っている」
「命令口調を直してから出直してこい」

 アレクサンダーの言い分はもっともだ。二十四歳と十四歳。兄であり、王太子である彼のほうが、弟より遥かに地位が高い。
 しかし、クリストファーの恐ろしさを知る護衛は、冷や汗どころか卒倒寸前だ。彼が本気で暴れれば、王太子を守りきれるか分からない。
 だが、一触即発と思われた空気は、

「ははははは」

アレクサンダーの明るい笑いによって解かれた。

「まさか、お前が、女のために、ここまで来るとは思わなかった」

 アレクサンダーは、感慨深げに呟いた。クリストファーが生まれたばかりの頃、近づくことをソラリスから禁じられていた彼は、それでも、時々隠れて弟を覗きに行っていた。たった一人の、母を同じくする兄弟。側妃の産んだ異母弟とは、違う何かを感じていた。
 そして、一度だけ、指先を握られたことがあり、その事をふとした時に思い出すのだ。年々獣のようになっていくクリストファーを、アレクサンダーが悲しい目で見つめていたことを知るものは居ないだろう。

「好きにしろ」

 アレクサンダーは、それだけ言うと書類に目を落とした。そして、再びクリストファーを見ることはなかった。



 その後、アレクサンダーの周りを彷徨くクリストファーが度々目撃され、近衛兵は、日々極限の緊張を感じていた。もしもの時を考え、人員も、通常の倍に増やされた。
 しかし、そんな周りの心配をよそに、クリストファーは、淡々と仕事をこなすアレクサンダーを遠目に眺めるだけだった。時折、自分の姿を窓ガラスに映し、見様見真似で挨拶や微笑みの練習を重ねている。

 傍から見れば、これが、あの悪魔か?と聞きたくなるほど、洗練された動きになっていた。言葉遣いも、完璧とは言わないが、失礼にならない程度には、丁寧な言い回しを使いこなしている。
 ただ、客観的に判断してくれる人間がいないため、

「これで、あっているのか?」

と疑問に思っても、悲しいかな、正解が見つからない。

 それは、そうだろう。アレクサンダーが相手にしているのは、事務官等の大人達。幼いサブリナへの接し方とは、全く違う。社交的な外面は、逆に彼女を戸惑わせることになるだろう。
 この作戦は、失敗だったかと、アレクサンダーが諦め始めた時に、

「「「ちちうえーーーーーー」」」

小さな子供達が、突然執務室に走り込んできた。三年前に生まれた三つ子は、全く同じ顔をしていて見分けがつかない。 

「走ってはいけません」

 後ろからユッタリと歩いてきた王太子妃は、腹がはち切れんばかりに大きくなっていた。次の出産も双子らしい。 

「大丈夫かい?リリエッタ」

 身重の妻を気遣い、アレクサンダーは、立ち上がってソファーへと誘った。

「えぇ、ありがとうございます。アレク様」
「ほら、よく顔を見せて」

 アレクサンダーは、ハンカチを出すと、妻の額に薄っすらとかいている汗を拭ってやった。

 何にもおいて優しくされる、他国から嫁いできてくれた妻。

 沢山の子供に囲まれ、愛する夫に寄り添われる幸せな日々。

 それを手に入れることが出来なかったソラリスに、アレクサンダーは徹底的に女性の扱いを教育されていた。
故に、彼は、優しさでこうしているのではない。こうすべきだと教えられ、それを実行しているだけなのだ。 
 しかし、

「「「ははうえばっかり、ずるーい」」」

ソファーに座ったアレクサンダーの服を子供達が引っ張ると、自然と微笑みを浮かべた。
 
「コラコラ、危ないだろう?悪いが、菓子とお茶を持ってきてくれ」
「「「わーい、ちちうえ、だいすきー!」」」

 妻に対する演技じみた優しさとは違い、目に入れても痛くないと思っているのがヒシヒシと伝わってくる本物の愛情。

『………コレだ』

 壁にもたれて眺めていたクリストファーは、何かをつかんだ気がした。
 その日から、彼は、アレクサンダーと子供が戯れる時のみ近くに寄ってくるようになった。近衛兵の緊張は更に高まり、精神をゴリゴリにやられた者達が離職願いを出したが、受理されることはなかった。



