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五話
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一閃。
雷鳴が天を裂くと同時に、稀覯本室を照らしていた淡い電光が、音もなく絶命した。
世界は瞬時にして、攪拌(かくはん)された墨の中へと沈み込む。窓を打つ雨音はさらに激しさを増し、巨大な獣が建物を揺らしているかのような錯覚を抱かせた。
「おっと。これはまた、随分と劇的な演出だね」
闇の深奥から、玖島の落ち着き払った声が届く。
睦貴は、手にしていた目録を思わず落としそうになった。視界を奪われた書庫は、慣れ親しんだはずの場所が、一転して出口のない巨大な迷宮へと変貌を遂げている。
「……停電、でしょうか。すぐに予備電源が入るはずですが」
「期待は薄いよ。さっきの雷鳴は、すぐ裏の配電盤を直撃したような響きだった。しばらくはこの深淵を楽しむしかないようだ」
睦貴は、壁を伝って出口を探そうと足を動かした。だが、鉄製の書架が冷たい沈黙を保ったまま、睦貴を拒絶するように立ちはだかる。不意に、睦貴の足が何かに躓(つまず)いた。身体が大きく傾ぎ、闇の中へと投げ出される。
「危ない」
硬い床に打ちつけられるはずだった睦貴の身体は、強固な何かに受け止められた。それは、玖島の胸板だった。睦貴の両肩を、玖島の大きな掌がしっかりと掴む。
「……っ、すみません」
「謝る必要はないよ。ただ、もう少し自分の足元を信じたらどうだ。それとも、僕を頼るための高度な計算かな?」
「そんな余裕、あるわけないでしょう」
睦貴は慌てて身を引き離そうとしたが、玖島の手は、睦貴の肩から腰へと滑り、そのまま彼を自身の身体へと引き寄せた。闇の中では、相手の表情が見えない。そのことが、睦貴の神経を極限まで研ぎ澄ませる。
玖島の体温が、薄いシャツ越しに睦貴の肌へと伝わってくる。微かな薄荷の香りと、降り続く雨の湿った匂いが混じり合い、睦貴の判断力を鈍らせた。
「見えないというのは、実に公平だ。修復師殿、君が今、どんな顔で僕に抱かれているのか、想像する楽しみがある。耳まで朱に染まっているのか、それとも、恐怖で青ざめているのか」
「玖島さん、離してください。こんな時に、冗談はやめて……」
「冗談? 僕はこれほどまでに真剣だよ。君の脈拍が、僕の掌を打つ速度が、すべてを物語っている」
玖島の指先が、睦貴のうなじをゆっくりと這い上がった。睦貴の背筋に、熱い電流が走る。暗闇の中で、視覚以外の感覚が異常なまでの鋭敏さを持ち始めた。玖島の服の擦れる音、呼吸の僅かな乱れ、そして、近づいてくる彼の気配。
「……駄目です」
「何が駄目なのだ。闇はすべてを隠してくれる。君が恐れていることも、僕が望んでいることも。この静寂の中では、古い書物さえも僕たちの味方だよ」
玖島の低い吐息が、睦貴の耳朶(じだ)を撫でる。睦貴は、自身の喉が鳴るのを必死で抑えた。今、玖島の顔はすぐ近くにある。手を伸ばせば、その眼鏡の冷たい感触も、整った鼻梁(びりょう)も、すべてに触れることができるだろう。
睦貴は、震える手を伸ばした。触れたのは、玖島の頬だった。剃り上げられたばかりの滑らかな肌の感触。睦貴の指先が、玖島の唇の端をなぞる。
「……玖島さんは、いつも、ずるいです」
「ずるいのはどっちだ。そんな風に、無防備な手つきで僕に触れてくるのは」
玖島が睦貴の指先を、自身の唇で優しく押さえた。その微かな湿り気と熱量に、睦貴は全身の力が抜けていくのを感じた。鉄の書架に押し付けられた背中からは冷気が伝わってくるが、前面は玖島の熱で焼けつくようだ。
外の雷鳴が一段と大きく響き、書庫を微かに揺らした。睦貴は、反射的に玖島のシャツの胸元を強く掴む。
「大丈夫だよ。君が掴んでいるのは、幽霊でも古書でもない。僕だ」
玖島が睦貴の額に、自身の額を静かに押し当てた。闇の中、二人の境界が曖昧に溶けていく。睦貴は、暗闇がこのまま永遠に続けばいいと、自分でも驚くほどの激しい渇望を抱いた。
だが、無情にも。カチリという小さな音と共に、天井の照明が頼りない光を灯し始めた。
「……あ」
眩しさに睦貴が目を細める。目の前には、至近距離で見つめてくる玖島の、射抜くような瞳があった。玖島は睦貴の髪をひと房、指先で弄(もてあそ)ぶと、名残惜しそうに腕を解いた。
「光は無粋だね。せっかく迷宮の入り口を見つけたと思ったのに」
玖島は平然とした顔で眼鏡の位置を直すと、何事もなかったかのように睦貴から数歩離れた。睦貴だけが、熱を持ったままの自身の指先を見つめ、立ち尽くしている。照明の下、二人の影はまた、独立した二つの形へと戻っていった。
