愛していると言わない理由

Sina

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一話

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 埃は午後の陽光を浴びて、銀色の細粉のように舞っていた。
 窓から差し込む光の帯を横切り、榛葉睦貴は古い詩集の背に筆を走らせる。指先には常に、和糊と古い紙が混じり合った、知的な沈黙の匂いが染みついていた。
 ここ稀覯本室は、大学の喧騒を遠くに、時の流れが澱んだ水底のように静まり返っている。

「修復師殿、今日は一段と熱心だな」

 低く、チェロの弦を弾いたような声が書架の間から響く。
 睦貴が顔を上げると、そこには銀縁の眼鏡を光らせた玖島蓮が立っていた。彼は手にした資料を机に置くと、睦貴の繊細な手つきを、まるで未知の標本でも眺めるような目で見つめる。

「玖島さん。またその資料ですか」
「ああ。君に会うための口実だと、そろそろ気づいてくれてもいい頃だが」
「……また冗談を。書棚の整理の邪魔です」

 睦貴は視線を落とし、作業を続ける。
 だが、ピンセットを持つ指先が、微かに震えを刻む。玖島の視線が、睦貴のうなじを、そして耳たぶをじっと追いかけている。白かった睦貴の耳は、内側からじわじわと朱を差していく。

「冗談に見えるなら、僕の演技力が卓越しているのか、君の観察眼が曇っているのか」
「どちらにせよ、私の仕事には関係ありません。私はこの本を明日までに仕上げる義務があるんです」
「義務、か。君はいつだって、死者の残した言葉には誠実だ。だが、生身の人間の言葉には、どうしてそうもつれないのかね」

 玖島がふらりと睦貴の横へ移動した。
 睦貴の鼻腔を、玖島がまとう微かな煙草の香りと、爽やかな薄荷の匂いがくすぐる。距離は、ページ一枚を挟むほどに縮まっていた。睦貴は呼吸を止める。肺胞の奥まで、玖島の存在が染み渡るような錯覚に陥った。

「その栞、曲がっているよ」

 玖島の長い指が、睦貴の手元にあった銀色の栞に触れた。
 指先と指先が、ほんの一瞬、電気的な火花を散らすかのように重なる。睦貴は、自分の心臓が古い本の頁をめくる音よりも、ずっと大きく、不規則に脈打つのを悟った。

「……あ。ありがとうございます。自分で直せますから」
「いいよ、これくらい。お礼に、少し僕の話を聞いてくれないか。今、翻訳に詰まっていてね。明治初期の、ひどく不器用な恋文なのだが」
「私は修復の専門で、翻訳の専門ではありません」
「言葉を修復するのは、紙を修復するのと同じくらい、君の得意分野だろう?」

 玖島は睦貴の反応を楽しむように、わずかに首を傾けた。眼鏡の奥にある瞳には、知的な探究心と、それとは別の熱が混ざり合っている。

「玖島さん。ここをどこだと思っているんですか。静粛に願います」
「おや、厳しい。だが、この沈黙こそが僕たちの共犯関係を深めているとは思わないか。誰にも邪魔されない、この埃っぽい楽園で」
「……楽園だなんて。ここはただの書庫です」

 睦貴は視線を泳がせ、手に持っていた筆を置いた。
 玖島の存在感は、この広大な書庫の冷気すらも塗り替えるほどに濃密だった。睦貴は自分の顔がさらに熱を帯びていくのを感じ、わざとらしく大きく椅子を引いて立ち上がる。

「今日はもう閉館の時間です。玖島さんも、早く帰ってください」
「逃げるのかい? それとも、僕に追いかけてほしいのか」
「どちらでもありません! 事務的な手続きの話です」

 睦貴は玖島の視線を振り切るようにして、受付のカウンターへと向かう。
 背後で、玖島が小さく笑う気配がした。その笑い声は、古い紙の匂いが漂う静寂の中に、一滴の濃い蜜を落としたように睦貴の心に波紋を広げた。

「いいだろう。今日はここまでにしておく。だが、その栞は預けておこう。次に会う時、それが正しい位置にあることを願っているよ」

 玖島は軽やかに手を挙げると、睦貴の返事も待たずに、優雅な足取りで書架の奥へと消えていった。
 睦貴は、彼がいなくなった後の空気の薄さを感じる。喉を鳴らして飲み込んだ生唾は、どこか甘酸っぱい、熟れる前のみかんの味がした。
 手元に残された銀の栞は、先ほどまでの玖島の体温を、いつまでも忘れないかのように熱を持って睦貴の指先に張り付いていた。
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