【完結】囲われサブリナは、今日も幸せ

ジュレヌク

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アレクサンダー王の憂鬱

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 アレクサンダー・ミリアム

 後に、軍事国家を法治国家へと変貌させた彼の統治時代、ミリアム王国は、『奇跡の理想郷』と呼ばれた。

 母ソラリスは、ミリアム王国の次に栄華を誇るダレンス王国の元王女。彼女の兄サイラスが国王となっている今、アレクサンダーにとって、これほど心強い後ろ盾はいない。
 そして、軍事面においては、同腹の弟、クリストファーが完全掌握していた。昔は、かなりの乱暴者として他国にまで名を轟かせた彼だが、妻を娶ってからは、とても穏やかな気質へと変化したと言われている。
 この二人に支えられ、名君アレクサンダーは、次々に革新的な改革を行い、ますます国を発展させていくだろう。

 そう他国からは見られているようだが、それは、あくまでも表面上は、である。
 あのクリストファーの性格が変わることもなければ、母ソラリスとの確執が消えるわけでもない。母と弟の水面下での諍いは、日々、アレクサンダーから任を受ける間諜から報告を受けている。

「飽きもせずに、よくやるものだ」

 アレクサンダーを王に据えた為、表立ってクリストファーに誹謗中傷を出来なくなったソラリスは、それでも姑息な嫌がらせを繰り返している。
 いともたやすく回避されては倍返しされるのに、また新たな手を考える執念は、いかんともし難い。代替わりし、女王としての地位を失った彼女の周りには、質の悪い粗悪な家臣しか残っていない。止めるどころか、昔の栄華を忘れられずに囃し立てるのが関の山だ。

 そして、とうとう先日、ソラリスは、サブリナの住む屋敷でボヤ騒ぎを起こした。実行犯は死刑宣告された犯罪者で、成功すれば逃がしてくれる約束だったらしい。
 既に、クリストファーによって育成された精鋭部隊とも言える屋敷の使用人達に捕まり、生死は定かではない。ほぼ百パーセントこの世にはいないだろうとアレクサンダーは思っている。

「母上は、そろそろ消されても、文句は言えないな」

 実母に対しての評価も、身内だと言って情に左右されることはない。このように、アレクサンダーは幼い頃より、実に達観している。人生二周目かと疑いたくなるような性格は、多分、彼の置かれた状況が培ったものだろう。

 彼の中にある最初の鮮明な記憶は、父カイザーの巨大な手が、自分の顔を五本の指で掴んだ瞬間だ。めり込むような痛みに泣き声をあげると、慌てて母が抱きしめて逃げてくれたのだ。恐怖で体の震えは止まらず、呼吸すらまともに吸えなかった。

 カイザーは、不満だったのだ。軍事協定を結ぶダレンス王国から妻を娶った手前、どうしても第一子であるアレクサンダーを王太子にしなければならない。
 しかし、自分とは似ても似つかぬ華奢なアレクサンダーが、本当に自分の子供か怪しんでいたのだ。その疑いは、大きくなるにつれ余計膨らんでいったようで、ことあるごとに難題を押し付けてきた。

 ソラリスは、その猛攻から息子を守るべく、母国から教師陣を呼び、彼女の考える理想をアレクサンダーへ求めた。それが母の愛だということを理解していても、カイザーとは違う妄念とも思える圧力に、日々、心は子供らしさを無くしていった。




 アレクサンダーに転機が訪れたのは、彼が十歳の時だ。母は望まなかったことのようだが、10年ぶりに妊娠し、名実共に血の繋がる弟が産まれたのだ。

「絶対に会ってはなりません!アレは、悪魔です!」

 元々欲しかったわけでもない上に、出産時に死にかけた事で、彼女のクリストファーへの憎悪は、周りが驚くほど苛烈なものだった。アレクサンダーにも会うことを禁止し、自身も一度も乳をやらぬ徹底ぶりだ。

