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第4章 ホテルの個性的な客達
第75話 悩める芸術家たち
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「すっかり遅くなってしまったわ」
アデレードはディマを連れて早足で帰途を急ぐ。カールと他愛もないことを話したり、本を読んだりしていたら、いつの間にか陽が傾きつつあった。
今度ゆっくりまた見に来ると良い、と伯爵は言ってくれたわ。会いに行く口実が出来ちゃったわ。
アデレードは歩きながら口元が緩んだ。自然まるでステップを踏むように足取りが軽くなる。主人のそんな様子を見ながら、ディマも機嫌よく付いていく。ホテルまで着くと、1台の馬車が前庭に停まっていた。
「あら……」
「お嬢さん、丁度良かった」
入り口に前にメグとクリスが困惑した顔で立っていて、アデレードに気が付いて安心したように声を上げる。2人の前には男性が2人立っている。長い金髪に鮮やかで刺繍のたっぷり施された緑色の服の人物と短い黒髪に落ち着いた装飾のほとんどない臙脂の人物で、どちらも30前後の若い男性のようだ。
「お客様、かしら?」
アデレードが2人に声を掛けようとするより先に、金髪の男性の方が大仰に振り返った。
「おー貴女がこのホテルの主人ですね」
「は、はい。アデレードでございます」
男性の勢いに驚きつつ、アデレードが答える。
「フロイライン・アデレードですね。お、可愛いワンちゃんだ」
アデレードの隣でお座りしていたディマに気が付き、男性は笑顔で頭や体を勢い良く撫でまわす。ディマは若干嫌そうだったが、我慢した。
「ブッフバルト」
もう一人の黒髪の男が咎めるように名を呼んだ。
「おっと失礼しました。我々はシュミット夫人の紹介で来ました。僕はブッフバルト、彼はシュナイダーと言います」
芝居がかった動作でブッフバルトが礼をする。
「ブッフバルト……」
その名前にアデレードは聞き覚えがあった。そしてその姿も。
そう、確か劇場で。
「もしかして、劇作家のブッフバルト? 私、ナターシャを見ましたわ。とても素晴らしい作品で、この子のディマという名前も、その主人公から取ったのですよ」
アデレードがそう話すと、ブッフバルトはいたく感動した様子で胸に手を当てる。
「おぉ、僕の名声がこんな田舎まで届いていたとは……しかし、それも過ぎ去りし栄光」
「過ぎ去りし栄光?」
「そうです。美しいお嬢さん。あぁ、しかし僕はもうだめだぁ」
ブッフバルトは膝をついて頭を抱える。
感情の起伏の激しい方だわ……。メグとクリスが困惑するのも無理ないわね。
「ま、まぁ、とりあえず中へどうぞ」
アデレードは2人をホテルの中へ招き入れ、それぞれの部屋に案内すると、ほっと一呼吸おいた。カウンターまで戻ると、メグとクリスが待っていた。
「何だかずいぶん大袈裟な人ですね」
唖然としたようにメグが言った。
「私が劇場で見かけたときは、もっと自信に溢れた方のように見えたけれど……。ところで、料理の方は大丈夫かしら?」
「はい。そっちは大丈夫っす。こんなこともあろうかと、前回の反省を踏まえて、川魚を油漬けにしたものがありますから。それを使いましょう」
クリスが笑って自信あり気に答えた。
夕食の席で、ワインをたらふく飲んだブッフバルトはおいおいと泣き出した。
「僕はもうお終いだ。新作の評判は散々。フラウ・シスレーには振られるし。パトロン達も次々去っていった。皆口々にブッフバルトの才能は枯れ果てたと言う。あんまりな言い草じゃないか、えぇ。そう思うだろう、シュナイダー?」
シュナイダーが口を開き言葉を発する前に、またブッフバルトが喋り始めた。
「そう思うだろう? どいつもこいつも芸術というものを理解していないんだ。調子の良いときはあれだけ僕を持ち上げておいて、ちょっと失敗したら潮が引くように居なくなって……なんて酷い連中だ! あぁ、悲劇、我が人生よ」
と、こんな感じのことを延々シュナイダー相手に捲し立て続け、ついにはぐでんぐでんに酔っ払い。クリスに背負われて部屋に戻ることになった。
「あの、シュナイダーさん、一体何があったのですか?」
アデレードが部屋に戻るシュナイダーを呼び止め尋ねると、シュナイダーは素っ気なく答えた。
「……今季の新作歌劇が大失敗だった。それですっかり気落ちして、ヤケになってしまった」
「だから、フラウ・シュミットが見かねて、ここへ来るようにおっしゃったのですか?」
アデレードは知らなかったが、ブッフバルトの作ったその酷い新作は付き合いでカールやマックスが見たものだった。そこにはシュミット夫人も居て、ブッフバルトのことを心配していたのだ。
「あぁ。ついでに私も小説を書くのに静かな環境が欲しかったからついてきた」
「シュナイダーさんは小説家なのですね」
「あぁ、名義は別だが」
そう言って彼は、部屋に戻っていった。
「フラウ・シュミットが言っていた、ちょっと面倒くさい、傷ついた人ってブッフバルトさんのことだったのね」
傷ついているのなら、どうにか癒されて帰って頂きたいけれど……。