 なんとか、人並みの立ち居振る舞いを手に入れたクリストファーだが、次の問題は、ミョルニールがサブリナに会う許可をくれないことだった。一人娘を取られまいと、無理難題を押し付けてきてくる。

 腕立て千回

 素振り一万回

 それに必死に食らいつき、達成すると、また、次の課題が提示され、いつまで経っても面会許可がおりない。

「お義父様、次は何をすれば宜しいのでしょうか?」
「殿下に、お義父様と呼ばれる筋合いは御座いません」

 『ミリアム王家の悪魔』を前にしても、一歩も引かないミョルニールに、クリストファーは、妙な楽しさを感じ始めていた。
 一方のミョルニールは、自分にだけ下手にでる第五王子に薄気味悪さを感じていた。

「サブリナと私が結婚すれば、いずれ、貴方を、父と呼ぶことになるでしょう。問題ありません。」
「問題だらけです。私は、まだ認めておりません。サブリナを守れるだけの力を見せて頂かねば!」

 一体何からサブリナを守るつもりなのか?過剰戦力とも言えるクリストファーに、ミョルニールは、騎士団での訓練も課した。

「そんなことで良いのですか?」

 返事をしたその足で実践訓練に赴き、その日の内に実力を見せつけた。なにせ、人を殴り、蹴り、骨を叩き折ることについては、天賦の才能を持っている。

「はっ、他愛も無いな」

 地面に転がる騎士達を見ながら、クリストファーは、拳についた血を拭った。
 すると、

「剣なら、負けはしなかった……」

負け惜しみを呟いた者の一言が、新たな被害を生み出す。

「なら、次は、剣だな」

 クリストファーは、壁に立てかけてあった木刀を手すると、

ビュンビュンビュン

と音を鳴らして振った。

「さあ、もう一戦始めよう」

 そこからは、生き地獄だった。拳から剣へと戦い方を変えてからも、剛腕を振り回すだけで、周りの人間が吹っ飛んだ。

「ははははは、これは、いい!拳が痛くならなくて済む」

 次々と人をなぎ倒していく内に、クリストファーの剣は、悔しいかな、舞うがごとく軽やかな動きを見せ始めた。右に振り抜いたかと思えば、返す刀で左へと打ち込む。通常なら、鍛錬と修練と忍耐で勝ち得るはずの「剣聖」と言う称号に相応しい剣技。生まれ持っての才能を見せつけられ、その場にいた者達は、絶望を覚える。

「なんだ、なんだ、歯ごたえのある奴は、いないのか!」

 喜々として人を殴り続けるクリストファー。その剣が、

ガキン

大きな鉄製の盾に受け止められた。

「殿下、貴方の腕前は十分分かりました」

 盾の向こう側から顔だしたのは、ミョルニール。若かりし頃、戦の最前線にも立ったことのある彼は、鉄壁の防御を誇る防衛線の要だった。

「貴方を娘の婚約者として認めましょう」
「本当ですか?」
「ただ一つだけ、条件が……」

 周りで見ていた者達は、宰相であるミョルニールがクリストファーを諌めてくれるのだと安堵した。
 しかし、その期待は、大きく外れる。

「娘を傷つけないで頂きたい」
「傷つける?そんな有り得ないことを、態々約束する必要があるのでしょうか?」
「無論です。あの子は、私の宝」
「私にとっては命」
「あの笑顔を奪う者あらば、何人たりとも許しはしません」
「そのような者が現れたら、私がこの手で屠ってやりましょう」

 睨み合いかと思われた二人の視線が、フッと和らいだ。戦闘態勢から身を起こすと、無骨な手で握手を交わす。サブリナ至上主義の二人が、同盟を結んだ瞬間だった。

 ミョルニールは、サブリナさえ安全で幸せなら、国が滅んでも気にしない。

 クリストファーは、サブリナが求めるのなら、世界を征服して捧げることもやぶさかではない。

 サブリナにだけは優しい二人は、その点においては、似た者同士だった。

「くれぐれも、サブリナを頼みます」
「サブリナと二人で、カンタンテ公爵家をもり立てていくと誓いましょう」

 王家(第五王子)と公爵家(宰相)が組めば、サブリナを危険な世界から完璧に守り切ることができるだろう。考え方を今までの正反対へと変えたミョルニールは、クリストファーを徹底的に育て上げることを決めた。たとえ、戦闘狂の獣であろうとも、自分が亡き後も、サブリナを守りきれる男は彼しか居ないのだから。