「アレクサンダー殿下、なりません」

 何度も会いたいと訴えるアレクサンダーに、執事も困り顔だ。それはそうだろう。勝手に二人を会わせた事がバレれば、執事は、クビどころではない。磔にされるか、はたまた、斬首されるか。ソラリスには、それだけの権力があるのだ。

「分かった。すまない、無理を言った」

 冷静さを取り戻した第一王子の謝罪に、執事は、ホッと胸をなでおろした。

 しかし、アレクサンダーは、こう見えて、あのカイザーとソラリスの息子だ。微笑みの貴公子と呼ばれる裏に、腹黒さは持ち合わせている。無理だと分かっていて、敢えて執事に面倒事を頼んだのには、訳がある。

「すまないが、水を持ってきてくれるか?喉が乾いてしまって。あと、先生が来られる時間だ。菓子の用意も頼む」
「ハッ!今すぐに!」

 返事は良いが、やや年老いた執事は、最近痛みだした腰を右手で擦りながら部屋を出ていった。
 アレクサンダーは、把握していたのだ。この時間帯、メイド達は、洗濯、掃除、繕い物等に手を取られ、執事一人が自分を担当している事を。
 そして、厄介事からやっと逃げ出せてホッとした執事が、腰の痛みを理由にわざとゆっくり歩くことも。
 
 これで、段取りを整える為の時間は稼げた。

トントン

「入れ」
「失礼いたします」

 一礼をして入ってきたのは、礼儀作法の教師であるルイスという男だった。見目がよく、物腰も柔らかで、ソラリスの覚えも良い。多分、彼女が最も求めた『妻に優しい夫』の理想形がコレなのだろう。
 しかし、アレクサンダーは、知っている。この男がダレンス国王から勅命を受けた密偵であることを。
 ソラリスの兄でありながら、サイラスは、妹を全く信用してなかった。未だに母国での高待遇が忘れられず、王太子にミリアム王国ではなくダレンス王国の教育をほどしている時点で、王妃としては失格なのだ。
 我が子を思うなら、本来は、ミリアム王国の次期王として相応しい教育と人脈づくりをするべきだった。  
 
 サイラスとしては、妹の失態で甥を王太子の椅子から落とすわけにはいかない。そこで、ルイスという見目麗しい密偵を差し向けた。妹の好みを熟知している兄は、甘い餌で妹を思うままに操ろうとしているのだ。

「ルイス先生、授業の前に、お話があるのですが」
「どのようなことでしょうか?アレクサンダー殿下」

 ルイスは、普段通りの爽やかな笑顔でアレクサンダーを見下ろした。彼の身長の半分しかないアレクサンダーも、負けずに外向きの穏やかな顔で見つめ返す。

「教え子の母親の手の甲に、庭園の四阿でキスをするのは、いささかやり過ぎだと思うのですが?」

 まるで、『紅茶に砂糖と蜂蜜を入れるのは、いささかやり過ぎだと思うのですが?』とでも言っているかのような、サラリとした物言い。
 だが、ルイスの表情が、一瞬にして殺し屋の顔に変わった。人心を掌握するのに、色技掛けは男女問わず有効なものだ。特に、ソラリスのような夢見がちな女は、年齢を問わず『恋』に弱い。細心の注意をはらい、周りに気配を感じないことも確認して行った行為を、まさか十歳の子供に見られていたとは。
 だが、相手は主君の甥。のちのち良好な国交を保つためにも、手にかけることは出来ない。
 懐には、忍ばせたナイフ。奥歯には、自決用の毒薬。ルイスは、一瞬判断に迷った。
 その躊躇をアレクサンダーは、見逃さない。
 
ガン

 ルイスは、股間を思い切り足で蹴り上げられた。革靴の先に鉄が仕込まれているらしく、通常では考えられない硬さだ。

「ぎゃあ!」

 悶絶し膝をつくと、今度は肩を踏みつけられる。無様に倒れ、何が起きたか全く理解できぬまま喘ぐルイスの口に、

 ガコッ

銃口が突っ込まれた。

「うえっ」

 涙目でえずくルイスの目に映ったのは、無表情のアレクサンダー。

「死ぬのは構わない。だが、あと一時間待ってくれ」

 銃弾は、入っていない。それどころか、模造品の装飾用だ。小柄なアレクサンダーなど、ルイスの腕力でいくらでも押さえつけられる。今、反撃を加えれば、直ぐに形勢逆転するだろう。
 それなのに、ルイスは、アレクサンダーの発する覇気のようなものに気圧された。たった十歳の少年に、ひれ伏したい衝動に駆られる。

