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三話
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雨上がりの空気は、濡れた草木の匂いを孕んで、稀覯本室の窓から忍び込んでくる。
睦貴は、返却されたばかりの『装飾愛読本』の頁を、羽毛に触れるような手つきで繰っていた。古い羊皮紙が、乾いた砂が流れるような音を立てる。その時、絹のように滑らかな紙の隙間から、一条の鋭い光が睦貴の瞳を射た。
銀の栞だ。
玖島が愛用していた、あの冷ややかな金属の断片。睦貴はそれを指先で摘み上げた。指先に伝わる銀の冷徹な感触は、先日の雨宿りの際、彼の指から伝わってきた熱とは対照的で、睦貴の心臓に小さな波紋を広げる。ふと、栞の裏側に目を落とした瞬間、睦貴の呼吸は止まった。
そこには、万年筆の鋭い筆致で、ただ一言。
『待つ』
とだけ記されていた。
文字は紙の表面を滑ることなく、深く、確かな意志を持って刻まれている。まるで玖島の低い声がその場所から立ち上ってくるかのようだ。睦貴の指先が、その文字の微かな凹凸をなぞる。
「……何を、待つというのですか」
睦貴の独り言は、書庫の沈黙に吸い込まれて消えた。返却された本の中に忍ばされた言葉が、自分に向けられたものであるという確信が、喉の奥を熱く焦がす。
「答えを、だよ。修復師殿」
不意に背後からかけられた声に、睦貴の肩が大きく跳ねた。
振り返れば、いつの間に足音も立てず入ってきたのか、玖島が書架の影に佇んでいる。彼は窓際へ歩み寄り、西日に縁取られた横顔を、静かな湖面のように美しく見せている。
「玖島さん。これは、忘れ物です。早く持って帰ってください。紛失したら困ります」
「忘れ物? いや、それは僕が意図してそこに置いたものだ。君に読ませるためにね」
「仕事の道具に私信を混ぜないでください。公私の区別がつかないのは、研究者としてどうかと思います」
睦貴は精一杯の拒絶を口にする。だが、自身の声がわずかに上擦っているのを隠すことはできなかった。玖島は睦貴に歩み寄り、その白皙の指で、睦貴が持つ栞をそっとなぞった。
「手厳しいな。だが君の指先は、その『不謹慎な私信』を愛おしむように撫でていたじゃないか」
「それは、資料の一部だと思ったからで、他意はありません」
「嘘を吐く時の君は、首筋まで林檎のように赤くなる。言葉は饒舌だが、生理反応は実に正直だ」
玖島が睦貴の顎を、長い指で軽く掬い上げた。銀縁の眼鏡の奥で、知的な愉悦と、それ以上に深い熱を帯びた瞳が睦貴を捉える。逃げ場はない。背後には無数の古い本が、死者のように沈黙を守りながら二人を見つめている。
「何に対する答えですか。私は、あなたに何かを約束した覚えはありません」
「雨の日の続きだよ。あの日、君の心臓は僕の問いかけに、確かに同意の拍動を刻んだはずだ。違うかね」
「……」
睦貴は言葉を失う。玖島の指が、睦貴の唇のすぐ傍を掠めた。その瞬間、鼻腔を突いたのは、洗いたてのシャツの清潔な匂いと、微かな薄荷の香気。それは睦貴にとって、どんな古書の香りよりも強烈に意識を支配する毒薬だった。
「待つのには慣れている。だが、あまり僕を焦らせないでほしい。古い紙と同じで、僕の理性も案外、脆くできているのだから」
玖島はそう囁くと、睦貴の手から栞を抜き取り、そのまま睦貴の胸ポケットへと滑り込ませた。銀の重みが、睦貴の左胸に確かな質量を持って居座る。自身の鼓動が、その金属を打つ音が、頭蓋の奥で反響した。
「また明日。良い返事を期待しているよ。修復師殿」
玖島は軽やかに背を向け、部屋を出て行った。残された睦貴は、激しく脈打つ胸を片手で押さえ、崩れ落ちるように椅子に腰を下ろす。
窓の外では、夕焼けが血のような朱色を空に広げていた。睦貴の視界もまた、羞恥と未知の感情によって、同じ色に染め上げられていた。