「これで、良いだろうか?」

 髪を直しながら鏡に問うても、返事はない。やっとサブリナと会えるとあって、クリストファーは、柄にもなく寝不足だった。カンタンテ公爵家の応接間でも、座ることもできず、壁際を右へ左へと歩く。その姿は、まるで迷子の犬のようだ。

「クスクスクスクス」

 廊下の方から、小さな笑い声が聞こえてきた。振り向くと、フワフワの髪が、開いた扉の隙間から見えている。そーっと顔を出してきたのは、サブリナだった。パチパチと瞬く目は、好奇心一杯の輝きを秘めており、クリストファーへの警戒心や不快感は、感じられなかった。

「おやおや、サブリナは、いつから覗き見をする悪い子になったのかな?」

 アレクサンダーが息子達に言い聞かせる口調を真似て、クリストファーは、最初の一声を掛けた。

「覗き見では、ございませんわ!ごきげんよう、クリス様」

 慌てて扉の向こうから飛び出し、サブリナは、習ったばかりのカーテシーをしてみせた。フラフラと左右に揺れるのは、体の割に頭の比重が大きい子供特有のバランスの無さだけでない。今日初めて履いた少し大人びたヒールのせいでもある。
 八歳のサブリナにとって、体の大きな十四歳のクリストファーは、大人と同じだ。それに相応しくあろうと背伸びをする姿に、乙女心が見える。

「今、薔薇が見頃ですのよ」

 澄ました顔をするも、耳が真っ赤になっていた。

「では、エスコートをしてもよろしいでしょうか?」

 わざと恭しく手を差し出すと、

「よろしくってよ」

小さな手を大きな掌にチョンとのせてくる。

『このまま持ち帰るわけには、いかないよな?』

 芽生えた衝動をグッと押さえ、クリストファーは、案内されるままに庭を歩いた。途中、靴ずれをしたサブリナを抱えあげるという幸運にも恵まれ、気分は、最高潮だった。
 しかし、四阿の近くまで戻ってきた時、ヒソヒソと話す声が聞こえてきた。

「お嬢様、本当に、大丈夫なのかしら?お相手は、王族でしょ?」
「子供を、本気で相手するわけないじゃない。多少、粗相しても許されるわよ」

 不用意に噂話をするのは、メイドでも一番下の雑用係専門の者達だった。大きな商家の娘が箔をつける為に、時々短期間だけ公爵家に雇われることがある。単なる行儀見習い扱いの為、本来なら、この庭に立ち入ることすら出来ない身分だ。
 しかし、何を間違ったのか、休憩時間に美しい花々に誘われ、こんな所まで歩いてきてしまったようだ。

「でも、お嬢様って、なんか変なんでしょ?」
「まぁ、限られた人以外近づけないらしいから……」

 もし、両手がサブリナで塞がっていなければ、きっと彼女達の細い首は、クリストファーにへし折られていただろう。
 しかし、耳を抑え、青くなってカタカタ震えるサブリナを投げ出すわけにはいかない。クリストファーは、近くにあった石を蹴飛ばし、メイドの一人に当てた。

「痛い!」

 キッとこちらを睨んできたメイドだが、自分を攻撃した人物の素性に気付いて目を見開いた。あのまま喋り続けていれば、サブリナについて、もっと酷い言葉を発していたかもしれない。

 クリストファーは、サブリナの目を片手で塞いだ。そして、女達を蹴倒そうと一歩踏み出した時、彼より先に別の者が棍棒で殴り二人の意識を刈っていた。

「誠に、申し訳ございません。お怒りは、ごもっとも。しかし、今は、お嬢様の方が大事です。どうか、屋敷の方へお戻りください」

 片膝をつき、頭を下げるのは、今朝クリストファーを応接室まで案内したシルベスターという名の老執事。その後ろで、倒れたメイド達は、姿が見えぬよう、無表情な別のメイドによって木の陰に押し込められた。平民が、公爵令嬢を侮辱したのだ。
ただで済むはずはないが、