 ルイスがゆっくりと小さく首を縦に振ると、銃口は、彼の口から出ていった。

「すまないな、痛かっただろう」

 アレクサンダーは、ハンカチを差し出しながら、謝罪した。口の中が銃口の先で切れ、血の味がする。

「いえ……大丈夫です」

 そう答えるルイスの顔は、腹の底から湧き出るような興奮で赤く染まっていた。彼の求めていた『絶対的王』が目の前にいる。決して強そうに見えないのに、逆らえない内に秘めた強さが、どこから来るものなのか一番近くで見たいと思った。

「この命、アレクサンダー殿下に捧げます」

 床に這いつくばったまま、額を床に擦り付けた。
 しかし、帰ってきたのは、冷ややかな返答だ。

「お前は、手垢のついた駒を自陣に引き入れるような愚か者に仕えたいのか?」

 その言葉に、ルイスは絶望の表情を浮かべた。彼は、己より強いものに仕えたい欲求に、常に苛まれていた。サイラス王は、王らしい王だ。若くして、自身の父を病気と偽り幽閉した手腕は、認めるに足りる。
 だが、そこに肉親への情を捨てきれない甘さがあった。禍根を残さないのであれば、いっそ、病死にすれば良かったのだ。

 一方、アレクサンダーには、得体のしれない闇がある。中を覗き込むと飲み込まれてしまいそうな暗さだ。彼ならば、きっと良き国を導くために、毒すら飲む覚悟があるだろう。

「アレクサンダー殿下、なにとぞ……」

 ルイスは、アレクサンダーの靴に唇を寄せた。この屈辱的行為は、服従の意思の現れである。理想の主の為なら、命すら惜しくない。舐めろと言われれば靴底でも舐めただろう。
 まるで恋をしたかのように熱に浮かされた表情のルイスを、眉一つ動かさず見下ろしていたアレクサンダーは、

「時間稼ぎを頼む」

と短く命令を出した。それを聞いたルイスの瞳に、光が戻る。

「それは……」
「命令を一度で理解できないのなら、国に帰れ」
「いえ!仰せのままに」

 立ち上がり一礼するルイスには目を向けず、アレクサンダーは、窓を開けて外に出た。何度も頭に描いた経路は、メイドの動線と被らぬよう、庭師の視界に入らぬよう考え抜かれていた。
 クリストファーの居る場所は、本邸から離れた二階建ての建物だ。彼を隔離する為だけに建てられている為、装飾もなく、簡素な作りになっている。面倒を見るのは乳母一人。子を亡くしたばかりで、乳の出が良い。それだけの理由で押し付けられたのだから、やる気もない。乳とおむつ替え、風呂を時間を決めて行う以外、クリストファーは1階のベビーベッドに放置されている。

 カチャ

 乳母は、今、昼寝中だ。音を立てずに侵入すると、そーっと中を覗いた。静けさの中に、ギシギシという小さな音だけが響いている。

「あ……」

 ベビーベッドの柵を右手で持ち、目を大きく開いた赤子が、体を左右にゆらしていた。声を上げるわけでもなく、笑うわけでもない。生後3ヶ月と聞くが、アレクサンダーの半分はある大きな体だ。
 アレクサンダーは足音を潜ませて、
クリストファーに近づいた。上から覗き込むと、目が合った。線の細いアレクサンダーと比べ、既に凛々しさが漂っていた。

「いいなぁ、お前は」

 つい、愚痴がこぼれた。身体的に恵まれなかった彼は、ミリアム王国では、出来損ないの部類に入る。腕力、気力、胆力で全てを推し量る風潮は、この国で長く続いてきたものだ。一朝一夕に変わるものではなく、王太子といえども一つミスをすれば引きずり下ろされるチャンスを与えることになる。