雷鳴が天を裂くと同時に、稀覯本室を照らしていた淡い電光が、音もなく絶命した。
世界は瞬時にして、攪拌(かくはん)された墨の中へと沈み込む。窓を打つ雨音はさらに激しさを増し、巨大な獣が建物を揺らしているかのような錯覚を抱かせた。
「おっと。これはまた、随分と劇的な演出だね」
闇の深奥から、玖島の落ち着き払った声が届く。
睦貴は、手にしていた目録を思わず落としそうになった。視界を奪われた書庫は、慣れ親しんだはずの場所が、一転して出口のない巨大な迷宮へと変貌を遂げている。
「……停電、でしょうか。すぐに予備電源が入るはずですが」
「期待は薄いよ。さっきの雷鳴は、すぐ裏の配電盤を直撃したような響きだった。しばらくはこの深淵を楽しむしかないようだ」
睦貴は、壁を伝って出口を探そうと足を動かした。だが、鉄製の書架が冷たい沈黙を保ったまま、睦貴を拒絶するように立ちはだかる。不意に、睦貴の足が何かに躓(つまず)いた。身体が大きく傾ぎ、闇の中へと投げ出される。
「危ない」
硬い床に打ちつけられるはずだった睦貴の身体は、強固な何かに受け止められた。それは、玖島の胸板だった。睦貴の両肩を、玖島の大きな掌がしっかりと掴む。
「……っ、すみません」
「謝る必要はないよ。ただ、もう少し自分の足元を信じたらどうだ。それとも、僕を頼るための高度な計算かな?」
「そんな余裕、あるわけないでしょう」
睦貴は慌てて身を引き離そうとしたが、玖島の手は、睦貴の肩から腰へと滑り、そのまま彼を自身の身体へと引き寄せた。闇の中では、相手の表情が見えない。そのことが、睦貴の神経を極限まで研ぎ澄ませる。
玖島の体温が、薄いシャツ越しに睦貴の肌へと伝わってくる。微かな薄荷の香りと、降り続く雨の湿った匂いが混じり合い、睦貴の判断力を鈍らせた。
「見えないというのは、実に公平だ。修復師殿、君が今、どんな顔で僕に抱かれているのか、想像する楽しみがある。耳まで朱に染まっているのか、それとも、恐怖で青ざめているのか」
「玖島さん、離してください。こんな時に、冗談はやめて……」
「冗談? 僕はこれほどまでに真剣だよ。君の脈拍が、僕の掌を打つ速度が、すべてを物語っている」
玖島の指先が、睦貴のうなじをゆっくりと這い上がった。睦貴の背筋に、熱い電流が走る。暗闇の中で、視覚以外の感覚が異常なまでの鋭敏さを持ち始めた。玖島の服の擦れる音、呼吸の僅かな乱れ、そして、近づいてくる彼の気配。
「……駄目です」
「何が駄目なのだ。闇はすべてを隠してくれる。君が恐れていることも、僕が望んでいることも。この静寂の中では、古い書物さえも僕たちの味方だよ」
玖島の低い吐息が、睦貴の耳朶(じだ)を撫でる。睦貴は、自身の喉が鳴るのを必死で抑えた。今、玖島の顔はすぐ近くにある。手を伸ばせば、その眼鏡の冷たい感触も、整った鼻梁(びりょう)も、すべてに触れることができるだろう。
睦貴は、震える手を伸ばした。触れたのは、玖島の頬だった。剃り上げられたばかりの滑らかな肌の感触。睦貴の指先が、玖島の唇の端をなぞる。
「……玖島さんは、いつも、ずるいです」
「ずるいのはどっちだ。そんな風に、無防備な手つきで僕に触れてくるのは」
玖島が睦貴の指先を、自身の唇で優しく押さえた。その微かな湿り気と熱量に、睦貴は全身の力が抜けていくのを感じた。鉄の書架に押し付けられた背中からは冷気が伝わってくるが、前面は玖島の熱で焼けつくようだ。
外の雷鳴が一段と大きく響き、書庫を微かに揺らした。睦貴は、反射的に玖島のシャツの胸元を強く掴む。
「大丈夫だよ。君が掴んでいるのは、幽霊でも古書でもない。僕だ」
玖島が睦貴の額に、自身の額を静かに押し当てた。闇の中、二人の境界が曖昧に溶けていく。睦貴は、暗闇がこのまま永遠に続けばいいと、自分でも驚くほどの激しい渇望を抱いた。
だが、無情にも。カチリという小さな音と共に、天井の照明が頼りない光を灯し始めた。
「……あ」
眩しさに睦貴が目を細める。目の前には、至近距離で見つめてくる玖島の、射抜くような瞳があった。玖島は睦貴の髪をひと房、指先で弄(もてあそ)ぶと、名残惜しそうに腕を解いた。
「光は無粋だね。せっかく迷宮の入り口を見つけたと思ったのに」
玖島は平然とした顔で眼鏡の位置を直すと、何事もなかったかのように睦貴から数歩離れた。睦貴だけが、熱を持ったままの自身の指先を見つめ、立ち尽くしている。照明の下、二人の影はまた、独立した二つの形へと戻っていった。
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