「確かに、そうだな」

 クリストファーは、サブリナを最優先し、大股で来た道を戻り始めた。


 
 連絡を受け、ミョルニールは、全ての仕事を放棄して緊急帰宅した。子供部屋に駆け込むと、クリストファーの腕に抱かれたまま、娘はスヤスヤ眠っていた。

「殿下……サブリナは……」
「さっき、眠ったばかりです。しかし、私の服を掴んで離しません」

 ベッドに寝かせたほうが良いのは分かっているが、必死に縋る手を振り解くことも出来ない。どうすれば、一番彼女の為になるのかと頭を悩ませていると、

「もし、可能でしたら、暫くそのまま抱いてやって下さい」

サブリナを溺愛するミョルニールから思わぬ申し出がされた。これには、逆に、クリストファーの方が困惑する。

「いいのですか?」
「はい。今の娘には、貴方が必要なようですから」

 その一言で、事の重要さを肌身に感じたクリストファーは、サブリナを抱きしめる腕に力を込めた。

「事情をお伺いしても?」
「正式に婚姻を結ぶまでは、秘密にと思っていたのですが……サブリナは、少々変わったところがありまして……」

歯切れの悪い物言いから、あまり良い話ではないと予想できた。

「死んでも、口外いたしません。もし、信用出来ないようでしたら」

 クリストファーは、指輪を外すとローテーブルの上に置いた。それには、王族にのみ許された印が刻まれている。身分を保証するものであり、命の次に大切なものであった。

「これをお預けします」
「そこまでは」

 クリストファーの覚悟を見て、ミョルニールは、娘の秘密を明かすことにした。

「娘は、一度見聞きしたものを、忘れたくても、忘れることが出来ないのです」

 この呪いのような才能に気づいたのは、サブリナが三歳、母親の葬儀が執り行われている時だった。

突然彼女が、

「おとうさまは、わたしをすてるの?」

と泣き出したのだ。理由を聞くと、参列者の中にいた親戚が、幼いサブリナに色々吹き込んだようなのだ。

「サブリナ、大叔父様は、何て言ったか覚えているかい?」

 父の質問に、サブリナは少し間を置き、三歳とは思えぬ口調で語りだした。



おんなには、しゃくいは、つげない

おとこの、あとつぎが、ひつようだ

ようしをとるか

さいこんして、あらたに、こどもをつくるか

どちらにしろ

おまえは、こうしゃくけにとって、じゃまものだ

うまれてこなければ、よかったのに

ははおやと、いっしょに、しねば、よかったのに

あぁ、やくびょうがみめ

おまえは、いらないこなのだ

おまえは、いらないこなのだ

おまえは、いらないこなのだ


 壊れたように同じ言葉を繰り返し始めたサブリナに、式場にいた全員が、顔色をなくした。ただでさえ母親を亡くしたばかりの幼子に言う言葉ではない。

 大叔父は、直ぐに捕らえられ、縁を切る手続きが取られたが、サブリナは熱を出し、長い間ベッドから離れることができなくなった。

「その日以来、あの子の身の回りの世話は、そこに控える執事のシルベスターとメイドのルシエルにのみ任せています。今日は、普段と違う動線をサブリナが辿った為、前もって邪魔者を排除出来なかったようです」
「そうか……私を喜ばせようと庭に出たのが間違いだったか」
「いえ、サブリナには、屋敷内だけでも不自由がないようにと行動に制限はくわえておりません。知人にどうしてもと頼まれ、迎え入れたメイド達の人間的未熟さを、見極め切れなかった私達の不手際です」

 互いに自分のせいだと気に病むが、それより大切なことは、この後、どうやってサブリナを慰め、立ち直らせるかだ。

「幸い、今回は、殿下が側にいてくださり、最悪の事態を免れました。感謝いたします」

 クリストファーが止めなければ、あの馬鹿なメイド達は、延々と無駄話を続けただろう。人の噂話は、時間潰しには丁度よい。有る事無い事織り交ぜて、人を傷つけることなどお構いなしに、可笑しく笑えば満足なのだ。

「今後は、私も、サブリナを守ることに協力しましょう」
「それは、心強い。どうか、宜しくお願いいたします」

 まだ八歳のサブリナの人生は、これからの方が、ずっと長い。その全てを守ることは、不可能に近いかもしれない。
 しかし、クリストファーは、どんな汚い手段を使っても、彼女を守りきろうと心に誓った。