「どうにか出来るかしら?」
アデレードは考え込むように腕を組んで、頬に右手を当てた。
アデレードはディマを連れて早足で帰途を急ぐ。カールと他愛もないことを話したり、本を読んだりしていたら、いつの間にか陽が傾きつつあった。
今度ゆっくりまた見に来ると良い、と伯爵は言ってくれたわ。会いに行く口実が出来ちゃったわ。
アデレードは歩きながら口元が緩んだ。自然まるでステップを踏むように足取りが軽くなる。主人のそんな様子を見ながら、ディマも機嫌よく付いていく。ホテルまで着くと、1台の馬車が前庭に停まっていた。
「あら……」
「お嬢さん、丁度良かった」
入り口に前にメグとクリスが困惑した顔で立っていて、アデレードに気が付いて安心したように声を上げる。2人の前には男性が2人立っている。長い金髪に鮮やかで刺繍のたっぷり施された緑色の服の人物と短い黒髪に落ち着いた装飾のほとんどない臙脂の人物で、どちらも30前後の若い男性のようだ。
「お客様、かしら?」
アデレードが2人に声を掛けようとするより先に、金髪の男性の方が大仰に振り返った。
「おー貴女がこのホテルの主人ですね」
「は、はい。アデレードでございます」
男性の勢いに驚きつつ、アデレードが答える。
「フロイライン・アデレードですね。お、可愛いワンちゃんだ」
アデレードの隣でお座りしていたディマに気が付き、男性は笑顔で頭や体を勢い良く撫でまわす。ディマは若干嫌そうだったが、我慢した。
「ブッフバルト」
もう一人の黒髪の男が咎めるように名を呼んだ。
「おっと失礼しました。我々はシュミット夫人の紹介で来ました。僕はブッフバルト、彼はシュナイダーと言います」
芝居がかった動作でブッフバルトが礼をする。
「ブッフバルト……」
その名前にアデレードは聞き覚えがあった。そしてその姿も。
そう、確か劇場で。
「もしかして、劇作家のブッフバルト? 私、ナターシャを見ましたわ。とても素晴らしい作品で、この子のディマという名前も、その主人公から取ったのですよ」
アデレードがそう話すと、ブッフバルトはいたく感動した様子で胸に手を当てる。
「おぉ、僕の名声がこんな田舎まで届いていたとは……しかし、それも過ぎ去りし栄光」
「過ぎ去りし栄光?」
「そうです。美しいお嬢さん。あぁ、しかし僕はもうだめだぁ」
ブッフバルトは膝をついて頭を抱える。
感情の起伏の激しい方だわ……。メグとクリスが困惑するのも無理ないわね。
「ま、まぁ、とりあえず中へどうぞ」
アデレードは2人をホテルの中へ招き入れ、それぞれの部屋に案内すると、ほっと一呼吸おいた。カウンターまで戻ると、メグとクリスが待っていた。
「何だかずいぶん大袈裟な人ですね」
唖然としたようにメグが言った。
「私が劇場で見かけたときは、もっと自信に溢れた方のように見えたけれど……。ところで、料理の方は大丈夫かしら?」
「はい。そっちは大丈夫っす。こんなこともあろうかと、前回の反省を踏まえて、川魚を油漬けにしたものがありますから。それを使いましょう」
クリスが笑って自信あり気に答えた。
夕食の席で、ワインをたらふく飲んだブッフバルトはおいおいと泣き出した。
「僕はもうお終いだ。新作の評判は散々。フラウ・シスレーには振られるし。パトロン達も次々去っていった。皆口々にブッフバルトの才能は枯れ果てたと言う。あんまりな言い草じゃないか、えぇ。そう思うだろう、シュナイダー?」
シュナイダーが口を開き言葉を発する前に、またブッフバルトが喋り始めた。
「そう思うだろう? どいつもこいつも芸術というものを理解していないんだ。調子の良いときはあれだけ僕を持ち上げておいて、ちょっと失敗したら潮が引くように居なくなって……なんて酷い連中だ! あぁ、悲劇、我が人生よ」
と、こんな感じのことを延々シュナイダー相手に捲し立て続け、ついにはぐでんぐでんに酔っ払い。クリスに背負われて部屋に戻ることになった。
「あの、シュナイダーさん、一体何があったのですか?」
アデレードが部屋に戻るシュナイダーを呼び止め尋ねると、シュナイダーは素っ気なく答えた。
「……今季の新作歌劇が大失敗だった。それですっかり気落ちして、ヤケになってしまった」
「だから、フラウ・シュミットが見かねて、ここへ来るようにおっしゃったのですか?」
アデレードは知らなかったが、ブッフバルトの作ったその酷い新作は付き合いでカールやマックスが見たものだった。そこにはシュミット夫人も居て、ブッフバルトのことを心配していたのだ。
「あぁ。ついでに私も小説を書くのに静かな環境が欲しかったからついてきた」
「シュナイダーさんは小説家なのですね」
「あぁ、名義は別だが」
そう言って彼は、部屋に戻っていった。
「フラウ・シュミットが言っていた、ちょっと面倒くさい、傷ついた人ってブッフバルトさんのことだったのね」
傷ついているのなら、どうにか癒されて帰って頂きたいけれど……。
「どうにか出来るかしら?」
アデレードは考え込むように腕を組んで、頬に右手を当てた。
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