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六話
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稀覯本室の机には、セピア色に焼けた一通の書簡が置かれていた。
玖島が持参したそれは、大正期のものと思われる和紙の私信だ。墨の色は薄れ、文字の輪郭は霧に包まれたように曖昧だが、そこには記した者の切実な筆圧が、静かな地層のように残っている。
「ある無名の文士が、自身の教え子に宛てた未投函の手紙だそうだ。君のその鑑定眼で、この崩し字を解読してほしい」
玖島は睦貴の隣に腰を下ろし、資料を指先で示した。睦貴は、和紙が崩れないよう慎重にピンセットを使い、文字の並びを追う。
「……随分と、回りくどい言い回しですね。月が綺麗だとか、風の音が止まないとか、自然の描写ばかりで肝心の用件が見えません」
「それが当時の美学だよ。心の内を直接さらけ出すのは、野蛮な行為だと考えられていた。君のように、耳を赤くして沈黙を守るのも、ある種の古典的な美徳と言える」
「私の話はしていません。……ええと、この部分はこうでしょうか。『明日の夕刻、君の影が私の門を叩くのを、私はただ硝子戸の向こうで数えている』」
睦貴が言葉を紡ぐたびに、玖島の視線が睦貴の横顔に突き刺さる。
部屋には、ページを繰る音と、外を歩く学生たちの遠いざわめきだけが漂っていた。睦貴の指先が、手紙の終盤、特に筆跡が乱れている箇所で止まった。
「ここが、うまく訳せません。……『君が私の名前を呼ぶ時、私の世界は一度、死んでから再生する』。……これでは、あまりに大仰(おおぎょう)すぎませんか?」
「いや、至極まっとうな心理だよ。榛葉君、君は自分の名前を僕に呼ばれた時、肺の酸素がすべて入れ替わるような感覚を抱かないかね」
玖島の問いは、鋭い針のように睦貴の鼓動を刺した。
睦貴は顔を上げることができない。視界の端で、玖島の白いシャツの袖口が見えた。そこからは、いつも通りの、清潔で冷ややかな薄荷の匂いが漂ってくる。
「私は、そんな……。ただの言葉に、そこまでの力があるとは思えません」
「なら、実験してみようか」
玖島が睦貴の肩に手を置いた。
重みと熱が、睦貴の身体を椅子に縫い付ける。玖島は睦貴の耳元へ顔を寄せ、微かな、しかし肺腑(はいふ)を震わせるような声でその名を呼んだ。
「――睦貴」
睦貴の背筋を、見たこともない色彩の火花が駆け抜けた。
視界が白く明滅し、確かに一瞬、世界から音が消えた。玖島の声だけが、血流に乗って全身を駆け巡る。睦貴は握りしめていた鉛筆を机に落とした。転がる音が、静寂の中でやけに大きく響く。
「……あ。……いまのは、反則です」
「翻訳の精度を上げるための補助だよ。さて、最後の一文を読んでごらん。この文士が、どうしても伝えられなかった結論を」
睦貴は震える指で、手紙の最後の一行をなぞった。
そこには、どの辞書にも載っていないような、奇妙で美しい日本語が並んでいた。
『私は君という存在によって、自身を修復し、同時に破壊し続けている』
「……愛している、という言葉を、一度も使っていないのですね」
「その必要がないからだ。言葉にすれば定型の中に収まってしまうが、こうして書き連ねることで、その感情は永遠に形を失わずに済む」
玖島の手が、睦貴の手の甲に重ねられた。
ひんやりとした玖島の指先が、睦貴の体温を奪い、代わりに重い沈黙を分け与える。
睦貴は、自分がこの手紙の受取人であるような錯覚に陥った。目の前の玖島は、翻訳者ではなく、執筆者そのものの眼差しで睦貴を見つめている。
「君はこの手紙を、どう修復する? 破れた箇所を繋ぐように、僕との間にある空白も埋めてくれるのか」
「……私は、壊れた本しか直せません。生きた人間の心までは、……私には、荷が重すぎます」
「逃げるための言い訳を修復するのは、もうやめにしよう。睦貴」
二度目の呼名に、睦貴の防壁は音を立てて崩れ去った。
睦貴は、重ねられた玖島の手を、振り払うことができなかった。むしろ、その冷たい指にしがみつきたいという、浅ましいまでの渇望が胸の内で頭をもたげていた。
机の上の古い手紙は、二人の熱にあてられたかのように、微かに震えて見えた。