「お前なら、父上に顔を掴まれる前に振り払いそうだ」

 アレクサンダーは、ニコリと笑い、そーっと人差し指をクリストファーに近づけた。柔らかな頬を触りたかったのだ。

ガシッ

 指は、頬に届く前にクリストファーに掴まれた。

ギューーーーーーー

 赤子ゆえ、そこまでの力はないが、思い切り握りしめている。アレクサンダーが左右に振っても離れず、遊んでもらっていると勘違いしたのか、クリストファーは、

「キャッキャッ」

 と声を上げた。

ガタガタガタ

 声を聞きつけたのか、二階で足音が聞こえた。どうやら、メイドが目を覚ましたらしい。名残惜しいアレクサンダーだったが、クリストファーの指を無理やり外し、玄関から飛び出した。

 帰り道、指先に残る温もりに、冷え冷えとしていたアレクサンダーの心が少しだけ温かくなった。今後も会う機会はほぼ無いだろうが、彼の心に弟という存在は、深く刻まれた。



 再び窓から部屋に戻ると、身だしなみを整えたルイスが、テーブルの上に湯気の立った紅茶を用意して待っていた。その立ち居振る舞いは、とても洗練されていた。
 アレクサンダーは、何も言わず、椅子に座るとカップを手に持ち口に運ぶ。

「アレクサンダー殿下」
「なんだ」
「私のことを、お疑いにならないのですか?」

 自分が紅茶を入れておきながら、あまりに躊躇なく紅茶を飲む姿に、ついルイスは訊ねてしまった。
 アレクサンダーは、自分を心配げに見つめる視線に既視感を覚えた。既に手中にある密偵達も、同じような目をしている。盲目的に信仰する信徒のような眼差しは、同じ匂いがするらしい。

「大抵の毒には、耐性がある」
「え?」
「産まれてから、命を狙われていない日などない。今更怯えてどうする」

 アレクサンダーの悟りを開いたかの如く静かな語り口に、ルイスは、少年の歩いてきた壮絶な十年を垣間見た気がした。

「どうした?毒でも入れてあったのか?死ななくて悪かったな」
「滅相も御座いません」

 ルイスは、頭を下げると、懐に隠してあったナイフを取り出した。それを自分の右頬に持っていくと、自ら美麗な顔に傷をつける。

「これで、常にお側に居ることが出来ますか?」

 ソラリスの執着する美しさが損なわれはしたが、逆に、壮絶な凄みが出た。

「その顔では、目立って使い物にならないな」
「私は、貴方の影となりましょう。何なりとお申し付けを」

 これ以後、アレクサンダーの腹心となる彼の名は、ルイスではなくなった。というのも、偽名しか与えられず、本名自体が無いと言う。

「なら、ファーレと名乗れ」
「ファーレ(灯台)でございますか」
「私の行く道は、険しい。せめて、灯りくらい自前で用意しておきたい」
「ありがたき幸せ」

 ルイス改めファーレは、アレクサンダーの裏の部分を一手に引き受ける人物として、決して表に出ず運命を全うすることとなる。
 
 ソラリスは、突然消えた想い人(ルイス)が、まさか兄の仕向けたハニートラップだとは思いもしない。ルイス失踪を勝手にカイザーの仕業と思い込み、更に不仲に拍車がかかる。
 そして、癒やしを無くした彼女の苛立ちが、五年後に、思わぬところで火を吹くことになった。 



 五歳になっていたクリストファーの悪評は、王宮内では知らぬ者が居ないほど広がっていた。それでも、出来ることなど大した事ではなく、洗濯されていたシーツを全て地面に落として回るとか、馬小屋を開け放って放逐すると言った悪ふざけの延長上のものばかりだ。

「きゃーーー」 

 庭から聞こえるメイドの悲鳴で、今日もまた弟が何かをやらかしたのだと知ることができる。姿を見なくても、弟の存在を知ることができ、アレクサンダーは、悲鳴が聞こえるたびに口元をほころばせていた。
 
