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四話
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蝉の声が、沸騰する大気の中から、絶え間なく降り注いでいた。
大学近くの路地裏に佇む甘味処「狐月」の暖簾を潜ると、そこには外の世界とは隔絶された、濃い影と古びた扇風機の首振る音が満ちていた。
睦貴は、指定された一番奥の席に、玖島が既に鎮座しているのを見つけた。彼は白の開襟シャツを乱れなく着こなし、手元の文庫本に目を落としている。その姿は、この蒸し暑い日本の夏において、唯一そこだけが冬の湖畔であるかのように涼やかだった。
「遅かったね、修復師殿。道中の陽光に、そのまま溶かされてしまったのかと思ったよ」
玖島が顔を上げ、細い眼鏡の奥で楽しげに目を細める。睦貴は、汗で張り付いた前髪を指先で払いながら、玖島の対面に腰を下ろした。
「……稀覯本室の片付けに手間取っただけです。それに、勝手に場所を決めたのは玖島さんでしょう」
「文句を言いながらも足を運ぶ。君のそういう律儀なところは、実に稀な美徳だ」
ほどなくして、二人の前には山盛りの氷菓が運ばれてきた。
睦貴の前には、鮮やかな紅色の苺シロップが滴る一皿。玖島の前には、深い森の静寂を思わせる、宇治金時の緑が鎮座している。
「さあ、召し上がれ。この熱気だ、放っておけばただの甘い水に成り果てる」
睦貴は銀色の匙を取り、慎重に氷の山を削る。口に含むと、刃物のような冷たさが舌の上で鋭く弾け、次の瞬間には、甘い春の記憶のような香りが喉を通っていった。あまりの冷たさに、睦貴は思わず眉間に力を込める。
「……っ」
「急ぎすぎだよ。氷は逃げないが、君の頭痛は待ってくれない」
玖島がくすくすと笑い、自身の匙を睦貴の器へと伸ばした。睦貴が驚いて顔を上げるよりも早く、玖島は睦貴の苺シロップがかかった氷の一角を、鮮やかに掠め取っていく。
「あ、玖島さん……!」
「交換だ。君の苺は、僕の抹茶よりも少しだけ、純真な味がする」
玖島は、睦貴から奪った氷を、ゆっくりと口に運んだ。その時の彼の、どこか艶めいた唇の動きに、睦貴の視線は釘付けになる。睦貴の頬は、冷たい氷を食べているはずなのに、苺シロップよりもさらに濃い朱に染まっていた。
「玖島さん、そういうのは……その、行儀が悪いです」
「行儀か。僕は君の前では、あらゆる教養を脱ぎ捨ててしまいたい衝動に駆られるのだが」
玖島はそう言って、自身の器から深い緑の一匙を掬い、睦貴の唇へと差し出した。
「ほら、お返しだ。毒は入っていないよ。僕の好みを君に分けてあげようと思ってね」
睦貴は困惑し、周囲を見渡す。店内には、昼寝を貪る店主と、回る扇風機の音しかない。突きつけられた匙から立ち上る、抹茶の芳しい香りに誘われるように、睦貴はおずおずと口を開いた。
冷たい。そして、濃密な苦味と甘みが、睦貴の意識を白く塗りつぶす。玖島の匙が唇を離れる際、銀の先端が微かに睦貴の肌を掠めた。その刹那、睦貴の脊髄を、氷の冷たさとは真逆の、痺れるような熱が駆け抜けた。
「……美味しい、です。でも、自分で食べられますから」
「そうだろう。僕が選んだものに、間違いはない。君も、その一つだ」
玖島は満足げに頷くと、睦貴を見つめたまま、自身の唇を指先でなぞった。その視線は、もはや観察者のそれではない。獲物をじっくりと味わおうとする、飢えた者の色彩を帯びている。
器の中の氷は、みるみるうちに溶けていく。透明な水へと還っていくその速度は、睦貴が玖島に対して築き上げてきた、頑なな防壁が崩れる速度に似ていた。睦貴は、溶けた苺シロップを匙で混ぜながら、自身の内側で何かが取り返しのつかない形に変化していくのを感じていた。
「榛葉君。氷が溶け切るまでに、僕の問いへの答えを聞かせてくれるかな。例の栞については、どう考えている?」
玖島の声は、扇風機の風に乗って、睦貴の耳元に密やかに届く。睦貴は、最後の一匙を口に運び、冷たさに耐えるように目を閉じた。まぶたの裏に浮かぶのは、あの銀の栞に記された『待つ』という文字。
「……まだ、氷は残っています。水になるまでは、答えを保留にさせてください」
睦貴が絞り出すように言うと、玖島は声を上げて笑った。その笑い声は、夏の午後の気怠い沈黙を、鮮やかに、そして無慈避に切り裂いていった。二人の足元で、溶けた氷の雫が、白磁の器に小さな波紋を描き続けていた。