銀の栞に刻まれた『待つ』という言葉が、呪文のように睦貴の思考を縛りつける。彼はまだ、自分が既に玖島の掌の上で踊らされていることに、気づかない振りをすることしかできなかった。
睦貴は、返却されたばかりの『装飾愛読本』の頁を、羽毛に触れるような手つきで繰っていた。古い羊皮紙が、乾いた砂が流れるような音を立てる。その時、絹のように滑らかな紙の隙間から、一条の鋭い光が睦貴の瞳を射た。
銀の栞だ。
玖島が愛用していた、あの冷ややかな金属の断片。睦貴はそれを指先で摘み上げた。指先に伝わる銀の冷徹な感触は、先日の雨宿りの際、彼の指から伝わってきた熱とは対照的で、睦貴の心臓に小さな波紋を広げる。ふと、栞の裏側に目を落とした瞬間、睦貴の呼吸は止まった。
そこには、万年筆の鋭い筆致で、ただ一言。
『待つ』
とだけ記されていた。
文字は紙の表面を滑ることなく、深く、確かな意志を持って刻まれている。まるで玖島の低い声がその場所から立ち上ってくるかのようだ。睦貴の指先が、その文字の微かな凹凸をなぞる。
「……何を、待つというのですか」
睦貴の独り言は、書庫の沈黙に吸い込まれて消えた。返却された本の中に忍ばされた言葉が、自分に向けられたものであるという確信が、喉の奥を熱く焦がす。
「答えを、だよ。修復師殿」
不意に背後からかけられた声に、睦貴の肩が大きく跳ねた。
振り返れば、いつの間に足音も立てず入ってきたのか、玖島が書架の影に佇んでいる。彼は窓際へ歩み寄り、西日に縁取られた横顔を、静かな湖面のように美しく見せている。
「玖島さん。これは、忘れ物です。早く持って帰ってください。紛失したら困ります」
「忘れ物? いや、それは僕が意図してそこに置いたものだ。君に読ませるためにね」
「仕事の道具に私信を混ぜないでください。公私の区別がつかないのは、研究者としてどうかと思います」
睦貴は精一杯の拒絶を口にする。だが、自身の声がわずかに上擦っているのを隠すことはできなかった。玖島は睦貴に歩み寄り、その白皙の指で、睦貴が持つ栞をそっとなぞった。
「手厳しいな。だが君の指先は、その『不謹慎な私信』を愛おしむように撫でていたじゃないか」
「それは、資料の一部だと思ったからで、他意はありません」
「嘘を吐く時の君は、首筋まで林檎のように赤くなる。言葉は饒舌だが、生理反応は実に正直だ」
玖島が睦貴の顎を、長い指で軽く掬い上げた。銀縁の眼鏡の奥で、知的な愉悦と、それ以上に深い熱を帯びた瞳が睦貴を捉える。逃げ場はない。背後には無数の古い本が、死者のように沈黙を守りながら二人を見つめている。
「何に対する答えですか。私は、あなたに何かを約束した覚えはありません」
「雨の日の続きだよ。あの日、君の心臓は僕の問いかけに、確かに同意の拍動を刻んだはずだ。違うかね」
「……」
睦貴は言葉を失う。玖島の指が、睦貴の唇のすぐ傍を掠めた。その瞬間、鼻腔を突いたのは、洗いたてのシャツの清潔な匂いと、微かな薄荷の香気。それは睦貴にとって、どんな古書の香りよりも強烈に意識を支配する毒薬だった。
「待つのには慣れている。だが、あまり僕を焦らせないでほしい。古い紙と同じで、僕の理性も案外、脆くできているのだから」
玖島はそう囁くと、睦貴の手から栞を抜き取り、そのまま睦貴の胸ポケットへと滑り込ませた。銀の重みが、睦貴の左胸に確かな質量を持って居座る。自身の鼓動が、その金属を打つ音が、頭蓋の奥で反響した。
「また明日。良い返事を期待しているよ。修復師殿」
玖島は軽やかに背を向け、部屋を出て行った。残された睦貴は、激しく脈打つ胸を片手で押さえ、崩れ落ちるように椅子に腰を下ろす。
窓の外では、夕焼けが血のような朱色を空に広げていた。睦貴の視界もまた、羞恥と未知の感情によって、同じ色に染め上げられていた。
銀の栞に刻まれた『待つ』という言葉が、呪文のように睦貴の思考を縛りつける。彼はまだ、自分が既に玖島の掌の上で踊らされていることに、気づかない振りをすることしかできなかった。
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