 しかし、ある日を境に、風向きが変わっていく。クリストファーが突き飛ばした女が、ソラリス専属の侍女だったのだ。転がった先に石があり、頭をぶつけて流血騒ぎになってしまった。

「あの悪魔め!謝って許されるなどと思わぬことだ!」

 この時期のソラリスは、常にクリストファーを攻める口実を探しているところであった。何故なら、十五歳のアレクサンダーと五歳のクリストファーの身長が、殆ど変わらなかったからだ。
 平均よりかなり低いアレクサンダーと、にわかには五歳とは信じられないクリストファーの体躯は、握りこぶし一つ分しか違わない。一年、いや、数ヶ月後には追いつかれてしまう。
 見た目がカイザーに似たクリストファーに、自分に似たアレクサンダーが負ける。それを笑って許せるような心の広さなど、ソラリスは、持ち合わせていない。しかも、彼女の感情をコントロールしていたルイスなる愛人は、もういない。

 それ以後、クリストファーには、護衛と言う名の見張りが付くようになる。少しでも不審な行動を取ると、体罰を与えて止める徹底ぶりだ。王宮内は、しんと静まり返り、時折遠くからクリストファーの泣き声が聞こえてくるようになった。

「アレクサンダー様、筆が止まっていらっしゃいますが、何か気になることでも?」

 教師の指摘に、自分がクリストファーの気配を探していたことに気付いた。

「申し訳ありません。少し、寝不足だったようです」

 アレクサンダーは、筆を再び走らせ雑念を追い払う。彼は、常に失敗を望まれている。ミスをすれば、それは直ぐさま王宮内に知れ渡り、王太子として不適切だと糾弾されるのだ。敵に、付け入る隙を与えてはならない。

 一旦クリストファーのことを頭の隅に追いやり、アレクサンダーは、自分の地盤固めに邁進した。クリストファーが護衛達から手酷い扱いを受けている可能性もあったが、自分の身は自分で守るしかない。十五年王宮内で揉まれたアレクサンダーは、クリストファーの精神力の強さを願った。



 だが、その二年後、その願いは、全く違う方向で裏切られることになる。

「お、お許しを」
「お前らが、それを言うか?俺にしてきたことを思い出してみろ!」

 クリストファーが両手に握っているのは、剣ではなく割られる前のただの薪だ。武器を全て取り上げられ、戦う為に手に取ったようだ。それを全く躊躇なく、護衛達の頭を目掛けて振り抜けるのは、戦闘訓練を受けた戦士か狂人だけだ。

「ガハッ」

 クルクルと体が回転し、土埃を上げながら地面に崩れ落ちる彼らの目に光はない。完全に意識を手放したのか、はたまた、二度と目覚めないのかは分からない。
 二階の窓からその様子を見ていたアレクサンダーは、そっと目を閉じた。
 クリストファーは、顔以外は傷だらけだった。虐待にも近い折檻を受けてきたのだろう。死ななかったのは、彼の生まれ持った生命力の強さがあったからだ。
 更に体が大きくなり、護衛と変わらぬ身長になった十ニ歳は、密かに体を鍛えて反撃の日を待ち続けていたようだ。

『ミリアム王家の悪魔』

 そう呼ばれるようになった化け物を、自分が育て上げてしまった事に、ソラリスは気づいているだろうか?

 その日以降、クリストファーを止められる者は、誰も居なくなった。苦言を呈せば、双腕がうなりを上げる。言葉を言い切る前に吹き飛ばされるのがオチだ。
 父カイザーは、荒くれ者となったクリストファーを娯楽の一つのように扱った。

『好きにしろ。殺せるものなら、殺せばいい』

 王が公に『私刑』を認めるような発言をすると、臣下達が血眼になってクリストファーを狙うようになった。
 だが、襲われる度に経験値を貯め、更に強くなっていくクリストファーは、周りにいる人間全てを敵と認識するようになる。
 