大学近くの路地裏に佇む甘味処「狐月」の暖簾を潜ると、そこには外の世界とは隔絶された、濃い影と古びた扇風機の首振る音が満ちていた。
睦貴は、指定された一番奥の席に、玖島が既に鎮座しているのを見つけた。彼は白の開襟シャツを乱れなく着こなし、手元の文庫本に目を落としている。その姿は、この蒸し暑い日本の夏において、唯一そこだけが冬の湖畔であるかのように涼やかだった。
「遅かったね、修復師殿。道中の陽光に、そのまま溶かされてしまったのかと思ったよ」
玖島が顔を上げ、細い眼鏡の奥で楽しげに目を細める。睦貴は、汗で張り付いた前髪を指先で払いながら、玖島の対面に腰を下ろした。
「……稀覯本室の片付けに手間取っただけです。それに、勝手に場所を決めたのは玖島さんでしょう」
「文句を言いながらも足を運ぶ。君のそういう律儀なところは、実に稀な美徳だ」
ほどなくして、二人の前には山盛りの氷菓が運ばれてきた。
睦貴の前には、鮮やかな紅色の苺シロップが滴る一皿。玖島の前には、深い森の静寂を思わせる、宇治金時の緑が鎮座している。
「さあ、召し上がれ。この熱気だ、放っておけばただの甘い水に成り果てる」
睦貴は銀色の匙を取り、慎重に氷の山を削る。口に含むと、刃物のような冷たさが舌の上で鋭く弾け、次の瞬間には、甘い春の記憶のような香りが喉を通っていった。あまりの冷たさに、睦貴は思わず眉間に力を込める。
「……っ」
「急ぎすぎだよ。氷は逃げないが、君の頭痛は待ってくれない」
玖島がくすくすと笑い、自身の匙を睦貴の器へと伸ばした。睦貴が驚いて顔を上げるよりも早く、玖島は睦貴の苺シロップがかかった氷の一角を、鮮やかに掠め取っていく。
「あ、玖島さん……!」
「交換だ。君の苺は、僕の抹茶よりも少しだけ、純真な味がする」
玖島は、睦貴から奪った氷を、ゆっくりと口に運んだ。その時の彼の、どこか艶めいた唇の動きに、睦貴の視線は釘付けになる。睦貴の頬は、冷たい氷を食べているはずなのに、苺シロップよりもさらに濃い朱に染まっていた。
「玖島さん、そういうのは……その、行儀が悪いです」
「行儀か。僕は君の前では、あらゆる教養を脱ぎ捨ててしまいたい衝動に駆られるのだが」
玖島はそう言って、自身の器から深い緑の一匙を掬い、睦貴の唇へと差し出した。
「ほら、お返しだ。毒は入っていないよ。僕の好みを君に分けてあげようと思ってね」
睦貴は困惑し、周囲を見渡す。店内には、昼寝を貪る店主と、回る扇風機の音しかない。突きつけられた匙から立ち上る、抹茶の芳しい香りに誘われるように、睦貴はおずおずと口を開いた。
冷たい。そして、濃密な苦味と甘みが、睦貴の意識を白く塗りつぶす。玖島の匙が唇を離れる際、銀の先端が微かに睦貴の肌を掠めた。その刹那、睦貴の脊髄を、氷の冷たさとは真逆の、痺れるような熱が駆け抜けた。
「……美味しい、です。でも、自分で食べられますから」
「そうだろう。僕が選んだものに、間違いはない。君も、その一つだ」
玖島は満足げに頷くと、睦貴を見つめたまま、自身の唇を指先でなぞった。その視線は、もはや観察者のそれではない。獲物をじっくりと味わおうとする、飢えた者の色彩を帯びている。
器の中の氷は、みるみるうちに溶けていく。透明な水へと還っていくその速度は、睦貴が玖島に対して築き上げてきた、頑なな防壁が崩れる速度に似ていた。睦貴は、溶けた苺シロップを匙で混ぜながら、自身の内側で何かが取り返しのつかない形に変化していくのを感じていた。
「榛葉君。氷が溶け切るまでに、僕の問いへの答えを聞かせてくれるかな。例の栞については、どう考えている?」
玖島の声は、扇風機の風に乗って、睦貴の耳元に密やかに届く。睦貴は、最後の一匙を口に運び、冷たさに耐えるように目を閉じた。まぶたの裏に浮かぶのは、あの銀の栞に記された『待つ』という文字。
「……まだ、氷は残っています。水になるまでは、答えを保留にさせてください」
睦貴が絞り出すように言うと、玖島は声を上げて笑った。その笑い声は、夏の午後の気怠い沈黙を、鮮やかに、そして無慈避に切り裂いていった。二人の足元で、溶けた氷の雫が、白磁の器に小さな波紋を描き続けていた。
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