「あ、クリス様……」
「やぁ、私の眠り姫。ご機嫌は、いかがかな?」

 クリストファーの腕の中で目覚めたサブリナは、意識がハッキリしないのか、ぼんやりとした表情をしている。

「私……眠ってしまったのですね」
「とても可愛い寝顔だったよ」
「なぐさめは、要りませんわ」
「心外だな。本心を疑われては、私も泣いてしまうよ」

 優しく語りかけるクリストファーに、サブリナは、悲しげに微笑んだ。

「クリス様は、こんな子供にも優しいのですね」
「そうかな?他の者からは、(悪魔としか)言われたことがないよ」
「私も、もう少し早く生まれたかった。そうしたら……」

『子供だから粗相しても許される』

 そう思われていることが辛かった。少しでもクリストファーに相応しくなろうと、慣れないヒールを履いたことすら不相応で恥ずかしかった。いくら大人びた喋り方をしようとも、八歳であることは、変えられない。
 今も、赤子のように抱っこされ、あやされている状況に、サブリナは、情けなくて俯いてしまった。

 クリストファーは、彼女の頭頂部を眺めながら、内緒話をするように囁いた。

「ねぇ、サブリナ。君は、とても本が好きなんだね」
「え?」
「この部屋の本棚には、素敵な本が詰まっている。見たことのない本も、沢山あるね」
「あ、あれは、シルベスターが作ってくれたのです」

 サブリナは、その特殊性から他人との関わりを極力排除されており、本を読むことだけが、唯一気兼ねなく楽しめる娯楽だった。
 しかし、元々絵本や童話は種類が少ない。出版されている物は、全て読み終えてしまっていた。そこで、昔から絵と文章が得意だったシルベスターが、サブリナの為だけに手作りで本を作ってくれるようになったのだ。

「私の宝物なのです」

 それまで読んだシルベスターの本を思い返し、サブリナの頬に、やっと笑みが戻った。

「ねぇ、サブリナ。私にも、本を贈らせて貰えるかい?」
「いいのですか?」
「あぁ、(国立図書館には)本が腐るほど余っているからね。(勝手に)持ってきても、誰も気づかないよ」

 所々入るクリストファーの心の声はサブリナには聞こえない。ただ素直に喜び、両手を口に当てていたが、

「さっき、お義父様に、聞いたよ。君の才能は、素晴らしいね」

と言われ、ビクリと体を強張らせる。
クリストファーに嫌われないか、怖くなったのだ。
 しかし、トントントンと優しく背中を叩かれ、徐々に力が抜けていく。

「サブリナが、沢山の本を読んで、それを活用出来れば、益々このカンタンテ公爵家は発展するよ」
「私が、そんなことを?」
「あぁ、君にしか出来ないことだよ」

 考えたこともなかった。父に守られることが当たり前で、自分が家族の為に何かしようと思ったことがなかった。

「ちゃんと、本は、選ぶよ。怖い本なんて、持ってこないから安心して」
「ふふふふ、クリス様と一緒なら、そんな本も読んでみたいかもしれません」

 忘れる事が出来ないのなら、芽生えた悲しみは、より大きな幸せで塗り潰せばいい。そう結論づけたクリストファーは、サブリナに溺れるほどの愛を注ぐと決めた。
 そして、サブリナも、マイナスにばかり思っていた自分の特性が、思いもよらないアドバンテージになる事を知った。

『もっと、知識が欲しい』

 小さなサブリナの心に、大きな野望が生まれた。



  

 あれから、はや、四年。十八歳になったクリストファーは、劇的に身長が伸び、彼を見下ろせる人間は、誰一人いなくなった。
 サブリナを守るために磨き上げた剣の腕前は、他国にまで聞こえるほどだ。その噂を聞きつけた百戦錬磨の猛者達がミリアムに集まり、彼との対戦を望んだ。
 しかし、

「誰が、剣術で対戦すると約束した?」

『砂で目潰しをした後、殴る蹴る』という原始的な戦い方で勝ち逃げし、高笑いするクリストファーは、成長しても安定のクズだった。

『何事も腕力で黙らせる男』

と思われがちな彼だが、実は、謀略という知的な分野においても類まれな才能を持っていた。相手の弱みを握り、生かさず殺さず使い倒すのは、得意中の得意だ。サブリナの為に調べた国立図書館の館長に関する秘密は、本の貸出に、とても役立った。
 この点において、父親であるカイザーの血を一番色濃く受け継いでいるのは、彼なのかもしれない。
 しかし、派手に動き回って下手に父の手駒にされぬよう、この能力は、サブリナの為だけに使われている。