「まったく……母上も父上も、何をしたいんだ」

 獣のように目をランランと光らせ、逆に獲物を狙うかのような生活を始めたクリストファーに、アレクサンダーは、悲しみを覚える。

「もっと違うやり方があっただろう」
 
 自分なら……そう思う度に、胸が苦しくなる。アレクサンダーに危険が及ばぬよう、兄弟の距離は実際に遠く離された。もう、二度と会うこともないのだろうと、溜息をつくことしか出来なかった。



 そして、アレクサンダー二十四歳、クリストファー十四歳の春、突然弟が、兄の目の前に現れた。どうしても手に入れたい少女のために、王子らしい立ち居振る舞いをしたいと言う。

「それで、私の元に来たと?」
「あぁ」
「どう見ても、人にものを頼む人間の態度とは思えないが?」

 大きな体を更に大きく見せる威圧的な態度に、笑いをこらえる。

「別に、手取り足取り教えろとは言ってない。ただ、側で観察させろと言っている」
「命令口調を直してから出直してこい」

 どんなに横柄で尊大な態度を示しても、アレクサンダーにとっては、クリストファーは、あの赤子なのだ。赤子が大人ぶるほど滑稽で愛らしいものはない。

 ほんの少し前は、獣のように手あたり次第に噛み殺す勢いだった弟の変化は、もっと小さな少女がもたらしたと聞き、更に笑いが込み上げる。

「なんだ、アイツも年頃の男の子というわけか」
 
 アレクサンダーの思い出し笑いに、妻リリエッタも微笑みを深くする。

「アレクがそんな風に笑うなんて、珍しいこともあるものね」

 外ではか弱く夫に守られる妻を演じる彼女だが、本当は狩りと乗馬をこよなく愛する男勝りな気質だ。初めて顔合わせした際、アレクサンダーの嘘くさい笑顔を見破った強者でもある。

「いや……ちょっと、弟のことを思い出してね」

 常にソラリスが望む『理想の夫婦』を演じる二人は、運命共同体の仲間という認識である。彼女の母国は、気候がよく農作物がよく育つためカイザーに目をつけられた。次期王と婚姻を結ぶことで、現在、辛うじて国として存続している。アレクサンダーが失墜すれば、祖国も危ないのだ。利害が一致している二人は、決して裏切ることのない友人として今の形を作り上げている。

「クリストファー殿下のことを、そんな風におっしゃるのは、アレクだけだと思いますけど」
「そうかな?アイツは、凄く分かりやすいところが良い。サブリナ嬢さえ幸せなら、他はどうでもいい。そこだけ押さえておけば、怖くはないよ」

 アレクサンダーは、アレクサンダーで、兄ぶりたい兄なのだ。弟のことは、すべて分かっているような気になっていた。
 しかし、それが違うのだと知らしめられる時が来る。



 深夜まで書斎で仕事をしなければならなかった日に、突然、音もなく窓が開いた。外から吹き込む風にカーテンがふわりと舞い上がり、その後ろからクリストファーが現れた。

「こんな夜更けに、何の用だ?」
「そろそろ兄上も、王太子に飽きてきたかと。兄思いの弟は、その道筋を整えに来たというわけですよ」 

 微笑んでいるつもりなのか、口角を少しだけ上げたクリストファーの顔は、嘲笑にも取れる冷たさがあった。人の皮を被った得体の知れぬ生き物に見える。
 アレクサンダーは、昔クリストファーに掴まれた指を反対側の手で握り込んだ。あの時の赤子は、もう何処にもいないのだ。

「ふぅーー」

 アレクサンダーは、冷静さを取り戻そうとゆっくり息を吐いた。気分は、獣に狙われる獲物だった。

「父上は、まだご存命だぞ……」
「人間、ある日突然何が起こるか分からないですよ。コケて頭を打って死ぬ……とか?」
「クリストファー、何をするつもりだ」
「何も……。ただ、兄上が、王になったら、俺とカンタンテ公爵家には手出ししないで頂きたい。それを守っていただけるのなら、生きてる間くらいは支えて差し上げても良いですよ」

