愛していると言わない理由

Sina

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二話

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 空は不意に、墨を流したような鉛色へと塗り替えられた。
 稀覯本室の重い扉を閉めた刹那、鼓膜を打ったのは、銀の針を無数に投げつけたような激しい雨音だ。
 睦貴は図書館の広大な軒下に立ち尽くす。アスファルトが熱を吐き出し、湿った土と埃の匂いが、鼻腔を強く刺激した。世界は一瞬にして灰色の幕に覆われ、数歩先にあるはずの正門さえも、霞の向こうに隠れてしまった。
 
「予報は見ていなかったのか」
 
 すぐ隣から、雨音を切り裂くような澄んだ声が届く。
 玖島だった。彼はいつの間にか睦貴の横に並び、灰色の雨幕を見つめている。細い銀縁の眼鏡が、稲光のような鋭い光を反射した。睦貴は、雨脚の激しさに怯えるように、抱えた鞄を胸元で強く握りしめる。
 
「……あいにく、古書の世界には天気予報は載っておりません」
「言い訳だけは、書生らしくて好ましい。だが、その薄いシャツでこの雨に飛び込めば、明日には君自身が修復の必要な資料になってしまうぞ」
「放っておいてください。小降りになったら走ります」
「無茶を言う。君の足と、この雲の執念、どちらが勝るかは明白だ」
 
 玖島はくすりと笑うと、ポケットから一枚の布を取り出した。
 それは清潔に糊のきいた、白い麻のハンカチーフだ。睦貴の頬へ、玖島の手が迷いなく伸びる。
 
「あ……」
「動くな。睫毛に雫がついている。そのまま目に入れば、僕を睨むこともできなくなるだろう?」
 
 柔らかな布が、睦貴の目尻を優しく押さえた。
 指先から伝わる玖島の体温は、思いのほか高く、睦貴の胸の奥に未知の熱量を直接注ぎ込む。ハンカチからは、微かな薄荷の香りと、玖島が愛読する古い書物の、乾いた紙の匂いが立ち上った。
 
 睦貴は呼吸を忘れる。
 肺の奥が、玖島の気配で満たされていく。雨の冷たさとは対照的に、自身の耳朶が火照り、朱に染まっていくのを自覚した。視界が狭まり、玖島の涼しげな目元と、形の良い唇だけが、異常な鮮明さを持って迫ってくる。
 
「玖島さん、近すぎます」
「雨宿りだ。空間を分かち合うのは、必然というものだよ。それとも、君はこの豪雨の中に僕を追い出すつもりか」
「そうは言っていませんが。もう少し離れても、雨は防げるはずです」
「いや、ここが一番、雨風の影響を受けにくい。僕の計算を疑うのかい?」
 
 玖島はハンカチを睦貴の手に握らせると、さらに一歩、距離を詰めた。
 睦貴の背中が、冷たい大理石の柱に触れる。行き場を失った視線が、玖島の胸元で彷徨った。玖島の白いシャツの第一ボタンが外れており、そこから覗く鎖骨の線が、不気味なほどに端正で、睦貴は慌てて目を逸らす。
 
 激しい雨音が、外界との壁を作る。
 この軒下だけが、世界から切り離された小部屋のようだった。玖島の手が、睦貴の頭のすぐ横の柱につかれる。閉じ込められた睦貴の喉は、砂漠のように乾ききっていた。
 
「榛葉君。君はいつも、本を直す時はあんなに大胆なのに、人に見つめられると途端に臆病になるのだね。修復師というのは、過去としか対話できない人種の呼称かな」
「……決めつけないでください。私はただ、無遠慮な視線に慣れていないだけです」
「無遠慮、か。心外だな。僕はこれでも、最大限の敬意を持って君を観察しているつもりだよ」
 
 睦貴は、自身の胸の鼓動が、衣服を突き破って玖島に届いてしまうのではないかと恐怖した。玖島の瞳の奥に、得体の知れない愉悦が揺らめいている。それは、獲物を追い詰めた獣のようでもあり、愛おしい標本を見守る学者のようでもあった。
 不意に、玖島が睦貴の耳元へ顔を寄せた。湿った空気を通じて、彼の熱い息が睦貴の肌を撫でる。
 
「心臓の音が、雨音に負けじと響いているよ。嘘を吐くなら、その脈拍も制御してからにするんだね」
「……っ、勝手すぎます」
「勝手なのが僕の美徳だよ」
 
 玖島は睦貴の髪をひと房、指先で弄んだ。その仕草には、慈しむような、あるいは独占を宣言するような重みがある。睦貴は、握りしめたハンカチの感触を確かめる。麻の質感はあくまで滑らかで、逃げ場のないこの状況を、どこか甘美なものへと変質させていく。
 
 外では激しい雨が、あらゆる喧騒を塗りつぶし続けていた。二人の間に流れる沈黙だけが、密度の高い色を帯びて、じりじりと重なっていく。睦貴は、雨が止んでほしくないと願う自分に気づき、慌てて首を振った。
 
「どうした。寒気がするのか」
「いえ。……ただ、少し、空気が重い気がして」
「それは僕のせいかな、それとも、この雨のせいかな」
 
 玖島は睦貴の反応を楽しむように、わずかに身を引いた。だが、その瞳は依然として睦貴を逃がさない。
 
「雨が止んだら、君を家まで送ろう。このまま帰しては、君の指先が冷えて、明日の修復作業に障る」
「……結構です。バスで帰ります」
「拒絶は受け付けないと言ったはずだ。僕の辞書に『遠慮』という文字は載っていないのでね」
 
 玖島は悠然と構え、再び雨の向こうを見据えた。
 睦貴は彼の手から借りたハンカチを、返せずに持ったまま立ち尽くす。夕立の激しさは、当分、収まりそうになかった。だが、睦貴の胸の中で暴れる熱い嵐は、外の雨よりもずっと長く続きそうな予感がしていた。
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