翻訳はまだ、終わっていない。二人の関係という、難解で甘美なテキストを読み解く作業は、ここからが本番だった。
玖島が持参したそれは、大正期のものと思われる和紙の私信だ。墨の色は薄れ、文字の輪郭は霧に包まれたように曖昧だが、そこには記した者の切実な筆圧が、静かな地層のように残っている。
「ある無名の文士が、自身の教え子に宛てた未投函の手紙だそうだ。君のその鑑定眼で、この崩し字を解読してほしい」
玖島は睦貴の隣に腰を下ろし、資料を指先で示した。睦貴は、和紙が崩れないよう慎重にピンセットを使い、文字の並びを追う。
「……随分と、回りくどい言い回しですね。月が綺麗だとか、風の音が止まないとか、自然の描写ばかりで肝心の用件が見えません」
「それが当時の美学だよ。心の内を直接さらけ出すのは、野蛮な行為だと考えられていた。君のように、耳を赤くして沈黙を守るのも、ある種の古典的な美徳と言える」
「私の話はしていません。……ええと、この部分はこうでしょうか。『明日の夕刻、君の影が私の門を叩くのを、私はただ硝子戸の向こうで数えている』」
睦貴が言葉を紡ぐたびに、玖島の視線が睦貴の横顔に突き刺さる。
部屋には、ページを繰る音と、外を歩く学生たちの遠いざわめきだけが漂っていた。睦貴の指先が、手紙の終盤、特に筆跡が乱れている箇所で止まった。
「ここが、うまく訳せません。……『君が私の名前を呼ぶ時、私の世界は一度、死んでから再生する』。……これでは、あまりに大仰(おおぎょう)すぎませんか?」
「いや、至極まっとうな心理だよ。榛葉君、君は自分の名前を僕に呼ばれた時、肺の酸素がすべて入れ替わるような感覚を抱かないかね」
玖島の問いは、鋭い針のように睦貴の鼓動を刺した。
睦貴は顔を上げることができない。視界の端で、玖島の白いシャツの袖口が見えた。そこからは、いつも通りの、清潔で冷ややかな薄荷の匂いが漂ってくる。
「私は、そんな……。ただの言葉に、そこまでの力があるとは思えません」
「なら、実験してみようか」
玖島が睦貴の肩に手を置いた。
重みと熱が、睦貴の身体を椅子に縫い付ける。玖島は睦貴の耳元へ顔を寄せ、微かな、しかし肺腑(はいふ)を震わせるような声でその名を呼んだ。
「――睦貴」
睦貴の背筋を、見たこともない色彩の火花が駆け抜けた。
視界が白く明滅し、確かに一瞬、世界から音が消えた。玖島の声だけが、血流に乗って全身を駆け巡る。睦貴は握りしめていた鉛筆を机に落とした。転がる音が、静寂の中でやけに大きく響く。
「……あ。……いまのは、反則です」
「翻訳の精度を上げるための補助だよ。さて、最後の一文を読んでごらん。この文士が、どうしても伝えられなかった結論を」
睦貴は震える指で、手紙の最後の一行をなぞった。
そこには、どの辞書にも載っていないような、奇妙で美しい日本語が並んでいた。
『私は君という存在によって、自身を修復し、同時に破壊し続けている』
「……愛している、という言葉を、一度も使っていないのですね」
「その必要がないからだ。言葉にすれば定型の中に収まってしまうが、こうして書き連ねることで、その感情は永遠に形を失わずに済む」
玖島の手が、睦貴の手の甲に重ねられた。
ひんやりとした玖島の指先が、睦貴の体温を奪い、代わりに重い沈黙を分け与える。
睦貴は、自分がこの手紙の受取人であるような錯覚に陥った。目の前の玖島は、翻訳者ではなく、執筆者そのものの眼差しで睦貴を見つめている。
「君はこの手紙を、どう修復する? 破れた箇所を繋ぐように、僕との間にある空白も埋めてくれるのか」
「……私は、壊れた本しか直せません。生きた人間の心までは、……私には、荷が重すぎます」
「逃げるための言い訳を修復するのは、もうやめにしよう。睦貴」
二度目の呼名に、睦貴の防壁は音を立てて崩れ去った。
睦貴は、重ねられた玖島の手を、振り払うことができなかった。むしろ、その冷たい指にしがみつきたいという、浅ましいまでの渇望が胸の内で頭をもたげていた。
机の上の古い手紙は、二人の熱にあてられたかのように、微かに震えて見えた。
翻訳はまだ、終わっていない。二人の関係という、難解で甘美なテキストを読み解く作業は、ここからが本番だった。
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