 アレクサンダーは、忘れてはならない。

『平気で人の命を狩り、その手で無垢な婚約者を抱きしめる』

 この事実は、永遠に変わらぬということを。クリストファーという男の手綱を握ろうとしてはならない。それが出来るのは、サブリナのみ。王となるには、いかに良好な関係を築き、崩さぬバランスを取り続けられるかだ。
 向こうから申し出ている機会を逃せば、二度とチャンスはないだろう。

 父であるカイザーは、やり過ぎたのだ。一見クリストファーの弱点に見えるサブリナこそ、もっとも触れてはならぬ聖域。彼女に手を伸ばしただけで、簡単に息を止められるのだ。
 顎を小さく引き、同意を示したアレクサンダーを見て、クリストファーは満足げに微笑んだ。

「では、良い夢を」

 それだけ言うと、クリストファーは、部屋を出ていった。
 アレクサンダーは、その後も、彼が出ていった窓をいつまでも見つめていた。


 その後、カイザーの突然の発病と退位が発表され、アレクサンダーが王になった。
 このことに、驚かない者は、皆アレクサンダーの手の者だ。母ですら狂喜乱舞し、慌ててすり寄ろうとする者達が、王宮に続く道に列をなした。
 
 クリストファーは、表立っては臣下の礼を取った。最も恐れられる男が頭を垂れたことで、アレクサンダー王への期待が一気に王都に広がる。
 そのことで侮りが生じたのか、幾人かの貴族が、クリストファーに手を出し秘密裏に死んだ。

 この平和が、辛うじて保たれているのは、サブリナという少女の存在があるからだ。彼女の幸せが、世界の平和。それを理解せぬソラリスは、もう生きる価値すらなくなってしまった。

「ファーレ」

 名を呼ぶと、その男は、足音すら立てず、アレクサンダーの背後に来ていた。

「母を頼む」

 その意味を正確に掴んだファーレは、スッと頭を下げると部屋を出ていった。



「まぁ!ルイス!」

 ソラリスは、夜の寝室に忽然と現れた昔の愛人に、驚くよりも喜びに頬を染め走り寄った。彼の顔半分は、白い仮面に覆われているが、昔と変わらぬ美しい顔をしている。

「お久しぶりです。ソラリス王妃」
「もう、王妃ではなくってよ。でも、貴方と私を阻む邪魔者も消えたわ!もう、離れないで」

 いい歳をした女が、乙女のようにはしゃぐ姿は、見るに堪えない。昔の威厳に満ちた姿はなく、だらしがなく脂肪を蓄えてしまった体は重そうに見える。

「えぇ、もう、二度と離れません。貴女が、生きている限り」

 女として扱われる喜びに、ソラリスの警戒心はなんの役にも立たない。しどけなくもたれ掛かり、進められるままにワインをあおる。幸せの絶頂で、眠るように死ねたのは、ソラリスにとって最高の死に方だっただろう。そうしなければ、クリストファーに、どのような仕打ちをされて惨殺されたか分からない。これを母親への情と考える者もいるだろう。

 しかし、味方を変えれば、クリストファーに対抗する意思がないことの表明とも言える。
 ベッドの上に彼女を横たわらせ、息をしていないことを確認すると、ファーレは、影のように部屋から消えた。



「首尾よく終わりました」
「すまなかったな」
「全ては、主の御心のままに」

 ファーレからの報告を聞き、思った以上心が動かない自分に、アレクサンダーは苦笑いを浮かべる。
 息子を自分好みに育てたはずのソラリスは、一体どこで間違ったのだろう。それを考えると、己の子育てにも一抹の不安がよぎる。 
 ただ、今の所三つ子は、スクスクと育っている。それだけでも、良しとせねばならないのかもしれない。

「ファーレ」 
「はい」
「私が道を間違えたら、お前の手で殺してくれるか?」
「それは、承知いたしかねます。その前に、名に相応しく、貴方様の灯台(ファーレ)となって行く道を照らしましょう」

 思わぬ出会いで結ばれた二人の縁だが、ミリアム王家の繁栄を支える一助となったことは、間違いないようだった。

END
    
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