 こんな最低最悪なクリストファーだが、サブリナとだけは、きちんと向き合い、良好な関係を築いてきたと自負していた。こうして不意に訪れても、咎め立てされないくらいには、ミョルニールの信頼も勝ち得ている。
 両手に下げるずっしりと重い袋の中身は、彼女の為に購入した異国の本だ。

 あの八歳の出来事から、本を娯楽ではなく、自分が公爵家の役立てる一つの方法だと考えるようになったサブリナは、もう一つの才能を開花させていた。
 それは、『速読』だ。訓練によって身につけられる技術であるとは言われているが、彼女の場合、スピードと記憶定着率が違う。
 しかも、その知識を使いこなせるだけの思考力も高い。社交に向かない彼女は、クリストファーと出会わなければ、家に引きこもるだけの悲観的な未来しかなかった。
 しかし、今や国随一の読書量を誇り、『知識の集積』にかけては右に出る者はいない。

 屋敷から一歩も外に出ず、黙々と本を読み、公爵家で働く者ですら選び抜かれた人間しかお世話をさせてもらえない深窓の令嬢サブリナは、貴族達から変わり者だと思われていた。しかも、アノ第五王子の婚約者。いつしか『公爵家の読書狂』と呼ばれるようになっていた。
 そんな彼女が新しく読める本は、新刊か異国の本、そして、庶民が読む娯楽本くらいだ。
 そして、話は、冒頭へと戻る。

つづく
しおりを挟む
感想 7

あなたにおすすめの小説

離婚と追放された悪役令嬢ですが、前世の農業知識で辺境の村を大改革!気づいた元夫が後悔の涙を流しても、隣国の王子様と幸せになります

黒崎隼人
ファンタジー
公爵令嬢リセラは、夫である王子ルドルフから突然の離婚を宣告される。理由は、異世界から現れた聖女セリーナへの愛。前世が農業大学の学生だった記憶を持つリセラは、ゲームのシナリオ通り悪役令嬢として処刑される運命を回避し、慰謝料として手に入れた辺境の荒れ地で第二の人生をスタートさせる! 前世の知識を活かした農業改革で、貧しい村はみるみる豊かに。美味しい作物と加工品は評判を呼び、やがて隣国の知的な王子アレクサンダーの目にも留まる。 「君の作る未来を、そばで見ていたい」――穏やかで誠実な彼に惹かれていくリセラ。 一方、リセラを捨てた元夫は彼女の成功を耳にし、後悔の念に駆られ始めるが……? これは、捨てられた悪役令嬢が、農業で華麗に成り上がり、真実の愛と幸せを掴む、痛快サクセス・ラブストーリー!

“妖精なんていない”と笑った王子を捨てた令嬢、幼馴染と婚約する件

大井町 鶴
恋愛
伯爵令嬢アデリナを誕生日嫌いにしたのは、当時恋していたレアンドロ王子。 彼がくれた“妖精のプレゼント”は、少女の心に深い傷を残した。 (ひどいわ……!) それ以来、誕生日は、苦い記憶がよみがえる日となった。 幼馴染のマテオは、そんな彼女を放っておけず、毎年ささやかな贈り物を届け続けている。 心の中ではずっと、アデリナが誕生日を笑って迎えられる日を願って。 そして今、アデリナが見つけたのは──幼い頃に書いた日記。 そこには、祖母から聞いた“妖精の森”の話と、秘密の地図が残されていた。 かつての記憶と、埋もれていた小さな願い。 2人は、妖精の秘密を確かめるため、もう一度“あの場所”へ向かう。 切なさと幸せ、そして、王子へのささやかな反撃も絡めた、癒しのハッピーエンド・ストーリー。

老聖女の政略結婚

那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。 六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。 しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。 相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。 子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。 穏やかな余生か、嵐の老後か―― 四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。

婚約破棄から始まる、ジャガイモ令嬢の優雅な畑生活

松本雀
恋愛
王太子から一方的な婚約破棄の書状を受け取ったその日、エリザベートは呟いた。 「婚約解消ですって?ありがたや~~!」 ◆◆◆ 殿下、覚えていらっしゃいますか? あなたが選んだ隣国の姫のことではなく、 ――私、侯爵令嬢エリザベートのことを。 あなたに婚約を破棄されて以来、私の人生は見違えるほど実り多くなりましたの。 優雅な所作で鍬を振り、ジャガイモを育て、恋をして。 私のことはご心配なく。土と恋の温もりは、宮廷の冷たい風よりずっと上等ですわ!

