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アズマモグラの刺青

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彼等には刻まれていたという。


おぞましい魔獣の刺青が…。


「アズマモグラの刺青」


宿屋のスコップ主人


―観光地―


ある観光地の宿屋に、働き者の男がいた。


男は、妻と、幼い息子と共に「宿屋」を営み、安定した生活をおくっていた。


だが、観光客を狙った犯罪が多発すると、観光客の数が激減し、宿屋の経営も危うくなってきた。


ほとんどの店が看板をおろし、その地からまともな人間が去っていった。


だが、ある男だけは、その地に残り続けていた。


―商売人―


男は、宿屋での仕事が好きだった。


見ず知らずの観光客に心から喜んでもらい、その笑顔に見合った金額で、家族を養える事が何よりの幸せだった。


だが、今は違った。


ならず者たちが観光地を汚し、その全てを台無しにしていた。


あの美しかった湖も、輝いていた頃の人々の心も。


そして、先祖代々から受け継ぐこの「宿屋」も、灰色に見えて、死にかけていた。


―ある日。


男が、美しかった頃の湖も見つめていると、男の背後で、ならず者たちの叫び声がした。


男が、うんざりした表情で振り返ると、そこには、「黒いローブの男」が立っていた。


黒いローブの男は、この辺りは物騒だ、とため息をつくと、


「分厚い本」を取り出して男に問い掛けた。


「お前にとって大事なのは、家族か、


それとも、宿屋か?」


男は、その問いに答えることができなかった。


家族は、もちろん大事だが、この男の中には、宿屋を守るという強い執念と、燃え続ける商売魂があった。


黒いローブの男は、その深い沈黙を答えのひとつとして受け取ると、


男の足元に分厚い本を投げ捨てた。


「執念に囚われ、土迷路を進む愚か者よ、


お前もそれを受け取るがよい、


その本を読み解く事が出来れば、


宿屋を守りたいという執念だけは守れるだろう、


だが、忘れるな、


執念は、選ぶ道を誤れば人間としてのお前を殺す、


そして、家族もだ」


男は、眼を見開いた。


だが、黒いローブが立ち去ると、その足元に捨てられた分厚い本を拾い上げ、ページを開いた。


そこには、「アズマモグラの刺青」と黒文字で書かれていた。



―大喧嘩―


あなた、もうやめて、


その夜も妻が泣いていた。


息子も泣いていた。


はやくここから出たいと言っていた、


宿屋を守れるのは、自分たちだけなのに、


このわからずや、


その夜は、どんな夜も悲しかった、


―宿屋―


男の朝が始まった。


窓の向こうは、眩しいくらいに晴れていた。


男の隣で眠る妻と息子は、何日か前に大喧嘩したから、一緒には起きてはくれなかった。


とくに妻は、男と性格が似ていて頑固だった。


だが、男は、気にしなかった。


「また許してくれる日は必ずくる」


そう思うだけだった。


男は、妻の用意してくれていた緑色のパンを一口だけかじると、客室の掃除に取り掛かった。


本来ならば、客室の掃除は、三人でするのだが、最近はひとりで行っていた。


男が、二階の客室の扉を開くと、観光客の荷物が部屋中に散乱し、放置されたままにされていた。


床に捨てられた女性客の日記帳には、「お母さんお父さんたすけて」と、誰かの叫びが、乱れた文字で書き残されていた。


「また、やられた」


男は、それらを片付けながら、また、うんざりした気分でいた。

 
見ると、窓ガラスも割られていた。


おそらく、宿泊金が足りないからという理由で、慌てて、窓からの逃走をはかったのだろう。


男が、窓から身体を乗り出し、下を見ると、若い男女の死体が、仲良く並んで倒れていた。


女の方は、誰かに顔面をスコップで何度も殴られたのか、深い傷があり、


男の方はというと、ならず者たちに暴行された痕がいくつか見えた。


あまりにも哀れだが、男は、やはり気にしなかった。


男が、客室の掃除を終えて廊下に出ると、その通路のすみには、ならず者たちの死体が転がっていた。


なぜ、こんなにも目立つのに気付かなかったのだろう。


そういえば昨夜、商売の邪魔でならず者たちの頭を殴ったことをすっかり忘れていた。


やはり、疲れている。


だが、急いで片付けなければ、商売に支障をきたしてしまう。


この宿屋は、癒しと、清潔さが売りなのに。


男が、廊下の死体の片付けをしていると、どこかの客室から、誰かの朗読が聞こえてきた。


男が、その声に誘われて声のする客室の扉を開くと、その客室には、黒いローブの男がいた。


黒いローブの男は、血にまみれたベッドに腰掛けて朗読を続けていた。


【執念に囚われ、土迷路を進む愚か者よ、


その旅は、阿弥陀道(あみだみち)、


あらゆる狂気がその旅路を妨害する、


それは危機でもあり、救済の光でもある


だが、忘れるな、


救済の光に眼を潰された場合は、その執念がそのふたつの眼を覆う、


土竜のように眼が退化する前にさがせ、


巣穴を守れる魔獣を】


黒いローブの男が、朗読を終えて分厚い本を閉じると、男は、急いで客室から出ていった。


巣穴を、


この宿屋を守ってくれる「用心棒」を求めて…。


―宿屋のスコップ主人―


現在、彼は、宿屋を完全に守る為に、自分よりも狂気に満ちた「用心棒」を求めて、かつての観光地をさ迷い歩いている。


だが、他人の為だけに生きる人間は、どうやら、この観光地にはいないようだ。


もしも、この観光地で、この男に出くわしたら、物音と自分の体臭に注意すること。


彼は、その二つを目印にし、凶器の大型スコップで、その力量を試しに襲ってくるのだから…。


狂気と執念に覆われ、光を失った宿屋のスコップ主人、


その男の両手首には、土迷路の主、


「アズマモグラの刺青」が、三匹、横たわって刻まれているという…。
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