君よ、土中の夢を詠え

ヒロヤ

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十月二十二日(土)フクさん

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 その時、空気の流れすら止まった。


 くしゃり、白井が持つ封書が音を立てた瞬間、

「うわぁああーっ!」

 宇佐見の大音声が、夕暮れの静かな老人ホームに響き渡った。

 さすがに職員がたしなめる。
 しかし、宇佐見は止まらない。

「黙ってられないよ!どういうことなのさ!」

 慌ててヒサ江がベッドの下にあるボタンを押すと、そのままベッドが傾斜し、眠っていた人物の顔が正面に向けられた。

 白井は、固まったまま対峙する。

 小さな小さな老人がそこにはいた。

 真っ白な髪は短く切り揃えられ、ところどころ抜けてしまっているところも見られる。目は開いているのかどうかわからないほど小さく、顔も腕も痩せ細り、ところどころに黒いシミが浮いている。

 微動だにしない老婆――伊藤フクの、唯一皺だらけの口元が魚のように動き、何か訴えようとしているのが見て取れた。

「何年ぶりだろう……フクちゃんが、違う言葉をしゃべったよ……」

 ヒサ江は少し落ち着いたようだが、すでに涙声である。

「もう何て言えばいいのやら、ねえ、アサトくん。どうして、フクちゃんはアンタを知ってるんだい……」

 ――そんなこと言われても。

 白井は、まるで自分が石像にでもなったかのように、その場に立ち尽くした。

 ただ間違いなく、この老婆の口から『アサト』という音が発せられたのだ。

 会ったことがあるのか?
 いや、まさか。
 自分は母親が死ぬまで、この人を知る機会すらなかった。


 そこへ、入り口の方から声がかけられた。

「おい、シロップ。勘違いするなよ」

 遠巻きに見ていた藤石が、短く言い放った。

「さっきから、この馬鹿ウサがお前の名前を呼んでいた。それに反応しただけだ」

 それを聞いた途端、宇佐見もヒサ江も急に元気がなくなった。

「それも、そうだよねえ」

 ヒサ江が、フクの額を撫でた。

「フクちゃんが、知っているはずないか。もう、ずっとこの中にいるんだもん。冷静に考えたら有り得ないわ」

 すると、突然、宇佐見がベッド脇のイスに腰をかけ、フクの顔を覗き込んだ。


「如月の深雪に惑う苔石の色は変はらじしんと春待つ」


 ――母が遺した一筆箋の歌。

 部屋は、まるで時計の秒針音すら聞こえるかのような静けさに包まれた。何かの奇跡を期待していたのも束の間、瞬きを繰り返すだけの老婆の前で宇佐見はうなだれた。

「ダメだったかあ。この歌、絶対フクちゃんが作ったものだと思ったのに……」

 ドア口に立っていた藤石が呆れ声で言った。

「あのなあ、仮にそのバアさんが作った歌としてもだ。家族の顔すら忘れている今の状態で、そんな一片の歌のことなんか思い出すはずないだろうよ」

 バカバカしい、小さくそう聞こえると、宇佐見が勢いよく立ち上がった。

「お前って、本当に無慈悲で冷たい男だよ!それでもオレの先輩なわけ?」

「何だその言い分。くだらないことに付き合わせておいて、俺の出張料はお前が出すのか?」

 だいぶ慣れてきたとはいえ、二人の言い争いは気持ちがいいものではない。白井は、間に割って入った。

「やめてください。もう、良いんです。ウサさんもありがとう。気持ちだけで嬉しいよ」

 白井は、早くこの場を収めたく、うつろな表情の老婆に頭を下げた。

「すみませんでした」

 フクは、口もポカンと開き、見えているのかいないのか、曖昧な視界に白井を捉えた。

 ――母さん、これで良いよね。

 白井は亡き母の代わりに、もう一度頭を垂れた。

 こうして、母方のルーツの人たちと会えたことだけでも、親孝行だと思いたい。

 白井は、この病室の空気に触れているのが耐えられそうになかった。

 命がゆっくりと消えていくような空気――。

 ここにいたら、自分は前に進めなくなる。

 ヒサ江がまた泣きそうな顔をしているのが横目に見える。それがどうにも切なくて、白井はベッドから離れた。

「さようなら、フクさん。お元気で」

 小さな老婆は驚いたように目を開けて、細く涙を流しながら、小声でつぶやいた。


「あさとさん」


 そして、フクは突然激しく咳き込み始めた。



 ヒサ江を家まで送り届け、白井たちも帰路についた。何とも言いようのない虚脱感が車内に満ちていく。

 ――いや、最初から有り得ない話だったんだ。

 伊藤フクが生きていただけでも奇跡としておこう、白井はそう思った。母が遺した歌の秘密も、フクが白井の名前を呼んだことも、気にはなるがどうすることもできないのだから仕方ない。顔も知らなかった親戚と、短い時間でも温かな交流が持てたのだ。母への供養にもなったはずだ――。

 藤石の車は来た道を大きく外れ、農道に添って進んで行く。

 白井は、不審に思った。

「フジさん、こっちじゃなかったと思いますよ」

「いや、こっちだ」

 あぜ道なのか、車体が揺れる。

「国道に出るには、さっきの三叉路を……」

「墓地だ墓地」

「え?」

 バックミラー越しに、藤石の眠そうな目と合った。

「相続対象の土地、現況がどうなっているか見たいだけだ」

 すると、助手席の宇佐見の顔が、にわかに明るくなった。

「そうこなくっちゃ!調査続行!さすがオレの先輩!」

「遠まわしに自分を褒めやがったな」

 藤石が手の平をヒラヒラとさせながら白井に言った。

「もちろん、俺は仕事になりそうだから協力するんだぞ。勘違いするなよ」

「し、仕事?」

「さっき、ヒサ江おばさんが言ってただろう?白井家も元々はこのあたりだったって」

「は、はあ……」

「しかも、墓地に一人だけ白井家の人間も埋葬されたままらしいな」

「……」

「そのシロップのご先祖がこの周辺で土地を持ったままかもしれない。要は、白井家の相続で見落とされた不動産があるかもしれないだろう?そうすりゃ、またお前に相続させる手続きが必要になるからな」

 車は大きな畑の前に差し掛かった。西日を受けた道の先に石垣が目に入った。

「当たりだ。冴えているな、俺」

 藤石は車を降りた。開けたドアから冷たい風が吹き込む。

「ひひ、素直じゃないんだから、チビ書士は」

 宇佐見が後部座席の白井に地図を見せてきた。

「最初から、来るつもりだったんだよ。アイツ」

 地図には、小さな丸印が描かれている。大鳥家と介護施設の福寿園と、大通りから外れた道の上。

 白井は、急に申し訳ない気持ちになり、車から飛び出した。

「フジさん!」

 自分より、懸命な仲間たち。

 真実がどうこうというより、まず何よりその優しさに応えなくてどうする。

 白井が、藤石に頭を下げようとしたその時、小さな墓石の前で藤石が暗い顔をして立っている。

「……当たり、なのかな。俺、冴え過ぎだわ」


 白井は墓石の前で膝を折った。


 苔と雑草に囲まれた石の塚。

 手で彫ったのか、文字はおぼろげで良く見えないが、間違いなくそこに刻まれていたのは――。



 【白井麻人墓】
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