【完結】姉は聖女? ええ、でも私は白魔導士なので支援するぐらいしか取り柄がありません。

猫屋敷 むぎ
ファンタジー
誰もが憧れる勇者と最強の騎士が恋したのは聖女。それは私ではなく、姉でした。 復活した魔王に侯爵領を奪われ没落した私たち姉妹。そして、誰からも愛される姉アリシアは神の祝福を受け聖女となり、私セレナは支援魔法しか取り柄のない白魔導士のまま。 やがてヴァルミエール国王の王命により結成された勇者パーティは、 勇者、騎士、聖女、エルフの弓使い――そして“おまけ”の私。 過去の恋、未来の恋、政略婚に揺れ動く姉を見つめながら、ようやく私の役割を自覚し始めた頃――。 魔王城へと北上する魔王討伐軍と共に歩む勇者パーティは、 四人の魔将との邂逅、秘められた真実、そしてそれぞれの試練を迎え――。 輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。 けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、 やがて――“本当の自分”を見つけていく――。 そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。 ※本作の章構成:  第一章:アカデミー&聖女覚醒編  第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編  第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編 ※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位) ※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。

置き去りにされた転生シンママはご落胤を秘かに育てるも、モトサヤはご容赦のほどを 

青の雀
恋愛
シンママから玉の輿婚へ 学生時代から付き合っていた王太子のレオンハルト・バルセロナ殿下に、ある日突然、旅先で置き去りにされてしまう。 お忍び旅行で来ていたので、誰も二人の居場所を知らなく、両親のどちらかが亡くなった時にしか発動しないはずの「血の呪縛」魔法を使われた。 お腹には、殿下との子供を宿しているというのに、政略結婚をするため、バレンシア・セレナーデ公爵令嬢が邪魔になったという理由だけで、あっけなく捨てられてしまったのだ。 レオンハルトは当初、バレンシアを置き去りにする意図はなく、すぐに戻ってくるつもりでいた。 でも、王都に戻ったレオンハルトは、そのまま結婚式を挙げさせられることになる。 お相手は隣国の王女アレキサンドラ。 アレキサンドラとレオンハルトは、形式の上だけの夫婦となるが、レオンハルトには心の妻であるバレンシアがいるので、指1本アレキサンドラに触れることはない。 バレンシアガ置き去りにされて、2年が経った頃、白い結婚に不満をあらわにしたアレキサンドラは、ついに、バレンシアとその王子の存在に気付き、ご落胤である王子を手に入れようと画策するが、どれも失敗に終わってしまう。 バレンシアは、前世、京都の餅菓子屋の一人娘として、シンママをしながら子供を育てた経験があり、今世もパティシエとしての腕を生かし、パンに製菓を売り歩く行商になり、王子を育てていく。 せっかくなので、家庭でできる餅菓子レシピを載せることにしました

悪役令嬢と誤解され冷遇されていたのに、目覚めたら夫が豹変して求愛してくるのですが?

いりん
恋愛
初恋の人と結婚できたーー これから幸せに2人で暮らしていける…そう思ったのに。 「私は夫としての務めを果たすつもりはない。」 「君を好きになることはない。必要以上に話し掛けないでくれ」 冷たく拒絶され、離婚届けを取り寄せた。 あと2週間で届くーーそうしたら、解放してあげよう。 ショックで熱をだし寝込むこと1週間。 目覚めると夫がなぜか豹変していて…!? 「君から話し掛けてくれないのか?」 「もう君が隣にいないのは考えられない」 無口不器用夫×優しい鈍感妻 すれ違いから始まる両片思いストーリー

私は愛する人と結婚できなくなったのに、あなたが結婚できると思うの?

あんど もあ
ファンタジー
妹の画策で、第一王子との婚約を解消することになったレイア。 理由は姉への嫌がらせだとしても、妹は王子の結婚を妨害したのだ。 レイアは妹への処罰を伝える。 「あなたも婚約解消しなさい」

処理中です...